宇宙を救ったらしい俺、もっともそのことを知っている者は、この世では僅かしかいない。まあ四人位か・・・・・・。本当の英雄ってのは出しゃばらず、控えめにしているもんだと、自分には言い聞かせている。大体こんな話を他人にしたら、間違いなく気狂い扱いされるから、ただ黙っているだけだけど。でも何があってもハルヒには話すもんじゃない。
 あいつなら「馬鹿じゃない」の一言で済まされるか、えらい興味を持って「あたしも連れて行け」と、大騒ぎして収拾がつかなくなるかのどちらかだ。”触らぬ神に祟りなし”その有り難い格言に従うのが一番だ。
 さて俺が命からがらこの次元に生還出来てからのことを少し話しておこう。幸か不幸か俺達は文化祭のライブオーディションに間に合ってしまった。この時ばかりは、もうしばらくあの次元に留まっていた方が良かったと少々後悔した。
 オーディションに合格して文化祭に出られるのは5バンドだ。なのにオーディションには実に20バンドも出場した。この学校はこんなにも暇人の集まりだったのかと、俺は自分のことを棚に上げて呆れてしまった。
 バンドの審査をするのは音楽教師を中心とした先生達と、文化祭実行委員という肩書きの付いた生徒会の連中だ。オーディションが始まって驚いた。昨年聞いていただけの時は単なる騒音にしか思えなかったが、実際に自分が演奏してみると彼等の演奏はとても巧いのだと気付かせてくれた。
 俺達のバンドSNAKが僅かな枠に入れるとは到底思えなかった。さすがにオーディションでカエルの着ぐるみを着て演奏することはなかったが、それ以前に俺の演奏は酷い物だった。これじゃとてもじゃないが合格は無理だろう。
 しかし何がどうなったのか俺達はその五枠に入ることが出来た。多分古泉の秘密結社が審査員全員を買収でもしたのだろう。それ位しか原因が考えられない。まあ高校の生徒会長選挙に国会議員を当選させる位の資金を費やせる程の組織だ。こんな工作など容易いことに違いない。
 考えてもみてくれ。もしも俺達が不合格になり、生徒会長の勝利などという結末になった時のことを・・・・・・。その時は間違いなくハルヒは世界を作り直すだろう。俺達が合格出来る審査員が現れるまで何度でも改築するだろう。そんな最悪の事態を回避する為なら、買収することなど安いもんだ。
 こうしてめでたくハルヒの希望通り、俺達は文化祭のステージに立てることになった。ハルヒといえばそんな裏方の苦労など露知らず、「あたし達の実力が分かったか!」と、まるで勝利宣言をするように得意満面の笑みで、生徒会長に指を突き付けた。もっとも生徒会長さまは意に介せず、全く相手にしなかったけどね。
 それでもハルヒは「あいつ愚の根も出なかったわね」と、一人ご満悦だ。やっぱりこいつ分かっちゃいねえ。
 それから本番までの短い期間は、鶴屋邸の土蔵で練習に明け暮れた。もっとも俺にとっては練習よりも、後の晩飯が目当てだったが・・・・・・。
 食後のコーヒーをゆっくりと嗜んでいると「キョンくん、異世界人認定の気分はどう?」と、いきなり鶴屋さんが耳打ちしてきて、俺は思わずコーヒーを吹き出した。
「下品ね。ちゃんと拭いておきなさいよ」ハルヒは聞こえなかったのか? 振りをしているのか? 蔑んだ目で俺を一瞥した。
 鶴屋さんの顔を見ると、俺の狼狽える様子を見て、ただニコニコと微笑んでいる。この人は一体どこまで知っているのだろうか? ひょっとしたら全宇宙を裏で操っているのは、この人なんじゃないかと勘ぐりたくなる。全く謎なお方だ。
「みんな明日は本番だからね。絶対に遅れないように。遅刻したら死刑だからね」
 ハルヒの決め台詞で、最後の練習はお開きになった。
 鶴屋邸から駅までの道すがら俺は夜空を眺めていた。こうやって見ていると、自分があの無数の星の遙か彼方にまで行っていたなんてことが信じられない。俺の一歩後ろを歩く長門はどう思っているのだろうか? そんなことはこいつにとっては驚くに値しないことなのかも知れないが。
 これまで何一つ不自由のない、平和な生活の中で生きて来た俺には、あの経験は余りにも強烈だった。何しろ死体などという物を初めて見たし、あれ程死を身近に感じたことはなかった。あの地獄から無事生還し、今こうして生きているのが嘘のようだ。アメリカでは戦場から帰国した兵士の多くに、外傷性ストレス障害が現れて、社会生活に影響を与えていることが大きな問題になっている。今の俺にはその兵士の気持ちが良く分かる。俺はこれまでのように、この世界で平穏に暮らしていけるのだろうか?
 上着に何かが引っかかっているような気がして振り返った。驚いたことに長門が俺の服の袖口をゆるく抓んでいて、俺の顔を見上げていた。そこには”大丈夫”という表情が読み取れた。こいつは俺の心が読めるのか? でも俺は長門の気遣いがとても嬉しくて、思わず微笑み返した。

 翌日の文化祭は大盛況だった。俺達のクラスの出し物は”お化け屋敷”だ。でもハルヒは馬鹿らしいと昨年同様参加しなかった。ハルヒはライブ演奏の練習に時間のほとんどを費やしてしまい、『朝比奈ミクルの冒険 エピソード01』を作ると言い出さなかったのが、それが何よりの救いだった。
 あんな映画の続編を作り出したらハルヒのことだ、今年は超スケールアップするとか言い、世界中はおろか宇宙までを舞台にして製作費はうなぎ上り、きっと古泉の組織の資金も底を付いたことだろう。それに死者の一人や二人出ていてもおかしくない。ハルヒの自主映画で命を落とすような者がいたら、それこそ気の毒以外の何物でもない。
 朝比奈さんのクラスは、今年も焼きそば喫茶を開き、具の少ない焼きそばで一儲けしていた。盛りの付いた男子生徒はメイド姿の朝比奈さんを一目拝みたいだけで、原価率10%以下の焼きそばの中味などどうでも良さそうだ。
 長門の占いは昨年的中率100%で、その噂を聞きつけた悩める子羊が今年は行列をなしている。手抜きを知らない長門のことだから、今年も的中率が下がることはないだろう。あいつの占いは、どちらかというと予言だからな。
 古泉のクラスは昨年好評だった演劇を今年もやっている。今年の演目は”マクベス”だ。ダヴェナント版とか俺には分からんことを言っていたが、あいつもハルヒのバンドに、演劇にと、良くやれるものだと感服せずにいられない。
 SOS団のメンバーはここでも文化祭の主役を演じている。この中に俺がいること自体、不釣り合いに思えてならない。
「あんたクラスの手伝いもしないんだから、あたし達のライブでしくじったらただじゃ済まさないわよ」
 部室で暇を潰していたらハルヒが俺を睨み付けてそう言った。蛇に睨まれたカエル状態で俺は「はい」と答えた。どうせこの後カエルの着ぐるみを着せられるんだ。前もってカエルの気分になっておいても悪くはないだろう。
 ライブの時間が近づいてきて部室にSOS団員がクラスの出し物の衣装のままで現れた。朝比奈さんはメイド姿で、長門は魔女占い師の衣装で演奏するから、そのままで構わない。ハルヒは昨年同様バニーガールスタイルだ。
「古泉くんの衣装格好良いわね」ハルヒは古泉を見るなりそう言った。
「それほどでもありませんが、オーソン・ウェルズの映画版マクベスを意識して作らせました」古泉は人畜無害な顔をにやけさせた。
「古泉くんのライブ衣装はそれでいきましょう」と、ハルヒの独断でそう決まった。
 良いよなあ、お前は格好良い衣装で・・・・・・。俺なんかカエルだぞ。宇宙を救った英雄も、ここでは笑い者になるのか。何だかなあ・・・・・・、複雑な心境だ。
 ライブバンドの演奏が始まった。俺達の出番は最後から二番目だ。ステージ脇で出演バンドの演奏を見ていると、どのバンドも素晴らしい演奏だった。これじゃ俺達が笑い者にされるのは間違いなしだ。
 ところが出演者の順番が進むにつれ、最初は空いていた講堂にまるでデパートのバーゲンセールの会場ように、次々と人が集まってきた。どうせ笑い者になるんだから、出来れば聴衆は少ない方がいい。しかし俺の願いも空しく、俺達の出番の直前には講堂の入口が閉まらなくなるほどの聴衆が集まった。
 下手なプロのバンドでもこれだけの観客動員は記録出来ないだろう。しかし不思議なのは講堂の広さは全校生徒が入ってもまだ余裕があり、こんなに混まないはずだ。それじゃどうしてこんなことに? その疑問はすぐに解消された。
 実は昨年のハルヒと長門の演奏は伝説化していて、その評判は付近の学校にも伝わっていた。再び二人が文化祭で演奏をすると聞きつけた他校の生徒達がこうして大勢押し掛けたのだ。さすが涼宮ハルヒ、恐るべし・・・・・・。
 でも俺にとってこの状況は全然芳しくない。何しろ俺はカエルの着ぐるみを着て、下手糞なベースを演奏するんだぜ。笑いもの以外の何者でもないじゃないか。なのに「見てよ、凄い人数じゃない」と、ハルヒはこの状況に大喜びで、ライブに向けて益々士気を高めている。
 とうとう一つ前のバンドの演奏が終わった。スリーピース・バンドで、ノリの良いロックン・ロールをかっ飛ばしていた。素人目で見ても素晴らしい演奏で、観客も興奮しっぱなしだ。この後に俺達が出るのか? さすがに怖気付く。
 文化祭実行委員のスタッフが、俺達の出演の準備をしている。俺は覚悟を決めてベースギターのストラップを肩に掛けた。朝比奈さんがカエルの着ぐるみの頭部を俺に被せてくれた。
「キョンくん、大丈夫?」
 メイド姿の朝比奈さんも緊張しているのに、俺のことを気遣ってくれる。何て優しいお方なんだろう。でも朝比奈さんはしっかりと長門のナノ物質を注入されているから、今日の演奏はバッチリだろう。
「大丈夫ですよ」と、俺は心にもないことを言った。既に膝がガクガクと震えている。着ぐるみのお陰で、その無様な姿を見せなくて済んでいるのが幸いだ。
 季節は霜月で外は肌寒いはずなのに、講堂内は観客の熱気で蒸せ返っている。着ぐるみを被っている俺はもう全身に汗をぐっしょりと掻いていた。俺達は五曲を演奏する予定だ。この暑さの中で最後まで保つのか? 思わず不安が過ぎる。スタッフが準備完了の合図をステージ脇の俺達に送っている。
「さあ、いくわよ!」最後の気合いを入れるようなハルヒの声が響く。
 いよいよ本番だ、ええい、成るように成れ! 俺は諦めに近い気持ちでステージに出た。
 俺達がステージに現れると、講堂が崩れるんじゃないかという程の歓声が響き渡った。その中に失笑のような声も聞こえる。多分俺の姿を見て発しているんだろう。俺は無視をしてアンプから伸びるコードをベースに繋ぐと、スイッチを入れた。
 男子学生の多くは、ハルヒのバニーガールスタイルに興奮を隠しきれない。ステージ前まで押し寄せては、思い切り腕を伸ばしている。ハルヒはそんな観客に後ろを向いたまま無視を続け、俺達に”準備はOK?”かと、無言の視線を送っている。その視線に俺は頷いた。
 古泉のドラムスティックのスリーカウントの後、ハルヒはクルリと観客の方を向くと、ギターを思い切り掻き鳴らした。観客の興奮が一瞬で頂点に達する。長門の超人的なギターテクニックは益々冴え渡り、古泉のドラムも力強い。ハルヒのボーカルは朗々と響き、観客を虜にしていく。俺は付いていくのに精一杯で、何が何だか分からないまま一曲目の演奏が終わった。
 汗だくなのに何故か心地良い。間髪入れずにハルヒは次の曲を要求した。長門のハードな歪んだイントロ、練習ではこの曲の俺のベースはいつも詰まってハルヒの罵声を浴びていた。しかし今日の俺の指は軽やかに弦を爪弾き、ノリの良いシンコペーションを奏でている。まるで観客のエネルギーが俺に乗り移ったようだ。練習ではあり得なかったパワフルな演奏が今繰り広げられていた。
 立て続けに二曲を演奏したところで、ようやくハルヒは演奏を止めた。マイクに向かって話し掛ける。こちらは緊張のピークだったのでこれで少し休む時間が出来た。
「えー皆さん。楽しんでくれているかしら」
 ハルヒの問い掛けに観客は歓声で答える。ハルヒも笑顔を返してまんざらじゃなさそうだ。
「この辺でバンドの紹介をしないといけないわね。あたし達はスナックって変なバンド名なの。アルファベットでいうとS・N・A・Kよ。Sはあたしのイニシャルで、Nは有希の、Aはみくるちゃん、最後のKは古泉くんね」
 おいおい、誰か抜けてねえか? ハルヒはすっかり俺を忘れている。でもまあいいか。
「あたし達はSOS団ってサークルをやっているんだけど、今日はサークル活動の一環ね。もし面白そうだと思った人がいたら部室まで顔を出してみて」
 おいおい、ここで団員の勧誘かよ。もっともこの誘いに関心を持って部室を訪れる奇特な奴がいたとしても、まずハルヒの眼鏡にかなう奴はいまい。何しろこの団長さんは宇宙人、未来人、超能力者としか友達になりたくないお方なんだからな。
「これでも随分練習をしたのよ。ちゃんとした演奏に聞こえるかしら」
 ハルヒの問いに奥の方から「最高!」と、男の奇声が上がり、辺りで笑い声が広がる。
「楽しんでくれているみたいね。それじゃ次の曲いくわ。有希、格好良く決めてね」
 ハルヒが長門の方を指差すと、長門の白いSGが曲のイントロを弾き始めた。フィードバックさせたハードなギター音が耳に突き刺さる。
 三曲目になって俺にも少し演奏を楽しむ余裕が出てきた。後ろから長門の演奏を見ていると俺にはギターを弾くあいつが楽しんでいる様に思える。長門の演奏は超精密金属加工機が、千分台の公差で材料を削り出すような正確さをいつも感じていたのだが、今日の演奏はそれが感じられない。それは腕が落ちたということではなく、感情を込めた起伏や間というものが演奏に介入しているからだ。老練なギタリストにはそういった味が多分にあり、それが聞く者を魅了する。今の長門は技術だけでは決して得られない、人間味のある演奏を繰り広げているようだった。
 本当に五曲も演奏出来るのか? という不安が絶えず付きまとっていたが、やってしまえばあっという間だった。心地良い達成感が全身を包み込む。それは観客も同じ様で、俺達を簡単にステージ脇に引き返させてはくれない。
 彼等は熱狂的にアンコールを求めている。でも持ち歌は全部終わった。観客の期待に応える為に、同じ曲をもう一度演奏するのか? 俺はハルヒの指示を待った。
 そして信じられないことが起こった。突然ハルヒは一人ギターを弾き、歌い出した。それは一度も聞いたことのない実に美しいバラードだった。熱狂していた観客は一人ひとりと静まり、次第にその曲に耳を傾け始めた。
 ハルヒがワンコーラスを歌い終わると、長門が即興で間奏のギターを弾き始めた。泣きのフレーズで、これ以上あり得ない程曲にピッタリ合った旋律だった。ツーコーラス目で古泉が自然にハイファットを刻み、朝比奈さんがストリングスのバッキングを奏で始めた。そして俺の指先は無意識にベースラインを弾いていた。
 まるで魔法にかかったようだった。聞いたこともない曲を初めて演奏したのに、これ程完全に演奏出来るなんてことがあるのだろうか? 観客は魂を抜かれたように曲に感動し、突っ立たまま微動だにせず聴き入っている。
 その素晴らしい曲の演奏が終わった時、割れんばかりの拍手と歓声が舞い上がった。その中でハルヒが微笑んでいた。古泉も、朝比奈さんも、勿論俺も。そして俺には無表情な長門までもが微笑んでいる様に見えた。間違いなく今年の北高祭の主役は俺達だった。

 文化祭が終わってからしばらく涼宮ハルヒは大人しかった。本人が考えていた以上にライブが上手くいったからだろう。未だその感動の余韻に浸っているような雰囲気だ。でもこんな平穏な日々が長く続かないことは俺達が一番良く知っている。ハルヒのことだ、こうやって静かにしながら、次は何をしようかと画策しているに違いない。
 これからも少々のことなら付き合うが、世界を改築するような滅茶なことだけはしてくれるなよ。命がけで宇宙を守るのは一度だけで充分だからな。それに英雄になることは、俺には向いてないことも分かったし・・・・・・。

 激動の文化祭まではハルヒの特訓が続き、俺には余分なことを考える暇がなかった。しかし文化祭後は、夜ベッドに入ると様々なことを考えてしまい良く眠れない。精神を病みかねない強烈な経験をした後なのだから、それも当然といえば当然だろう。
 今夜も古泉が言った俺の家族は仮の姿だという言葉に悩まされている。俺をこの世界に定着させる為に、オヤジやお袋、妹までもを秘密組織が用意したなどとは信じられない。俺にはこの家族と過ごした懐かしい記憶があるんだ。古泉にそのことを追求しても、適当に誤魔化されてしまうだろう。
 朝比奈さんは俺の脳にその過去の記憶を移植したと言っていた。未来の科学は進歩していて、本当にそんなことが出来るのかも知れないが、そんなことをしなくてはならなかった理由は一体何だ? 朝比奈さんにそのことを尋ねても、きっと”禁則事項です”の一言で片付けられてしまうだろう。
 長門は俺の過去の記憶は消されたと言った。俺はエントリープラグに注がれた溶液の中に留まっていた、碇シンジとかいう奴の記憶と融合した。でもあの記憶は本当に俺の過去の物なんだろうか? 余りにも断片的過ぎて、どれだけ繋ぎ合わせても、真実がなかなか見えてこない。真実を知るにはもっと情報が必要だ。
 俺には宇宙人と、未来人と、超能力者がグルになって俺を無理矢理異世界人に仕立て上げようとしているような気がしてならない。
 やっと眠りに就くと、今度は無気味な夢に苛まれる。最近毎晩この夢ばかり見る。この夢はいつもピンぼけで、確信の部分を見ることが出来なくて苛つく。今夜は最後まで見ることが出来るだろうか?
「レイのアパートは神人に破壊されたの?」
「跡形もないわ」
 暗闇の中でミサトとリツコの会話だけが聞こえる。
 現実のような夢で、まるで自分がその場にいるようだ。
「それじゃこれもしばらくここに置いておくしかなさそうね」ミサトの溜息が洩れ、「またシンジくんは来てくれるかしら」と呟く。
「大丈夫。またこの世界に危機が訪れれば、彼は必ず戻ってきてくれるわ」自信ありげなリツコの声が聞こえる。
 光をくれ、これじゃ何も見えない。光量が上がる。そうだもう少し上げてくれ。辺りが次第に見えてくる。いいぞ、この調子でいこう。
 何なんだここは・・・・・・。確かここは俺があの次元に送り込まれた電送移送装置のある場所だ。ミサトとリツコの後ろ姿が見えてきた。まだ輪郭がぼやけている。二人が円柱水槽を見上げている。中味は何だ? 
「でもシンジくんがあちらへ行ってから、すぐに入れ物を作っておいて良かったわ」そう話すリツコの口元が見える。
「本当に役に立つとは思わなかったけど、もし失敗した時の為に、もう二、三個作っておいてもらえる」ミサトが依頼した。
「ええ、分かったわ」リツコが頷いている。
 下からの光にぼんやりと映し出されている物体。全裸の肉体が容器内に浮遊している。誰だ? じっと眺めてみる、眠っているように微動だにしない人物。何者なのか確認したい。早くピント合わせろ。
 やっと焦点が合ってきた。その顔がはっきり見えてきて、俺は驚愕した。まさか・・・・・・これって俺なのか? こんなことってありか、お願いだ、誰か夢だと言ってくれ・・・・・・。
 恐ろしくって急に目が覚めた。しかし驚く程リアルな夢だった。動揺して全身に油汗を掻いている。目が覚めても水槽に浮かぶ死体のような自分の姿が脳裏から離れない。その後も心臓が高鳴って全然寝付けなかった。

 睡眠不足のまま、朝学校までの長い坂道をふらふらと歩いていると、俺の背中を谷口が叩いた。
「何だキョン、えらく眠そうだな。昨日は夜遊びか」谷口が俺をからかった。でも何も話す気が起こらない。
 その後も谷口は何やら一方的に話し掛けてきたが、こちらは頭の中が寝ていて、何を話していたのか全然覚えていない。授業中の先生の講義も子守歌にしか聞こえず、目を開けているのがやっとだ。後ろのハルヒはスヤスヤと寝息を立てて完全に眠っている。お前も昨夜は寝てなかったのかよ? 振り返ってそう訊きたくなる程良く寝てやがる。
 昼食の弁当は谷口と国木田と席を囲んで喰った。谷口は今日も文化祭の話題を口にしている。終わってから三日も過ぎているのに、みくる焼きそばの味が忘れられないとかほざいている。こいつには朝比奈さんが出してくれる物なら、ただの水でも芳醇なシャンパンの味に思えるんだろうな。
 俺は弁当を喰ってから一人食堂へ行き、自販機で紙コップのコーヒーを買うと、窓から屋外を見た。丸テーブルに古泉が一人座っているのが見えた。あいつ友達が少ないのか・・・・・・。さすがに外は寒くなっていて、こんなところで休憩を採っている者は少なかった。
「座ってもいいか」俺は古泉に尋ねた。
「勿論です」
 古泉は振り向いて俺を見上げると、爽やかな笑みを浮かべてそう答えた。俺は丸テーブルに着くと古泉と向き合った。
「長門から全部聞いた。どうしてあんな作り話をした」
「さあ何のことでしょうか?」
「俺が自宅で溺れたってことだ」
「作り話じゃないですよ。事実です」
「お前の話が作り話で、俺が話したことが事実だ」
「まだ記憶が飛んでらっしゃるようですね。考えてもみて下さい。我々があなたを死の危険に遭わせるとお思いですか。あなたは涼宮さんにとっての最重要人物です。もしあなたが死んだりでもしたら、その時こそ涼宮さんはあなたを生き返らせる為に、この世界を改築してしまいます。そんな我々がもっとも怖れるようなことを進んでするわけがないでしょう。長門さんが何を仰ったか知りませんが、我々はそんな危険なことは絶対にしませんよ」
 古泉は笑みを絶やさず、シラを切り続けた。
「でもあなたには感謝をすべきでしょうね」
 どんな丁寧な台詞を聞いてもこいつの言葉は社交辞令のようで、何か裏があるように思える。まるで三流の舞台役者の台詞のようで、徐々に感情を見出している長門とは対照的だ。
「いえ本心です。文化祭がつつがなく終了出来たのもあなたのお陰です。そのお陰で涼宮さんの精神も以前よりずっと平穏を保てています。僕の組織もあなたには感謝の念を禁じ得ていません」
 そうかい。でも機関とかいったお前の組織にも色々と世話になっているしな。まあお互い様だな。
「ありがとうございます。あなたが優れた人格の持ち主で、我々も助かっています。僕の数少ない尊敬者リストの上位に、あなたをランクさせていただきますよ」
 歯の浮くようなことを古泉は言いやがった。それにお前の尊敬者リストって、他に誰がいるんだ? 少々興味があるが、それは次の機会に聞くことにしよう。俺は立ち上がると、飲み干した紙コップをゴミ箱に捨てた。

 古泉と別れてからぶらりと部室へ向かうと、ドアを開けた先に長門がいた。長門は窓際の定位置でパイプ椅子に腰掛け、一人分厚い本に視線を落として黙読している。俺はハルヒのいない団長席に座った。
「なあ長門、いや綾波か?」
「この時空間平面体では長門有希が正しい」長門は数ミリ視線をずらしてそう答えた。
「そうだな。ところでお前は俺が異世界人だと知っていたのに、何故教えてくれなかったんだ。初めてお前のマンションへ行った時、俺のことをイレギュラー因子だの、ハルヒの鍵だのと回りくどいことを言わずに、本当のことを教えてくれれば、俺も混乱せずに済んだんだが」俺は問い掛けた。
「真実を伝えてもあなたは信じなかったはず」
 確かにそうだ。あれから多くの経験を積んで、初めて俺は今の自分の立場が理解出来る。いきなり事実を告げられても、SF小説の読み過ぎだと相手にしなかっただろう。実際俺は長門の話を妄想だと思っていた。
「それに真実を伏せたのは我々の意向だった。あなたには涼宮ハルヒの鍵として普通に接してもらう必要があった。あなたが自身を異世界人だと自覚してしてしまうと、涼宮ハルヒにとっての鍵になり得ない可能性がある。その危険を避ける為に、我々はあなたに真実を伏せることを選択した」
 長門らしい論法だった。分かったよ、もうこれ以上そのことについては訊くまい。でも一つ頼みたいことがあるんだ。
「何?」長門は視線を本から逸らさず訊いた。
「俺は案外この世界が気に入っているのだが、碇シンジとかの断片的な記憶が蘇ってから心底楽しめないんだ」
「それには切り換えが大切」
「お前は器用だから気持ちの切り換えが出来るだろうが、俺はそういうわけにいかないんだ」
「それは慣れること」
「そこでだ。俺のまだ知らない碇シンジのことを教えてもらえないか? あいつのことが理解出来れば、自分のことを受け入れられるような気がするんだ」
 長門は面を上げて、俺の顔をじっと見つめた。黒い双眸の奥で何かを思考しているのが分かる。
「分かった」長門はそう答えた。
「そうか、悪いな」
 長門は再び膝の上の書物に目を落とした。俺は机に片肘を付いて一心に活字を追う長門をしばらく眺めていた。すると俺の脳裏にこいつが綾波レイの時に見せた意外な姿が想起された。
 ”この世界と、以前の世界でシンジくんと共有した記憶が消えてしまうのが、私は何よりも怖かった。だからどうしてもその記憶だけは守りたかった。どうしても・・・・・・”
 こいつがあれ程感情を露わにしたのは初めてだ。長門は一体どんな想い出を守りたかったんだろうか? 俺はこいつが胸の奥にそんな想いを秘めていたことを知ると、不憫に思えてならなかった。
「なあ長門、今夜お前のマンションへ行ってもいいか?」
 長門はすぐに返事をしなかった。俺の言葉が気に障ったのかと危惧したが、長門はしばらくして「いい」と、1センチ程頭を下げて頷いた。断られると思っていたのに、意外にも長門は俺の申し入れに応じてくれた。
 よし、今夜長門のマンションへ行ったら、こいつの知っていることを一杯教えてもらおう。碇シンジのこと、綾波レイのこと、俺のオヤジのこと、アスカや、ミサト、リツコのことも・・・・・・。
 俺が過去の自分を知ることは、長門と共通の記憶を持つことになる。そうすれば誰にも理解されず、この世界で一人寂しく生きてきた長門のことを、少しは分かってやれるかも知れない。
 俺が異世界人であることを受け入れられれば、長門の背負っている物を少しでも減らせてやれるかも知れない。俺は長門にこの世界を楽んでもらいたい。そして皆と一緒に微笑んでいるこいつの姿を見てみたいんだ。
 俺はそう願いながら窓の外を見た。心地良い秋風が窓から流れ込んでくる。明るい陽射しの中、渡り廊下を意気揚々として歩いてくる人影が見えた。また大騒動を起こしそうな晴れ晴れとした笑顔を辺りに振り捲きながら・・・・・。
 俺は選択した。ハルヒの住むこの世界でずっと生きることを・・・・・・。SOS団の団員その一として、これからも生きることを・・・・・・。
 俺はこの世界。長門の言うところの、この時空間平面体がとても好きなのだ。

新次元エヴァンハルヒの世界 完

2010年作品

ご愛読どうもありがとうございました