戻る

 

12月27日(土)

 2003年12月17日15時45分、父が60歳で永遠の眠りについた。

 父と母は10年前に離婚し、姉たちは既に自立していたため、私と父はこの10年二人で暮らしてきた。

 朝早く仕事にいくサラリーマンの父と、昼から夜まで仕事をしている私とはすれ違いの生活を送ってきた。

 私が起きると父は仕事に行った後。

 私が仕事から帰ると、父は寝た後。

 下手すると、一週間2週間顔を合わせないなんてこともあった。

 洗面所でばったり顔を合わせて、お互いに「生きてたかー?」なんて言い合っていた。

 夜中にトイレにいくと、電気もつけずに父が座っていて、お互いに言葉が出ないなんてことも何度かあった。

 42年間無遅刻無欠勤で勤め上げた会社を、8月末に定年退職。

 私が仕事行く時には大抵寝ていたし、帰ったときも大抵寝ていた。

 そんな父が、10月22日に、入院。

 長年のお酒がたたって、肝不全。

 お医者さんの余命宣告が、1年になり、三ヶ月になり・・・。

 本人が病院生活に飽きていたこともあり、12月3日に退院。

 父と年を越せるのも、今年で最後。

 私たち三姉妹はそう考えた。

 ならば、できるだけ子や孫の側で過ごさせてあげよう。

 姉たちが交代で来てくれて、私は普通に仕事に行っていた。

 絶対安静だっていうのに、父は歩きたくて仕様がないようだった。

 最初は部屋を訪れると立っていた父がやがて、ベッドに座っているようになった。

 そして、最終的にはベッドで返事をするようになっていった。

 食事も、最初の頃はきちんと一人前食べていたが、だんだんと量も減り、ほとんど食べていないようだった。

 心配した次姉が、病院の看護婦さんに電話をした、

 「2.3日ぐらい食べなくても大丈夫。」

 「心配しなくてもいい」

 看護婦さんにそういわれ、釈然としないまま、様子をみることにした。

 12月14日。私は父に腕時計のバンド交換を頼まれていた。

 朝、父から腕時計を預かった時は、会話ができていた。

 夜帰ると、父は寝ていた。

 私は、机の上に腕時計を置いて、父の部屋を出た。

 15日の朝、とりあえず、レシートを持って父の部屋を訪れた。

(父は、人に貸し借りを作るのが大嫌いで、娘にお金を貸す時も借用書を書いていた)

 私が、声をかけると、父は「今日の新聞が見当たらないんだよ」と新聞をさがしていた。

 ベッドの上から動けない父に代わり、新聞受けを見にいったりした。

 探したけれども、見当たらず、結局私はタイムオーバーで仕事にいった。

 夕方、仕事場に直接上姉から電話が入った。

 父が救急車で運ばれたと。

 上長に状況を話し、私は急いで家に帰った。

 家に帰ると子供が3人で迎えてくれた。

 上姉に詳しい状況を訊かないまま、訊けないまま、子供たちと遊んだ。

 姉が部屋を訪れた時、父はベッドの上に座っていたそうだ。

 声をかけても、会話がかみ合わない。

 目の焦点が合っていない。

 おまけに、失禁までしていた。

 『これは、素人には手におえない。』

 そう判断し、救急車を呼び、次姉を付き添わせ、子供三人乗せて病院まで行ったそうだ。

 行く途中、とりあえず、私にメールをしたが、仕事中の私はPHSをロッカーに置いたままでメールを見なかった。

 家に帰っても、私からの連絡がないので、仕事場に電話をくれたそうだ。

 夜、子供たちを寝かしつけた後、私たち姉妹は無言だった。

 何を話したらいいのか、判らなかった。

 16日。仕事が休みだった私は、お世話になった父の知人の森山さんと共に、父の病院に行った。

 父は、集中治療室にいた。

 酸素マスクと、老人用のおむつをして、カテーテルをして。

 私たちが声をかけると、「うん」「あー」ぐらいの返事は出来た。

 だが、すぐに、反対方向を向いてうずくまってしまった。

 見られたくなかったのかもしれない。

 プライドの高い父にとって、娘や森山さんにこんな姿を見られなくなかったのかもしれない。

 それでも、私は行ってよかったと思った。

 父に会えて、森山さんに会わせることができてよかった。

 病院より、一ヶ月以内が山だと宣告された。

 17日。午前5時。病院から連絡があった。

 父の血圧が下がったと。

 私たちはとりあえず、病院に行った。

 昨日あんなに動き回ろうとしていた父が、動いていなかった。

 口から荒い息をしていた。

 父の血圧は、上が100なかった。

 もともと、父は高血圧だったはずだ。

 180ぐらいだったはずだ。

 100以下なんて、低血圧の私よりも低い。

 病院から、1日と宣告が出た・・・・。

 何が起きているのか、私の頭では理解ができなかった。

 病室にいたくなかった。

 だが、子供たちを連れて病院内を散歩していても、買い物に行っても、不安で不安で仕様がない。

 病室で、父に、色々話しかけた。

 理解していたかどうかは、わからない。

 ただ、話しかけると血圧が少しあがるので、刺激にはなっているのだと思えた。

 日が昇り、私たちは色々なところに電話をした。

 姉たちの旦那に、父の兄弟、知人・・・・。

 判る限り、父に会って欲しいところに、片端から電話をした。

 私は仕事場に電話をして、1日休む旨を伝えた。

 父は、集中治療室から個室に移された。

 話を聞いた、父の兄弟も、友人も、母の兄と奥さんも来てくれた。

 私の彼氏も来てくれた。

 仕事を抜け出して、来てくれた。

 少しの時間だけれども、父と話をしてくれた。

 私の話を聞いてくれた。

 彼氏が帰った後、上姉が一旦荷物を取りに家に帰った。

 すれちがいに、次姉の旦那が来た。

 ふと見ると、父の心電図の心臓が動いていなかった。

 私は急いでナースステーションに向かった。

 看護婦さんたちは、「ナースステーションからでも、心電図はみてますから、大丈夫ですよ」と言ってくれた。

 再び、父の心臓は動き出した。

 予感が実感に変わった。

 とりあえず、何かを話そう。

 今のうちに、何かを話そう。

 次姉は、父に、トイレのタオル掛けが子供がぶら下がって取れちゃったから、付けてほしいとお願いした。

 カーテンレールを取り替えて欲しいとお願いした。

 私は、父に、「壁紙を張り替えてよ。モルモットに破られちゃった。お父さんにしかできないから」とお願いした。

 包丁を研いで欲しいとか、お父さんの作ったニンニク入りのチャーハンや焼き蕎麦を作ってとお願いした。

 やがて、今度は、呼吸が止まった。

 お医者さんや看護婦さんがバタバタとやってきた。

 人工呼吸等の蘇生活動はしないことになっていた。

 蘇生したとしても、何も変わらないから。

「おとうちゃーん!!」「おとうさーん!」「おじいちゃーん!」

 私と次姉と姪は、声を張り上げて呼んだ。

 心臓や呼吸が止まり、私たちが声をかけるとまた動き出した。

 何度かそれを繰り返したが、やがて、動かなくなった。

 何度呼んでも、もう、動かなかった。

 乾ききった目を見開き、口を開けたまま。

 「15時45分」

 2003年12月17日15時45分、父が60歳で永遠の眠りについた。

 私が喪主となり、19日にお通夜。20日に告別式と繰り上げ初七日。

 そのあとのなんやかんやで、1週間私は仕事を休んだ。

 口が悪くて、口下手で、頑固でいじっぱりだった父。

 いつも、父の部屋はテレビかラジオがついていたね。

 それも、どんどん音が大きくなって、私が注意をしたら、「お前神経質だなー」って笑っていた。

 定年退職したら、しばらくはぶらぶらして、それから大型免許を取るといっていた。

 和歌山に、1ヶ月ぐらい釣り竿持って旅行に行きたいと言っていた。

 今頃、カップ酒ちぴちび呑みながら、つり竿垂れているのかな?

 お父さん。

 私は、あなたともっと、もっと、呑みたかった。

 もっともっと、話をしたかった。

 また、一緒に旅行にいきたかった。

 お父さんがいっちゃって、私は一人ぼっちになっちゃった。

 でも、心配しないで。

 私は、私で、私なりに、何とか生きて行くさ。

 だって、あなたの娘だもん。

 上から見ててよ。私の行き様をさ。

過去へ