a fox borrowing a tiger's authority 1
 
 最近、ヘブロン王国の社交界の女性達の間では、ある一人の貴族の話題で持ちきりだった。
「最近シーヴァス様のお姿を見かけませんけれど、どうかなさったのかしら?」
「あら、ご存じありませんの? あの方とうとうご婚約なさったそうですわよ」
「まあ、あの方が!! それは本当ですの? で、お相手はどちらの家の方?」
「それが私も良くは知らないのですわ。何でも旅先で出会われた方とか……」
「あら、わたくしは確か神に仕える仕事をしていらしたとかお聞きいたしましたわ」
「神に・・・・・ということは修道女か何かですの? まあ、あの方が!?本当ですの?」 
「でも、あのお方のことですから、またいつものような一時のお遊びではなくて?」
「それが、なんでも最近のシーヴァス様はすっかりその方に夢中で、すでにお屋敷には迎えて一緒に住んでいらっしゃるそうですのよ」
「ご冗談でしょう? あの方が本気だなんて」
「何かの間違いではなくって?」
「しかもどこの馬の骨ともわからない相手と」
「それにしても、一体どんな相手なのかしら……」

 コンコン。
 ヘブロン王国の第二の都市ヨースト。そこに居を構える貴族、フォルクガング家の館。その館の一角に作られた、機能的に、かつ居心地よく設計された執務室に軽やかなノックの音が響いた。その音に、シーヴァスは書類を書く手を止める。端整な口元にほんの一瞬、ある種の期待を込めた笑みが浮かぶ。が、素早くその笑みを消すと、わざと素っ気ない声で答えた。
「どうぞ、開いているよ」
 その声にドアが開き、艶やかな金髪で縁取られた美しい顔が部屋をのぞき込む。それは彼が予感していた相手−−彼の婚約者でもある元天使ルシフェルだった。
「シーヴァス、お仕事の方はお忙しいですか? もし良かったら一休みして、お茶でもいかがですか?」
 人になっても変わらない柔らかな優しい声で問いかける。その少女に対してこみ上げてくる幸福感をうまく隠し、思いっきりしかめっ面を作ると彼はわざとらしくため息をついて見せた。
「やれやれ、せっかく仕事がはかどっていたところなのに」
 案の定、ルシフェルはすぐ真っ赤になる。
「す、すいませんシーヴァス! お邪魔でしたか? すぐに出ていきますから」
 泣きそうな表情になり謝る彼女の姿があまりにも可愛らしく愛おしくて、無理に作ったしかめっ面はたちまち崩れ、シーヴァスは吹き出した。
「シ、シーヴァス・・・・・・・?」
「フフ・・・・・・冗談だよ。もうすぐ君が来る時間かとずっと待っていたよ」
「シーヴァス!またからかったんですね!!」
 つい先刻まで、泣きそうになっていた表情が一転して怒った表情になる。
 そのくるくる変わる彼女の表情をもっと見たくて、ついからかってしまうシーヴァスだった。
「もう、シーヴァスってば、知りません!!」
 怒って部屋を出ていこうとする彼女を、シーヴァスは笑いながらも慌てて側に駆け寄り引き止めた。
「本当にすまん! お詫びにこのトレイをお運びしますから、どうかお茶につきあっていただけませんか、天使様?」
 ルシフェルの持っていたトレイを取り上げ、少しおどけながらうやうやしくシーヴァスは彼女に一礼する。その彼の姿にふくれていたルシフェルも吹き出した。
「もう本当にあなたと来たら!!」
 くすくすと楽しげに笑いながらシーヴァスに促され室内に入る。
「あ、そうだシーヴァス。執事さんからこれを預かってきました」
 テーブルにトレイを置き、傍らのソファに腰掛けたシーヴァスにルシフェルは数通の封書を手渡した。
「ああ、ありがとう」
 シーヴァスの傍らで、ルシフェルは慣れた手つきでお茶を入れ始めた。室内に柔らかなお茶の芳香が漂う。そのどこか幸福感を感じさせる香りを楽しみながら、シーヴァスは封を切り中身にざっと目を通し始める。
 が、すぐにつまらなそうに鼻を鳴らすと、そのまま封書のすべてをそばのくず入れに投げ捨ててしまった。
「シーヴァス? その手紙どうかしたのですか?」
「いや、なんでもないよ」
 心配そうに顔をのぞき込むルシフェルを安心させるようにシーヴァスは笑った。 
「ただのくだらん夜会の招待状さ」
「捨ててしまって、行かないのですか?」
「ふん、つまらん時間の無駄だ」
 シーヴァスのその言葉に、ルシフェルは一瞬きょとんとした後吹き出した。
「どうした? 何がおかしい?」
「だ、だってあなたが夜会に興味がないって言うなんて! そう言えば執事さんや召使いの方が言っていましたわ。最近のシーヴァス様は夜会に全然行かない代わりに執務に励んでいて、一体どういう風の吹き回しなのかって」
「我が家の使用人達は、私の婚約者に一体何を吹き込んでいるんだ!」
 額を押さえ、シーヴァスは盛大にため息をついた。
 フォルクガング家の屋敷に元天使でもあるルシフェルを迎え数ヶ月。旅に出ていた主人が突然連れ帰ったどこの誰だかもわからない少女に対し、長年屋敷に仕える執事を始めとする屋敷の使用人達は、表面には出さなくとも内心かなり戸惑っていた。しかし、彼女の(天使として)洗礼された優雅な物腰や柔らかな態度。そして、彼らの主人であるシーヴァスが彼女を本気で愛し、まるで真綿にくるむかのように大切にしている事、そして何よりも彼女を迎えてから、使用人達を束ねる執事やメイド頭の頭痛の種だった主人の女癖の悪さが全く影を潜めたこともあり、すぐに屋敷中の使用人達はすっかり彼女を気に入り、心酔してしまい、今ではシーヴァスに次ぐ女主人として敬っていた。
 頭を抱え呻くシーヴァスの前に、笑いながらルシフェルはティーカップを置いた。
「今更彼らを口止めしても遅いですよ。第一、私は10年もあなたの側にいてあなたを見てきたのですよ?」
 憮然としながらも、シーヴァスはまだくすくす笑っているルシフェルを抱き寄せた。そして自分の膝の上に抱き上げると、未だに笑いやまない彼女の唇に軽く口付ける。
 突然の口づけにルシフェルの顔が真っ赤に染まった。あわてて膝の上から降りようとするがシーヴァスの腕がしっかり彼女の身体を抱えていて離さない。
「あ、あの、シーヴァス・・・・・・?」
「なら君は知っているだろう? 私がその間に君をいかに愛するようになったのか、今君をどんなに愛しく思っているのか・・・・・・君とこうしている方が、くだらん夜会などに比べたら遙かに有意義だ」
「シ、シーヴァス!あ、あの……お、お茶が冷めちゃいますよ〜」
「かまわんさ。そうしたらまた、君が入れてくれるのだろう?」

 はあ〜
 2通の封書を前にしてシーヴァスは憂鬱そうに重いため息をついた。
「シーヴァス、どうかなさったのですか?」
 あれから数日後のある日。ルシフェルがいつものようにお茶をシーヴァスの執務室に持っていくと、彼は机に置いた2通の封書を前にして難しい表情をしている。
「あ、ああ、ルシフェルいつの間に来ていたんだ?」
 目の前にお茶の入ったティーカップが置かれ、シーヴァスは我に返った。どうやらルシフェルが来たことにも気づかないほど考え込んでいたらしい。
「何度ノックしても全然返事がないんですもの。一体何を悩んでいるのですか?」
「これのせいさ・・・・・・」
 視線で机上の封書を指し示し、半ばため息をつきながらルシフェルの入れたお茶を飲んだ。普段なら心を落ち着けてくれるはずのお茶だが、今日は一向に心が晴れない。
「これって、夜会の招待状ですか?」
「ああ、しかも1通は君宛だ」
「私ですか?」
 驚くルシフェルに対し、返事の代わりに再び重いため息をつく。
「どうやら私の婚約者殿の噂は国王の元にまで届いているらしい。今度隣国の女王が我が国に親善で訪れるようだが、その歓迎の宴の夜会に是非君を伴って来るようにとのことだ」
 憂鬱そうにひらひらと手の中で招待状の入った封書を弄ぶ。
「本当は私一人で行くつもりだったのだが・・・・・・他の貴族の夜会なら断れるが、国王直々の招待では断れない」
 一人で行くつもりだった・・・・・その何気ないシーヴァスの一言がルシフェルの胸に突き刺さる。
「あの、ひょっとして私が同行するとやっぱり迷惑なのでしょうか・・・・・・」
 確かめるのが怖いと思いつつ、つい聞いてしまう。
「迷惑・・・・・・?」
 ルシフェルの言葉にシーヴァスは小さく眉をひそめる。
「誰が君が同行するのが迷惑だと言うんだ?」
 思いがけないシーヴァスの強い言葉に、ビクリと彼女は体をすくめた。
「だ、だって今、一人で行くつもりだったって・・・・・・」
 おそるおそるのルシフェルの言葉に、彼は自分の言葉の生んだ誤解に気付いた。
「ち、違う! 誤解だルシフェル! そう言う意味ではないんだ!!」
 慌ててルシフェルの誤解を解こうと彼は叫んだ。
「私が君を夜会に連れて行きたくないのは、君が他の貴婦人達の悪意にさらされるのが我慢ならないんだ!!」
 叫び、さらに重いため息を1つつき、シーヴァスは憂鬱そうに額を押さえる。
 一見たおやかで、虫も殺さぬほどの華奢な外見を持つ美しい令嬢達。
 実際に血を見ただけでも卒倒してしまうほどの神経の持ち主でありながら、人の心を弄び、傷つけることに関しては何の躊躇も持たない。むしろゲームのような軽い気持ちで平気で他人の心を傷つけ、それを楽しんでいる。
 それに対して清らかで何の汚れもない天界に住む天使であったルシフェル。
 自分が初めて本気で愛し、彼女もそれに応えてくれて自分のためにこの地上に降りてくれた。誰よりも大切なかけがえのない人。だが、今のルシフェルは貴婦人達から見れば、彼女たちに比べ、取るに足らないただの小娘でしかない。それなのに名家でもあるフォルクガング家の当主、シーヴァスの婚約者という、他の貴婦人達の誰もが望みつつも得ることが出来ない立場を手に入れてしまった。
 そんな令嬢達の溢れる社交界にルシフェルを連れてゆけば、嫉妬に駆られた貴婦人達に何をされるかわからない。ましてや元天使であるルシフェルは、地上では何の後ろ盾もない、無防備な一人の娘に過ぎないのだ。
 自分が令嬢達の被害に遭うのはかまわない。むしろ過去の自分の行状を思えば、仕方の無いことだと思っている。だが、社交界に彼女を連れて行けば、令嬢達の矛先が自分よりも彼女に向かうのは火を見るよりも明らかで、そしてそれだけは彼にとって耐えられないことだった。
 頭を抱えるシーヴァスの首に、ふいにふわりと腕が回された。驚いて仰ぎ見ると後ろから彼を抱きしめているルシフェルと眼があった。ルシフェルはニコリと、それこそ「天使の微笑み」としか表現できないような優しい表情でシーヴァスを見つめ笑いかけた。
「私ならきっと大丈夫です。シーヴァス」
 シーヴァスを安心させるように、柔らかな声で語りかける。
「ルシフェル・・・・・? だがしかし!」
「あなたのそばにいる以上、いつかはそういった場所に出なければならないのでしょう? なら、行ってみますわ」
 何かを言おうとして言葉にならず、シーヴァスはため息を一つつくと彼女の腕に頭をもたれかけた。
「・・・・・・すまん、ルシフェル。君にこんな嫌な思いをさせるために人界に降りてもらったわけではないのに。これなら堕天使を相手に戦う方が遙かに楽だな」
「何を言うんですか!?シーヴァス。せっかく平和が戻ったのに!!」
 怒るルシフェルを仰ぎ見てシーヴァスは笑いかけた。
「冗談だよ。だが、まず堕天使より手強い貴婦人達を相手に戦うための戦闘服を用意しないとな。ルシフェル、悪いが召使いを呼んでくれないか? 君のために仕立屋を呼んで極上のドレスを作りたいから」