2018年 溝手康史 2018年12月22日 ゴーンの再逮捕 裁判所がゴーンの保釈を認めようとしたことに対し、検察が再度逮捕という手段で対抗した。 日本の裁判所は被告人が否認している場合にはなかなか保釈を認めない。自白すれば保釈を認めることが多い。しかし、裁判所は国際的な批判を気にして、ゴーンについて勾留を制限しようとした。これに対し、検察が「欧米人を特別扱いするのは公平ではない」と考えたのだろう。日本人は否認すればみな長期勾留されている。 再逮捕すれば、裁判所が簡単に勾留が認められる。最大20日間の勾留期間が過ぎれば保釈が認められる可能性がある。 逮捕容疑を小出しにして勾留を長引かせることを法律で制限する必要がある。逮捕してから捜査する方法を制限しなければならない。逮捕する前に捜査すべきである。勾留してから捜査、というのでは自白を強要することにつながりやすい。 特別背任の証拠があるのであれば、最初から特別背任で逮捕すべきである。虚偽記載で逮捕したのは、特別背任の証拠が足りないと考えたからだろう。 欧米では、捜査した後に逮捕するという考え方が主流である。そこでは自白を重視しない。これに対し、日本では、逮捕して身柄を拘束してから捜査するという手法・・・・自白させる・・・を重視する。日本では、逮捕・・・勾留・・・自白・・・・が捜査の主流である。これが冤罪をもたらしている。 2018年12月12日 大学入試の差別的扱い・・・・・自由競争に基づく採用の自由を法律で規制すべきである 大学医学部入試での差別的扱いが問題になっている。 これは医学部だけの問題ではない。かつて、ある私大歯学部では教授の子供をコネ入学させていた。おそらく現在も同じだろう。どの学部でも不公平な扱いをしているだろう。文学部哲学科などでの不公平な扱いは問題になりにくいが、医学部では問題になりやすい。それは、医者が金の稼げる職種だからだ。そこでは、金が関係している。 推薦入学も公平とはいえない。成績がよくないのに、スポーツ推薦で入学するのはおかしい。スポーツの成の成績がなぜ学力試験のかわりになるのか。スポーツで活躍した人が医学部に推薦入学できるのか。スポーツで活躍した人が法学部に推薦入学できるのか。スポーツと法律の勉強の関係如何。人柄で推薦入学はありうるか。寄付金の額による推薦入学はどうか。芸能人の推薦入学はどうか。 大学と国は、これを医学部固有の問題にとどめたいだろうが、自由競争という資本主義経済の根幹にかかわる問題がある。 本来、大学入試は公平であるべきだ。オランダでは医学部は抽選で合否が決まるが、これは非常に公平である。抽選で合否を決めれば、受験競争がなくなる。オランダでは推薦入学などないだろう。しかし、日本では入試での不公平な扱いが法的に禁止されていない。誰を入学させるかは大学の自由であり、差別的な扱いをしてもよほど不合理なものでなければ違法ではない。これが禁止されていると勘違いしている国民が多い。差別的な扱いが発覚すると、国がそれを批判するが、法的な拘束力がない。それをいかにも禁止されているかのようなフリをするのは政治的なパフォーマンスだ。不公平な扱いが禁止されていないので、多くのの大学が不公平な扱いを行っている。 どこの私大でもコネ入学がある。大学理事長の親族は入学しやすい。推薦入学や一発芸入学などの差別的扱いがある。有名な芸能人は高校や大学に入学しやすい。どこの企業でもコネ採用がある。コネの重視は発展途上国では一般的にみられる。それと同様に日本の社会は不公平なことだらけなのだが、それを知らない国民が多い。国民は騙されている。 大学や企業には採用の自由があり、法律上、誰を採用するかは自由である。性別による差別は不合理なものとして違法だが、年齢や受験回数、学歴、能力、資質、人格、意欲の有無、資格の有無、体格による差別は違法とはされないだろう。大学入試で回数制限をしても違法ではない。コネ入学は違法ではない。年齢を理由に不合格にした国立大学医学部がある。裁判所はこれを大学に裁量があり、合法だとした。司法研修所では、所長が長官経験者の司法修習生を特別扱いをして卒業試験で合格にしたケースがあるそうだ(「絶望の裁判所」)。大学理事長の子弟を合格させること。これらは情実による特別扱いである。大学が現役生に加点をしても、それを公表すれば、制度としてありうる。かつて司法試験でも受験回数によって加点をしていた。地域的な扱いで差別することはしばしば行われている。たとえば、自治体主催の法律相談の対象者は自治体居住者に限るとか、自治体が地元出身者だけを採用することが行われている。採用に年齢制限や学歴による差別がある。コネ採用も多い。知識よりも「地頭」のよさを重視する企業は、採用試験の成績に関係なく学生を採用する。 自由競争の社会では誰を採用するかは自由、というのが原則である。私立大学や福祉施設も私企業であり、誰を採用するかは自由である。大学の創設者の一族を入学させることは多い。自分が作った大学に誰を入れるかは自由だというわけだ。それは、自分が作った会社に誰を入れるかは自由だという考え方と同じである。しかし、その自由を法律で制限することは可能だ。それに対し企業経営者が反対するだろう。 問題は、差別的扱いを公表していない点にある。現在の大学入試や企業の採用は平等ではないのだが、それを公表していない点に問題がある。そのため、それが公平に行われていると勘違いしている国民が多い。欧米では、入試でその大学出身者の師弟を優遇することを公表している大学がある。欧米では大学の差別的扱いを公表することが多い。 日本で、なぜ、公表しないのか。それは平等であることを求める世論からの批判を避けるためだ。市場経済下では採用の自由の結果、採用が平等ではないことを国民は理解する必要がある。 さらに、不公正な入試が法律で禁止されていないという問題がある。これを禁止されていると勘違いする人が多い。憲法上の平等原則があるが、憲法は私人間に直接適用されないというのが通説である。また、不合理な差別が違法になるだけであり、合理的かどうかを裁判で争う人はほとんどいない。前記の通り年齢による差別を合法とした裁判例がある。したがって、採用の自由を規制する法律がなければ、現実に不公平な扱いが行われてしまう。コネ入学を禁止する法律がなければ、コネ入学が行われる。それをあいまいな行政指導で対処している現在の状況に問題がある。法律上、差別を野放しにしておいて、世論が差別を非難するだけでは、問題を解決できない。 法律による採用の自由の詳細な規制が必要である。なぜ、法律で規制しないのかと言えば、その方が大学や企業にとって都合がよいからである。日本ではあいまいな行政指導が好まれる。国も採用の自由に基づいて都合のよい人間を雇用する。財務省や経済産業省になぜ女性職員が少ないのかといえば、採用の自由があるからである。学校の校長に男性が多いのは、男性を優先して校長に採用しているからである。女性の地裁所長が少ないのも採用の自由による。採用の自由は、組織を管理する側にとって人事を統制するうえで手放せない武器だ。法律ではなく、行政指導で問題を解決しようとするのが日本のやり方だが、行政指導は強制力がない。行政指導では、それに従う者が損をする。 このような手続きのあいまいさは日本における法の支配の欠如を示している。これは、本来、法律で明確に規制をし、合否基準の情報公開を義務づければ簡単に実現できることだが、なぜか、日本では簡単ではない・・・・・。 入管法改正 人手不足が言われているが、給料が高ければ日本人が殺到する。人手不足なら、賃金を上げるのが自由競争。安い賃金で働く人がいないので、外国人に安い賃金で働かせようということ。最低賃金以下の時給600円で外国人研修生を雇用していたある事業主は、「うちはこの給料でなければやっていけない。この給料では日本人は誰も来ない」と言っていた。日本でも、いずれは、「外国人が日本人の雇用を奪う」という不満が生まれるだろう。 水道事業の民営化 公営で赤字の事業を民営化すれば、料金が上がるのは当たり前。都会は料金が下がり、田舎は料金があがる。都会と田舎の格差がそのまま反映するだろう。 私が住んでいる安芸高田市は、2人家族で上下水道料金が月に15000円くらいだが、これは広島市に較べてかなり高い。これがさらに上がるのだろう。ゴミの料金や保育料、健康保険料も高い。これでは田舎に人が来ないのも当たり前。行政は、無駄な職員を抱え無駄な残業が多く残業代に無駄な税金を使っている。 教員の残業を月に45時間までに制限するらしい・・・・ 教員は通常、月に100時間くらい残業をしている。通勤時間15分でも、朝7時半に家を出て、夜9時半に帰宅する・・・・・これが当たり前。それよりマシか・・・・。45時間の残業は当たり前ということ。45時間は義務化。それを指導する教育委員会や文科省の職員は残業ただ働きが当たり前・・・・日本では、仕事を増やす一方で、残業を制限しようとするので破綻する。残業を制限するためには、当たり前だが、仕事を減らすことが必要だ。 弁護士2人が弁護士法違反で起訴 名義貸し債務整理をしたとのこと。これはよくあるケースで、氷山の一角。仲介業者に登録している弁護士はたくさんいる。 弁護士は事件を紹介してくれるコネに依存する。そのコネの中に業者がる。企業の顧問弁護士は顧問先から事件を紹介してもらい、顧問先企業の従業員が弁護士名で文書を作成している。 韓国での徴用工判決 日本と韓国の間の条約は有効だが、個人が有する損害賠償請求権を国が個人に替わって放棄することはできない。国と個人は法主体が異なるので、国が放棄しても個人が放棄したことにはならない。個人と団体を混同する人は多い。以前、「自治体が市民団体に団体加盟しているのだから、住民が加盟しているのと同じではないか」と述べ、住民が加入する必要性をどうしても理解できない人がいた。個人を団体の一部だと考える発想。個人が自立していない団体や国ではこのようなことが起きる。 貴ノ岩の暴力問題 どこの組織でも暴力は多い。暴力は違法である。しかし・・・・教育現場などでは、どこまでの暴力が違法なのかなどが真面目に議論されている。ナンセンス。裁判でも、判決で「妻が別居しようとしたので、それを阻止するために夫が殴っても違法とは言えない」と述べた裁判官がいた。唖然として、議論をする気にもなれない。日本の裁判官のレベル。 他方、問題は、それがマスコミにバレたら引退までさせられるという処分の大きさだ。バランスの問題。暴力は違法だが、謝罪して損害賠償をすればすむ問題。引退までする必要はない。行為に対して制裁が重すぎるのだ。この調子でいけば、プロ野球でも先輩が後輩を殴れば、即、引退か? 教師が生徒に軽い暴力を振るっても、世論から叩かれれば懲戒免職。公務員が酒気帯び運転をすれば、即、クビになるのも同じ。盗撮などに対する非難も同じ。今では観光地で女性を景観と一緒に無断撮影すれば逮捕される。満員電車で痴漢と間違えられれば、マスコミから叩かれ、仕事を失い、何か月も留置場で暮らさなければならない。満員電車は避けること。日本は世論に基づく厳罰国家。世論が恐い。弁護士は、世論から叩かれれば、簡単に引退に追い込まれるだろう。 日本で暮らすことは恐い。できるだけ「お上」に逆らわないようにして目立たないように、言いたいことを言わず、ムラ社会の世間に逆らわず、江戸時代の百姓のように暮らさなければならない。江戸時代のムラ社会の世間が現在の世論だ。日本の社会全体がひとつの巨大なムラ社会である。恐怖政治と思考停止。 世の中がマスコミが扇動する情緒的な世論に洗脳されている。このような情緒的な社会では戦争が起きやすい。「英米の横暴を許すな」と煽り立てたのは当時の日本国民である。 2018年12月1〜2日 安全登山サテライトセミナー(大阪市) 主催 国立登山研修所 12/1 「登山指導者の法的責任」 高校の山岳部顧問、小中学校の野外ハイキングの引率教師、ボランティア活動のリーダー、インストラクター、 山岳ガイドなどの法的責任の内容とそれへの対処方法について話した。参加者約180人。 2018年11月25日 カルロス・ゴーン逮捕 ・この不正がルノーではなく日産で行われたということは、フランスではできず日本ではできたことを意味する。日本企業は不正を行いやすいということなのだろう。 ・日本では高額な役員報酬は欧米よりも世論から非難を受けやすい。自由競争のもとでは際限のない格差が広がる。 ・日本の刑事手続と代用監獄の問題性が欧米に知られるだろう。否認していれば、釈放しない。罪を認めれば、保釈が認められる。日本の常識は欧米では非常識。アジアでは当たり前だが。裁判に5年はかかる。 ・政治的な判断に基づく逮捕。 ・ゴーンの代理人弁護士、日産の顧問弁護士、ルノーの顧問弁護士、株主の代理人弁護士などが関わるが、いずれにしても弁護士費用は何百万円単位だろう。日産の下請企業の弁護士も倒産事件が増え、仕事が増えるだろう。 2018年11月24日 京都・北山、峰床山 京都北山は山麓は林業用の道が多く、間違えやすい。山麓の標識も少ない。植林地を抜ければ、標識が整備されている。植林地では土地所有者の同意がなければ勝ってに標識を設置しにくいのだろう。植林地では山の所有者は、自分の山に無断で登山者が入ることを歓迎しない。これは、イギリスのフットパスの歴史と同じ構図だ。イギリスでは野山をハイキングことに対し土地所有者が土地所有権に基づいて妨害した。そこで、ハイカーは歩く権利を法律で認めるように運動をし、法制化された。今では、600メートル以上の土地の自由利用の原則が法制化されている(2000年法) 2018年11月19日 「消えた天才」というテレビ番組の問題性 ・「消えた」かどうかはテレビ局の独断である。地方でスポーツ指導者として活躍している場合は、「消えた」とみなされる。東京でスポーツ指導者をしている場合には「消えた」とはみなされない。マスコミに再三登場する人は引退しても「消えた」とはみなされない。「消えた」とみなされる人は不愉快なことだ。 ・「消えた」という言葉で価値判断がなされている。オリンピックでメダルをとって引退した人は、「消えた」とはみなされない。プロ野球で活躍して引退した人は、「消えた」とされない。 ・「天才」という言葉の使い方が間違っている。通常、すぐれた業績を残していない人に天才という言葉は使用できないが、この番組では、「素質がある」=天才と表現している。テレビの影響は大きいので、このような使い方をしていると日本語の意味が変わってしまうのではないか。アイドル歌手を「アーティスト」と呼ぶようなものである。素質がありながらそれを開花できなかった人や転身した人は世に中に無数にいる。すぐれた研究者や芸術家になったと思われる人で経済的な理由からサラリーマンになった人は多い。それを取りあげだしたら世の中が天才だらけになってしまうだろう。才能を開花させることだけが人生ではない。多様な生き方がある。才能を開花させたが一生貧乏暮らしをするか、才能を開花させることなくサラリーマンとして経済的に安定した生活を送るか。画家のゴッホは死ぬまでの間に売れた絵は一枚もない。ルソーは天才的な業績を残したが、生涯、貧乏だった。本人が幸福であればそれでよいのはないか。 ・多様な視点でものごとや人間を考えるのではなく、マスコミから与えられる価値基準で判断してしまう悪影響がある。スポーツはメダルがすべて、プロ野球の選手になれば「成功」、そうでなければ「失敗」、マスコミに登場すれば「成功」、マスコミから離れれば「消えた」、金を儲ければ「成功」、地方で活躍し、大きな業績を上げていても金儲けにつながっていない人はマスコミ文化の対象外。日本特有のバラエティ文化は文化の貧困化をもたらす。 ・短い言葉で視聴者に価値観を刷り込む「キャッチコピー」文化は、ものごとを深く考えない人間を生み出す。それはヒトラーの手法と同じ。ここでは、「消えた」、「天才」という印象的な言葉が思考を停止させる。それは非常に恐い。これはすべて視聴率を稼ぐためである。利益優先の文化は国民を無能化する。今の社会ではマスメディアの影響が大きく、多くの国民がそれに洗脳されやすい。ヒトラーがやったようなことをテレビ局は簡単に行うことが可能だ。 2018年11月17日 「世界の果てまで行ってQ」のヤラセ問題 実際に行われていない祭りを、「祭りがある」と言えば、騙したことになる。 テレビ、映画、小説ではフィクションは多い。NHKの朝ドラでは、細部に実際になかった逸話を入れてノンフィクション風のストーリーにしている。新田次郎は「小説だから嘘を書いてもよいのだ」と述べた。新田次郎のモデル小説にはフィクションが多いが、それを本当らしく見せかけている。そのため遺族との間でトラブルになったこともある。NHKの朝ドラで、「これはすべて実話です」と言えば、嘘を言ったことになる。しかし、視聴者の多くはNHKの朝ドラを実話だと考えている。 もともとテレビの世界はフィクションが多いが、それをフィクションとして放送すれば何も問題はない。しかし、視聴率をあげようとして「本当らしく見せる」ことが多い。たとえば、旅行中にたまたまであった人が現地の著名人だったという場面が旅行番組で放送されるが、事前にその人に連絡して待ち合わせをしていることが多い。世界の僻地にいる日本人を訪ねる番組では、出演者がその日本人捜しに苦労するが、テレビ局のスタッフは事前にその日本人の住所、電話番号を知っているはずだ。その日本人に簡単に会うと番組として視聴率が上がらないので、わざと日本人人捜しに苦労する場面を演出する。 視聴者はそれをわかったうえで、フィクション的なノンフクションを楽しむ必要がある。すべてノンフクションだと考えると騙される。「世界の果てまで行ってQ」は半分はヤラセだと考えておいた方がよい。ほとんどのバラエティ番組はノンフィクションを装ったヤラセが多い。テレビコマーシャルも半分は誇大広告だと考えておかないと、騙されて簡単に買い物をしてしまう。誇大広告を野放しにする日本の法律に問題がある。特に子供への悪影響が大きい。 日本全体が詐欺文化で成り立っている。裁判すらも虚構の世界になっている。カフカは、「審判」の中で裁判はすべて「作り事」だと述べている。振り込め詐欺などが多いのは、日本人が小さいころから騙されることに慣れてしまっているからだ。戦争中も日本人は簡単に騙された。ドイツ人は戦後、その点を真剣に反省したが、日本人はまったく懲りていないようだ。そのため、今でも日本では政治に騙される人が多い。管理する側としては、国民が騙されやすい方が都合がよいが。 2018年11月12日 「幸せのマニフェスト」(ステファーノ・バルトリーニ、コモンズ、2018)を読む 従来の経済学は、合理的経済人を前提に利益やストレスによって動く人間を想定していた。しかし、これは現実の人間ではない。著者は、現実の人間を前提に人間の内発的動機付けや「関係性」を重視し、それが幸福とかかわると述べる。この本では、現実の人間の把握のために人間科学の研究成果と知識が駆使され、経済の本というよりも人間科学の本の印象がある。時間、余暇、労働、自由、幸福、教育、生活、住居、都市空間などと人間の関係を考えさせられる。 日本の法律の世界でも、合理的な人間像を前提に裁判がなされるが、それは現実の人間ではない。そのため裁判所特有の非科学的な経験則が当たり前のように使用され、現実の人間を無視した判決が量産されている。人間行動を法律の視点だけから考えるだけでは人間行動を理解できない。現在の裁判は、「判断が科学的であるかどうかは問題でなく、とにかく裁判所独自の方法で紛争を処理すればよい」という状況である。法律の世界に多角的な人間科学の成果が取り入れられるには、まだ数十年かかりそうだ。 著者はこの本で人間が幸福になるための文化の構築をめざしている。本の内容は、経済、社会、政治、心理、教育、文化、哲学など多面にわたり、細分化された現在の学問ではとらえきれない広範さがある。時間、余暇、労働、自由、幸福、教育、生活、住居、都市空間などと人間の関係を考えさせられる。 市場経済、競争社会がもたらす消費社会の弊害と幸福度について、アメリカとヨーロッパの比較がなされている。 2018年11月10日 講演「山岳事故の法的責任 登山界の動きと背景」 大阪府スポーツ指導者研修会(大阪市) 時間:大阪府スポーツ指導者研修会 13時30分〜 講演 14時30分〜 場所:大阪科学技術センター 登山講習会のあり方を中心に話をした。自著を30冊持って行き(けっこう重かった)、完売。 2018年11月9日 日米野球の采配 日本とMLBの試合で、日本がサヨナラ勝をした。投手を岡田に代えた時、私は、「これは負ける」と思った。ストレート一辺倒の岡田はホームランを打たれやすいからだ。日本シリーズでストレート一辺倒の投球でも3ランを打たれて負けている。岡田は予想通り2ランを打たれた。 しかし、その後で不振の4番に代打を出した点は感心した。これは勝つための戦術だ。結果がどうなるかは運不運があるが、調子のよい者を使うという考え方は大切だ。現実を無視し、メンツやタテマエにこだわれば失敗する。 タテマエや前例、常識にとらわれることなく現実を直視することの重要性は、あらゆることに当てはまる。これは当たり前のことだが、日本では難しい。従来通りのパターンや型にはまった考え方から抜け出ることができない人が多い。それは小さい頃からそのような環境で育てられ、そのような思考パタンが身についているからだ。人間は習慣の奴隷である。 アインシュタインの「常識とは18歳までに身についた古い習慣の残りかすだ」という言葉は意味深い。 2018年11月3日 日本シリーズの感想 ソフトバンクは守りがよかったこと、ミスが少ないこと、臨機応変の監督采配が光った。接戦では、バントやスクイズをした。勝つための創意工夫があった。 これに対し、広島はペナントレース中の戦術を変えなかった。エラーやエラーにならない守りのミスが多く、盗塁にこだわったことが敗因になった。広島はシーズン中と同じ戦法をとった。広島はスクイズをしない。盗塁へのこだわりはまるで執念のようであり、「現実」に対応できなかった。勝つための知恵や工夫がなかった。接戦が多かったが、戦術的には広島の完敗である。ソフトバンクの選手は、おそらく、「接戦になっても試合に負ける気がしない」と感じていたのではないか。見ている者もそのように感じたのではないか。 以上のことは、野球以外のことにも通じる。「現実」に応じた方法が必要であり、状況が変われば方法も変わる。 登山で事故が起きる度に被害者の経験、技術のないことが指摘されるが、被害者の経験、技術のレベルという「現実」を前提に考える必要がある。「もっと経験、技術を身につけるべきだった」と言うことは無意味である。ないものねだりをしても事故を防ぐことはできない。経験、技術を身につけても、それを超える登山をすれば事故が起きる。現在の経験、技術のレベルを前提にして、いかにして事故を防ぐかを考えるほかない。自分の経験、技術のレベルに応じた登山をすることが「戦術」になる。現状に応じた戦術。無意識のうちにそれを行う登山家が多いが、それを自覚しない登山者は多い。自分の現状にうすうす気づいていても、感情や願望に基づいて行動しやすい。「どうしても〇〇したい」という願望が、「〇〇できるはずだ」という考えをもたらしやすい。その結果、野球では試合に負けるだけだが登山では死を招く。 2018年10月28日 安田純平氏と自己責任論 安田純平氏の行動が自己責任であることは当たり前のことだが、そこでは自己責任という日本語が非難の意味で使用されている。本来、責任という言葉に非難の意味はない。たとえば、「病院の管理責任者は院長である」、「自己責任で利用してください」という場合に自己責任という言葉に非難の意味はない。 しかし、日本では、自己責任という言葉が「そのような危険なことをすべきではない」という意味で使用される。そこで、紛争地域での危険な取材活動の是非が問題になる。危険性は安全性の程度問題である。紛争地域での取材は必ず危険なのであって、それらの取材がなければ報道が成り立たない。日本人ジャーナリストが紛争地域にいかなければ、外国のジャーナリストから情報を仕入れるほかない。国連機関やボランティア活動をするには必ず危険が伴う。日本人がそれをしなければ、外国人の活動から日本が恩恵を受けるだけのことだ。現実には、誰かが紛争地域の取材をしている。災害現場での取材でも必ずリスクが伴い、誰かがしている。誰もがこのような情報の恩恵を受けている。一切の情報は不要だという人は、モノを考えない人だ。 また、「自己責任」という言葉は、「危険なことをした人は国に支援を求めることはできない」という意味でも使用される。国がどこまで支援をするかは政策の問題である。紛争地域では観光客を含めて一切国が救援しないという政策もある。落ち度の大きい被害者は救助しない考え方をとれば、自損交通事故の被害者は救助しないことになる。海外での日本人旅行者の自損事故について国は何もしないのか。紛争地域での拉致事件についてだけ国は何もしないというのは不公平である。宇宙船や南極での調査中の事故なども、危険なことをあえて行った結果の事故であり、国は支援しないのか。自己責任に基づく離家の出火では消防車が出動しないのか。自己責任に基づく疾患は救急車が出動しないのか。現在は、事故の原因を問わず、平等に国が救助のために活動をする法制度になっている。 2018年10月23日 岡口基一裁判官の懲戒処分・・・・・日本的な、あまりにも日本的な 最高裁は、岡口裁判官のツイッターでの書き込みに関して戒告の処分にした。最高裁はこの書き込みを「品位をはずかしめる行状」に当たり、違法だと判断した。 この問題は、裁判官だけの問題として一般国民からかけ離れた問題のように感じる人が多いかもしれない。しかし、そうではない。たとえば、休日に公務員や会社員がツイートすれば勤務先から処分されるかもしれない。トヨタの下請企業の社員がトヨタ車の感想をブログに書き込めば会社から処分されるのか。公務員が自分の子供の学校のPTAの会議で発言し、それが保護者の反発を買えば役所から処分を受けるのか。東電の社員がブログに原発反対のコメントを書き込めば会社から処分されるのか。警察官が休日にブログに書き込めばその内容次第で役所から処分を受けるのか。弁護士がブログに書いた内容が品位を欠くとして弁護士会から処分されるのか。岡口裁判官と同じ内容を公務員、キャリア官僚、国会議員、大臣、教師、校長などが書けばどうなるのかなどと関係する問題である。 また、多くの人が、岡口裁判官の行動が「裁判官としてふさわしいか」という観点から考えるだろうが、それが間違いである。そうではなく、裁判官の職務外の私的行為が裁判官として違法なのかが問題なのである。ふさわしいかどうか、品がよいかどうかではなく、違法かどうかの問題である。日本では、「好ましくないこと」と「違法」の区別があいまいである。「好ましくないこと」を「違法」とみなせば中国や北朝鮮に近づく。また、日本は24時間仕事に縛られる仕事中心・組織中心社会である。日本では職業が身分になっている。 主婦や高齢者を除くほとんどの人が勤務先や学校などの組織に所属しており、会社、役所、学校の倫理によって24時間規制されれば、24時間自由が制限される。これは実に恐ろしいことだ。日本では、精神的自由は幼児、主婦、高齢者、自営業者、無職者しか保障されないことになる。 一般の市民に認められることが、なぜ、裁判官はできないのか。「それは裁判官だからだ」、「当たり前だ」と考える人は、思考停止している。「1984年」(ジョージ・オーウェル)状態。 多くの国民は、裁判官は自分とは関係のないエライ人だと考えており、関心を持たない。ほとんどの人が生涯、裁判などしないからだ。裁判所や裁判官のあり方が自分たちの日常生活や仕事上の自由に大きく影響をする。岡口裁判官を処分した同じ裁判所が一般の国民の自由について判断をする。裁判所は、公務員や会社員を対象に勤務時間以外の時間でも、公務員や会社員としてのあり方を問題にする。たとえば、大企業の社員が勤務時間外にに酒気帯び運転をし、それが新聞に書かれれば会社から処分を受ける。そこでは、大企業のイメージを損なったことが問題にされる。岡口裁判官のようなツイートを大企業の社員や公務員が行い、それが会社にバレれば、勤務先から処分されるかもしれない。24時間会社員としてのエリを正せということである。裁判所は、社員ををどのように処分するかは会社の裁量だと言うだろう。会社員は24時間会社に従属するほかない。言いたいことが言えない社会。 憲法上、原則としての自由、例外としての規制という考え方が日本に根付いていない。日本では、岡口裁判官の行動が「裁判官としてふさわしいか」という発想が最初に来るのであり、これは規制が原則、規制しない範囲で自由が認められるという考え方である。裁判所も同じ。この点は、欧米の本を読むと日本との違いを痛感する。小さいころから規制され管理されて育つと、規制されることが当たり前になる。 東京高裁が懲戒申立をしたのだが、東京高裁長官は林道晴氏である。林道晴氏は私の大学時代の社会問題を考えるサークルの後輩であり、彼をよく知っている。いや、かつて知っていたというべきだろう。今後、最高裁判事になるだろうと言われているらしい。将来の最高裁長官の候補のようだ。なるほど彼らしいと思った。彼にとって懲戒申立は当たり前のことなのだろう。 大学1年生の彼は、「プルーストの「失われた時を求めて」をフランス語の原書で読んでみたい」と言い、文学志向と法学部生らしからぬその言葉に私は親近感を持った。文学志向のあった私もそのように思っていたので・・・・・。しかし、文学熱の冷めた私はフランス語の勉強をやめ、もともと法律に関心がなかったので法律の勉強もしなかった。 戦前、学生時代に資本論をドイツ語で読んだことを自慢する、ある特高検事は、多くの治安維持法違反事件を扱った。その人の知識と能力は歴史の進歩に逆行することに使われた。人間の能力や努力は、それを向ける方向が重要なのだ。カフカの「流刑地にて」を見よ。そこでは優秀な技術者が人間処刑機の発明を自慢する。 表面的には穏やかだが、政治的な問題について頑なに保守的だったことが印象に残っている。彼は司法行政に従事した期間が長く、実際の裁判の経験は少ない。 私は裁判官の人事にまったく関心がないので知らなかったが、今回調べてみたら、林道晴氏の前の東京高裁長官は深山卓也氏であり、深山氏は最高裁判事になっていた。あの深山さんが?と思った。深山氏も大学の同じサークルの1年上の先輩であり、よく知っている。いや、かつてよく知っていた。学生時代は、さまざまな社会的な問題についてよく議論をした。「絶望の裁判所」の著者の元裁判官の瀬木比呂志氏(明治大学教授)は深山氏と同級生であり、2人は学生時代は仲が良かったが、その後の方向が分かれた。一方は裁判所を徹底的に批判し、一方は裁判所の官僚機構の中枢にいる。学生時代の友人に、事務次官、長官、国会議員、大臣、大学教授、学長、作家、日弁連会長などになった人がけっこういるので、最高裁判事が1人や2人いてもおかしくない。私が、「ヒマラヤの7000メートル峰を世界初登頂した」と言っても、彼らは、「はあ?」と言うだろう。住んでいる世界が違うようだ。 東京高裁長官から最高裁判事になる人が多いが、組織に忠実な人が最高裁判事になるシステムになっているようだ。しかし、司法行政の能力と裁判官としての判断力は別である。林道晴氏のようにほとんど裁判をしたことがない裁判官が裁判所のトップになるのは、管理を重視するからである。今の裁判所は管理を重視し、裁判がマニュアル化している。司法を司法官僚が支配している。裁判所という官僚組織に長年いると、組織を維持することを最優先に考えるようになる。視野が狭くなる。組織への信頼を維持するために異端者を切るのである。私は、司法研修所で教官から裁判官にならないかという勧誘を受けたが、裁判官になっていれば閉鎖的な世界に耐えられなかっただろう。その時は、裁判官は休みがとれず登山ができなくなることと、法律を扱う仕事に関心がなかったので、裁判官になることはまったく考えなかった。もちろん、当時から裁判所の閉鎖性は十分知っていたが。 裁判官といえども仕事が終われば、一市民としての自由な時間がなければならない。仕事が終わればタダの人であるべきだ。ドイツの裁判官は仕事が終われば一市民として政治的な自由がある。ドイツの公務員は仕事が終われば議員活動などをができる。 日本の裁判官は仕事とプライベートの区別がない。私的生活がなく、24時間裁判官でなければならない。これは人間の生活ではない。日本の教師は24時間教師である。日本の公務員は24時間公務員。弁護士も24時間弁護士である人が多い。これが視野の狭さにつながる。日本は仕事が身分の身分制社会である(刑法に身分犯の概念がある)。武士は24時間武士だが、会社員は仕事が終われば会社員ではないはず。 私的財産の中でもっとも重要な財産は自分の労働力である。労働力の中には精神的活動も含まれる。仕事のために提供する労働力は他人に支配されるが、それ以外の私的な領域がなければ奴隷と同じである。ハンナ・アレントは、「私的領域を取り除くことは人間存在にとって危険である」と述べる(「ハンナ・アレント、「人間の条件」)。それは全体主義や戦争につながりやすく、人間を不幸にする。私的領域から多様性が生まれる。「1984年」(ジョージ・オーウェル)には、完全に私的領域のない思考停止の社会が描かれている。この本はどこかの遠い国の話ではなく、「日本の中の1984年」を考えながら読むべき本である。 私的領域とは何か。それは仕事から完全に遮断された自由な世界である。英語のprivateはdepriveの派生語であり、私的領域では公的なものが奪われていることを意味する。裁判官の私的活動では裁判官としての公的性格がないことを意味する。私的活動ではもはや裁判官ではない。もとより、裁判官の表現の自由といえども他人へ危害は許されないが、それは一般市民と同じレベルの制限であって、たとえば、私的活動では「裁判官の行動としてふさわしいか」などの基準で考えることはできない。裁判官も、仕事を離れれば、人間としての権利や市民的自由が保障される。アリストテレスは、「幸福は余暇にある」と述べた。自由な時間は肉体的、精神的に自由でなければならない。森?外は軍医総監をしながら多くの小説を書いた。公務員としての地位は歴史に残らないが文学作品は歴史に残る。もし、彼が裁判官だったとすれば倫理に反するとして小説を発表できなかっただろう。しかし、先進国では裁判官の表現の自由は保障されている。 先進国の基準では、岡口裁判官は仕事を離れれば、一般市民に認められるレベルのツイートは規制できない。フランスでは私生活上の非行を理由に職場で処分されることはない。勤務時間外に酒気帯び運転をすれば刑事罰を受けるが、職場と無関係の行為なので、職場の懲戒処分の対象ではない。アメリカでは、裁判官行動規範が係属中又は間もなく係属する事件へのコメントを規制しているが、これは職務行為そのものなので当たり前である。岡口裁判官のツイートが被害者の心情を傷つけたのであれば適切ではないが、違法ではない。もし、それを規制するのであれば、一般市民のツイートもすべて規制することになる。しかし、問題のあるツイートを制限する法律を作らない限りそれは無理だ。しかし、中国や北朝鮮、イスラム圏などは別として、先進国ではそのような法律を作ることができず、一般の市民のツイートを禁止できない。したがって、それと同等レベルの行為は裁判官も可能である。市民的自由は平等に与えられるというのが、近代市民社会の考え方である。日本の裁判官は学会で意見を述べるには上の許可が必要であり、学問の自由がない。 裁判官に「品位」が要求されるのは、あくまで職務行為に関してである。勤務時間外は職務時間ではない。この点は弁護士も同じ。弁護士も品位を欠く行為は弁護士会が処分する。職務を離れて品位を要求すれば、24時間自由が制限され、精神的に「1984年」状態になる。 一般市民に認められる市民的自由を裁判官に認めないことは、職業を身分とするのと同じである。武士や貴族が24時間武士や貴族であるのと同じである。裁判官としての倫理を仕事以外の時間に持ち込めば、肉体的には支配されていくても、精神的には24時間精支配されることになる。何に支配されるのか。それは裁判官としての職責である。それは自由ではないという意味で精神的な奴隷状態であり、「1984」に近づいている。 私的領域は仕事上の倫理・価値感とは無縁である。これを持ち込めば、私的領域が消滅する。日本は、24時間、会社、役所などに支配されることが当たり前の社会である。大企業の社員は、休日でも大企業の社員として品位を欠く行動があれば、会社から解雇などの処分を受ける。勤務時間外の罰金処分でも解雇する会社がある。弁護士は24時間弁護士としての品位を要求される。管理する側は24時間組織の管理で縛りたいが、それは「1984年」の世界である。これは、ムラの一員は24時間村民でなければならず、村民としてふさわしくない行動をすれば村八分にあうのと同じである。ムラの中では24時間、ムラの倫理違反がないかどうかが監視される。それは「1984年」の監視社会と同じである。それが嫌な人はムラから出るほかない。ムラから出れば自由に何でも言える。裁判所ムラの価値観では、岡口裁判官のツイートはムラの価値観に反し、「裁判官として許すことのできない行動」なのだ。その感情は最高裁の決定の補足意見によく表れている。そこでは、職務外の行動を裁判官としての行動とみなし、私的領域認めない。私的領域の追放は多様性の抹殺であり、全体主義的一枚岩につながる。裁判官が多様な価値観を持つことが損なわれることは、管理する側に都合がよいが、民主主義にとって危険である。 裁判官の仕事は法律に縛られる。消費税法がある以上消費税を是認するほかなく、これに24時間縛られれば勤務時間外でも消費税について自由に意見を言えない。安田純平氏の行動が自己責任かどうかについて裁判官が私的時間に論争に加わることをしないだろう。法律がそれについて何も規定していないからである。法律が規定していればそれに従い、規定がなければ発言しない。表現や行動をしなくなれば、そのうち考えなくなる。考えても仕方がないと思うようになる。すべて法律の通りに考えることに精神の自由はない。戦前の裁判官は治安維持法や戦争の是非について考えることを停止したはずだ。このような思考停止は「1984年」の世界であり、精神的な奴隷状態である。法律の奴隷。裁判官にならなくてよかった! 裁判官との酒席でも、自分の本当の考えを言わないか、それがない思考停止の裁判官が多く、話をしても面白くない。ホンモノの会話でなければつまらない。岡口裁判官の問題について裁判官と雑談をしても、口をつむぐ裁判官がほとんどだろう。 休日に冬山登山をする裁判官がいないのは、そのような危険な行動をすることが裁判官としての品位を欠くと考えるからだろう。クライミングも人工壁でクライミングをはしても、アルパインクライミングをする裁判官はいない。裁判官の冬山登山などとんでもない。24時間裁判官であることを求められれば、法律が登山について何も規定していないので、休日に危険な登山で「遊ぶ」ことをためらう裁判官が多いだろう。欧米では、国際山岳連盟の会議に裁判官や検察官の登山家が休暇をとって参加して自由に発言している。欧米では裁判官や検察官の私的な行動の自由が保障されている。日本の裁判官は休暇に会議に参加するにも最高裁の許可が必要である。他方、欧米の弁護士は、時間的余裕がないため国際山岳連盟の会議に出席することはない。もちろん、日本の弁護士も同じ。参加するとすれば私だが、金がかかるので・・・・・・・ 長時間労働のもとでは、物理的に私的な領域がない。キャリア官僚、裁判官、弁護士、勤務医、大企業の幹部社員などは労働時間が長く私的な時間がないので、24時間仕事に縛られても違和感を感じないだろう。それはある種の精神信的奴隷である。 日本全体が巨大なムラ社会である。個人の行動のひとつひとつを取りあげ、それがよいか悪いかをムラの掟に照らしてチェックする。ムラの掟に反する者がムラにいることは「目障り」なのだ。それが日本の社会の生き苦しさをもたらし、引きこもりやうつ病などにつながる。シリアから帰還した安田氏に対する「自己責任論」の非難なども、日本のムラの倫理に照らして個人の行動のすべてを価値判断する例である。欧米の社会は個人の行動を「放っておく」寛容さがあり、それが居心地のよさにつながる。 今回の最高裁の決定は裁判官に大きな委縮効果をもたらす。もっとも、すでに裁判官は十分に委縮しているので、出る杭を打つ意味しかないが。裁判官だけでなく、公務員や会社員などにも大きな委縮効果をもたらす。弁護士も、書き込みで法律批判をすれば、弁護士会から「法律順守義務違反」として処分される時代が来るかもしれない。自分のやりたいことができない、自分の言いたいことが言えない、自分の書きたいことが書けない、これはモノを考える人間には死ぬほど苦痛である。「絶望の裁判所」。司法研修所で裁判官になることを勧められたが、裁判官にならなくてよかった。モノを考えない人や自分のやりたいことは仕事しかないという人には、どうってことはないが。そんな日本人が多い。多くの者が、「イワン・イリッチ」(トルストイ)として生きている。「イワン・イリッチ」は社会や組織のしがらみに一喜一憂する小市民の象徴である。地位の高い「イワン・イリッチ」もいれば地位の低い「イワン・イリッチ」もいるが、最高裁判事は前者。それぞれ、懸命に生き、仕事をし、人生を終えて、それなりに満足し、あるいは不満を持ちながら死んで歴史から消えていく。死ねば、地位や肩書は消え、皆、ゴミになる。明治以降の首相で歴史に名前が残る人は少ない。歴代の最高裁判事で歴史に名前が残る人はほとんどいない。しかし、すぐれた業績や書物、芸術作品は後世に残る。 官僚組織の問題性・・・・裁判官はどうあるべきかは、個人のレベルの問題と組織の問題があるが、官僚組織では、国民の批判からいかにして裁判所を守るかが重視されやすい。組織のために個人を切るのだ。切られる者は少数であり、それにより多数の組織内の者が利益を得る。出る杭は打たれる。岡口裁判官が組織を出れば裁判所はほっとする。村八分の論理と同じ。裁判所はムラ社会である。役所でも企業でも組織を守ることが正当化の論理になりやすい。それが不正をもたらす場合もあるが、不正をもたらさなくても人間の思考停止につながり、社会の発展を阻害する。 多くの人が、「それはそうかもしれない。しかし、日本の社会は欧米と違って仕事中心社会、役所・会社・組織中心社会であり、特殊なのだ」、「日本では24時間、公務員、会社員として縛られるのは常識だ」、「裁判官や教師はフツーの地位ではなく、聖職なのだ」と言うかもしれない。キャリア官僚も勤務時間外の発言が国民から叩かれやすいので、「聖職」扱いかもしれない。まさにそこに問題の核心がある。 私的領域を認めない裁判所の考え方は日本人に根強い仕事中心・組織中心の考え方を反映したものである。この考え方が裁判でマニュアルやパターンを重視した画一的な処理をもたらし、誤判や冤罪をもたらしている。一定のパターンに基づいて裁判所的な証拠の有無で判断する「裁判所的な正しさ」は現実から遊離している。そこには裁判所特有の世界がある。裁判所が外部から批判されればされるほど、裁判所は内向きになって組織を守ろうとする。そのために裁判所の中の異端者を「切る」ことが必要になる。このような閉鎖的な裁判所の組織は確かに「絶望」的である。アインシュタインは常識にとらわれないことが新しいものを生み出すと言ったが、裁判所は常識にとらわれる。それだから進歩がない。 2018年10月19日 広島の勝因と日本シリーズの予想 この日の試合での勝敗分かれ目は、8回にジャクソンがランナーをためたところで早目に投手交代をしたことにある。もし、そのままジャクソンが投げればいつものように3点くらいを失い(たぶんホームランを打たれる)、1点差で9回に不調の中崎を出して逆転された可能性が高い。それがこれまでの逆転負けの方程式。緒方監督が勝利の方程式を若干修正したことが勝因。そもそも8回のジャクソンの起用が間違い。固定観念にとらわれたことが、1昨年の日本シリーズでの敗北、昨年のCSでの敗退を招いた。もっと現実を見なければ。 巨人は昨日、田口を早目に代えたことがCSの流れを変えてしまった。これも、今シーズン、田口が広島に打たれるかもしれないという先入観が影響している。状況に応じて臨機応変に対処すること。 日本シリーズも監督の采配が左右するだろう。 リスクを的確に判断することは簡単なことではない。それが自然災害、山岳事故、誤判からの教訓。マニュアルにとらわれることが自然災害の被害を大きくする。パターンや固定観念にとらわれることが誤判を招く。人間の判断にはさまざまなバイアスがある。 2018年10月18日 野山で野草、茸、果実を自由に採取できるか 報道によれば、「他人が所有する雑木林から野生のクルミを盗んだとして、神奈川県警津久井署は17日、相模原市中央区の無職の男(38)を窃盗容疑で現行犯逮捕した。「地球に生えているものを採って何が悪い」と容疑を否認しているという。署によると、男は17日午前10時20分ごろ、同市緑区中野にある農協職員所有の雑木林で、クルミ71個(時価1200円相当)を盗んだ疑いがある。近所の人から「見知らぬ男が雑木林に入って何か採っている」と通報があり、駆けつけた署員が声をかけたところ逃げたため現行犯逮捕した。地域ではこの時期、野生のクルミが旬で、採りにくる人が散見されるという。」 野山のツクシやヨモギをとれば窃盗罪か。茸狩り登山は窃盗罪か。 落木を燃やして焚き火をすれば窃盗罪か。 岩石採取は窃盗罪か。 私有地や公有地でこれらのことが行われている。土地所有者の同意を」得るために山岳地帯で土地所有者を調べることは至難のこと。 「登山者のための法律入門」(溝手康史、山と渓谷社、79頁)からの引用 「食用のために、原野や山麓のフキノトウ、つくし、ヨモギ、野苺、茸などを採ることは禁止されるのでしょうか。・・・・自然公園の特別保護地区では、原則として一切の動植物の捕獲、採取が禁止されています・・・・・・・自然公園の特別保護地区や特別地域以外の山では、このような制限はありませんが、土地所有権による制限があります。自分の土地を自由に支配できるのが所有権であり、土地所有者が禁止すれば、植物の採取ができません。原野や山麓のフキノトウ、つくし、ヨモギ、タンポポなどは、土地所有者の意思を無視して自由に採取できません。多くの場合、土地所有者がこれらの採取を黙認しているとみなされていますが、本当に土地所有者が黙認しているかといえば、そうではなく、単に土地所有者が、知らないだけの場合もあります・・・・・・アウトドア活動のさかんなヨーロッパでは、この点のトラブルを防止するために、多くの国で、国民が自然を利用できる範囲を法律で規定しています。北欧では、誰でもカントリーサイドをレクレーションのために自由に利用でき、ドイツでは、私有林や公有林の中で国民がハイキング等のレクレーション活動ができ、「土地の慣行の範囲」、「手に持てる量を超えない範囲」で野生の果実や植物の採取ができることを森林法で認めています。日本には、このような法律がないので、原野や山麓のフキノトウ、つくし、ヨモギなどの採取は、土地所有者の黙認が前提です。・・・・・しかし、厳密に言えば、土地所有者が知らないために「禁止しない」だけであって、後で土地所有者が山野草の採取を知ってクレームを言えば、採取は違法です」 かつては土地所有者が黙認することが多かったが、現在はそうではない。時代が変わったのだ。ここでも、現実を見ることが大切。 2018年10月14日 医学部不正入試 医学部の不正入試は予想通り。医学部以外の学部や入社、採用試験での不正がある。コネ入学がどこでもある。不正な入試や採用を禁止する法律がない。そのような法律に大学や企業、役所が猛反対するだろう。 2018年10月1日 東北地方旅行 角館 奥入瀬渓流 中尊寺 観光地化の功罪 かつて奥入瀬渓流では落木事故が起きたことがある。事故現場と思われる休憩場所付近を観察したが、観光客は落木を予測しないだろう。しかし、落木がないように管理するのも大変である。奥入瀬渓流の歩道全体で落木がないように木を管理することは不可能だろう。休憩所以外の場所での落木事故であれば、法的責任は生じなかっただろう。ベンチがクセモノだ。 奥入瀬渓流を観光名所としてではなく、自然の中の渓流として利用者に提供すること、自然状態のままで提供し、歩道をなくすることが、経済的にもっとも効率的な自然の利用方法ではないか。歩道や休憩所がなければ、落木事故の法的責任は生じない。歩道や休憩所を設置するのであれば、国や自治体は施設賠償責任保険に加入すること。沢登りでは落木事故の法的責任は問題になりえない。観光地化に伴うリスク。 奥入瀬渓流落木事故 国立公園内の奥入瀬渓谷の歩道付近の休憩場所で上から落ちてきた木の枝で観光客が負傷した事故について、国や県の歩道の営造物責任、工作物責任が認定された(東京地裁平成18年4月7日判決、判例時報1931号83頁、東京高裁平成19年1月17日判決、判例タイムズ1246号122頁、最高裁平成21年2月5日判決)。 2018年9月25日 広島高裁、伊方原発の再稼働を認める。 まあ、こんなもんでしょ。日本の裁判所は。裁判官が行政に逆らうには勇気がいる。 原発のリスクは、自然の中で地震、津波、隕石など何が起きるかわからないことと、人間は必ずミスを冒すことである。しかし、裁判所はこれらが現実化しない限りそれを認めない。福島原発事故のように。 原発事故が起きるとしても数十年後かもしれない。自分が死んだ後は野となれ山となれ。原発の廃棄費用で多額の税金がかかるが、それは国民全体の負担であって、それまでは地元に原発が金を落としてくれる。 2018年9月16日 鈴鹿山脈登山 2日間、初めて鈴鹿山脈を歩いた。これは山域と登山道の調査が目的。 御在所岳の山頂付近の登山道は遊歩道化しており、重い安全管理責任が生じる。六甲山の山頂付近と同じ。その点を歩道管理者が意識しているかどうか。 御在所岳山頂 六甲山山頂 2018年8月18日 ボランティア活動をめぐる法的問題 呉市天応地区でボランティア活動をした。ここは西日本豪雨の被害地のひとつ。 この地区は川の扇状地に住宅街が形成されている。多くの住宅の1階部分が土砂に埋没していた。何万トンという土砂の堆積のほとんどが真砂土である。土砂の撤去作業がボランティア活動の対象であり、炎天下で大変である。 真砂土は水はけがよいが、真砂土の山は崩れやすい。川の氾濫によってできた扇状地は、川の氾濫によって土砂が堆積しやすい。 参加者は若者がほとんどだった。私が63歳だと言うと驚いていた。 ボランティア活動は、ボランティアリーダーの指導のもとで、整然とした団体行動になっており、日本人はこのような団体行動活動がいつでもどこでもできることに感心した。 他方で、ボランティア活動は本来、自発性に意味があるので、主催者が細部まで決定、管理することは、あたかも社会福祉協議会の仕事を無償のアルバイトしているかのようだった。効率や管理を重視すればそのようになるのだろうが、本来のボランティアの趣旨とは異なるのではないか。 社会福祉協議会がいつも行っているボランティア活動は、ボランティア活動を組織の中に取り込んだ活動なのだろう。そこではボランティア活動者は組織の一員となり、ボランティア活動中の事故について、主催者に使用者責任が生じる可能性がある。この点は、PTA、自治会、子供会などのボランティア活動とおなじである。 主催者の指揮命令下にない本来のボランティア活動の場合には、主催者の責任は問題とならず、事故は参加者の自己責任である。先日、山口県で2歳の男児を発見したボランティアおじさんは、自己責任型のボランティア活動の例である。この日、このボランティアおじさんは、天応地区に来たようだ。 しかし、主宰者の指揮命令下で行われるボランティア活動では、主宰者の事故の責任問題が生じる。山岳連盟主催の登山講習会は、このようなボランティア活動の典型である。講習会のインストラクターは、義務的にボランティア活動に参加するのであり、この点でPTA活動などと同じである。日本では、子供を対象とする登山講習はボランティア活動とみなされ、大人を対象とする登山講習会はボランティア活動とみなされないことが多いが、これもボランティア活動である。 ボランティア活動は、管理すればするほど管理責任が問題になりやすい。たとえば、参加者が熱中症になれば、主宰者が指揮命令権を有するボランティア活動では主宰者の責任問題が生じる可能性がある。したがって、主宰者は賠償責任保険に加入していることが必要だろう。それは個人賠償責任保険ではダメで事業者用の賠償責任保険である。継続的にボランティア活動を実施する主宰者は「事業者」であり、個人賠償責任保険の適用がない。ところが、災害ボランティア活動の責任主体があいまいである。自治体が責任を負うのか。社会福祉協議会なのか。それとも実行委員会、ボランティアリーダー個人なのか。誰も責任の所在を考えることなく実施するので、責任主体があいまいになるのである。 災害ボランティア活動は、主催者の指揮命令下の活動ではなく、参加者の自己責任活動とする本来のボランティア活動にした方が、法的には処理が簡単なのではなかろうか。 あるいは行政の仕事を無償で手伝うボランティア活動であれば、それを明確にし、問題が生じれば自治体が責任を負う体制が必要ではないか。 災害ボランティア活動は、法的に見れば、あいまいな点だらけだ。こんなことは、ボランティア活動をする人は誰も考えないのだろう。事故が起きて初めて考えるということ。ボランティア保険への加入は問題を顕在化させない方法なのだろうが、ボランティア保険で問題を解決できない場合がある点を関係者が考えていない点が問題なのだが・・・・ ボランティア活動は14時に終わったので、その後、天応烏帽子岩山に登った。ここには、若いころ岩登りのために50回くらい来たことがある。今後、岩登りの訓練のために、ここに来ることはないのかもしれない。一抹の寂しさを感じる。 天応の岩場に来るのは10年ぶりくらいだが、以前とまったく変わりがない。天応烏帽子岩山は災害のあった天応地区から直線距離で500メートルくらいしか離れていないが、西日本豪雨の後でも、不思議なほど変化がない。 土砂災害のあった天応地区との違いは、天応烏帽子岩山の沢は非常に急峻だが岩盤で形成されているので、土砂が流れ出なかったということだろう。岩の崩落もない。災害の有無は地形次第ということがよくわかる。 まったく変わりのない天応烏帽子岩山 2018年8月15日 山口県で2歳の男児の行方不明と発見 山口県で2歳の男児が行方不明になったのは大人が目を離したからである。子供は数秒もあれば消えることがある。 その発見は大分から来たボランティアの捜索者による。子供は上の方に向かって歩くことを知っていたそうだ。ロープや登山の装備を持っていたので、かなりの登山経験者なのだろう。経験に基づく判断がモノを言った。他の捜索者は自宅周辺の側溝や叢などを中心に探していたようだ。男児は家に帰ろうとしたのではなく、好奇心から山の方に向かったのだろう。 2018年8月14日 阿波踊りをめぐる対立 阿波踊りの総踊りの実施をめぐり、阿波踊り実行委員会と阿波踊り振興協会が対立している。阿波踊り実行委員会が総踊りの中止を決めたが、阿波踊り振興協会はそれを無視して総踊りを実施した。徳島市長は阿波踊り振興協会に対し、「中止命令」を出し、「ルールを守れ」、「ペナルティを科す」と述べた。 2018年8月10日 日本ボクシング連盟会長の会見に同席した弁護士の辞任 マスコミ報道によれば、西口拓人弁護士は、「山根日本ボクシング連盟会長の会見に同席する予定ではなかったが、大阪弁護士会側並びに同副会長の要求で、会見に同席。会見後、山根氏らと話し合い、「(代理人を)受任の方向も考えた」ものの、会見翌日だったこの日午前、自身の顧客から反響が大きかったこともあり、すでにある職務との兼ね合いを考え、代理人依頼の申し出を断ったという。この日正午前、山根氏サイドに電話で受任しない意向を伝えると、山根氏側から「分かりました」と返答があったといい、会見同席翌日に代理人辞退へいたった前代未聞の流れについて説明した。」
詳細はまだ不明。ロープに7人が繋がっていたようであるが、本来のロープの使い方をしていれば事故は起きていないはず。コンテニュアス(同時登攀)で登っていたのだろうか。そうだとすれば、それは間違い。事故パーティーは一定の登山技術、経験はあったようだが、リスク回避に熟練していなかったようだ。 やさしい登攀では熟練者はロープをほとんど使用せず、危険箇所でロープを出すことがある。その場合には、トップは、当然、スタカット(隔時登攀)で登った後でロープをフィックスする。この場合に、トップのビレイに失敗すれば、トップが被害を受けるが、他の6人が事故に巻き込まれることはない。ランニングビレイをとっていなければ、ビレイヤーも巻き込まれることはありうるが。このようなロープの使い方であれば、7人数珠繋ぎの遭難はありえない。 2018年3月21日 官僚の忖度 官僚が政治家の意向を忖度しやすいのは、身分の独立性がないからである。官僚は昇進することだけを考えて仕事をするわけではないが、それでも他人並み、あるいは他人以上に昇進したいという気持ちがある。また、退職後の再就職先なども考えてしまう。現在の佐川氏は、失うものが何もないかと言えばそうではない。退職金約5000万円がどうなるか。年金の満額受給までに年数があるので、その間の収入がどうなるのか。子供が大学生だったり、住宅ローンがあるかも。目立つ再就職はできないとしても、ほとぼりが冷めれば小さな会社の顧問や外国の大学の教職の口があるかもしれない。不用意に話せば、刑事責任の証拠になる・・・・・などの点で、国会での証言に利害がある。佐川氏に、「今後のこともあるから、証言はよく考えてから言った方がよいぞ」と「親切に」忠告する人が、必ず、いる。 こんなことは官僚に限らず、公務員、裁判官、弁護士、大学教師、研究者などの誰もが日常的に関わっていることである。どのような行動をしようと、客観的には大差ない場合でも、主観的に自らの行動を縛ってしまうことが多い。それは、もともと住んでいる世界が狭いために、視野が狭くなるからである。政治家の意向がどうだろうと、マイペースで仕事をすればよいのだが、そのような役人は干される。それは自分のプライドが許さないのだ。常に周囲から「できる人間」として評価されるのでなければ、自分のアイデンティティが失われてしまうように感じる。そんな人間は、官僚に限らず、世論からエリートと呼ばれる人たちに多い。 役人の世界だけで生きていれば、役人の世界でどう見られるかという点が行動を規律してしまいやすい。役人の世界を出てしまえば世界は広いのだが、何十年もひとつの世界に住んでいると、世界の広さがわからない。これがダメでもあれがあるという人は比較的自由に生きることができるが、役所と離れて完全に離れて生きる人はそれほど多くない。常に元〇〇という肩書で食っていく仕事に就くことが多い。 このような人間の習性を考えれば、政治家の意向が役人に簡単に伝わるシステムや、政治家の意向が昇進に反映しやすい現在の人事ステムに問題がある。公務員の身分のある程度の独立性が必要。終身雇用制(給料の年功序列制)に問題がある。省庁の局長以上のポストは公募制にして政府と無関係の第三者機関が人事を決める必要がある。学校の校長の人事も教育委員会が決めるからダメなのだ。裁判官の人事も最高裁が決めることに問題がある。役所では人事部門がもっともいばっている。閉鎖的な制度は管理する側に都合がよいだけで、国民にとってメリットがない。 2018年3月20日 財務省職員の相次ぐ自殺 もともと国家公務員は残業タダ働きが当たり前のブラック労働である。私の知人は、国土交通省に努める30代だが、深夜0時を過ぎても仕事をするのが当たり前である。私が、昔、地方公務員をしていた頃は、夜10時までしか仕事をしていなかったが(予算上、残業代は1日に2時間分しか出いない)、それとは大違い。私は、独創性を発揮する余地のない公務員の仕事に嫌気がして公務員を辞めた。たぶん、会社員になっていても仕事を辞めただろう(欧米の企業は多少は異なるかも)。弁護士の仕事も、収入を得るための日常的な業務に関する限り、法律と裁判所が定めたマニュアルの枠の中の事務処理であり、ほとんど独創性を発揮できないのでつまらない。それで私は本を書き、それで生きているようなものだ。 財務省は特別残業の多い部署だが、今回の森友騒動で、さらに徹夜が増えているのだろう。現在、財務省の自殺者は2人だが、国民は官僚の過重負担を容認している。ある一般人は、「国のキャリア官僚は残業などせず、早く仕事を終わらせて、毎晩、酒飲を飲み贅沢三昧の生活をしていると思っていた」と述べていた。国のキャリア官僚がブラック労働だと言っても国民は納得しない。これではよい政治ができるはずがない。国民の「官僚憎し」の感情が、官僚は、ろくに仕事をせず、贅沢をして高給を得ているという思い込みをもたらすようだ。国民が公務員を叩けば叩くほど自分の首を絞めることになるが、それに国民は気づかない。このような政治は、江戸時代であれば、庶民の不満の矛先を商人に向けさせる支配の手法に似ている。農民や下級武士の困窮は、商人が肥え太っていることに原因があるという手法。農民や下級武士の困窮の原因は当時の幕藩体制にあった。現在も同じ。そのように国民を互いに対立させることによって利益を得る者がいるが、国民はそれに気づかない。 事実を正確に知ることから民主主義は始まる。 2018年3月17日 政治家の官僚支配、官僚の反乱 公務員は役所に雇用されているのであって(正確には任用)、政治家に雇用されているわけではない。しかし、自治体の職員は市長という政治家に逆らえず、市長の意向に従って仕事をする。国家公務員も首相に雇用されているわけではないが、首相や大臣のの意向に逆らえない。国家公務員の中で幹部やキャリア組は首相や大臣、その取り巻き(官房、官邸、政務官、秘書など)の意向に敏感になる。これは、会社でも会社幹部や幹部候補者は社長や役員の意向に敏感になるのと同じであり、人間の性だろう。人間は弱い。 問題は、首相や大臣、その取り巻きが積極的に官僚を支配する傾向が強まっている点である。2014年に内閣人事局が官僚の人事権を持つようになった。財務省は各省庁の予算を握っているので、省庁は財務省に頭が上がらないが、財務省の幹部の人事は内閣府が握っているので、財務省は内閣府に頭が上がらない。財務省は内閣府(首相)の意向を忖度して動くのは当然だ。 政治家による官僚支配は昔からあり、アメリカでは、トランプのように意向に背く官僚をかたっぱしにクビにする。官僚は嫌なら辞める。アメリカでは、役所を辞めても天下りではなく、転職できる。 しかし、日本では、組織に背いて辞職すれば、天下りができず、再就職が難しい。終身雇用制で退職後も役所の世話になるので、死ぬまで役所に忠実な官僚が多い。日本では、終身雇用制で転職が難しいので、「これだダメでもあれがある」という考え方がなく、「これしかない」と考える人が多い。自分の信条にあわなければ辞職し、真相を暴露する暴露本を書けば儲かるが、それはアメリカでの話。「ここは日本ですよ」と言う人が多いが、日本の常識は世界の非常識であることが多い。 最近、政治家による官僚支配に対する官僚の反乱、反抗がみられる。 ・元経済産業省の古賀氏はこの反乱の始まりだったといえようか。 ・元文部官僚の前川氏の行動 ・防衛省による情報隠蔽がマスコミにバレたのは、役人の中に情報をマスコミに提供した者がいるからではないか。 ・近畿財務局作成の決済文書は、詳細な特別扱いの経過を公文書に残しており、これは政治家による官僚支配を記録に残したものである種の反抗とみることができる。 ・近畿財務局の職員がマスコミに決済文書書き換えの事実を誰かがマスコミに情報提供したのではないか。 ・近畿財務局職員の自殺は、死によって政治による官僚支配を抗議したとみることができる。 ・前川氏の講演に関して、文科省が自治体を調査した件。これは、まるで地方自治制度のない国の話のようである。これも自治体の公務員がマスコミに情報提供している。 官僚は政治家に忠実な者ばかりではない。官僚をうまく使いこなすのは政治家の能力次第。 最近は、官僚が政治家に従うと単純に考える性政治家が増えているのだろうか。 2018年3月12日 森友問題と法の支配の欠如 森友問題に限らず、日本の社会では法的なルールに基づいて社会が統治されていない。 ・財務省が情報を公開せず、公文書を改ざんしたこと ・加計学園問題では、文科省に政治的圧力が加えられたこと ・政治家の力で公共工事がなされ、国会議員が地元に利権をもたらすことが国民の間で公然と語られている。 ・警察官が犯した犯罪を警察が公表しないことが多い。最近、広島県では警察官のわいせつ事件を警察が公表しなかった。事件をマスコミに公表するかどうかが警察の裁量であり、不公平がること。そこには法に基づく公平なルールがない。 ・企業活動では法に基づく経営、監査がなされていない。 ・会議の形骸化。会議で議論をしない。会議の前に根回しで結論が決まっていることが多い。 ・役所の窓口の法を無視した水際作戦。裁判所ですら、本人訴訟の申立を簡単には受理しないことが多い。 ・企業、役所、自治会、学校、農協、漁協、スポーツ団体などでは、組織に法律をもちこむことを拒否することが多い。教育の場に法律を持ち込むべきではないなど。学校の治外法権化。スポーツ団体などで法律的なことを言うと村八分になる。 ・教師のブラック労働。法的なルールのあいなまいな教師の労働。学校の部活動の法的な性格のあいまいさ。 ・日本は40時間労働制の国だが、残業が蔓延しているという実情。役所でも企業でもサービス残業が当たり前。森友問題で自殺した財務省の役人は長時間の残業をしていたが、これは残業タダ働きの結果の過労死である。 ・第三者委員会、検証委員会の委員が恣意的に選任されている。 ・各種公的委員の選任が行政による一本釣りである。教育再生会議の委員など。 ・国民栄誉賞の選考過程に公平なルールがないが、これを国民が受け入れてる。 ・高校野球の21世紀枠は不公平であるが、多くの国民がこれを容認すること ・オリンピック代表選手の選考に公平なルールがないことが多い。 ・自然の利用に明確な法的ルールがなく、無法状態のアウトドア活動が野放し状態になっている。 法のルール=公平ということ。日本の社会では公平なルールが軽視され、不公平な扱いが常態化している。日本では、法的なルールはタテマエで飾りでしかない。財務省による公文書改ざんは、官僚の法的ルールを無視する思いあがりの役所文化が招いた。特に財務省には、国民を見下し政治的に行動をしたがる権力志向の役人が多い。 2018年3月11日 佐川氏の文書改ざん指示 佐川元理財局長が文書の改ざんを指示したらしい。改ざん文書は印鑑が10個くらい並ぶのであり、1人では改ざんできない。森友学園への土地売買は佐竹氏が局長に就任する前に決まっていたことであり、売却は組織全体の問題である。 役人は自分のために行動することはなく、政治家、上司、組織の意向をくんで行動する。森友学園の設置を手助けしたところで、佐川氏個人に何もメリットはないからである。佐川氏の行動には必ず政治的な背景、組織的な背景がある。改ざんした文書の決済には多数の印鑑が必要であり、改ざんは役所ぐるみで行われている。 佐川氏は、この際、国民のためにすべてを正直にバラせばよいのだが(そうすれば、スッキリした生き方をまっとうでき、歴史に自分の名前を残すことができる。〇〇庁長官というだけでは、そんな肩書きの役人が過去に何百人もおり、歴史に名前が残らない)、自分や家族のことや、組織の仲間、上司のことを考え、大勢に逆らえないかもしれない。役人になる人は、小さい頃から、親や教師の言うことに逆らわず、上から言われたことに従うことを繰り返し、就職後も組織に忠実に生きてきた人が多い。死ぬまで組織を裏切ることはできないという小心な人が役人になっている。 戦争中にリトアニアで外務省の命令に背いて多数のユダヤ人を救った故杉原千畝氏のような組織よりも個人の信念を貫く人は珍しい。故杉原千畝氏はキャリア官僚ではなく、若干変わった経歴を持つ外交官だった。外務省を追われた後も、自分の行動を自慢することはなく、外務省を非難することもなかった。外務省にとって、故杉原千畝氏は組織の裏切り者であり、外務省は現在でも杉原氏を黙殺している。 2018年3月9日 トムラウシ事故のガイドら不起訴 2009年にトムラウシでのツアー登山中に8人が亡くなった事故に関して、ガイドとツアー会社の社長が業務上過失致死傷罪で送検されていたが、嫌疑不十分で不起訴になった。マスコミからの取材があった。 不起訴の理由は、ガイドの一人は死亡したことが不起訴の理由、もう一人のガイドはが精神疾患のために事情聴取できないこと、ツアーに同行したツアー会社の社員は権限のないこと、ツアー会社の社長は義務違反と事故の因果関係のないことにあるようだ。不起訴の決定が早かったのは、担当検事が3月末で転勤するためのようだ。 国民は、刑事裁判を、責任の有無を判断する手続きと勘違いしやすいが、刑事裁判は、証拠がなければ成り立たない技術的な制度であり、ギャップがある。刑裁判はあくまで、国家が運営する制度であり、国の予算・管理上の都合が考慮されている。 すべての事件を起訴し、真相がわかるまで裁判をする制度も可能だが、その場合には、裁判官や検察官の数を現在の10倍に増やし予算も10倍くらい増やす必要がある。増税すれば可能だろう。 アメリカでは起訴するかどうかは、陪審員が決める(大陪審)。日本では、不起訴に対し検察審査会への申し立てが可能である。 今後考えるべきこと ツアー会社はツアーの内容を無理のないことにすることが必要 ツアーガイドにはある種の臆病さが必要である。 ガイド協会はガイドの安全管理の質を高める工夫が必要である。 国は、旅行業者の管理を強化することは可能だが、旅行業者ではない山岳ガイドが実施するツアーを担当する役所がない。強いて言えば、スポーツを扱う文科省か。文科省は教育の観点から登山を扱うが、ツアー登山は営業活動である。登山を扱う役所が必要。フランスにはスポーツ省がある。 消費者は、日本のツアー登山の現状を理解する必要がある。それは、ツアー会社もツアーガイドも玉石混淆だということ。自分の命を守るためにはツアー業者の選択が重要である。この点は観光旅行も同じ。格安旅行会社を選んだら旅行海者が倒産することがある。 2018年3月6日 時は金なり 今の社会では時間は大切である。時間の観念を無視した人間の行動はありえない。経済も時間を前提に成り立っている。ある仕事をするのに何時間かかるかがその価格を決めることが多い。 しかし、法律の世界には時間の観念はない。損害賠賠償額を決めるのはモノの価格であり、人間の命ですら将来稼ぐことができる収入で算定される。裁判に要する労力や時間は裁判では考慮されない。どんなに時間的に効率の悪い作業であっても、裁判ではそれが当たり前のように行われる。書類作成や些末な手続きのために何十時間も費やされる。弁護士や裁判官の残業代はタダだからである。これは、銀行で1円の残高計算が合わないために、課の職員が何時間も残業をするのに似ている。学校の教師がいくらでも時間をかけて、会議、書類作成、クラブ指導などをするのは、残業代を払わない学校のシステムがあるから可能なのだが、そこには時間的な効率の観念がない。アインシュタインは時間が人によって相対的であるとしたが、物理的な意味だけでなく、社会的な意味で時間が持つ意味と価値は相対的である。今の日本では、誰にとっても時間はタダという時代ではない(20年前のインドでは、時間はタダなのだということを痛感したが)。 時は金なり。時間を無駄にするなというだけでなく、現在は、時間が経済的な価値持つ時代である。そろそろそれを法律に反映させてもよいのではないか。 2018年3月5日 過疎地・・・・・・なぜ、人口が減ってはいけないのか? しばしば、人口が減ることの問題性が指摘されるが、これは自治体側からの視点が強い。自治体としては、住民が減れば住民税が減り、自治体を維持することが難しくなる。自治体の立場では、高齢者の移住を歓迎しない。高齢者は税金の支出ばかりかかり、新たな税収につながらないからだ。しかし、その地域の住民の立場では、1年間に住民が20人増えようが、20人減ろうが関係がない。現在、過疎地で「人口が増えた」ことが評価される場合の増加数は、せいぜい20〜30人程度である。数年単位では、人口減少はほとんど住民の生活に影響はない。 住民が、「かつては子供の数が多かった」と振り返るとき、それは、数十年単位で考えている。50年くらいの単位で考えれば、地域に大きな変動をもたらすが、それは市場経済がもたらす経済構造の結果であり、小手先の方法ではどうにもならない。長い目で見れば、経済法則にさからうのは無理である。大都会に人口が集中するのは世界の潮流である。先進国の中で日本はまだ農村部の人口が多い方である。今後、日本でも都市への人口集中はもっと進行するだろう。 学校の統廃合は自治体合併などの影響であり、政策上の問題である。人口が減ることが直ちに学校の廃校を意味するわけではない。人口が減らなくても、学校を統廃合することがある。 私が住んでいる地域は人口減少地域であるが、そのことで支障を感じることはない。都会に較べれば不便さはあるが、それは人口が減ったからではなく、もともと、ここが都会ではないことの結果である。田舎は、都会ではないから田舎なのだ。田舎は、都会の真似をする必要はない。 しばしば、地域を活性化させるとか地域振興という言葉を何かのひとつ覚えのように使うが、田舎に住むだけであれば、地域振興は不要である。地域で商売や事業をする人には、イベントをすれば一時的に売り上げが生じるだけで、無駄な税金の支出であることが多い。多くの過疎地で工業団地を造成したが、だいたい失敗した。田舎の自治体は税収が少ないが、それにもかかわらず無駄な税金の支出が多い。人口を増やすために無駄な税金支出をしている。人口減少を前提とする政策が必要である。 自治体は住民が減れば税収が減り自治体を維持することが難しいと考えるが、事務組合などによって事務負担を減らす工夫が必要だろう。ヨーロッパではそのようにしており、それで人口500人くらいの村がなりたつのだろう。日本の役所、学校、企業、裁判所などであまりにも無駄な会議、会議、手続きが多く、社会のあらゆる場面で効率が悪い。日本は、知恵を使わずに、時間はタダという考え方、情緒的な精神力、長時間労働でものごとを処理する傾向がある。 2018年3月4日 比婆山山スキー 今年も、比婆山(1264メートル)をスキーを履いて、5時間、歩き、滑降した。冬は道がないのがよい。比婆山はなだらかな樹林の山であり、雪崩の危険がなく、崖や滝がないので、どこでも登り、滑降できる。比婆山の登山口までは、家から車で1時間30分かかり、そんなに近くない。家の「裏山」ほど気楽に行けない。 2018年3月2日 「登山者のための法律入門」 (山と渓谷社)を書いた後のホンネ 書いた本人が言うのもヘンだが、予想以上に売れているようだ。喜ばしいことだ。 内容については、可能な限り、調べ、考えたうえで書いたが、もしかしたら、間違ったところや、不十分なところがあるのではないかという不安がある。なにしろ、書物や論文が非常に少ない問題ばかりを扱っているので、「他人の書いたものを読んでそれをまとめればよい」だけの箇所もあるが、自分で調べて考えなければ書けなかった部分が多いからである。もし、不十分な箇所があれば、「ゴメンナサイ」と言うほかない。完璧さをめざせば、死ぬまで本や論文は書けない。 この本を書いた後で、「不十分さ」に気づいた箇所がある。イギリスでは、法律でフットパスを利用する権利が認められていると書いたが(41頁)、イギリスでは2000年に制定された法律(the Countryside and RIght of Way Act)により、フットパス以外の山や原野でもアクセスの権利が認められた。ちょうどこの本の最終校正段階で、イギリスの2000年法に関する本を読んでいる最中だったので、それを本に反映させることができなかった。ただし、本の2刷ではこの点を修正した。平日は弁護士業務に追われ、毎朝、午前3、4時に起きて本を書くが、1日に4時間くらいしか研究時間がとれない。日曜日、盆、正月しかまとまった時間がとれず、何をするにしても時間がない。イギリスでは、標高600メートル以上の山はフットパスでなくてもすべて自由なアクセスが可能な土地(Access land)とされている(文献としては、 Right of Way, 3rd edition,John Riddall,JohnTrevelyan,Open Spaces Society and Rambelers' Association,2001。4th edition,2007もあるが、これは本の値段が1万円くらいするので買わなかった)。600メートル以上の場所でも耕作地は除外される。標高600メートルというのは、高山の少ないイギリスのことであって、日本に移し替えれば標高1500メートルくらいのイメージになるだろうか。イギリスの2000年法は、北欧の万民利用権と並んで画期的なことなのだが、日本では関心を持つ人が少ない。 この本で書きたかったこと 憲法、法の支配、民主主義、人間の主体性と自立性、自然は「こうすれば、ああなる」ものではないこと、リスクマネジメント、日本の常識は世界の非常識、当たり前のことを深く考えることの重要性など・・・・・・ただし、これらを正面から書くと難しい本になるのでちょっとほのめかす程度にしか書いていない。 2018年3月1日 国民総リストラ時代 他人をリストラすれば、やがて自分もリストラされる。銀行、コンビニ、企業の競争を歓迎する世論は、自分がリストラされ、淘汰されることを是認している。サービスの低価格を歓迎する者は、自分の給料の低価格化に協力している。大学の数が増えることを歓迎する人は、自分や自分の子供の大学卒の資格の地位を一生懸命に低下させている。 誰でも皆同じという横並びを歓迎する日本の文化は、現実に存在する格差を隠蔽する。国民総リストラは、野放しの自由競争をもたらし、能力のある者が勝ち組になる。現実の人間には、能力、性格、個性の違いなどの生物的格差と経済的格差があり、誰もが同じスタートラインで競争できるわけではない。格差は、経済的格差だけが指摘されがちだが、生物的格差が経済的格差をもたらしている。 誰もが幸福になるためには、もっと知恵を使い、賢明な社会のシステムを作ることが必要。北欧などは比較的賢明なシステムを作っている。ノルウェイでは国民の90パーセントが登山をするらしい。小さい頃から自然に親しむことが国民の自立的な判断力を養い、民主政を支えている。それが賢明な社会のシステムにつながっているのではないか。 野放しの自由競争では、能力のある者、超人的な努力のできる者、運のよい者(莫大な親の財産があるとか)だけが勝つことになる。「がんばれば、幸せになれる」は、「がんばって競争に勝ったものだけが幸せになれる」ことを意味するが、競争に勝って得る幸福はそれほど中身のあるものではない。 2018年2月25日 裏山登山 最近、日曜日の午後などに、運動がてら家の裏山の藪の中を2時間程度歩くことがある。家の裏に藪があり、そこを20分登ると標高300メートル程度の山の稜線に出る。そこには踏み跡がある。そこからさらに道なき藪の中を歩いて谷を越え、隣の尾根に登ると登山道らしきものに出会う。しかし、その道も途中で消える。 家から600メートル歩けば、向かい側に山があり、そこでも道のない藪の中を歩き回ることがある。突然、写真のような赤いテープが出てきて驚く。どこにでも、こんな山の中を歩く物好きがいるものだ。これほど金をかけずに健康的な「遊び」はないが、なぜか、このようなことをする人は多くない。まあ、人は人。蓼食う虫も好き好きだが。 地図を見ながら地形を探ると興味が尽きない。道のない藪を歩くつもりになれば、山が面になり、世界が広がる。道は線に過ぎない。山の面を歩くことで登山の世界が広がる。多くの人は、面の中の線(道のこと)と点(街のこと)の中で生きている。面を知らなければ、点と線の狭さがわからない。世界を知らなければ、日本の狭さがわからない。ものごとの選択も、点や線ではなく、面で考えれば世界が広がる。 山の中に突然、昔の生活路の跡を見つけることがある。かつては、集落と集落を結ぶ交易路は山を越えてつながっていた。人間が住む場所である限り、山を越えなければ生活できず、人々は一日に何十キロも歩いていた。現在のブータンの農村のように。 山の中に家の廃墟跡や炭焼きの跡、石垣、割れた食器などが現れることがある。こんな場所でも、家族が生活し、子供たちが遊んでいたのかと想像力を刺激する。木登りや野鳥の捕獲が子供の遊びだったかもしれない。人間のたくましい生きる意欲が山の中をも生活の糧の対象にさせていたのだ。1万年前、この地域はどんな地形だったのだろうかなどと想像することは、楽しい。山の中を歩き回るには冬がよい。雪が積もれば踏み跡が完全に消え、景観が一変するので、未知の山を体験できる。金を使うことはないが、知恵を使わなければ登れない点がよい。登山道を歩く登山は、ただ道をたどるだけで考える必要がないので、つまらない。 道のない藪の中を歩き回るうえで、GPSは便利だが、これはあくまで非常用だ。GPSの指示通りに歩くだけでは、整備された登山道を歩くのと同じく、頭を使わないのでつまらない。地図と磁石で現在地を確認したうえでGPSを見ると、「自分の判断が合っているかどうか」という一人クイズになり、けっこう楽しめる。中高年の山の中での密やかなクイズ遊び。 2018年2月10日 アインシュタインのもたらしたもの・・・・ものごとの相対性 アインシュタインは、重力によって時空がゆがむと言う。時間、速度、空間などは、何かを基準にして初めて測定できる。しかし、地球、太陽系、宇宙などの万物が動いていれば、測定する基準は固定されていない。宇宙自体が急速に拡大している。基準点自体が動いており、固定されたものは何もない。万物は相対的である。 人間は、何かを基準に判断することに慣れてしまっている。それが固定的な発想をもたらす。習慣、常識、法律、マニュアル、知識など。自由自体が、「〇〇からの自由」であり、起点になるものが存在する。まったく制約がなければ自由の観念は不要である。宇宙空間では自由の観念が無意味になる。 誰でもものごとに始まりがあると考えるが、宇宙に始まりはないのかもしれない。そんなバカな!と思われるが、始まりを探す過程は無限に続く。「始まりがない」とか「無限に続く」ことを理解できないのは、人間の思考が枠にはまっているからだろう。裁判では、法律家の思考が枠にはまっていることを感じることが多く、それが冤罪をもたらす。 収入、能力、美醜、善悪、幸福などについても何を基準に判断している。かつてのブータン語に幸福の観念がなかったのは、幸福かどうかを判断する基準が存在しなかったからではなかろうか。すべての人が幸福感を持っていれば、幸福の観念は不要である。万物が相対的であれば、常識や習慣にとらわれるべきではないことになる。万物を相対的に考える人は、今の社会では生きにくい。しかし、それが、第2、第3のアインシュタインを生むのではなかろうか。 2018年2月9日 芸能人の大学受験をネタにしたテレビの視聴率稼ぎと日本の不謹慎文化 最近この種のテレビ番組が増えている。 かりに大学に受かっても大学に入って真面目に勉強をするとは思えない。もし、本当に大学にはいるつもりがあるのであれば、芸能人をやめることになる。かれらは芸能人をやめるつもりがあるのか。芸能人の春日は、大学でまじめに勉強をするつもりがあれば、複数の大学を受験すべきだろう。まじめに大学で学ぶつもりがあれば、大学はどこでもよいはずだ。そのようなまともな芸能人がいないわけではない。春日も、複数の大学を受験すれば、どこかの大学には受かるはずだ。学ぶつもりがあれば、そこで真面目に勉強をすればよいのではないか。大学には巨額の税金が使われており、それはまともな学生のために使うべきである。 多くの受験生が有名大学をめざすのは、卒業後の就職を考えるからである。芸能人たちは、大学卒業後の就職を考えているわけではない。仮に大学に受かっても、すぐに大学を中退するだろう。芸能活動と両立させようとすれば、通信制の大学でもよいはずである。大学で勉強をするつもりがなく、合格という結果だけをネタに視聴率かせぎをしているのだろう。芸能人の大学受験をネタにしたテレビの視聴率稼ぎは不謹慎である。 日本では、この種の「ヒヤカシ番組」、「悪ノリ番組」は多いが、テレビの視聴率に支えられている。テレビを見る国民がこの類の番組を支えている。テレビ放送の表現の自由は国民の賢明な自律性が前提であり、それがなければ社会は発展しない。日本のテレビ文化の責任は大きい。 2018年1月27日 エレベーター事故無罪判決とトムラウシ事故の刑事責任 2006年のエレベーター事故について、シンドラー社の元課長に対し、東京高裁が無罪の判決を出した。消費者事件を扱う弁護士や消費者団体は有罪判決を歓迎するが、弁護士会の弁護刑事センターは、無罪判決を弁護士の「成果」とする傾向がある。点検作業を行った従業員については、既に有罪の判決が出ている。事故の予見可能性が争点だったようである。一般に、管理職は、直接、点検作業を行うわけではないので、作業員が点検ミスを犯した場合にそのミスについて管理職が事故について予見することは難しい。 しかし、最近、管理職の刑事責任を問うケースが増えている。尼崎のJR事故では社長などの刑事責任が問われ無罪になった。現在、福島原発事故で東電の幹部の刑事責任が問われてる。倉ケ城での歩道事故では観光課長の刑事責任が不起訴になった。トムラウシの事故では、社長の刑事責任が問われている(書送検中)。最近、事故が起きれば関係者のすべての刑事責任が問われる傾向がある。従業員が勤務中に交通事故を起こせば、社長が刑事責任を問われかねない。登山中に事故が起きれば刑事責任を問われかねない。しかし、積丹岳の事故で救助隊員の刑事責任がとわれるわけではないので、刑事責任を問題にするかどうかは、理屈の問題というよりは情緒的な問題である。 ミスについて厳しく刑事責任を問う傾向のもとで、日本の社会はますます萎縮するようである。人間のミスについてどこまで刑事責任を問うかは、社会のあり方の問題であって理屈の問題ではない。 2018年1月24日 草津白根山の噴火について 草津白根山が噴火して多数の死傷者が出た。噴火事故は自然災害とされているが、スキー中の事故であり、アウトドア活動中の事故でもある。噴火の予知は困難であり、噴火時に逃げることは難しい。噴火事故を避けるためには火山近づかないことしかない。火山は噴火する可能性があり、火山の傍のスキー場は危険なのだが、日本では火山が多いために火山の危険性に対する感性が麻痺してしまっているのだろう。 ところで、活火山特別措置法は、登山者等に火山に関する情報収集義務を課しているが、登山者「等」に、スキーヤーや自衛隊員、ゴンドラで山頂に向かう者も含まれる。御嶽山の事故は被災者が登山者だったが、今回は違う。自然災害に関して国民にこのような義務を課すのはおかしい。先進国では珍しい。 御嶽山では、一定のエリアに入る登山者や観光客は届け出の提出が義務づけられ、罰則があるが、白根山でもそのような動きが出るだろうか。スキー客や自衛隊員に入山届の提出を義務づけるのはナンセンスであるが、白根山にスキーで登る者は規制せず、白根山に歩いて登る登山者だけを規制対象とするのはおかしい。 2018年1月18日 「はれのひ」倒産について 企業倒産自体は予想されるリスクだが、問題は、この会社はもっと早い段階で倒産しているはずだったのであり、倒産が遅れたことが大きな被害をもたらした点にある。この会社は、かなり前から従業員への賃金不払いがあった。労基署は賃金支払いを勧告できるほか、刑罰の適用も可能だった。もっと早い段階で刑罰を科されていれば、この会社はもっと早い段階で倒産していただろう。あるいは、税金不払いについて役所が差し押さえをすれば、倒産が早まる。 多くの破産管財事件を扱ったが、企業が、「倒産すべき時」に倒産せず、長々と存続したために、負債額が拡大し多くの関係者に被害を拡大させるケースが非常に多いことを感じている。私は、かつて、詐欺的な会社に関して、債権者申し立てで強制的に破産させたことがあるが、それは債権者にとって大変なので(裁判所に250万円の予納金を納付した)、簡単な方法は賃金不払いについて刑罰を科すことである。あるいは、旅行業者のケースでは、役所が旅行業協会への保証金の差し押えをすれば簡単に倒産に追い込むことができる。取引口座の差し押さえも同じ。しかし、労基署は賃金不払いで刑罰を科すことを躊躇し、役所もなかなか差し押さえをしない。税務署などは個人の税金未払いのケースでは簡単に差し押さえをするのだが・・・・・役所は、弱い者には強い姿勢で臨む。 一泊15万円のキャンプ場が現れたそうな ホテル並みに豪華なキャンプ場では、法的な管理責任もホテル並みに生じる。街中のホテルでは、不審者対策がしやすいが、自然の中ではそれがしにくい。キャンプ場の警備が大変だろう。最近は、無差別殺傷事件などが多いので安全管理が大変だろう。格差社会では、富裕層が無差別殺傷事件の標的になりやすい。外国ではキャンプ場で銃の乱射事件が起きている。キャンプ大国アメリカではキャンプ場での犯罪が多いらしい。 キャンプ場に高価な品物を持ち込むと、犯罪を誘発するのではないか。キャンプ場で窃盗や強盗が少ないのは、「山では善人が多い」からではなく、キャンプ場に金目のものが少ないからである。しようと思えばキャンプ場での窃盗や強盗は簡単である。 キャンプは、金をかけず、文明の利器を使用しないからこそ、「自然」を経験できると思うのだが。キャンプは原始的であればあるほど、楽しめる。 2018年1月6日 今後の登山の動向の予測 ・今後、山歩き、ハイキング人口が増えるだろ。 ・人工壁、ゲレンデのクライミング人口が増えるだろう。ボルダリング人気が高くなる。 ・山麓の岩場での住民トラブルが増えるだろう。岩場の使用禁止問題がもっと深刻化するだろう。 ・アルパインクライミング人口は横ばい。 ・やさしい雪山の山歩き人口は増えるだろう。 ・沢登り人口は横ばい。レジャーとしてのキャニオニング人口は増えるだろう。 ・登山の商業化が進むだろう。 ・単独登山が増え、事故が増えるだろう。 ・登山道の遊歩道化が進み、一部の山小屋は高級志向になるのではないか。山小屋のスイートルームとか、山小屋でコース料理を出すとか。 ・100名山ブームは相変わらず続くが、それにとってかわるブームが起きるかもしれない。 ・国民のアウトドア志向が強まり、登山道、キャンプ場の混雑がひどくなるだろう。 ・講習会人気が高まるだろう。多様な形態の講習会。 ・ツアー登山は根強い人気があるだろう。ツア−登山の多様化。たとえば、講習会を兼ねたツアー登山、植物観察のツアー登山、星を学ぶツアー登山、など。自治体主催の婚活ハイキングなどはどうか。昔、学生の「合ハイ」という言葉があったが。 ・登山に対する行政の規制が強まるだろうが、事故は増える。制限すれば事故が減るというものではない。ただし、制限によって登山人口が減れば、当たり前だが事故も減る。高齢者の運転を制限げすれば、高齢者の事故が減るのと同じ。 ・登山道をめぐるトラブルが増え、自治体の登山道の管理が今よりは若干、進むだろう。 |
「登山の法律学」、溝手康史、東京新聞出版局、2007年、定価1700円、電子書籍あり
「山岳事故の責任 登山の指針と紛争予防のために」、溝手康史、2015
発行所 ブイツーソリューション
発売元 星雲社
ページ数90頁
定価 1100円+税
「真の自己実現をめざして 仕事や成果にとらわれない自己実現の道」、2014
発行所 ブイツーソリューション
発売元 星雲社
ページ数226頁
定価 700円+税
「登山者ための法律入門 山の法的トラブルを回避する 加害者・被害者にならないために」、溝手康史、2018
山と渓谷社
230頁
972円