2018年    溝手康史





2018年12月22日
ゴーンの再逮捕
 
裁判所がゴーンの保釈を認めようとしたことに対し、検察が再度逮捕という手段で対抗した。 
 日本の裁判所は被告人が否認している場合にはなかなか保釈を認めない。自白すれば保釈を認めることが多い。しかし、裁判所は国際的な批判を気にして、ゴーンについて勾留を制限しようとした。これに対し、検察が「欧米人を特別扱いするのは公平ではない」と考えたのだろう。日本人は否認すればみな長期勾留されている。
 再逮捕すれば、裁判所が簡単に勾留が認められる。最大20日間の勾留期間が過ぎれば保釈が認められる可能性がある。
 逮捕容疑を小出しにして勾留を長引かせることを法律で制限する必要がある。逮捕してから捜査する方法を制限しなければならない。逮捕する前に捜査すべきである。勾留してから捜査、というのでは自白を強要することにつながりやすい。
 特別背任の証拠があるのであれば、最初から特別背任で逮捕すべきである。虚偽記載で逮捕したのは、特別背任の証拠が足りないと考えたからだろう。
 欧米では、捜査した後に逮捕するという考え方が主流である。そこでは自白を重視しない。これに対し、日本では、逮捕して身柄を拘束してから捜査するという手法・・・・自白させる・・・を重視する。日本では、逮捕・・・勾留・・・自白・・・・が捜査の主流である。これが冤罪をもたらしている。



2018年12月12日
大学入試の差別的扱い・・・・・自由競争に基づく採用の自由を法律で規制すべきである
 大
学医学部入試での差別的扱いが問題になっている。
 これは医学部だけの問題ではない。かつて、ある私大歯学部では教授の子供をコネ入学させていた。おそらく現在も同じだろう。どの学部でも不公平な扱いをしているだろう。文学部哲学科などでの不公平な扱いは問題になりにくいが、医学部では問題になりやすい。それは、医者が金の稼げる職種だからだ。そこでは、金が関係している。
 推薦入学も公平とはいえない。成績がよくないのに、スポーツ推薦で入学するのはおかしい。スポーツの成の成績がなぜ学力試験のかわりになるのか。スポーツで活躍した人が医学部に推薦入学できるのか。スポーツで活躍した人が法学部に推薦入学できるのか。スポーツと法律の勉強の関係如何。人柄で推薦入学はありうるか。寄付金の額による推薦入学はどうか。芸能人の推薦入学はどうか。
 大学と国は、これを医学部固有の問題にとどめたいだろうが、自由競争という資本主義経済の根幹にかかわる問題がある。
 本来、大学入試は公平であるべきだ。オランダでは医学部は抽選で合否が決まるが、これは非常に公平である。抽選で合否を決めれば、受験競争がなくなる。オランダでは推薦入学などないだろう。しかし、日本では入試での不公平な扱いが法的に禁止されていない。誰を入学させるかは大学の自由であり、差別的な扱いをしてもよほど不合理なものでなければ違法ではない。これが禁止されていると勘違いしている国民が多い。差別的な扱いが発覚すると、国がそれを批判するが、法的な拘束力がない。それをいかにも禁止されているかのようなフリをするのは政治的なパフォーマンスだ。不公平な扱いが禁止されていないので、多くのの大学が不公平な扱いを行っている。
 どこの私大でもコネ入学がある。大学理事長の親族は入学しやすい。推薦入学や一発芸入学などの差別的扱いがある。有名な芸能人は高校や大学に入学しやすい。どこの企業でもコネ採用がある。コネの重視は発展途上国では一般的にみられる。それと同様に日本の社会は不公平なことだらけなのだが、それを知らない国民が多い。国民は騙されている。

 大学や企業には採用の自由があり、法律上、誰を採用するかは自由である。性別による差別は不合理なものとして違法だが、年齢や受験回数、学歴、能力、資質、人格、意欲の有無、資格の有無、体格による差別は違法とはされないだろう。大学入試で回数制限をしても違法ではない。コネ入学は違法ではない。年齢を理由に不合格にした国立大学医学部がある。裁判所はこれを大学に裁量があり、合法だとした。司法研修所では、所長が長官経験者の司法修習生を特別扱いをして卒業試験で合格にしたケースがあるそうだ(「絶望の裁判所」)。大学理事長の子弟を合格させること。これらは情実による特別扱いである。大学が現役生に加点をしても、それを公表すれば、制度としてありうる。かつて司法試験でも受験回数によって加点をしていた。地域的な扱いで差別することはしばしば行われている。たとえば、自治体主催の法律相談の対象者は自治体居住者に限るとか、自治体が地元出身者だけを採用することが行われている。採用に年齢制限や学歴による差別がある。コネ採用も多い。知識よりも「地頭」のよさを重視する企業は、採用試験の成績に関係なく学生を採用する。
 自由競争の社会では誰を採用するかは自由、というのが原則である。私立大学や福祉施設も私企業であり、誰を採用するかは自由である。大学の創設者の一族を入学させることは多い。自分が作った大学に誰を入れるかは自由だというわけだ。それは、自分が作った会社に誰を入れるかは自由だという考え方と同じである。しかし、その自由を法律で制限することは可能だ。それに対し企業経営者が反対するだろう。                                                問題は、差別的扱いを公表していない点にある。現在の大学入試や企業の採用は平等ではないのだが、それを公表していない点に問題がある。そのため、それが公平に行われていると勘違いしている国民が多い。欧米では、入試でその大学出身者の師弟を優遇することを公表している大学がある。欧米では大学の差別的扱いを公表することが多い。
 日本で、なぜ、公表しないのか。それは平等であることを求める世論からの批判を避けるためだ。市場経済下では採用の自由の結果、採用が平等ではないことを国民は理解する必要がある。
 さらに、不公正な入試が法律で禁止されていないという問題がある。これを禁止されていると勘違いする人が多い。憲法上の平等原則があるが、憲法は私人間に直接適用されないというのが通説である。また、不合理な差別が違法になるだけであり、合理的かどうかを裁判で争う人はほとんどいない。前記の通り年齢による差別を合法とした裁判例がある。したがって、採用の自由を規制する法律がなければ、現実に不公平な扱いが行われてしまう。コネ入学を禁止する法律がなければ、コネ入学が行われる。それをあいまいな行政指導で対処している現在の状況に問題がある。法律上、差別を野放しにしておいて、世論が差別を非難するだけでは、問題を解決できない。  
 法律による採用の自由の詳細な規制が必要である。なぜ、法律で規制しないのかと言えば、その方が大学や企業にとって都合がよいからである。日本ではあいまいな行政指導が好まれる。国も採用の自由に基づいて都合のよい人間を雇用する。財務省や経済産業省になぜ女性職員が少ないのかといえば、採用の自由があるからである。学校の校長に男性が多いのは、男性を優先して校長に採用しているからである。女性の地裁所長が少ないのも採用の自由による。採用の自由は、組織を管理する側にとって人事を統制するうえで手放せない武器だ。法律ではなく、行政指導で問題を解決しようとするのが日本のやり方だが、行政指導は強制力がない。行政指導では、それに従う者が損をする。
 このような手続きのあいまいさは日本における法の支配の欠如を示している。
これは、本来、法律で明確に規制をし、合否基準の情報公開を義務づければ簡単に実現できることだが、なぜか、日本では簡単ではない・・・・・。


入管法改正
 人手不足が言われているが、給料が高ければ日本人が殺到する。人手不足なら、賃金を上げるのが自由競争。安い賃金で働く人がいないので、外国人に安い賃金で働かせようということ。最低賃金以下の時給600円で外国人研修生を雇用していたある事業主は、「うちはこの給料でなければやっていけない。この給料では日本人は誰も来ない」と言っていた。日本でも、いずれは、「外国人が日本人の雇用を奪う」という不満が生まれるだろう。

水道事業の民営化
 公営で赤字の事業を民営化すれば、料金が上がるのは当たり前。都会は料金が下がり、田舎は料金があがる。都会と田舎の格差がそのまま反映するだろう。
 私が住んでいる安芸高田市は、2人家族で上下水道料金が月に15000円くらいだが、これは広島市に較べてかなり高い。これがさらに上がるのだろう。ゴミの料金や保育料、健康保険料も高い。これでは田舎に人が来ないのも当たり前。行政は、無駄な職員を抱え無駄な残業が多く残業代に無駄な税金を使っている。

教員の残業を月に45時間までに制限するらしい・・・・
 教員は通常、月に100時間くらい残業をしている。通勤時間15分でも、朝7時半に家を出て、夜9時半に帰宅する・・・・・これが当たり前。それよりマシか・・・・。45時間の残業は当たり前ということ。45時間は義務化。それを指導する教育委員会や文科省の職員は残業ただ働きが当たり前・・・・日本では、仕事を増やす一方で、残業を制限しようとするので破綻する。
残業を制限するためには、当たり前だが、仕事を減らすことが必要だ。

弁護士2人が弁護士法違反で起訴
 名義貸し債務整理をしたとのこと。これはよくあるケースで、氷山の一角。仲介業者に登録している弁護士はたくさんいる。
 弁護士は事件を紹介してくれるコネに依存する。そのコネの中に業者がる。企業の顧問弁護士は顧問先から事件を紹介してもらい、顧問先企業の従業員が弁護士名で文書を作成している。


韓国での徴用工判決

 
日本と韓国の間の条約は有効だが、個人が有する損害賠償請求権を国が個人に替わって放棄することはできない。国と個人は法主体が異なるので、国が放棄しても個人が放棄したことにはならない。個人と団体を混同する人は多い。以前、「自治体が市民団体に団体加盟しているのだから、住民が加盟しているのと同じではないか」と述べ、住民が加入する必要性をどうしても理解できない人がいた。個人を団体の一部だと考える発想。個人が自立していない団体や国ではこのようなことが起きる。

貴ノ岩の暴力問題
 どこの組織でも暴力は多い。暴力は違法である。しかし・・・・教育現場などでは、どこまでの暴力が違法なのかなどが真面目に議論されている。ナンセンス。裁判でも、判決で「妻が別居しようとしたので、それを阻止するために夫が殴っても違法とは言えない」と述べた裁判官がいた。唖然として、議論をする気にもなれない。日本の裁判官のレベル。
 他方、問題は、それがマスコミにバレたら引退までさせられるという処分の大きさだ。バランスの問題。暴力は違法だが、謝罪して損害賠償をすればすむ問題。引退までする必要はない。行為に対して制裁が重すぎるのだ。この調子でいけば、プロ野球でも先輩が後輩を殴れば、即、引退か? 教師が生徒に軽い暴力を振るっても、世論から叩かれれば懲戒免職。公務員が酒気帯び運転をすれば、即、クビになるのも同じ。盗撮などに対する非難も同じ。今では観光地で女性を景観と一緒に無断撮影すれば逮捕される。満員電車で痴漢と間違えられれば、マスコミから叩かれ、仕事を失い、何か月も留置場で暮らさなければならない。満員電車は避けること。日本は世論に基づく厳罰国家。世論が恐い。弁護士は、世論から叩かれれば、簡単に引退に追い込まれるだろう。
 日本で暮らすことは恐い。できるだけ「お上」に逆らわないようにして目立たないように、言いたいことを言わず、ムラ社会の世間に逆らわず、江戸時代の百姓のように暮らさなければならない。江戸時代のムラ社会の世間が現在の世論だ。日本の社会全体がひとつの巨大なムラ社会である。恐怖政治と思考停止。
 世の中がマスコミが扇動する情緒的な世論に洗脳されている。このような情緒的な社会では戦争が起きやすい。「英米の横暴を許すな」と煽り立てたのは当時の日本国民である。



2018年12月1〜2日
安全登山サテライトセミナー(大阪市)
 
主催 国立登山研修所 


 12/1 「登山指導者の法的責任」
  高校の山岳部顧問、小中学校の野外ハイキングの引率教師、ボランティア活動のリーダー、インストラクター、 山岳ガイドなどの法的責任の内容とそれへの対処方法について話した。参加者約180人。


2018年11月25日
カルロス・ゴーン逮捕

・この不正がルノーではなく日産で行われたということは、フランスではできず日本ではできたことを意味する。日本企業は不正を行いやすいということなのだろう。
・日本では高額な役員報酬は欧米よりも世論から非難を受けやすい。自由競争のもとでは際限のない格差が広がる。
・日本の刑事手続と代用監獄の問題性が欧米に知られるだろう。否認していれば、釈放しない。罪を認めれば、保釈が認められる。日本の常識は欧米では非常識。アジアでは当たり前だが。裁判に5年はかかる。
・政治的な判断に基づく逮捕。
・ゴーンの代理人弁護士、日産の顧問弁護士、ルノーの顧問弁護士、株主の代理人弁護士などが関わるが、いずれにしても弁護士費用は何百万円単位だろう。日産の下請企業の弁護士も倒産事件が増え、仕事が増えるだろう。



2018年11月24日
京都・北山、峰床山

 京都北山は山麓は林業用の道が多く、間違えやすい。山麓の標識も少ない。植林地を抜ければ、標識が整備されている。植林地では土地所有者の同意がなければ勝ってに標識を設置しにくいのだろう。植林地では山の所有者は、自分の山に無断で登山者が入ることを歓迎しない。これは、イギリスのフットパスの歴史と同じ構図だ。イギリスでは野山をハイキングことに対し土地所有者が土地所有権に基づいて妨害した。そこで、ハイカーは歩く権利を法律で認めるように運動をし、法制化された。今では、600メートル以上の土地の自由利用の原則が法制化されている(2000年法)

          


2018年11月19日
「消えた天才」というテレビ番組の問題性

・「消えた」かどうかはテレビ局の独断である。地方でスポーツ指導者として活躍している場合は、「消えた」とみなされる。東京でスポーツ指導者をしている場合には「消えた」とはみなされない。マスコミに再三登場する人は引退しても「消えた」とはみなされない。「消えた」とみなされる人は不愉快なことだ。
・「消えた」という言葉で価値判断がなされている。オリンピックでメダルをとって引退した人は、「消えた」とはみなされない。プロ野球で活躍して引退した人は、「消えた」とされない。
・「天才」という言葉の使い方が間違っている。通常、すぐれた業績を残していない人に天才という言葉は使用できないが、この番組では、「素質がある」=天才と表現している。テレビの影響は大きいので、このような使い方をしていると日本語の意味が変わってしまうのではないか。アイドル歌手を「アーティスト」と呼ぶようなものである。素質がありながらそれを開花できなかった人や転身した人は世に中に無数にいる。すぐれた研究者や芸術家になったと思われる人で経済的な理由からサラリーマンになった人は多い。それを取りあげだしたら世の中が天才だらけになってしまうだろう。才能を開花させることだけが人生ではない。多様な生き方がある。才能を開花させたが一生貧乏暮らしをするか、才能を開花させることなくサラリーマンとして経済的に安定した生活を送るか。画家のゴッホは死ぬまでの間に売れた絵は一枚もない。ルソーは天才的な業績を残したが、生涯、貧乏だった。本人が幸福であればそれでよいのはないか。
・多様な視点でものごとや人間を考えるのではなく、マスコミから与えられる価値基準で判断してしまう悪影響がある。スポーツはメダルがすべて、プロ野球の選手になれば「成功」、そうでなければ「失敗」、マスコミに登場すれば「成功」、マスコミから離れれば「消えた」、金を儲ければ「成功」、地方で活躍し、大きな業績を上げていても金儲けにつながっていない人はマスコミ文化の対象外。日本特有のバラエティ文化は文化の貧困化をもたらす。
・短い言葉で視聴者に価値観を刷り込む「キャッチコピー」
文化は、ものごとを深く考えない人間を生み出す。それはヒトラーの手法と同じ。ここでは、「消えた」、「天才」という印象的な言葉が思考を停止させる。それは非常に恐い。これはすべて視聴率を稼ぐためである。利益優先の文化は国民を無能化する。今の社会ではマスメディアの影響が大きく、多くの国民がそれに洗脳されやすい。ヒトラーがやったようなことをテレビ局は簡単に行うことが可能だ。


2018年11月17日
「世界の果てまで行ってQ」のヤラセ問題

 実際に行われていない祭りを、「祭りがある」と言えば、騙したことになる。
 テレビ、映画、小説ではフィクションは多い。NHKの朝ドラでは、細部に実際になかった逸話を入れてノンフィクション風のストーリーにしている。新田次郎は「小説だから嘘を書いてもよいのだ」と述べた。
新田次郎のモデル小説にはフィクションが多いが、それを本当らしく見せかけている。そのため遺族との間でトラブルになったこともある。NHKの朝ドラで、「これはすべて実話です」と言えば、嘘を言ったことになる。しかし、視聴者の多くはNHKの朝ドラを実話だと考えている。

 もともとテレビ
の世界はフィクションが多いが、それをフィクションとして放送すれば何も問題はない。しかし、視聴率をあげようとして「本当らしく見せる」ことが多い。たとえば、旅行中にたまたまであった人が現地の著名人だったという場面が旅行番組で放送されるが、事前にその人に連絡して待ち合わせをしていることが多い。世界の僻地にいる
日本人を訪ねる番組では、出演者がその日本人捜しに苦労するが、テレビ局のスタッフは事前にその日本人の住所、電話番号を知っているはずだ。その日本人に簡単に会うと番組として視聴率が上がらないので、わざと日本人人捜しに苦労する場面を演出する。

 視聴者はそれをわかったうえで、フィクション的なノンフクションを楽しむ必要がある。すべてノンフクションだと考えると騙される。「世界の果てまで行ってQ」は半分はヤラセだと考えておいた方がよい。ほとんどのバラエティ番組はノンフィクションを装ったヤラセが多い。テレビコマーシャルも半分は誇大広告だと考えておかないと、騙されて簡単に買い物をしてしまう。誇大広告を野放しにする日本の法律に問題がある。特に子供への悪影響が大きい。
 日本全体が詐欺文化で成り立っている。裁判すらも虚構の世界になっている。カフカは、「審判」の中で裁判はすべて「作り事」だと述べている。振り込め詐欺などが多いのは、日本人が小さいころから騙されることに慣れてしまっているからだ。戦争中も日本人は簡単に騙された。ドイツ人は戦後、その点を真剣に反省したが、日本人はまったく懲りていないようだ。そのため、今でも日本では政治に騙される人が多い。管理する側としては、国民が騙されやすい方が都合がよいが。



2018年11月12日
「幸せのマニフェスト」(ステファーノ・バルトリーニ、コモンズ、2018)を読む

 従来の経済学は、合理的経済人を前提に利益やストレスによって動く人間を想定していた。しかし、これは現実の人間ではない。著者は、現実の人間を前提に人間の内発的動機付けや「関係性」を重視し、それが幸福とかかわると述べる。この本では、現実の人間の把握のために人間科学の研究成果と知識が駆使され、経済の本というよりも人間科学の本の印象がある。時間、余暇、労働、自由、幸福、教育、生活、住居、都市空間などと人間の関係を考えさせられる。
 日本の法律の世界でも、合理的な人間像を前提に裁判がなされるが、それは現実の人間ではない。そのため裁判所特有の非科学的な経験則が当たり前のように使用され、現実の人間を無視した判決が量産されている。人間行動を法律の視点だけから考えるだけでは人間行動を理解できない。現在の裁判は、「判断が科学的であるかどうかは問題でなく、とにかく裁判所独自の方法で紛争を処理すればよい」という状況である。法律の世界に多角的な人間科学の成果が取り入れられるには、まだ数十年かかりそうだ。

 
著者はこの本で人間が幸福になるための文化の構築をめざしている。本の内容は、経済、社会、政治、心理、教育、文化、哲学など多面にわたり、細分化された現在の学問ではとらえきれない広範さがある。時間、余暇、労働、自由、幸福、教育、生活、住居、都市空間などと人間の関係を考えさせられる。
 市場経済、競争社会がもたらす消費社会の弊害と幸福度について、アメリカとヨーロッパの比較がなされている。
 


2018年11月10日
講演「山岳事故の法的責任 登山界の動きと背景」 大阪府スポーツ指導者研修会(大阪市)
 時間:大阪府スポーツ指導者研修会 13時30分〜
     講演 14時30分〜
 場所:大阪科学技術センター

 
 登山講習会のあり方を中心に話をした。自著を30冊持って行き(けっこう重かった)、完売。


2018年11月9日
日米野球の采配
 
日本とMLBの試合で、日本がサヨナラ勝をした。投手を岡田に代えた時、私は、「これは負ける」と思った。ストレート一辺倒の岡田はホームランを打たれやすいからだ。日本シリーズでストレート一辺倒の投球でも3ランを打たれて負けている。岡田は予想通り2ランを打たれた。
 しかし、その後で不振の4番に代打を出した点は感心した。これは勝つための戦術だ。結果がどうなるかは運不運があるが、調子のよい者を使うという考え方は大切だ。現実を無視し、メンツやタテマエにこだわれば失敗する。
 タテマエや前例、常識にとらわれることなく現実を直視することの重要性は、あらゆることに当てはまる。これは当たり前のことだが、日本では難しい。従来通りのパターンや型にはまった考え方から抜け出ることができない人が多い。それは小さい頃からそのような環境で育てられ、そのような思考パタンが身についているからだ。人間は習慣の奴隷である。
 アインシュタインの「常識とは18歳までに身についた古い習慣の残りかすだ」という言葉は意味深い。



2018年11月3日
日本シリーズの感想
 
ソフトバンクは守りがよかったこと、ミスが少ないこと、臨機応変の監督采配が光った。接戦では、バントやスクイズをした。勝つための創意工夫があった。
 これに対し、広島はペナントレース中の戦術を変えなかった。エラーやエラーにならない守りのミスが多く、盗塁にこだわったことが敗因になった。広島はシーズン中と同じ戦法をとった。広島はスクイズをしない。盗塁へのこだわりはまるで執念のようであり、「現実」に対応できなかった。勝つための知恵や工夫がなかった。接戦が多かったが、戦術的には広島の完敗である。ソフトバンクの選手は、おそらく、「接戦になっても試合に負ける気がしない」と感じていたのではないか。見ている者もそのように感じたのではないか。
 
 以上のことは、野球以外のことにも通じる。「現実」に応じた方法が必要であり、状況が変われば方法も変わる。
 登山で事故が起きる度に被害者の経験、技術のないことが指摘されるが、被害者の経験、技術のレベルという「現実」を前提に考える必要がある。「もっと経験、技術を身につけるべきだった」と言うことは無意味である。ないものねだりをしても事故を防ぐことはできない。経験、技術を身につけても、それを超える登山をすれば事故が起きる。現在の経験、技術のレベルを前提にして、いかにして事故を防ぐかを考えるほかない。自分の経験、技術のレベルに応じた登山をすることが「戦術」になる。現状に応じた戦術。無意識のうちにそれを行う登山家が多いが、それを自覚しない登山者は多い。自分の現状にうすうす気づいていても、感情や願望に基づいて行動しやすい。「どうしても〇〇したい」という願望が、「〇〇できるはずだ」という考えをもたらしやすい。その結果、野球では試合に負けるだけだが登山では死を招く。


2018年10月28日
安田純平氏と自己責任論
 
安田純平氏の行動が自己責任であることは当たり前のことだが、そこでは自己責任という日本語が非難の意味で使用されている。本来、責任という言葉に非難の意味はない。たとえば、「病院の管理責任者は院長である」、「自己責任で利用してください」という場合に自己責任という言葉に非難の意味はない。                              
 
しかし、日本では、自己責任という言葉が「そのような危険なことをすべきではない」という意味で使用される。そこで、紛争地域での危険な取材活動の是非が問題になる。危険性は安全性の程度問題である。紛争地域での取材は必ず危険なのであって、それらの取材がなければ報道が成り立たない。日本人ジャーナリストが紛争地域にいかなければ、外国のジャーナリストから情報を仕入れるほかない。国連機関やボランティア活動をするには必ず危険が伴う。日本人がそれをしなければ、外国人の活動から日本が恩恵を受けるだけのことだ。現実には、誰かが紛争地域の取材をしている。災害現場での取材でも必ずリスクが伴い、誰かがしている。誰もがこのような情報の恩恵を受けている。一切の情報は不要だという人は、モノを考えない人だ。
 また、「自己責任」という言
葉は、「危険なことをした人は国に支援を求めることはできない」という意味でも使用される。国がどこまで支援をするかは政策の問題である。紛争地域では観光客を含めて一切国が救援しないという政策もある。落ち度の大きい被害者は救助しない考え方をとれば、自損交通事故の被害者は救助しないことになる。海外での日本人旅行者の自損事故について国は何もしないのか。紛争地域での拉致事件についてだけ国は何もしないというのは不公平である。宇宙船や南極での調査中の事故なども、危険なことをあえて行った結果の事故であり、国は支援しないのか。自己責任に基づく離家の出火では消防車が出動しないのか。自己責任に基づく疾患は救急車が出動しないのか。現在は、事故の原因を問わず、平等に国が救助のために活動をする法制度になっている。



2018年10月23日
岡口基一裁判官の懲戒処分
・・・・・日本的な、あまりにも日本的な
 
最高裁は、岡口裁判官のツイッターでの書き込みに関して戒告の処分にした。最高裁はこの書き込みを「品位をはずかしめる行状」に当たり、違法だと判断した。

 この問題は、裁判官だけの問題として一般国民からかけ離れた問題のように感じる人が多いかもしれない。しかし、そうではない。たとえば、休日に公務員や会社員がツイートすれば勤務先から処分されるかもしれない。トヨタの下請企業の社員がトヨタ車の感想をブログに書き込めば会社から処分されるのか。公務員が自分の子供の学校のPTAの会議で発言し、それが保護者の反発を買えば役所から処分を受けるのか。東電の社員がブログに原発反対のコメントを書き込めば会社から処分されるのか。警察官が休日にブログに書き込めばその内容次第で役所から処分を受けるのか。弁護士がブログに書いた内容が品位を欠くとして弁護士会から処分されるのか。岡口裁判官と同じ内容を公務員、キャリア官僚、国会議員、大臣、教師、校長などが書けばどうなるのかなどと関係する問題である。
 
 また、多くの人が、岡口裁判官の行動が「裁判官としてふさわしいか」という観点から考えるだろうが、それが間違いである。そうではなく、裁判官の職務外の私的行為が裁判官として違法なのかが問題なのである。ふさわしいかどうか、品がよいかどうかではなく、違法かどうかの問題である。日本では、「好ましくないこと」と「違法」の区別があいまいである。「好ましくないこと」を「違法」とみなせば中国や北朝鮮に近づく。また、日本は24時間仕事に縛られる仕事中心・組織中心社会である。日本では職業が身分になっている。
 主婦や高齢者を除くほとんどの人が勤務先や学校などの組織に所属しており、会社、役所、学校の倫理によって24時間規制されれば、24時間自由が制限される。
これは実に恐ろしいことだ。日本では、精神的自由は幼児、主婦、高齢者、自営業者、無職者しか保障されないことになる。
 一般の市民に認められることが、なぜ、裁判官はできないのか。「それは裁判官だからだ」、「当たり前だ」と考える人は、思考停止している。「1984年」(ジョージ・オーウェル)状態


 多くの国民は、裁判官は自分とは関係のないエライ人だと考えており、関心を持たない。ほとんどの人が生涯、裁判などしないからだ。裁判所や裁判官のあり方が自分たちの日常生活や仕事上の自由に大きく影響をする。岡口裁判官を処分した同じ裁判所が一般の国民の自由について判断をする。裁判所は、公務員や会社員を対象に勤務時間以外の時間でも、公務員や会社員としてのあり方を問題にする。たとえば、大企業の社員が勤務時間外にに酒気帯び運転をし、それが新聞に書かれれば会社から処分を受ける。そこでは、大企業のイメージを損なったことが問題にされる。岡口裁判官のようなツイートを大企業の社員や公務員が行い、それが会社にバレれば、勤務先から処分されるかもしれない。24時間会社員としてのエリを正せということである。裁判所は、社員ををどのように処分するかは会社の裁量だと言うだろう。会社員は24時間会社に従属するほかない。言いたいことが言えない社会。

 憲法上、原則としての自由、例外としての規制という考え方が日本に根付いていない。日本では、岡口裁判官の行動が「裁判官としてふさわしいか」という発想が最初に来るのであり、これは規制が原則、規制しない範囲で自由が認められるという考え方である。裁判所も同じ。この点は、欧米の本を読むと日本との違いを痛感する。小さいころから規制され管理されて育つと、規制されることが当たり前になる。

 東京高裁が懲戒申立をしたのだが、東京高裁長官は林道晴氏である。林道晴氏は私の大学時代の社会問題を考えるサークルの後輩であり、彼をよく知ってい
る。いや、かつて知っていたというべきだろう。今後、最高裁判事になるだろうと言われているらしい。将来の最高裁長官の候補のようだ。なるほど彼らしいと思った。彼にとって懲戒申立は当たり前のことなのだろう。
 大学1年生の彼は、「プルーストの「失われた時を求めて」をフランス語の原書で読んでみたい」と言い、文学志向と法学部生らしからぬその言葉に私は親近感を持った。文学志向のあった私もそのように思っていたので・・・・・。しかし、文学熱の冷めた私はフランス語の勉強をやめ、もともと法律に関心がなかったので法律の勉強もしなかった。
 戦前、学生時代に資本論をドイツ語で読んだことを自慢する、ある特高検事は、多くの治安維持法違反事件を扱った。その人の知識と能力は歴史の進歩に逆行することに使われた。人間の能力や努力は、それを向ける方向が重要なのだ。
カフカの「流刑地にて」を見よ。そこでは優秀な技術者が人間処刑機の発明を自慢する。
 表面的には穏やかだが、政治的な問題について頑なに保守的だったことが印象に残っている。彼は司法行政に従事した期間が長く、実際の裁判の経験は少ない。
 
 私は裁判官の人事にまったく関心がないので知らなかったが、今回調べてみたら、林道晴氏の前の東京高裁長官は深山卓也氏であり、深山氏は最高裁判事になっていた。あの深山さんが?と思った。深山氏も大学の同じサークルの1年上の先輩であり、よく知っている。いや、かつてよく知っていた。
学生時代は、さまざまな社会的な問題についてよく議論をした。「絶望の裁判所」の著者の元裁判官の瀬木比呂志氏(明治大学教授)は深山氏と同級生であり、2人は学生時代は仲が良かったが、その後の方向が分かれた。一方は裁判所を徹底的に批判し、一方は裁判所の官僚機構の中枢にいる。学生時代の友人に、事務次官、長官、国会議員、大臣、大学教授、学長、作家、日弁連会長などになった人がけっこういるので、最高裁判事が1人や2人いてもおかしくない。私が、「ヒマラヤの7000メートル峰を世界初登頂した」と言っても、彼らは、「はあ?」と言うだろう。住んでいる世界が違うようだ。

 東京高裁長官から最高裁判事になる人が多いが、組織に忠実な人が最高裁判事になるシステムになっているようだ。しかし、司法行政の能力と裁判官としての判断力は別である。林道晴氏のようにほとんど裁判をしたことがない裁判官が裁判所のトップになるのは、管理を重視するからである。今の裁判所は管理を重視し、裁判がマニュアル化している。司法を司法官僚が支配している。裁判所という官僚組織に長年いると、組織を維持することを最優先に考えるようになる。視野が狭くなる。組織への信頼を維持するために異端者を切るのである。私は、司法研修所で教官から裁判官にならないかという勧誘を受けたが、裁判官になっていれば閉鎖的な世界に耐えられなかっただろう。その時は、裁判官は休みがとれず登山ができなくなることと、法律を扱う仕事に関心がなかったので、裁判官になることはまったく考えなかった。もちろん、当時から裁判所の閉鎖性は十分知っていたが。

 裁判官といえども仕事が終われば、一市民としての自由な時間がなければならない。仕事が終わればタダの人であるべきだ。ドイツの裁判官は仕事が終われば一市民として政治的な自由がある。ドイツの公務員は仕事が終われば議員活動などをができる。
 日本の裁判官は仕事とプライベートの区別がない。私的生活がなく、24時間裁判官でなければならない。これは人間の生活ではない。日本の教師は24時間教師である。日本の公務員は24時間公務員。弁護士も24時間弁護士である人が多い。これが視野の狭さにつながる。日本は仕事が身分の身分制社会である(刑法に身分犯の概念がある)。武士は24時間武士だが、会社員は仕事が終われば会社員ではないはず。
 
 私的財産の中でもっとも重要な財産は自分の労働力である。労働力の中には精神的活動も含まれる。仕事のために提供する労働力は他人に支配されるが、それ以
外の私的な領域がなければ奴隷と同じである。ハンナ・アレントは、「私的領域を取り除くことは人間存在にとって危険である」と述べる(「ハンナ・アレント、「人間の条件」)。それは全体主義や戦争につながりやすく、人間を不幸にする。私的領域から多様性が生まれる。「1984年」(ジョージ・オーウェル)には、完全に私的領域のない思考停止の社会が描かれている。この本はどこかの遠い国の話ではなく、「日本の中の1984年」を考えながら読むべき本である。

 私的領域とは何か。それは仕事から完全に遮断された自由な世界である。英語のprivateはdepriveの派生語であり、私的領域では公的なものが奪われていることを意味する。裁判官の私的活動では裁判官としての公的性格がないことを意味する。私的活動ではもはや裁判官ではない。もとより、裁判官の表現の自由といえども他人へ危害は許されないが、それは一般市民と同じレベルの制限であって、たとえば、私的活動では「裁判官の行動としてふさわしいか」などの基準で考えることはできない。裁判官も、仕事を離れれば、人間としての権利や市民的自由が保障される。アリストテレスは、「幸福は余暇にある」と述べた。自由な時間は肉体的、精神的に自由でなければならない。森?外は軍医総監をしながら多くの小説を書いた。公務員としての地位は歴史に残らないが文学作品は歴史に残る。もし、彼が裁判官だったとすれば倫理に反するとして小説を発表できなかっただろう。しかし、先進国では裁判官の表現の自由は保障されている。

 先進国の基準では、岡口裁判官は仕事を離れれば、一般市民に認められるレベルのツイートは規制できない。
フランスでは私生活上の非行を理由に職場で処分されることはない。勤務時間外に酒気帯び運転をすれば刑事罰を受けるが、職場と無関係の行為なので、職場の懲戒処分の対象ではない。アメリカでは、裁判官行動規範が係属中又は間もなく係属する事件へのコメントを規制しているが、これは職務行為そのものなので当たり前である。岡口裁判官のツイートが被害者の心情を傷つけたのであれば適切ではないが、違法ではない。もし、それを規制するのであれば、一般市民のツイートもすべて規制することになる。しかし、問題のあるツイートを制限する法律を作らない限りそれは無理だ。しかし、中国や北朝鮮、イスラム圏などは別として、先進国ではそのような法律を作ることができず、一般の市民のツイートを禁止できない。したがって、それと同等レベルの行為は裁判官も可能である。市民的自由は平等に与えられるというのが、近代市民社会の考え方である。日本の裁判官は学会で意見を述べるには上の許可が必要であり、学問の自由がない。
 裁判官に「品位」が要求されるのは、あくまで職務行為に関してである。勤務時間外は職務時間ではない。この点は弁護士も同じ。弁護士も品位を欠く行為は弁護士会が処分する。職務を離れて品位を要求すれば、24時間自由が制限され、精神的に「1984年」状態になる。

 一般市民に認められる市民的自由を裁判官に認めないことは、職業を身分とするのと同じである。武士や貴族が24時間武士や貴族であるのと同じである。裁判官としての倫理を仕事以外の時間に持ち込めば、肉体的には支配されていくても、精神的には24時間精支配されることになる。何に支配されるのか。それは裁判官としての職責である。それは自由ではないという意味で精神的な奴隷状態であり、「1984」に近づいている。

 私的領域は仕事上の倫理・価値感とは無縁である。
これを持ち込めば、私的領域が消滅する。日本は、24時間、会社、役所などに支配されることが当たり前の社会である。大企業の社員は、休日でも大企業の社員として品位を欠く行動があれば、会社から解雇などの処分を受ける。勤務時間外の罰金処分でも解雇する会社がある。弁護士は24時間弁護士としての品位を要求される。管理する側は24時間組織の管理で縛りたいが、それは「1984年」の世界である。これは、ムラの一員は24時間村民でなければならず、村民としてふさわしくない行動をすれば村八分にあうのと同じである。ムラの中では24時間、ムラの倫理違反がないかどうかが監視される。それは「1984年」の監視社会と同じである。それが嫌な人はムラから出るほかない。ムラから出れば自由に何でも言える。裁判所ムラの価値観では、岡口裁判官のツイートはムラの価値観に反し、「裁判官として許すことのできない行動」なのだ。その感情は最高裁の決定の補足意見によく表れている。
そこでは、職務外の行動を裁判官としての行動とみなし、私的領域認めない。私的領域の追放は多様性の抹殺であり、全体主義的一枚岩につながる。裁判官が多様な価値観を持つことが損なわれることは、管理する側に都合がよいが、民主主義にとって危険である。
 
 裁判官の仕事は法律に縛られる。消費税法がある以上消費税を是認するほかなく、これに24時間縛られれば勤務時間外でも消費税について自由に意見を言えない。安田純平氏の行動が自己責任かどうかについて裁判官が私的時間に論争に加わることをしないだろう。法律がそれについて何も規定していないからである。法律が規定していればそれに従い、規定がなければ発言しない。表現や行動をしなくなれば、そのうち考えなくなる。考えても仕方がないと思うようになる。すべて法律の通りに考えることに精神の自由はない。戦前の裁判官は治安維持法や戦争の是非について考えることを停止したはずだ。このような思考停止は「1984年」の世界であり、精神的な奴隷状態である。法律の奴隷。裁判官にならなくてよかった! 裁判官との酒席でも、自分の本当の考えを言わないか、それがない思考停止の裁判官が多く、話をしても面白くない。ホンモノの会話でなければつまらない。岡口裁判官の問題について裁判官と雑談をしても、口をつむぐ裁判官がほとんどだろう。
 休日に冬山登山をする裁判官がいないのは、そのような危険な行動をすることが裁判官としての品位を欠くと考えるからだろう。クライミングも人工壁でクライミングをはしても、アルパインクライミングをする裁判官はいない。裁判官の冬山登山などとんでもない。24時間裁判官であることを求められれば、法律が登山について何も規定していないので、休日に危険な登山で「遊ぶ」ことをためらう裁判官が多いだろう。欧米では、国際山岳連盟の会議に裁判官や検察官の登山家が休暇をとって参加して自由に発言している。欧米では裁判官や検察官の私的な行動の自由が保障されている。日本の裁判官は休暇に会議に参加するにも最高裁の許可が必要である。他方、欧米の弁護士は、時間的余裕がないため国際山岳連盟の会議に出席することはない。もちろん、日本の弁護士も同じ。参加するとすれば私だが、金がかかるので・・・・・・・

 長時間労働のもとでは、物理的に私的な領域がない。キャリア官僚、裁判官、弁護士、勤務医、大企業の幹部社員などは労働時間が長く私的な時間がないので、24時間仕事に縛られても違和感を感じないだろう。それはある種の精神信的奴隷である。
 日本全体が巨大なムラ社会である。個人の行動のひとつひとつを取りあげ、それがよいか悪いかをムラの掟に照らしてチェックする。ムラの掟に反する者がムラにいることは「目障り」なのだ。それが日本の社会の生き苦しさをもたらし、引きこもりやうつ病などにつながる。シリアから帰還した安田氏に対する「自己責任論」の非難なども、日本のムラの倫理に照らして個人の行動のすべてを価値判断する例である。欧米の社会は個人の行動を「放っておく」寛容さがあり、それが居心地のよさにつながる。

 
今回の最高裁の決定は裁判官に大きな委縮効果をもたらす。もっとも、すでに裁判官は十分に委縮しているので、出る杭を打つ意味しかないが。裁判官だけでなく、公務員や会社員などにも大きな委縮効果をもたらす。弁護士も、書き込みで法律批判をすれば、弁護士会から「法律順守義務違反」として処分される時代が来るかもしれない。自分のやりたいことができない、自分の言いたいことが言えない、自分の書きたいことが書けない、これはモノを考える人間には死ぬほど苦痛である。「絶望の裁判所」。司法研修所で裁判官になることを勧められたが、裁判官にならなくてよかった。モノを考えない人や自分のやりたいことは仕事しかないという人には、どうってことはないが。そんな日本人が多い。多くの者が、「イワン・イリッチ」(トルストイ)として生きている。「イワン・イリッチ」は社会や組織のしがらみに一喜一憂する小市民の象徴である。地位の高い「イワン・イリッチ」もいれば地位の低い「イワン・イリッチ」もいるが、最高裁判事は前者。それぞれ、懸命に生き、仕事をし、人生を終えて、それなりに満足し、あるいは不満を持ちながら死んで歴史から消えていく。死ねば、地位や肩書は消え、皆、
ゴミになる。明治以降の首相で歴史に名前が残る人は少ない。歴代の最高裁判事で歴史に名前が残る人はほとんどいない。しかし、すぐれた業績や書物、芸術作品は後世に残る。

 
官僚組織の問題性・・・・裁判官はどうあるべきかは、個人のレベルの問題と組織の問題があるが、官僚組織では、国民の批判からいかにして裁判所を守るかが重視されやすい。組織のために個人を切るのだ。切られる者は少数であり、それにより多数の組織内の者が利益を得る。出る杭は打たれる。岡口裁判官が組織を出れば裁判所はほっとする。村八分の論理と同じ。裁判所はムラ社会である。役所でも企業でも組織を守ることが正当化の論理になりやすい。それが不正をもたらす場合もあるが、不正をもたらさなくても人間の思考停止につながり、社会の発展を阻害する。

 多くの人が、「それはそうかもしれない。しかし、日本の社会は欧米と違って仕事中心社会、役所・会社・組織中心社会であり、特殊なのだ」、「日本では24時間、公務員、会社員として縛られるのは常識だ」、「裁判官や教師はフツーの地位ではなく、聖職なのだ」と言うかもしれない。キャリア官僚も勤務時間外の発言が国民から叩かれやすいので、「聖職」扱いかもしれない。まさにそこに問題の核心がある。
 私的領域を認めない裁判所の考え方は日本人に根強い仕事中心・組織中心の考え方を反映したものである。この考え方が裁判でマニュアルやパターンを重視した画一的な処理をもたらし、誤判や冤罪をもたらしている。一定のパターンに基づいて裁判所的な証拠の有無で判断する「裁判所的な正しさ」は現実から遊離している。そこには裁判所特有の世界がある。裁判所が外部から批判されればされるほど、裁判所は内向きになって組織を守ろうとする。そのために裁判所の中の異端者を「切る」ことが必要になる。このような閉鎖的な裁判所の組織は確かに「絶望」的である。アインシュタインは常識にとらわれないことが新しいものを生み出すと言ったが、裁判所は常識にとらわれる。それだから進歩がない。


2018年10月19日
広島の勝因と日本シリーズの予想
 
この日の試合での勝敗分かれ目は、8回にジャクソンがランナーをためたところで早目に投手交代をしたことにある。もし、そのままジャクソンが投げればいつものように3点くらいを失い(たぶんホームランを打たれる)、1点差で9回に不調の中崎を出して逆転された可能性が高い。それがこれまでの逆転負けの方程式。緒方監督が勝利の方程式を若干修正したことが勝因。そもそも8回のジャクソンの起用が間違い。固定観念にとらわれたことが、1昨年の日本シリーズでの敗北、昨年のCSでの敗退を招いた。もっと現実を見なければ。

 巨人は昨日、田口を早目に代えたことがCSの流れを変えてしまった。これも、今シーズン、田口が広島に打たれるかもしれないという先入観が影響している。状況に応じて臨機応変に対処すること。
 日本シリーズも監督の采配が左右するだろう。

 リスクを的確に判断することは簡単なことではない。それが自然災害、山岳事故、誤判からの教訓。マニュアルにとらわれることが自然災害の被害を大きくする。パターンや固定観念にとらわれることが誤判を招く。人間の判断にはさまざまなバイアスがある。



2018年10月18日
野山で野草、茸、果実を自由に採取できるか 

 報道によれば、「他人が所有する雑木林から野生のクルミを盗んだとして、神奈川県警津久井署は17日、相模原市中央区の無職の男(38)を窃盗容疑で現行犯逮捕した。「地球に生えているものを採って何が悪い」と容疑を否認しているという。署によると、男は17日午前10時20分ごろ、同市緑区中野にある農協職員所有の雑木林で、クルミ71個(時価1200円相当)を盗んだ疑いがある。近所の人から「見知らぬ男が雑木林に入って何か採っている」と通報があり、駆けつけた署員が声をかけたところ逃げたため現行犯逮捕した。地域ではこの時期、野生のクルミが旬で、採りにくる人が散見されるという。」

野山のツクシやヨモギをとれば窃盗罪か。
茸狩り登山は窃盗罪か。
落木を燃やして焚き火をすれば窃盗罪か。
岩石採取は窃盗罪か。
私有地や公有地でこれらのことが行われている。土地所有者の同意を」得るために山岳地帯で土地所有者を調べることは至難のこと。


「登山者のための法律入門」(溝手康史、山と渓谷社、79頁)からの引用
「食用のために、原野や山麓のフキノトウ、つくし、ヨモギ、野苺、茸などを採ることは禁止されるのでしょうか。・・・・自然公園の特別保護地区では、原則として一切の動植物の捕獲、採取が禁止されています・・・・・・・自然公園の特別保護地区や特別地域以外の山では、このような制限はありませんが、土地所有権による制限があります。自分の土地を自由に支配できるのが所有権であり、土地所有者が禁止すれば、植物の採取ができません。原野や山麓のフキノトウ、つくし、ヨモギ、タンポポなどは、土地所有者の意思を無視して自由に採取できません。多くの場合、土地所有者がこれらの採取を黙認しているとみなされていますが、本当に土地所有者が黙認しているかといえば、そうではなく、単に土地所有者が、知らないだけの場合もあります・・・・・・アウトドア活動のさかんなヨーロッパでは、この点のトラブルを防止するために、多くの国で、国民が自然を利用できる範囲を法律で規定しています。北欧では、誰でもカントリーサイドをレクレーションのために自由に利用でき、ドイツでは、私有林や公有林の中で国民がハイキング等のレクレーション活動ができ、「土地の慣行の範囲」、「手に持てる量を超えない範囲」で野生の果実や植物の採取ができることを森林法で認めています。日本には、このような法律がないので、原野や山麓のフキノトウ、つくし、ヨモギなどの採取は、土地所有者の黙認が前提です。・・・・・しかし、厳密に言えば、土地所有者が知らないために「禁止しない」だけであって、後で土地所有者が山野草の採取を知ってクレームを言えば、採取は違法です」

 かつては土地所有者が黙認することが多かったが、現在はそうではない。時代が変わったのだ。ここでも、現実を見ることが大切。




2018年10月14日
医学部不正入試
 医学部の不正入試は予想通り。医学部以外の学部や入社、採用試験での不正がある。コネ入学がどこでもある。不正な入試や採用を禁止する法律がない。そのような法律に大学や企業、役所が猛反対するだろう。



2018年10月1日
東北地方旅行

            
  
        角館               奥入瀬渓流              中尊寺

観光地化の功罪
 
かつて奥入瀬渓流では落木事故が起きたことがある。事故現場と思われる休憩場所付近を観察したが、観光客は落木を予測しないだろう。しかし、落木がないように管理するのも大変である。奥入瀬渓流の歩道全体で落木がないように木を管理することは不可能だろう。休憩所以外の場所での落木事故であれば、法的責任は生じなかっただろう。ベンチがクセモノだ。
 奥入瀬渓流を観光名所としてではなく、自然の中の渓流として利用者に提供すること、自然状態のままで提供し、歩道をなくすることが、経済的にもっとも効率的な自然の利用方法ではないか。歩道や休憩所がなければ、落木事故の法的責任は生じない。歩道や休憩所を設置するのであれば、国や自治体は施設賠償責任保険に加入すること。沢登りでは落木事故の法的責任は問題になりえない。観光地化に伴うリスク。


奥入瀬渓流落木事故
 
国立公園内の奥入瀬渓谷の歩道付近の休憩場所で上から落ちてきた木の枝で観光客が負傷した事故について、国や県の歩道の営造物責任、工作物責任が認定された(東京地裁平成18年4月7日判決、判例時報1931号83頁、東京高裁平成19年1月17日判決、判例タイムズ1246号122頁、最高裁平成21年2月5日判決)。


2018年9月25日
広島高裁、伊方原発の再稼働を認める。
 まあ、こんなもんでしょ。日本の裁判所は。裁判官が行政に逆らうには勇気がいる。
 原発のリスクは、自然の中で地震、津波、隕石など何が起きるかわからないことと、人間は必ずミスを冒すことである。しかし、裁判所はこれらが現実化しない限りそれを認めない。福島原発事故のように。
 原発事故が起きるとしても数十年後かもしれない。自分が死んだ後は野となれ山となれ。原発の廃棄費用で多額の税金がかかるが、それは国民全体の負担であって、それまでは地元に原発が金を落としてくれる。



2018年9月16日
鈴鹿山脈登山
 2日間、初めて鈴鹿山脈を歩いた。これは山域と登山道の調査が目的。
 御在所岳の山頂付近の登山道は遊歩道化しており、重い安全管理責任が生じる。六甲山の山頂付近と同じ。その点を歩道管理者が意識しているかどうか。

  
御在所岳山頂


 
 六甲山山頂



2018年8月18日
ボランティア活動
をめぐる法的問題
 呉市天応地区でボランティア活動をした。ここは西日本豪雨の被害地のひとつ。
 この地区は川の扇状地に住宅街が形成されている。多くの住宅の1階部分が土砂に埋没していた。何万トンという土砂の堆積のほとんどが真砂土である。土砂の撤去作業がボランティア活動の対象であり、炎天下で大変である。
 真砂土は水はけがよいが、真砂土の山は崩れやすい。川の氾濫によってできた扇状地は、川の氾濫によって土砂が堆積しやすい。

 参加者は若者がほとんどだった。私が63歳だと言うと驚いていた。
 ボランティア活動は、ボランティアリーダーの指導のもとで、整然とした団体行動になっており、日本人はこのような団体行動活動がいつでもどこでもできることに感心した。
 他方で、ボランティア活動は本来、自発性に意味があるので、主催者が細部まで決定、管理することは、あたかも社会福祉協議会の仕事を無償のアルバイトしているかのようだった。効率や管理を重視すればそのようになるのだろうが、本来のボランティアの趣旨とは異なるのではないか。
 社会福祉協議会がいつも行っているボランティア活動は、ボランティア活動を組織の中に取り込んだ活動なのだろう。そこではボランティア活動者は組織の一員となり、ボランティア活動中の事故について、主催者に使用者責任が生じる可能性がある。この点は、PTA、自治会、子供会などのボランティア活動とおなじである。
 主催者の指揮命令下にない本来のボランティア活動の場合には、主催者の責任は問題とならず、事故は参加者の自己責任である。
先日、山口県で2歳の男児を発見したボランティアおじさんは、自己責任型のボランティア活動の例である。この日、このボランティアおじさんは、天応地区に来たようだ。
 しかし、主宰者の指揮命令下で行われるボランティア活動では、主宰者の事故の責任問題が生じる。山岳連盟主催の登山講習会は、このようなボランティア活動の典型である。講習会のインストラクターは、義務的にボランティア活動に参加するのであり、この点でPTA活動などと同じである。日本では、子供を対象とする登山講習はボランティア活動とみなされ、大人を対象とする登山講習会はボランティア活動とみなされないことが多いが、これもボランティア活動である。
 ボランティア活動は、管理すればするほど管理責任が問題になりやすい。たとえば、参加者が熱中症になれば、主宰者が指揮命令権を有するボランティア活動では主宰者の責任問題が生じる可能性がある。したがって、主宰者は賠償責任保険に加入していることが必要だろう。それは個人賠償責任保険ではダメで事業者用の賠償責任保険である。継続的にボランティア活動を実施する主宰者は「事業者」であり、個人賠償責任保険の適用がない。ところが、災害ボランティア活動の責任主体があいまいである。自治体が責任を負うのか。社会福祉協議会なのか。それとも実行委員会、ボランティアリーダー個人なのか。誰も責任の所在を考えることなく実施するので、責任主体があいまいになるのである。
 
 災害ボランティア活動は、主催者の指揮命令下の活動ではなく、参加者の自己責任活動とする本来のボランティア活動にした方が、法的には処理が簡単なのではなかろうか。
 あるいは行政の仕事を無償で手伝うボランティア活動であれば、それを明確にし、問題が生じれば自治体が責任を負う体制が必要ではないか。
 災害ボランティア活動は、法的に見れば、あいまいな点だらけだ。こんなことは、ボランティア活動をする人は誰も考えないのだろう。事故が起きて初めて考えるということ。ボランティア保険への加入は問題を顕在化させない方法なのだろうが、ボランティア保険で問題を解決できない場合がある点を関係者が考えていない点が問題なのだが・・・・

 ボランティア活動は14時に終わったので、その後、天応烏帽子岩山に登った。ここには、若いころ岩登りのために50回くらい来たことがある。今後、岩登りの訓練のために、ここに来ることはないのかもしれない。一抹の寂しさを感じる。
 天応の岩場に来るのは10年ぶりくらいだが、以前とまったく変わりがない。天応烏帽子岩山は災害のあった天応地区から直線距離で500メートルくらいしか離れていないが、西日本豪雨の後でも、不思議なほど変化がない。
 土砂災害のあった天応地区との違いは、天応烏帽子岩山の沢は非常に急峻だが岩盤で形成されているので、土砂が流れ出なかったということだろう。岩の崩落もない。災害の有無は地形次第ということがよくわかる。

          
まったく変わりのない天応烏帽子岩山


2018年8月15日
山口県で2歳の男児の行方不明と発見

 
山口県で2歳の男児が行方不明になったのは大人が目を離したからである。子供は数秒もあれば消えることがある。

 その発見は大分から来たボランティアの捜索者による。子供は上の方に向かって歩くことを知っていたそうだ。ロープや登山の装備を持っていたので、かなりの登山経験者なのだろう。経験に基づく判断がモノを言った。
他の捜索者は自宅周辺の側溝や叢などを中心に探していたようだ。男児は家に帰ろうとしたのではなく、好奇心から山の方に向かったのだろう。


2018年8月14日

阿波踊りをめぐる対立
 

 阿波踊りの総踊りの実施をめぐり、阿波踊り実行委員会と阿波踊り振興協会が対立している。阿波踊り実行委員会が総踊りの中止を決めたが、阿波踊り振興協会はそれを無視して総踊りを実施した。徳島市長は阿波踊り振興協会に対し、「中止命令」を出し、「ルールを守れ」、「ペナルティを科す」と述べた。
 そもそも、阿波踊り実行委員会に法的にどのような権限があるのだろうか。阿波踊り実行委員会には徳島市が加入しているようだが、公的団体ではなく、私的なグループである。実行委員会に規約や財産があれば団体としての性格があるが、おそらくそれはないだろう。法的には利害関係者が集まって結成する私的なグループである。私的なグループに徳島市が加入し、事務局を市役所に置いたりすれば公的団体のようなイメージが生じやすいが、それはあくまでイメージにすぎない。日本の世論はイメージい弱い。
 私的なグループで定めるルールはグループ内でしか拘束力を持たない。徳島市長が、「ペナルティを科す」と述べたのは、仲の悪い隣人に「ペナルティを科す」と言うようなもので意味がない。しかし、世論は、徳島市の市長としての発言として受け止め、何か法的が意味があるかのように「感じる」。市長といえども、市道・歩行者天国での踊りを禁止するのは無理である。踊りながら歩くのも歩行であり、歩行者天国での歩行を禁止するのは無理。
 日本では、実行委員会、振興会などのあいまいな形態が多い。管理する側にとってあいまいであることが都合がよい。観光協会も公的団体のようなイメージがあるが、あくまで私的な団体である。金をもらっても収賄罪にならないので接待は当たり前。行政が行政の息のかかった私的団体に税金を交付して事業を遂行することは、行政にとって都合がよいが、議会の監視が及ばないので、市民からみれば税金の無駄遣いにつながりやすい。



2018年8月10日
日本ボクシング連盟会長の会見に同席した弁護士の辞任 

 マスコミ報道によれば、西口拓人弁護士は、「山根日本ボクシング連盟会長の会見に同席する予定ではなかったが、大阪弁護士会側並びに同副会長の要求で、会見に同席。会見後、山根氏らと話し合い、「(代理人を)受任の方向も考えた」ものの、会見翌日だったこの日午前、自身の顧客から反響が大きかったこともあり、すでにある職務との兼ね合いを考え、代理人依頼の申し出を断ったという。この日正午前、山根氏サイドに電話で受任しない意向を伝えると、山根氏側から「分かりました」と返答があったといい、会見同席翌日に代理人辞退へいたった前代未聞の流れについて説明した。」

 この弁護士は、記者会見に代理人として同席し、その後、代理人を辞任した。「辞退」ではない。これは世論の非難が強かったため、弁護士の気が変わったということだろう。弁護士はいつでも代理人を辞任できる。辞任に依頼者の了解は不要である。
 オウムの麻原を弁護をした私選弁護士人がいたように、誰でも法的な言い分があり、それを主張することは正当な権利である(主張の内容が正当かどうかではなく、主張することができるということ。両者を区別しなければならない。「できる」ということを「内容が正しい」と勘違いする人が多い)。しかし、世論は、しばしば主張すること自体を抑圧する。会見後に、西口弁護士に対し、「なぜ、あんな人間の弁護をするのか」という電話やメールが殺到したはずである。世論は100かゼロかで考える傾向があるが、事実は、100かゼロかではなく、連続的である。誰にでも言い分がある。そのため、弁護士の仕事は、しばしば、世論との闘いになる。世論は社会的多数者の意見であり、弁護士は世論に反して社会的少数者の弁護をしなければならない。
 弁護士が、いったん受任をしたにもかかわらず、すぐに辞任したことは、弁護士に信念、自信、経験がなかったのだろう。イソ弁のようなので、ボス弁の指示で動いているのかもしれない。最近は、世論の風向き敏感で利益にならない事件を引き受けたがらない弁護士がが多い。
 弁護士会が西口弁護士の同席を要求することはありえない。これは弁護士の「言い訳」なのだろう。弁護士は山根氏から依頼を受けて同席したのであり、自分の行動の言い訳をすべきではない。一般的には、弁護士はある程度の金をもらわなければ、このような会見への同席はしないだろう。いったんは引き受けたが、世論の風向きを考えて辞任したということだろう。
 

2018年8月7日
地形がもたらす土砂災害の危険・・・・広島と山形の違い

 先日
、広島県での大雨災害のすぐ後に山形県で講演をしたのだが(広島空港に向かう道路がけっこう寸断されていた)、山形県の職員と大雨災害について話をした。私は、山形の山は高い山が多いので土砂災害が起こりにくいのではないかと言った。高い山を維持するには山の地盤が強固でなければならない。高山は岩山が多い。中国山地は風化した山が多いため地盤が脆弱であり、高山を形成できず、維持できない。広島県では、山が急峻ではないので、沢の下流や山麓を削って市街地を作っており、土砂災害が起きやすい。急峻な山では山を削って住宅地にしにくい。

 奇しくも、その10日後に山形県で大雨があった。山形県では、24時間雨量が300ミリを超えた。先日の西日本豪雨では広島県の24時間雨量は200ミリから400ミリであり、山形県と大差ない。山形県では、大雨による冠水被害があったが、土砂災害はあまりなかったようである。そのため死者が出ていないようである。高知県では総雨量が1800ミリに達した地域があるが、広島県よりも被害が少なかった。

 土砂災害は、雨量よりもその地形や地質が被害をもたらす。土砂災害の危険地域は、あらかじめわかっている。広島県は土砂災害の危険地域の数が全国でもっとも多い。しかし、その点を自覚している住民は少ない。大雨による土砂災害を防止することは難しいが、避難すれば人身被害を防止できる。この点は津波被害に似ている。
 地形がもたらすリスクを考えないのは、自然災害にだけの問題ではなく、あらゆるリスクに当てはまる。企業活動のリスク、社会的なリスク、アウトドア活動のリスク、病気のリスクなど。人間は不快なことを回避したいと考えるので、リスクを考えたくない。また、成果優先の社会ではリスクを無視しやすい。

 学校でリスクについて学ぶことが必要である。小学生が学校で自分の家のある場所が危険かどうかを学び、親と話をすれば、親も考えるようになる。災害の前に子供が率先して逃げれば親もついていく。子供は大人ほど自然に対する感性を失っていない。
 生産や経済優先の日本の政策が、学校でリスクを教えることを妨げる。「学校で児童にリスクについて考えさせても、将来の経済的生産につながらないではないか」、「学校でリスクについて学ぶことが、進学や就職に役立つのですか」、「リスクについて学べばナンボ儲かるのか」と考える人が多い。しかし、リスクについて学ぶことは、金を儲けるためではなく、生きるために必要なことである。生きていなければ、いくら金があっても無意味である。



2018年8月4日
東京医科大学、入試における差別的扱い・・・法的に何が問題か
 
東京医科大学が、これまで入試で女性を男性よりも不利に扱っていた。これは裏口入学とはまったく別の問題であり、平等原則に違反する不利益な扱いかかどうかが問題になる(裏口入学は、優遇する扱いの問題であり、不利益処分の問題ではない)。
 女性に対する差別に合理性がなければ違法である。学生の男女の比率を考慮するとしても、女性比率を半分以下にする合理性はないので、東京医科大学の扱いは違法である。合理的な差別として、国立大学医学部で55歳の女性が試験の点数はよかったが、年齢などを総合的に考慮して不合格にした扱いを違法ではないとした裁判例がある。法務省が司法試験で受験回数が少ない者に点数を加算していた時期があり、これも公認された差別の例である。大学入試で浪人生よりも現役生を優遇する扱い、年齢による減点、受験回数の制限、地域的な差別扱い(中国ではこれが行われている)、社会人を優遇する入試、僻地での勤務希望者を優遇する入試などは、事前に公表すれば差別が容認される可能性があるが、私は反対である。

 東京医大の不平等な扱いが違法だとしても、過去にさかのぼって女性受験者をすべて合格させるとか、差別的扱いによって合格した男性受験者を不合格にするのは無理だろう。過去にさかのぼって12年間分の女性をすべて合格させ、加点された男性(既に医師になっている人もいるだろう)を不合格にするのは無理である。その医師の治療を受けた患者の扱いはどうなるのか。不利益を受けた浪人生をすべて合格させるのも無理である。たとえば、差別の結果、現役の合格者50人、不合格の浪人生30人の場合に、差別を受けた30人を合格させ、優遇された50人を不合格にすべきだろうか。
 そこで慰謝料の問題になるが、仮に、不利益を受けた女性受験者の慰謝料請求が認められるとしても、せいぜい数十万円程度であり、裁判費用を考えれば裁判するメリットが少ない。不合格になった女性の医師としての生涯収入の損害賠償請求も無理である。日本にはアメリカのような懲罰的な損害賠償の制度がない。不平等な扱いは刑事事件になりにくい。

 他の大学は、いずれも、東京医科大学のような差別的扱いをしていないと言っているようだ。他の大学は、この問題を東京医科大学固有の特殊な問題にとどめたいようだ。しかし、他の私立大学でも別の差別的な扱いをしているのではないか。これは医学部だけの問題ではない。他の大学は東京医科大学の問題が自分の大学に波及しないか戦々恐々としているのではないか。たとえば、寄付金の金額によって点数を加算するとか、理事長の子弟の点数を加算するとか。現役生を優遇するとか。面接の点数を加算する扱いは、不公平な扱いをしてもバレにくい。企業の採用では、不公平な扱いは日常茶飯事である。能力のある学生は、試験の点数に関係なく、青田刈りで合格させる。現役生優先。コネ優先。有名大学優先など。一芸に基づく合格扱い。スポーツ推薦に基づく合格は、学力を無視している。
 国家公務員の採用では、公務員試験に受かった者の中から誰を採用するかは、各省庁の自由である。公務員試験の成績が悪くても、優秀と認められれば優先的に採用される。財務省や経済産業省などは女性をあまり採用しない点は、差別的な扱いである(毎日深夜まで仕事をすることも関係しているのだろうが)。
 優秀かどうかの判断に大学や企業の主観がはいりやすい。出身大学による採用差別はこのようにして行われる。企業は、テストの点数よりも有能かどうかを重視し、そのメルクマールとして出身大学を考慮する。その判断が外れることもあるが、テストの点数だけで判断するよりも、当たる確率が高いのだろう。私立大学では金品をもらっても賄賂にならない。大学には学生の採用の自由という自由競争の社会を象徴する大原則があり、裏口入学は不平等な扱いではあるが、特定の学生の不利益処分ではないので、平等原則違反の違法を問いにくい。


 採用の自由は資本主義経済の根幹をなす自由競争に基づいている。しかし、自由競争といえども、それを公平、平等に規制することは可能である。ロールズの「正義論」、ロバート・ライシュ「最後の資本主義」にあるように、自由な市場をいかに規制するかが問題であり、不公平、不平等な採用を法律で禁止することが可能である。三菱樹脂事件で最高裁判所が採用の自由を述べたことは、資本主義憲法の帰結ではあるが、それを法律で規制することは可能である。

 
ところで、大学入試を平等に実施すれば、それで問題が片付くわけではない。平等な競争が格差をもたらすという問題がある。医学部に受かる者は勝ち組、大学入試や就職に失敗する者が負け組になるという問題である。日本で多くみられる自己責任論は「頑張らなかったからだ」というが、競争社会では頑張っても全員が成功することはありえない
 格差には、競争の機会の不平等がもたらす格差と能力差がもたらす格差がある。頑張らなければ競争に負けるが、頑張った者同士の間でも能力の差が勝者と敗者をもたらす。障害者は、最初から競争に参加できないことが多い。アマルティア・センが述べるように、capability(能力)の格差がもたらす格差の解消を考えなければならない。ロールズも、talent(才能)が格差をもたらすことを述べている。


 機会の不平等のために競争に負けた場合には「機会に恵まれなかっただけだ」と考え、頑張らなかったために競争に負けた場合は、「頑張らなかったからだ」と考えることができる。しかし、平等で公平な競争の機会があったのに、また、他人以上に頑張ったのに競争に負けた場合は、このような言い訳が成り立たない。不平等な社会での競争でも、機会均等の平等な社会での競争でも格差が生じる。しかし、競争に負けたからといって人間の価値が否定されるわけではない。誰にでも幸福になる権利がある。各人の価値を実現することが自己実現であり、それは競争に左右されない。自分の内面的価値に自信を持つ人は、「能力差があるとして、それが何だというのか」と考える。
 人間の生物的なcapability(能力)の格差があることは当たり前のことであり、それがもたらす経済的な格差が大きすぎることが問題なのだ。能力差が経済的格差につながるのは、社会的なシステムによる。江戸時代には勉強ができても、収入にはつながらなかった。百姓は、勉強ができることよりも、体力の方が収入につながった。形式的な平等のもとで受験生が全員がんばっても、医学部に合格する者と不合格の者が出る。これは当たり前のことだ。しかし、医者になれば一生経済的に恵まれるが、
機会均等の公平な競争のもとで「負け組」になれば、生涯、経済的困難がつきまとうという格差の大きさが問題なのだ。このような格差を小さくすることが政治の役割である。
 
 自由放任では富と能力に基づく格差が際限なく拡大する。格差が小さく、競争に負けても生活が成り立ち、自分の内面的価値の実現が可能な国では国民の幸福度が高い。北欧がその例である。アメリカでは形式的な機会は平等でも、富の偏在と能力差が大きな格差をもたらしている。ハーバード大学、スタンフォード大学、MITは能力がなければ受からないが、年間の学費が500万円程度であり、日本の私立の医学部並みに金がかかる。大リーグの選手になるには金は必要ないが、能力が必要である。他方、北欧の大学は、無償で学生に生活費が支給されるが、大学の数が少なく能力が必要である。しかし、大学に行かなくても生活ができるので、受験競争は日本、韓国ほど激烈でははない。


2018年8月3日

管理、制裁、マニュアルで成果が上がるか

 大阪市が学力テストの点数が悪い担当教師の手当てを減額するらしい。無能な政治家の無能な政策。制裁によって成果を上げる方法は失敗する。人間の意欲は制裁によってもたらされない。死刑制度では、「死刑になりたい」という犯罪者を抑制できない。このような破滅型の犯罪者が増えている。

 刑罰、制限、禁止によって過失事故、山岳事故は減らない。
 罰を与える方法では、生徒の成績は上がらない。かつて、学校で宿題を忘れた生徒に罰を与える方法が横行していたが、罰を受けた生徒の成績があがることはなかった。言うことをきかない犬を殴ると、犬は凶暴化する。私も、小学校時代毎日教師から殴られ続けたので、ずいぶん反抗的になった。反面教師としてよい勉強になったが。

 避難指示に従わない人が多いので、避難しない人に刑罰を科すことができるだろうか。
 仕事のできない社員を賃金カットする方法では、社員の意欲は増さない。
 管理、制裁、マニュアルで成果を上げようとするのは、もっとも無能な方法である。

 学校での競争と管理が強まっている。国が大学での競争と管理を強化しており、これが文科省の汚職につながった。文科省から大学への天下りが多く、大学は文科省に頭が上がらない。

 
官僚は総理の意向を気にしながら仕事をする。中世の官僚は国王の意向を気にしながら仕事をしていた。それと同じ。
 
司法改革は、大学と弁護士の業界に競争原理を持ち込んだが破綻し、法科大学院、大学法学部、弁護士業の人気が凋落した。これによって大企業、一部の有名大学、大手ローファームは恩恵を受けたが、一般の国民が利益を得ることはない。

 不祥事が生じる度に管理が強化されるが、管理を強化するだけでは不祥事は減らない。不祥事が生じる制度的な原因があるからである。
 管理された日本の学校の教師は、先進国の中で「もっとも魅力のない教師」になってしまっているのではないか。同様に、管理された日本の会社員は、先進国の中で「もっとも魅力のない会社員」と言えそうだ。ヨーロッパでは会社員も公務員も夏休みが1か月あり、十分に人生を楽しむことができる。日本の官僚は、先進国の中で「もっとも魅力のない官僚」と言えそうだ。韓国、中国、北朝鮮よりマシかもしれないが。日本の弁護士も、長時間労働の割に収入が安定せず、最近は管理が強化され先進国の中で「もっとも魅力のない弁護士」になりつつある。

 登山道の管理についていえば、登山道を完璧に整備して事故を防止しようという韓国型の方式は愚の骨頂。どんなに整備しても事故が起きる。登山道を整備すればするほど管理責任が増し、事故が起きれば責任のなすり合いの構図になる。この点は韓国の政治と同じ。登山道を形態別に管理し、それに応じた整備と責任を考える先進国型の管理が必要。事故の防止はあくまで登山者の主体性による。日本の登山道の管理方法は、韓国型でも先進国型でもなく、放置型である。
 小さいころから管理に慣らされると、管理されることを当たり前に感じる。そんな日本人が多い。管理し、管理されることを好む人は不幸である。幸福は自由な精神から生まれる行動と思考が外部から縛られることは奴隷状態を意味する。自分の行動と思考を自ら限界づける人は自ら奴隷の精神を背負う。管理が強化されればされるほど、幸福の量が減っていく。
 管理と競争原理では、一時的に成果が出てもそれは長続きせず、人間は幸福になれず、やがて政策は破綻する。
それは歴史が示している。
 


2018年8月2日

上からの災害防止策の限界
 広島県では、今後、避難指示の連絡を各世帯ごとに行うそうだ。
 その結果、被災後に、「うちには避難指示の個別連絡がなかった」とい苦情が多発するだろう。世帯ごとに危険性を判定する役所の負担が増し、公務員が長時間労働をし、残業手当をまかなう税金支出が増える。それをカットすべく残業代未払い事件が増える。過労死が増えれば、役所が支払う損害賠償賠償金が増える。
 問題、事件、被害が生じる度に、非難の応酬と責任の押し付け合いが繰り返される。
 問題、事件、被害が増えれば弁護士の仕事も増えるので弁護士は歓迎するが、現実には、日本では弁護士費用の負担を軽減する制度がないので、事故や事故が弁護士に依頼されることが少ない。弁護士の数が増えても、弁護士の仕事が増えない。それはよいことなのか、悪いことなのか。

 住民は、役所からの指示を待ち、被害回避の受動的な傾向が増す。住民はますます「お上」に依存するようになり、被害が減らない。
 災害の被害回避には市民の主体性が重要。

 学校で、生徒が災害マップを持って地域を回り、どこにどのような災害の危険があるのかを考える学習、災害時にどのような行動をとるべきかを考える学習などが重要である。これらには正解はない。マニュアルは、正解を上から与える方法であり、それでは人間は考えなくなる。子どもが考えれば、親も考えるようになる。子供の方が自然の危険性に対し敏感である。子供は、自然に対する感受性が鈍磨していないので。

 山岳事故についても、日本では、上から目線で、「お上が事故を防止してやる」政策が多い。危険な場所を登山禁止にするとか、冬山登山の禁止、登山道の過剰整備、登山届の義務化、山岳事故に刑罰を科すことなど。登山者の主体性がなければ、事故は減らない。パターナリズムでは山岳事故は防げない。現実に山岳事故件数は増えている。先進国では、「役所が登山者の事故を減らしてやる」ことはしていない(そのような活動をするボランティア団体はあるが)。事故の防止は登山者の主体性の問題とされる。そのような自律は学校教育の中で、「自分の命を守る」経験をすることで養われる。


2018年7月26日

「登山者・山岳関係者のための法律入門」講演会(山形市)
 山形県・山形県自然公園等保全整備促進協議会主催
 
 参加者約100名。登山道の管理などに関して多くの問題が生じているようだ。問題意識の高さを感じた。この種の講演会は登山関係の山岳団体が主催することが多いが、行政が実施する場合もある。今までに、富山県、小笠原村、長野県で話をしたことがある。

 山形は広島から遠いイメージがある。今まで車で山形を3回訪れたことがあるが、車だと山形は遠い。しかし、広島から仙台まで飛行機で1時間30分であり、仙台市・山形市は1時間あまりである。その近さに驚いた。今では、山形市は仙台市の経済圏に入っているようだ。

          
          月山
                  何も見えない蔵王・お釜

 蔵王周辺の歩道・登山道は観光客が利用する遊歩道であり、安全管理が求められるが、月山の歩道は登山者の自己責任を前提とする整備・管理になる。


2018年7月15日
モンブランでの入山制限
 モンブランで登山者の混雑が生じたため、入山制限をすることになった。
 モンブランの入山者数は、日本の富士山などよりも登山者数が2桁くらい違って少ないのではないか。日本では、入山制限をしていない。
 モンブランで入山制限をするのは、報道では「フランス当局」とされている。国なのか自治体なのかあいまい。これはモンブランを管理しているからできること。日本の山は管理者があいまいなので、入山制限をするとすれば、「誰が制限するのか」という問題がある。自然公園法では入山制限ができず、土地所有者は登山道を管理していない。日本の登山道は管理者があいまいなことが多い。日本で入山制限をすれば、必ず、「経済的利益が減るではないか」という苦情が出る。日本では経済的利益が優先される傾向がある。



2018年7月12日
避難指示の問題点
 
避難勧告、避難指示が出た場合でも、その対象地域のすべてに災害の危険があるわけではない。この点は、結果として、避難勧告、避難指示の対象地域のすべての人が被災していない事実から明らかである。現実に被災する人は、避難勧告、避難指示が出た地域の一部である。市内全域に避難指示を出しても、市民全員が避難しない。たとえば、広島市全域が土砂災害の危険があるという理由から避難すべきだということはありえない。現実に広島市内全域に避難指示が出たが、市民全員が避難することはなかった。そもそも、広島市民120万人が避難できるだけの避難場所もない。広島市内全域に避難指示が出た場合、広島市内にある避難場所も避難指示のエリア内にある。広島市外に避難しようにも、広島市外でも避難指示が出ていた。今回は、市内全域、広島県内のほとんど全域に避難指示が出ていたため、避難指示が機能しにくかった。避難指示は限られた地域に出れば、効果を発揮する。個々の家ごとに避難指示を出せばさらに効果がある。しかし、行政がそれを行うのは無理であり、各人が自分で判断するほかない。

 ただし、原発事故、火山噴火、巨大台風などの場合には、対象地域の全市民が避難すべきである。福島原発がもっと大規模の爆発をすれば、東京都民全員(島を除く)が避難すべき事態が生じただろう。堤防が決壊する危険がある場合には、低地に住む人は全員が避難すべきだが、高台に住む人は対象外である。津波の場合も同様である。土砂災害の場合、対象地域のすべての人に土砂災害の危険が生じるわけではない。危険かどうかは具体的なものであり、避難指示の有無に関係なく、ケースバイケースである。同じ地区でも沢地形の末端は危険だが、尾根地形は危険ではない。現実にそれが結果として現れている。行政がそれらの危険性の程度を個別的に判断することは不可能である。危険かどうかは具体的に考える必要があり、行政は一律に判断するが、被災の結果の違いは具体的である。最後は自分で判断するほかない。 
 私は危険かどうかは、自分で判断することにしている。今回、避難指示が出たが、私は避難しなかった。私の家よりも、川の傍にある指定避難場所の方がよほど危険だと考えたからだ。深夜、大雨の中を高齢者が避難場所まで歩いて行くことは、かなり危険だっただろう。この地域は被害がほとんど出ておらず、指定避難場所も被害は出ていないのだが、避難場所は土砂災害や地震には対処できても、この地域でもっとも低い場所にあり、この地域ではもっとも浸水しやすい。避難場所になっていない役場支所の方が高い場所にがあるが、おそらく耐震強度が十分でないのだろう。今回の災害では耐震構造は関係ないのだが。避難場所になっていない高校はこの地域ではもっとも安全な丘の上にあるが、高齢者の中には坂道を歩いて登ることができない人もいるだろう。試しに指定避難場所を見に行ったが、避難している人は少なかった。
 
 避難指示に従っても従わなくても自己責任である。それは、各人が自分で危険性を判断できることが前提である。子供の頃から防災教育を実施し、自分で危険性を判断できる能力を養うことが必要だが、そのような教育システムがない現在、行政の指示が重要な意味を持っている。自分で危険性を判断した経験がなく、そのような訓練も受けていない人に、それを要求しても無理である。
 三次市では低地にある避難場所に避難したが、避難場所の1階が水没して自動車の損害を受けた人がいる。結果から言えば、自宅に止まれば被害はなかった。
 なぜ、こんなに低い場所にある建物が避難場所なのか? 駐車場はまるで地下室だ。
 他に適当な市の施設がないからのようだ。
 確かにこの施設は水没しても、洪水に流されることはないのだろう。
 地震にも強そうだ。
 大雨の時にここに避難すべきかどうかは微妙だ。もっと危険な場所に住んでいる人は避難すべきだろう。丘の上にある公園や運動公園などに車で避難した方がよいのではないか。そこへは歩いて避難するのは無理だが、付近に数百台の駐車スペースはある。
 東北大震災の時に、行政が指定した避難場所に避難したために被災した人がたくさんいる。高台に住んでいる人にも一律に避難指示が出るが、そういう人は、わざわざ低地にある指定避難場所に避難して危険を高める行動をとるべきではない。指定避難場所が安全かどうかは、災害の種類による。
 避難勧告がでなくても危険な場合がある。「避難勧告が出ていないから、安全である」と考えることは危険である。

 災害時には個々人の危険性に対する感性がモノを言う。リスク感覚である。それは山岳事故の危険性を察知するリスク感覚と同じである。それは経験によってしか身につかない。自然災害のリスク感覚は小さいころからの防災教育次第だろう。それはマニュアルや想定、安心に頼るものではなく、釜石3原則に代表される。それは地域の特性を反映したものになるだろう。


2018年7月11日
集中豪雨について

 
今回の集中豪雨は広島県に大きな被害をもたらしたが、県の南部に被害が大きい。私の事務所がある町と私の自宅のある町では被害はほとんどなかった。全国から、「大丈夫でしたか」という問い合わせがあるが、事務所は平常通りであり、依頼者や相談者で被害を受けたという人は、今のところいない。
 
 同じ広島県内でも、地域によって大雨がもたらす影響の違いに驚かされる。私は大雨の夜、自宅にいたが、低地での冠水被害は若干は予想したが(大雨では必ず冠水被害が出る)、これほどの大災害になることは予測していなかった。
 雨量は広島市と県北地域が多かった。まさ土は広島県内全域に分布している。県北には植林地が多い(針葉樹のある山は崩落しやすい)。三次市に山を丸ごと伐採した場所があり、以前の大雨で一部が崩落していた。今回の雨で崩落すると思っていたが、結果的に崩落しなかった。県北地域にもっと被害が出てもおかしくなかった。県北地域の住民の防災意識が高かったわけではない。私の住んでいる地域では避難した人は多くない。この地域では防災に関して何もしておらず、住民の防災意識は極めて低い。この地域の防災対策はないに等しい。

  被害の有無は地形が関係していると思われる。広島市の周囲に断層帯があり、山、谷が急峻で、川幅が狭い。安芸高田市内でも広島市安佐北区につながる地域や東広島市との境界付近の渓谷(人家なし)では道路が冠水している。呉市周辺は山が海岸に迫った地形が多い。広島市や呉市は急峻な山の山裾を削って造成した住宅地が多い。急傾斜の山の沢地形の末端付近での土石流被害が多い。砂防ダムのある沢はもともと危険である。三原市や福山市は、河川の氾濫が作った平地に街があり、河川が氾濫しやすい地形である。府中町の水分峡付近も地形的に河川が氾濫しやすい。 
 このような災害の危険のある地形の防災対策の遅れや避難の遅れなどが今回の被害につながったのだろう。
 砂防ダムやダムも被害に関係している。砂防ダムは危険な地形の象徴なのだが、砂防ダムがあることでかえって住民が安心し、避難の遅れにつながったようだ。この点は、津波時の防潮堤の存在に似ている。
 ダムは満水時には機能しない。もともとダムは小災害を防止するが、大災害時には危険である。今回のような大雨や地震によってダムが崩壊するリスクがある。ダムはいずれ土砂で埋没し、老朽化し、廃棄すべき時期が来るが、莫大な廃棄費用がかかることは原発と同じである。

 三次市では冠水した地域があるが、これは川が集まる盆地の地形が関係している。安芸高田市吉田町も盆地であるが、三次市よりも川の上流にあることが幸いしたようだ。もっと雨量が多ければ、吉田町も冠水した可能性がある。安芸高田市向原町は日本海と太平洋の分水嶺(江の川と太田川)になっている丘陵にあり、降った雨が下流に流れる地形である。土地も岩盤が多い。ダムや砂防ダムもない。崩れやすい沢がないわけではないが、付近にほとんど人が住んでいない。同じ向原町でも、広島市白木町に接する地域は白木町と同じ地形であり、被害が出た。白木町から広島市方面は河川が氾濫し、橋がいくつも損傷を受け、家屋が損壊した。ここの県道は大きく損傷し、JR芸備線の損害が大きい。向原町と東広島市の間に山があり、この渓谷沿いの道は損傷を受けたが、人家はない。

    

    今にも氾濫しそうな川(氾濫はまぬかれた。安芸高田市吉田町)
   

2018年7月5日
大学のコネ入学

 
文科省の局長が自分の子供を大学に入学させてもらう見返りに補助金交付で便宜を図った嫌疑で逮捕された。現段階ではあくまで嫌疑であって、有罪ではない。法的には無罪の推定が働くが、国民はそれを受け入れない。世論やマスコミは無罪の推定規定を無視する。日本には法律はないようだ。無罪の推定が働くので、判決が確定するまでは局長の解任ができないはずである。

 大学と文部官僚の癒着。この局長は、局長になる前に国立大学の副学長をしていた。文部官僚と大学との癒着が収賄事件の背景にある。これは、規制緩和により、大学間の競争が激しくなったことが関係している。

 補助金行政の問題。国民は補助金という言葉に騙されやすいが、要するに、国が企業や団体に金をやるということである。返還しない補助金は贈与である。国がタダで金を配ることが、不正につながりやすい。補助金によって国は大学を統制できる。加計学園のような特区も、特別扱いををする点で似たようなものである。国は補助金と交付金で地方自治体を統制できる。これは天下りの温床。

  「裏口入学は昔のことであって、今時、そんなことをする大学はない」と大学関係者は口をそろえて言う。しかし、日本では私立大学のコネ入学、コネ採用、裏口入学は法律上、違法ではない。違法ではないので、当然、ありうる。法的には、大学で誰を入学させるかは大学の自由である。文科省の局長は、自分の職務権限に関してコネ入学をしたので収賄罪の違法の嫌疑を受けているが、補助金の便宜を図らないコネ入学であれば違法ではない。通常は裏口入学がなくても、例外的なコネ入学がある。ペーパーテストの成績が悪くても、面接で気に入った者を大学は入学させることができる。猛勉強の結果、テストでよい点をとる者よりも、テストの点数は悪くても、著名な学者や官僚、政治家、医師の子弟の方が優秀だとしてゲタを履かせる方法。浪人生よりも現役生の方にゲタを履かせる方法。地元枠を設ける方法。国家戦略特区のような入試の優先枠。優秀かどうかの判断に大学の主観が入る。
 推薦入学は、公平らしく装ったコネ入学である。一流大学の学生は面接で採用を内定し、採用試験の結果は関係ない。大学の経営者の親族はその大学に入りやすい。企業経営者の息子が後継者としてその企業に入るケースが多い。彼らは企業の採用試験は受けないのだろう。入試に合格しても入学させるかどうかは大学の裁量である。国立大学の医学部の入試に合格しても、入学が認められなかったケースがある。裁判所はそれを違法ではないと判断した。国家公務員試験に受かっても採用されない人がいる。試験に受かった人を採用しなくても違法ではない。不合理な理由で入学を拒否すれば平等原則に反して違法だが、不合理な理由で入学を認めても不利益を受ける者がいないので、裁判の対象にならない。本来100人の合格者を、裏口入学の1人を加えて101人を合格させても、差別によって不利益を受ける者がいない。大学の創設者の子供などはこの方法でその大学に入るのだろう。
 日本にはこれを違法とする法律がないのだが、この点を知らない人が多い。裏口入学の規制は行政指導である。これは法的拘束力がない。かつて、司法試験でも法務省は若い人に合格点数のゲタを履かせていた時期がある。批判が多かったが、最高裁判所がお墨付きをしていたので、違法とはされなかった。司法研修所の卒業試験で試験に落第した人を、元国税庁長官の肩書に基づいて卒業させたケースがある。長島一茂氏は高校時代に授業にほとんど出席しなかったが、特別扱いで進級させてもらったとテレビ番組で述べた。そんなスポーツ特待生や芸能人は多い。企業の採用は、採用の自由がある限り不公平なのだが、公平そうな採用のみせかけをし、国民は簡単に騙される。コネによる入学、進級、卒業、採用は、すべて根は同じ問題である。

 多くの国民が裏口入学を不正だと感じるが、裏口入学を禁止する法律がない。採用の自由は資本主義経済下の自由競争を象徴する制度である。日本の法制度には、「採用の自由」があり、それが大学のコネ入学を正当化している。アメリカでは寄付金額による入試での不公平な扱いを公表しており、これは堂々とした表口からの不公平な入学である。
 不正入試は公序良俗に反すると言う人がいるが、公序良俗違反行為は法律的に無効になるだけで、禁止されるわけではない。しかも、公序良俗に反するかどうかは裁判をしないとわからないが、国民や他の受験生は裁判の当事者適格がない。裏口入学する学生と裏口入学させる大学が合意すれば、採用の自由お原則のもとに、「誰を大学に入学させるかは大学の自由である」という考え方が支配する。入学を拒否すれば差別の問題が生じるが、入学させる場合には法的に差別の問題にならない。民法の公序良俗規定では、裏口入学を阻止できない。大学には世論の批判は恐いが、裏口入学がバレなければ平気なのだろう
 
 裏口入学を禁止していない法律自体が不公平なのだが、それを知らない人が多い。
 入学、進級、進学、採用、昇進などで不公平な扱いを禁止する法律が必要である。
そうすれば不公平な入学、進級、進学、採用、昇進などができなくなる。法的に裏口入学を容認しておいて「うちの大学は裏口入学をしていません」と言っても、例外的に合法的な特別扱い(裏口入学)が可能なのだ。「うちの大学には裏口入学は絶対にありません。万一、それをしていれば、即刻、当大学を廃校にします」という宣誓文書に署名できる大学がどれだけあるだろうか。たぶん、半分くらいの大学は署名を拒否するのではないか。裏口入学が可能な日本の法律を変える必要がある。


2018年6月30日
パラグライダー中の事故
 
群馬県でパラグライダー中に墜落して客とインストラクターが死亡した。インストラクターに過失があれば、民事責任、刑事責任が生じる。通常、この種の事故にはミスがある。不可抗力の事故は滅多にない
しかし、ミス=過失ではない。突風や気流の変化などが事故の原因だが、これらは事後的に検証すれば予見可能であり、過失が認定されやすい。実際には、これらを予想できなかったから事故が起きるのだが、法的には予見可能とみなされやすい。この種の事故はインストラクターがどんなに注意をしても、事故の確率はゼロにはできない。機械の操作は、理屈では事故をゼロにできるが、自然の中ではそうはいかない。運が悪ければ事故が起きる。自然には予想の難しい危険性がある。もともとパラグライダーは危険な行為であり、アウトドア活動をする人はそれを了解しておく必要がある。
 アメリカやカナダでは、免責同意書の有効かどうかが微妙なケースが多いが、日本では無効であり、問題にならない。もし、インストラクターが生存していれば、インストラクターが世論から厳しく非難され、その刑事責任が問われるだろう。欧米ではこの種の事故で刑事責任が問題になることはひとんどないが、日本では過失事故の処罰範囲が広い。



2018年6月30日
無駄が多い日本の社会
 
最近、日本では無駄な仕事や作業が多いことを感じることが多い。
 仕事の効率が悪いのに長時間労働をして、残業代未払いという法的紛争を生じさせ、過労死を大量生産させている。
 不祥事が起きる度に長時間労働をもたらす。
 儀式化した無駄な会議と報告書が多い。
 役所と企業は役に立たないマニュアル作りに励んでいる。
 学校では役に立たない道徳などの授業を実施し、無駄な会議と報告書の作成が教師の無駄な長時間労働を増やしている。世論が求める無駄な作業がさらなる無駄を生み、国民の自己満足のかわりに国民の税金負担が増える。
 裁判でもマニュアル化された無駄な儀式が多い。判決文はもっと簡潔でよい。ほとんどの事件で、判決文を読む人は数人しかいない。弁護士が書く書面はもっと少なくすべきである。書面の量が増えれば、依頼者が負担する弁護士費用がそれだけ高くなる。裁判手続きが煩雑になれば、それだけ国民の経済的負担が増える。
 無駄な消費と浪費のためにだれもがあくせく長時間労働をしている。無駄なものを買わせられる社会。価値のある消費物質が簡単に捨てられ、その廃棄費用が膨大である。
 道路、空港などへの無駄な出費。役所は、多額の無駄使いをし、少額の必要経費を削減する。
 膨大な原発廃棄費用。
 事件や事故が起きる度に第三者委員会や検証委員会を設置するのは税金の無駄。
 年金問題でどれだけ税金を使ったことか。
 無能なスポーツ指導者、監督があまりにも多い。スポーツ指導者の養成システムと資格制度の問題。頭を使わない指導者が多いのは、そのような訓練を受けるシステムがないからである。これが体罰、イジメにつながる。頭ではなく、身体と感情を使った指導。根性主義の無駄な猛練習をしても成果は出ない。優秀なスポーツ選手が選手が有能な監督になれるわけではない。無能なスポーツ指導者は、無駄な時間と金を浪費し、膨大な無駄を生む。
 大学に入っても勉強意欲がなければ大卒の肩書が役に立たないのに、誰もが無駄な金をかけて大学に入りたがる。それで喜ぶのは大学などの教育産業。法科大学院も無駄。なくても支障は生じない。優秀な人間は大学にいかなくても、独学して仕事で成功する。そのような努力のできない者が学歴を当てにし、当てがはずれ、借金が増える。
 国が主導する資格商法が蔓延し、国民はそれに簡単に騙される。

 社会的な無駄が多ければ多いほど、個人の幸福追求のための時間が減り、国民の幸福度が低下する。


2018年6月29日
サッカー・・・日本の無気力試合
の問題性
 
サッカーの日本・ポーランド戦で、先発メンバーを入れかえた結果、いつもの攻撃のスピードのない日本に戻った。攻撃に時間がかかるのは、それに慣れているからだろう。負けて当然の試合内容。
 日本はフエアープレイポイントでセネガルを上回っているということで、試合の途中から攻撃をやめて時間稼ぎに終始した。ポーランドもその点を理解し、日本に協力してまったく攻撃をしなかった。ポーランドの選手の中には自陣に座り込む者すらいた。これは、日本の「故意に負ける」戦術である。このような無気力試合は八百長試合と紙一重である。私は試合の途中でアホらしくなり、試合を見るのをやめて、寝た。時間の無駄。

 攻撃せず時間稼ぎに終始することはフェアプレイとはいえない。このような試合をする日本がセネガルよりもフェアプレイ性でまさるとして決勝トーナメントに進むことは、ブラックジョークとして十分に笑える。日本よりもアイスランド、コスタリカの方が良い印象がある。大敗を恐れて試合を棄権すること、両チームが引き分け狙いで一切攻撃しない試合などはフェアではないので、何等かのペナルティを科すべきだろう。日本とポーランド戦のような無気力試合に制裁を科すルールが必要ではないか。「故意に負ける」戦術や「明らかな遅延行為」をとった場合には「失格」、「警告」などのペナルティを科すべきである。無気力試合が増えれば、ワールドカップの興行性を根幹から揺るがす。極端な場合には、両リームが引き分けであれば両チームが決勝に進める場合、両チームが自陣に座り込むことすら起こりうる。1人の選手がリフティングの練習をするとか、2人の選手間でパス交換を続けてもよい。それで90分経てば引き分けである。
 他のチームも多少の時間稼ぎはするが、日本ほど極端なことはしない。いくらなんでも、そこまでは・・・・・ということ。日本は明らかにやりすぎたのだ。このようなやりすぎの例としては、ヨーロッパアルプスの岩壁に日本人ガイドがフィックスロープを張り多数の客を登られたケースや、アイガー北壁にボルト連打のルートを作ったケースがある。ボルト連打はクライミングの自滅・自殺行為である。クライミングでのフィックスロープやボルトの倫理の欠如。日本の登山道の鎖、梯子の多さも同じ。このような倫理の欠如はフィロソフィーの欠如から生じる。
 サッカーの時間稼ぎはどのチームもするが、サッカーのフィロソフィーに照らして日本ほど徹底してしない。ルール違反でなければ何をやってもよいということではない。それが倫理である。論理の根底にフィロソフィーがある。日本では、法律、ルール、倫理が区別されない。日本チームの倫理が問題になっている場面で、「ルール違反ではない」と言う人がいるが、ルール違反かどうかではなく、倫理違反かどうかが問題なのだ。
 日本にはもともとフィロソフィーがないので、他国のチームが従前しにくかった「徹底した時間稼ぎ」をしてしまった。ついに、禁を犯ししまったのだ。日本人は、上からの指示に忠実というか、真面目というか、何も考えることなく、ためらうことなく監督の指示に忠実に行動してしまった。「ルール違反でなければ何をしてもよい」というフィロソフィーの欠如は、法律の抜け道捜し、企業や役所の情報の隠蔽、改ざん、不祥事、不正をもたらしやすい。

 日本の行動は、半面教師として、今後のFIFAのルール改正の契機になるのではないか。
 オリンピックでのバトミントンの無気力試合、大相撲の無気力相撲。柔道では攻撃をしなければ減点される。野球の無気力試合で点が入らなければ、両チームの投手の防御率が上がる。無気力試合で両チームの盗塁数や本塁打数を量産すれば、これは八百長試合である。全力で試合に勝とうとするのがスポーツ競技である。全力で試合を戦えば、結果はどうなっても仕方がない。無気力試合を見にロシアまで行く人はいないだろう。イングランドとベルギー戦も2位狙いの試合だったが、それでもイングランドとベルギーは、「故意に負ける」戦術をとってはいない。無気力試合が増えればファンが離れる。監督の無気力試合の指示に対し一人くらいは反抗する選手はいないのか。集団への忠実性はいかにも日本人的だ。決勝トーナメントに進むだけで、FIFAから日本に12億円が支払われる。その経済効果は、おそらく数十億円にはなるだろう。得か損かで行動するエコノミックアニマル。日本は決勝リーグでどうせすぐに負けるので、世界の関心の対象外だろうが。
 この件に関してサッカー解説者、マスコミ関係者のほとんどが日本チームのとった行動を評価する。彼らの多くはサッカーの日本チームと関わりのある人たちである。それでメシを食っている。サッカー解説でテレビに出演すれば高額の出演料が出るが、日本チームの行動を批判すれば、マスコミから干されるだろう。マスコミはワールドカップの放映で多額の利益を得ている。しかし、最終的に評価を下すのは、世界中のサッカーファンと世界中の国民である。
 日本の国民はなめられている。日本人は怒るべきである。


2018年6月26日
温泉でマムシにかまれる事故
 
京都のあしぎぬ温泉の滝の傍の温泉で客がマムシに咬まれる事故が起きた。客は、「言語道断」と述べている。これに同調する国民が多く、マスコミの論調も同じである。
 この露天風呂は滝つぼの傍の自然の中にある。温泉の管理者に法的な責任があるだろうか。この浴槽が屋内にあれば、管理責任が生じる。しかし、自然の中では、物理的にマムシの進入を防止するのは無理だろう。滝を人工的な壁で覆えばよいが、それは滝を屋内化することになり、無理である。
 ただし、マムシ、ムカデ、イノシシ、蜂、サル、イノシシなどの露天風呂への進入がありうることを警告表示することが必要だっただろう。警告表示の欠如という点で管理上の法的責任が生じるだろう。

 露天風呂に限らず、自然の中では同様の事故が起こりうる。公園で子供がマムシに咬まれた場合に、管理責任が生じるだろうか。学校の校庭で生徒がマムシに咬まれた場合に管理責任が生じるだろうか。日本では学校の管理責任が生じるかもしれないが、現実には、校庭へのマムシの進入を阻止することは無理だろう。校庭を高い塀で囲ってもマムシを100パーセント阻止できない。スズメ蜂、ムカデ、ネズミ、毒蟻などは塀では阻止できない。この点は、通学路での事故や事件と同じである。
 自然がもたらすマムシ、蜂、イノシシなどのリスクを想定しない点に問題がある。リスクマネジメントの欠如。

 カナダでは、国立公園内で熊に襲われたケースで、パンフレットなどに警告表示されていた点で管理者が免責された裁判例がある。アメリカでも同様の裁判例がある。アメリカやカナダでは、キャンプ場や公園に熊の危険性を表示することが常識である。しかし、日本ではキャンプ場にマムシやスズメ蜂の危険性を表示することはない。日本との違いはリスクに対する意識の違いである。日本ではリスクを無視することで経済的利益を優先させ、国民はリスクを無視することで安心、慢心する傾向がある。リスクが現実化してビックリというパターンが多い。



2018年6月24日
山岳遭難の増加
 
2017年の山岳遭難による死亡者は354人である。増加していることは問題だが、数としてはそれほど多くない。2017年の水難による死亡者数は679人、自殺者数は21,321人である。登山者は800万人くらいなので、死亡事故の確率は高くない。
 もっとも多い遭難は道迷いである。六甲山でも道迷い遭難があるが、六甲山は登山道が網の目のようにあるので、どこを歩いてもすぐに登山道に出るはずである。道迷いをした後、その場を動かなかったために発見されなかったケースがある。逆に動きまわって滝から落ちて死亡する人もいる。道迷いをした後に、動くかどうかはケースバイケースである。これは、災害時にどのように避難するかに似ている。自分のリスクマネジメントの能力を超えると遭難しやすい。未熟者が単独で行動すると、自分の能力を超える事態に遭遇しやすい。
 自分の能力の範囲を超えるかどうかの判断が難しいが、その判断は登山の指導者が担う。他のレジャーやスポーツで自分の能力を超える行動をしてもケガをする程度ですむが、登山では死を招く。



2018年6月18日

裏山登山で迷う

 
昨日、近所の藪山を2時間ほど歩いたが、緩やかな尾根が20〜30メートルくらいの間隔でH字型に入り組んでいる場所で迷った。藪の中に道はない。2万5000分の1の地形図では緩やかな尾根は明瞭に記載されていない。やむを得ずGPSを見たが、GPSの表示がおかしい。地図と磁石の表示と矛盾する。元の尾根に戻ろうとしたが、変形H字型の尾根の罠に陥り、元の尾根とは別の尾根に入り込み、私は混乱した。地図では尾根が明瞭でなく、どの尾根も特徴がなく同じ樹林帯に見える。変形H時型の平坦な尾根は直角に交差せず、微妙な角度で交差し、しかも曲線になっている。人間の感性による空間認知が簡単に狂う。人間の感覚ほどあてにならないものはない。たぶん、野生を失っていない犬はこのような場所でも迷うことはないだろう。モンゴルの遊牧民、カヌーで航海した古代ポリネシア人も天性の方向感覚を持っているかもしれない。しかし、都会生活をしている現代人はそうではない。

 私は現在位置がわからなくなった。このようにして人は遭難をするのだろう。もし、私が遭難したらマスコミからひどく叩かれるだろう。「無理をしない行動を呼びかける登山家の弁護士が自分の力を過信」などのマスコミ記事の見出しが思い浮かぶ(もっとも、ここは、たとえ迷っても下に向かって1時間も歩けば、必ずどこかの山麓や道に出ることができるのだが)。コンパスが故障したのかと思い、予備のコンパスを見たが、2つの磁針が示す方角は一致している。磁針の北と南を見間違えたのかとすら考えた。15分くらい迷った後、GPSの表示を無視し、磁針の示す方角に進むと、地図と尾根の形状が一致した。しばらく進むとGPSが正しい地点を表示するようになった。樹林帯なのでGPSの感度が悪かったのだろう。GPSを見ていなければ、あれほどまでに混乱はしなかった。高山よりも低山の方が迷いやすい。山岳遭難の約4割が道迷いによるものである。
 このように迷う経験は、実に楽しい。
これだから、道迷い遊びがやめられない。



2018年6月17日
アイスランドの活躍
 サッカーでアイスランドが活躍している。人口35万人の国がなぜこれほどまでに活躍できるのか。アイスランドの生活水準は高い。当然、日本よりも上。幸福度世界2位、国際競争力はヨーロッパ1位、国民のほとんどがバイリンガル。ほとんどの店でカードが使える。原子力発電に頼らない国、おまけに、スポーツも強い。日本のJリーグで大金を使うのに、日本はアイスランドよりもはるかに弱い。アイスランドのランクは22位。日本の地方都市程度の国が世界の中で存在感を示す。人口570万人のデンマーク、人口800万人のスイスも、生活水準、幸福度、サッカーのランク、労働環境が日本よりも上である。
 そこには知恵と工夫がある。デンマークでは、小さいころから、上から方法を教えるのではなく、生徒が考えて自ら解決していくことを重視する教育を行っている。これはデンマークの著名な思想家のグルントヴィの思想が大きく影響しているのだろう。
 

2018年6月15日
テレビ局の取材
 登山届を義務づける条例に関して、NHK金沢支局の取材があった。映像を撮られるのはどうも苦手だ



2018年6月14日
トランプと金正恩は似ている

 トランプと金正恩がが意気投合した。これがシンガポール会談の意味するところだろう。会談の具体的な中身はとぼしい。アメリカと北朝鮮は政策は異なるが、トランプと金正恩は気質が似ている。どちらもワンマン的な権力志向がある。どちらも深くものごとを考えるタイプではなく、その時の気分や感情に基づいて決定する傾向があり、目先の利害にとらわれやすい。どちらも激情型の人間であり、似た者同士の意見が対立しやすい。
 トランプは、金正恩が個人的に気に入ったのではないか。それだからこそ、大統領の公用車内部を金正恩に見せたのである。本来、これは国家保安の観点からいえば大統領の越権行為ではないか。日本の安倍首相やプーチンも似ており、トランプは個人的にはオバマやメルケルよりもプーチンの方に親近感を持っているのではないか。

 21世紀は政治家の資質が多くの問題を引き起こしそうだ。そのような政治家を選ぶのは国民であり、国民がワンマン的な権力志向者を選ぶのである。ヒトラーを総統に選んだのは、当時の政治に不満を持っていたドイツの大衆だった。ヒトラーを批判した一部の知識人の意見は圧倒的な数の大衆の前に無力だった。ナチスのユダヤ人虐殺には、当時のヨーロッパ人のユダヤ人迫害感情の後押しがあった。隠れているユダヤ人を自発的にナチスに密告した市民は多い。トランプもプーチンも国民が選んだ代表者である。ロシアの選挙の不正が指摘されるが、プーチンがロシアで圧倒的な人気を得ていることは事実である。戦前の日本の軍部が政治家より大衆の支持をえていたように。
 大衆はしばしば賢明でない選択をして、自ら不幸を招く。弁護士の経験上、庶民は賢明でない選択をして自分から法律的な不幸を背負い込むことが非常に多い。そして、「何も知らない我々が賢明な判断などできるはずがないじゃないですか」と言い、自らの選択を後悔する。それを歴史は繰り返してきた。



2018年6月13日
野鳥撮影でのマナー違反・・・・何が問題か
 
野鳥撮影でのマナー違反が増えているらしい。これはデジタルカメラの普及で写真撮影する人が増えたためらしい。鉄道写真を撮る人の場所取り
争うが問題になることがある。これは、登山者の避難小屋の場所取りの問題に似ている。レジャー人口が増え、大衆化するとこの種の問題が生じやすい。

 これは、自然の管理者が自然の利用規則を定めれれば解決できる。自然の管理者は行政や土地所有者である。たとえば自然施設の撮影者が増えて混雑する場合には入場規制などが必要になる。しかし、日本では、自然の管理者があいまいであることが多い。行政や土地所有者は自然の管理に消極的である。それは管理責任を負うことを恐れるからである。その結果、自然の利用が国民同士の紛争になりやすい。マナー違反の問題として国民同士が対立するだけでは永久に問題を解決できないことが多い。


2018年6月11日
無差別殺傷事件のリスクマネジメント

 6月9日に起きた新幹線ないでの殺傷事件の対策として、新幹線の乗客の持ち物検査が主張されているが、これを実施しても駅の構内や山手線などでの殺傷事件、歩行者天国、映画館内、デパート、遊園地、、集団登校などでの事件を防ぐことはできない。かつてのインドでは、デパートの入り口に金属探知機があり、バッグをデパート内に持ち込めないようになっていた。デパートの入り口で銃を持った兵士が警備していた。インドの街中は警察官だらけだったが、警察官が不正をするのだからどうしようもない。無差別殺傷事件は、人が多く集まる場所であればどこでもよい。今回、たまたま、場所が新幹線だったといだけのことだろう。
 この種の事件のリスクマネジメントには、行政や企業の管理者としてのリスクマネジメントと利用者の側のリスクマネジメントがある。利用者の立場では、被害を回避するために、その場での臨機応変の判断と行動しかない。危険を早期に察知し逃げることしかないが、秋葉原の無差別殺傷事件のように、限界がある。秋葉原の事件でいえば、日頃から、その種の事件を予測しておくことは、被害を受ける確率を下げることに役立つだろう。


2018年6月10日
第三者委員会のゴマカシ

 
日大の第三者委員会が問題になっている。
 事件や事故が起きる度に第三者委員会の設置が流行している。私も何度か、この種の委員になったことがある。
 しかし、これは、
・委員の選任が不公正で不明朗であること、
・委員の給料を事件関係者が払っていること、
・事実調査に限界があること、
・調査結果にかたよりがあることが多い
・委員会の実務は自治体などの事務局が担っていること(調査や報告書の下書きは事務局が行うことが多い。委員はそれをする時間がないので。1回の会議が2,3時間で、数回の会議で結論を出すということは、大半の作業を委員ではなく事務局が行うことを意味する)。
などの問題がある。
 欧米では日本のような第三者委員会はないはずである。欧米では手続きが重視されるので、日本のように事件や事故の関係者が一方的に設置する調査委員会は国民に信用されないからである。欧米の事故調査委員会などは、法律に基づいた恒常的な組織だろう。日本で、事故や事件が起きる度に第三者委員会を設置するのは、既存の組織が信頼できないことを意味している。北欧では、教育委員会が、生徒や保護者、教師、市民の代表者から構成され第三者委員会になっており、これが問題解決にあたる。日本の教育委員会に中立性があれば問題はないが、実態はそうではない。教育委員会は、行政の一部であり、当事者性が強く、事件や事故を隠蔽する傾向がある。
 第三者委員会も同様。行政や企業が金を出して委員を雇うのに、行政や企業に都合の悪い人物を選ぶバカはいないということ。通常、委員の過半数は行政寄りの者になるように配慮する。
 事件や事故が起きる度に第三者委員会を設置するのであれば、それを常設の機関にした方が効率がよい。それが中立の機関であれば、北欧の教育委員会になる。日本の教育委員会を廃止し、第三者機関としての委員会を常設すべきだろう。委員は、市民団体、弁護士会、教師、生徒、生徒の保護者などの代表者で構成すべきだろう。


2018年6月8日
リスクマネジメントとは何か
 最近の日本では、社会のいたるところでリスクマネジメントが指摘されているが、依然として、リスクマネジメントが欠如している。
 リスクマネジメントの欠如の例
  日大のアメフット部の反則問題とその後の対応
  学校でのイジメに関するメモの隠蔽
  財務省の改ざん問題
  森友学園問題
  加計学園問題
  防衛省の記録隠蔽問題
  福島原発事故
  大学の入試問題のミスと隠蔽
  病院の医療ミスんの隠蔽
  メーカーのデータ改ざん
  法科大学院の廃校問題
  アウトドア事故

 ものごとにリスクがあり、あらかじめそれを予測して対処することがリスクマネジメントである。不祥事が起きた場合に対処を間違えると大問題になることを予測して、不祥事に適切に対応することもリスクマネジメントだが、不祥事が起きる前にそれが起きないように対処することもリスクマネジメントである。日本ではマニュアルを作成することや管理の強化をリスクマネジメントだと勘違いする人が多い。マニュアルを作成しても問題の発生を防止できなければ、リスクマネジメントとしては無意味である。日本では管理のための管理が多く、それが長時間労働というリスクにつながる。
 弁護士の横領事件が増えているので、弁護士会は、弁護士の預かり金に関する規定を整備し弁護士の研修を義務化したが、これは弁護士の横領の防止にまったく役だっていない。弁護士会の政治的パフォ−マンス。
 学校、役所、企業、病院、弁護士会などで、やたらと管理が強化されているが、事件や事故の防止に役立たないことが多い。管理のための事務労働が増えるだけである。 
 弁護士の大幅増加は、弁護士の収入低下・人気低下、法科大学院の廃校、大学法学部の人気低下などのリスクを伴った。
 大学や大学院の数を大幅に増やすことには、大学や大学院の価値の低下という大きなリスクがあった。
 大型店の規制緩和は、かつての商店街のシャッター通り化というリスクがあった。
 銀行では、送金手続きがやたらと面倒になったが、これは振り込み詐欺を防止するためらしい。ナンセンス。銀行の管理の強化では振り込め詐欺を防止できない。
 学校でも、教師が管理業務のために毎晩遅くまで残業をしているが、残業代は出ない。教師を指導する教育委員会や文科省の役人も同じ。
  
 学校の管理強化ではイジメはなくならない。イジメの原因には学校教育制度の根幹にかかわる問題がある。学校の生徒同士の関係は社会を反映する。会社内、家庭内のイジメが学校のイジメに反映する。社会内の差別や格差が学校での差別や格差につながる。画一的な管理ではイジメはなくならないだろう。学校の教師に時間的余裕があり、学校ごとに主体的に取り組むことが必要だろう。
 公文書改ざんを防止することがリスクマネジメントだが、社会のいたるところで改ざんが行われている。企業でも、都合の悪い箇所の書き直しが当たり前のように行われている。企業でできることが役所ではできないのか。法令軽視の日本の社会では法律の抜け道探しがさかんであり、これが不祥事の背景にある。

 
弁護士として扱う事件の多くが、リスクマネジメントが欠如している。借用証なしに金を貸すとか。日本では、リスクマネジメントの欠如は、生活に身近なことであり、それが当たり前だと考えている。

 山岳事故の多くが、リスクマネジメントが欠如した結果である。
 スポーツ指導者にもリスクマネジメントの欠如が著しい。プロ野球の投手に150球も投げさせる監督がいる。炎天下の高校野球。体罰やしごきはリスクマネジメントの欠如の典型。
 
ものごとのリスクを考えるには、小さい頃からそのような訓練が必要である。たとえば、小学校で「動物を飼うことは楽しいことですが、どのような困ることがありますか」、「道路を作ることにどのような良い点と悪い点がありますか
」などを考えさせるとか、身近にある危険について考えさせることが、ものごとの多面性を理解するえで必要。



2018年6月3日
入山禁止の看板
 下記の看板を見かけた。そこは自然公園以外の場所であり、法律上、植物の採取は禁止されていないが、土地所有者は植物の採取を禁止できる。生産森林組合が土地所有者かどうか不明だが、土地所有者も同じ意向だと考えられる。土地所有者でなく、団体がこのような表示をする点はいかにも日本らしい。アメリカでは、個人の土地所有者がこの表示をすれば、侵入者は撃ち殺されても文句を言えないらしい。侵入者は不法侵入罪になる。ただし、アメリカでは団体の表示では、団体関係者が侵入者を撃ち殺すことはできないだろう。あくまで土地所有者個人が主体である。
 日本では、個人は団体の陰に隠れることが多い。これは個人の責任回避の手段でもある。この看板を見た人から苦情が出ても、個人は表に出ないですむ。組織や団体が個人を守ってくれるというくれるというイメージが安心感を与える。個人の自律性の欠如。田舎ではそれが当たり前の常識だが、日本の都会は巨大な田舎社会。
 日本でも、土地所有者が禁止すれば、植物の採取は違法である。入山禁止については、登山を禁止するのは権利の濫用だろう。私はこんな山でいつもフツーに山歩きをしている。


              


2018年6月1日
広島、西武戦での監督采配と消費者の権利
 ひとつの回で10点取られても監督は投手を代えなかった
。この采配はひどすぎる。無能の域を超えている。
 この投手は
打たれた後は立ち直ったので、打ちこまれたことはよい練習になった。この試合は練習試合としては意味があったかもしれないが、交流戦は練習試合ではない。あるいは、打たれた投手に反省させるために代えなかったのか。監督が投手に腹を立てていたのか。広島の監督はファンをなめている。プーチンが何をしてもロシア国内で絶大な国民の支持を得ることがわかっているように、広島の監督も何をしてもファンが逃げないと考えているのかもしれない。監督の采配がこのチームの最大の弱点。
 
 その問題とは別に、観客、テレビの視聴者、ファンは消費者だという視点が必要である。監督や選手はチームのためではなく、観客のために試合をしている。それがプロとアマチュアの違いである。プロ野球の試合は営利事業であり、娯楽上の興行であり、見世物である。観客から料金をもらって試合をしている。球団は契約に基づいて一定のサービスを消費者に提供しており、手抜き試合や無気力采配は野球の興行性に反し、契約違反になる。試合が見世物になるように努力する義務があり、これに反すると、野球の観客に入場料を返せと言う権利がある。大差がつくと視聴者は試合を見る気がしなくなり、試合の商品価値がなくなる。これは、無気力相撲で観客が入場料を返せと言うのと同じ。南米のサッカーの試合であれば、ファンの暴動になりかねない。日本人はおとなしいが、消費者はもっと怒るべきである。


2018年5月31日
五頭連峰親子の遺体発見

 親子の遺体が沢で発見された。簡単に防ぐことができる事故が、また、起きた。
 すべての山岳事故はまれにしか起きない。五頭連峰では事故は滅多にないはずだ。その山では事故はまれにしか起きないが、全国では似た事故が多発している。2000箇所で稀にしか起きない事故が起れば、合計すれば2000件になるということ。低山では、1万人が登っても」、死亡する人は1人か2人程度である。死亡率1万分の1は「安全」とされる。五頭連峰もそのような山だろう。「安全」な山でも事故が起きる。

 登山道の迷いやすさに対し、登山者が対応できなかったことが遭難の原因。多くの初心者が登る山では、いつかは必ずこの種の事故が起きる。この親子は、登山口で、「この山には死ぬ危険性があるが、自分はその危険性を乗り越える自信がある」と考えて登山をしただろうか。むしろ、「自分のような初心者でも簡単に登れそうな山だ」と考えて登ったのだと思われる。5月連休に子供と一緒に遊びたかったという軽い持ちから登山をしたのではなかろうか。
 登山道の入り口に危険性を表示することが重要である。「注意しましょう」とか、「危険です」、「自己責任で」などのあいまいなものではなく、「残雪があるため道迷いしやすく、初心者は死ぬ危険があります」という表示があれば、遭難を防ぐことができただろう。日本では、登山案内は登山者を増やすために設置することが多く、危険表示が軽視される。

 
最近、登山届の提出を条例で義務づけることが流行っているが、登山届の提出を義務付けることでこの種の遭難を防止できるだろうか?
 この親子は登山届を提出したが、途中で予定を変更したようである。計画どおりの山に登ったとしても、あるいは、実際に登った山の届出をしたとしても、道迷い遭難を防止できない。登山届によって道迷いは防止できないが、捜索がしやすくなる場合がある。しかし、条例は、捜索をしやすくするために登山届を提出させるのではなく、あくまで遭難の防止を目的としている。
 登山計画の内容は家族に伝えておくことが必要である。遭難に最初に気づくのは、家族であって行政ではない。このケースでは、遭難に最初に気づいたのは家族であり、警察に通報したが、警察の対応が遅れた。家族に伝えておかなければ、役所に登山届をしていても、誰も遭難に気づかない。では、家族に登山計画を提出することを条例で義務づけますか? そこまで法律でお節介をしていたら、切りがない。
 道迷い遭難は、登山届を提出していても発見が困難なことが多い。
 山岳事故では、道迷いの次に転倒、転落事故が多いが、登山届によって転落事故を防止することも無理だろう。

 登山者が自分のレベルにあった登山をすることが重要である。



2018年5月23日
日大アメフット部の反則事件
 背景に、監督、選手、大学の視野の狭さがある。交流戦で勝ったところで大した意味はないと思うのだが。さらにいえば、アメフットの試合の勝敗は歴史が変わる大事件ではない。もっと歴史や社会の進歩に役立つ視点から考える必要がある。日本のスポーツはどうあるべきかを考えている人は、反則によって試合に勝つことなど考えないだろう。とかく専門家は考える視野が狭くなりがちである。スポーツ指導者も同じ。

 日本では、大学経営が利権の対象になっており、そのために経営のコンプライアンスが欠ける傾向がある。日大も同じ。スポーツが強ければ、学生が集まり、大学に金が集まる。大学、学校法人、福祉法人、宗教法人などの経営では儲かりやすい。一族が学校経営をし、家族、親戚が大学の理事者になるなど。日大の経営者の問題。加計学園。森友問題。法科大学院問題、大学院の濫設などはすべて大学、学校が利権の対象となっていることが関係している。
 大学、学校が経済活動の対象となり、政治家に政治献金をして政治が動く。大学の理事長は資産家である。これは福沢諭吉ー慶応大学の頃から始まっている。福沢諭吉は、大名から安く払い下げを受けた土地(東京お一等地)に慶応大学を作り、巨大な利益を得た。福沢諭吉は金儲けがうまかった。同じようなことを大学の経営者が行っている。森友学園、加計学園も同じ。これは氷山の一角。たまたまバレただけ。これまでも大学の設置に政治家が動いてきた。政治献金の問題性。金で政治が動く。日本はフェアでない社会。


2018年5月11日
大川小学校事故・上告
 控訴審判決に対し、石巻市と宮城県が上告した。

 上告すれば、県と市はそれぞれ上告状に約800万円の印紙を貼ることになる。計1600万円。これは国の収入。県と市の代理人弁護士にかかる多額の費用がかかる。弁護士にとって悪い仕事ではないので、多くの弁護士が県と市に集まる。これらは、住民が税金として負担する。私人の場合には裁判に何千万円もの経費をかけないが、県や市には、「裁判にかかる経費はどうせ自分の金ではない」という感覚があるのだろう。
 上告しても、判決理由が変わる可能性はあるが、判決の結論が変わることはないと思われる。避難方法に学校の判断ミスがあることは明らかなので。奥入瀬渓流事故や積丹岳事故の最高裁判決以上に、過失が明らかなケース。本来、裁判になる前に和解すべきケースである。その点は、法律の専門家であればすぐにわかる。賢明な自治体はそうするが、それは日本では難しい。市長は上告するかどうかの判断では資料を読み漁ったというが、数日程度の泥縄的な法律の勉強では的確な判断は無理。市の顧問弁護士は裁判になる方を歓迎する。報酬につながるので。
 行政のレベルに応じて自然災害の被害が出る。石巻市と「釜石の奇跡」の釜石市のレベルは確実に違う。自治体によって住民が受ける自然災害の被害が異なる。自治体間の格差。山岳事故の救助体制のレベルも自治体によって異なる。
 上告することが事故の防止に役立つわけではない。誰のための裁判か。今後も生産的でない金のかかる裁判が続く。国民が忘れたころに最高裁の判断が出るので、今の市長はもういないだろう。高裁判決が確定すれば市長の政治責任が問われる。上告することは政治的パフォーマンス。数年先の最高裁判決よりも、今が大切ということ。


2018年5月9日

新潟県五頭連峰での遭難
 6歳の子供連れの親子が。松平山(954メートル)で遭難した。
 私も、子供が6歳のころ、よく子どもを連れて登山をしていた。このような低山は危険性が低く、本来、遭難するような山ではない。しかし、自然の中では、やり方を間違えれば、誰でも簡単に遭難する危険がある。危険性は低いが、それでも危険なのだ。「安全であるが、危険である」ということもできる。安全性は、危険性の程度問題である。

 携帯電話での通話が途中でできていたので、携帯電話の電源を切ってバッテリーを節約し、その場を動かなければ、簡単に救助されたはずである。こんなことで人が死んではいけない。
 携帯電話が通じなくなったのは、バッテリー切れか、移動したために通話できなくなったかのいずれかだろう。バッテリー切れを想定して行動する必要がある。

・携帯電話の電源を切ってバッテリーを節約すること。山の中で携帯電話の電源の入れっぱなしは非常識。
・携帯電話がつながることは幸運だと考えること。携帯電話がつながる場所を逃がさないこと。その場所はかろうじて生還につながるポイントだった。その場を動くべきではなかった。自然の中では、ちょっとした違いが生死を分ける。人は、実に簡単に遭難し、実にささいなミスから死ぬ。命をもっと大切にすべきだ。
・沢に下降すれば、携帯電話がつながらず、捜索は極めて困難。沢で滑落するのが遭難の典型的なパターン。
・観光パンフレットに記載されたハイキング道でも迷いやすい。雪、大雨、視界がきかない時、日没、疲労などにより遭難しやすい。自然は変化する。観光パンフレットに記載された登山道は、誰でも登ることができるが、誰でも道迷いをしないというわけではない。ハイカーのレベルと登山道のレベルのアンバランスから事故が起きる。
・地図と磁石で確認すれば道迷いはしない。この親子は地図を持っていたのかどうか。観光地図は役に立たない。GPSは便利だが、バッテリーが切れたらないのと同じ。地図と磁石ほどの信頼性はない。GPSに頼る人は、地図の読図能力が低下しやすい。
 
 この親子は登山を簡単に考えていたのだろう。遭難者が自分のレベル以上の登山をしたことが遭難の原因。
そのように考えた理由としては、以下の点が考えられる。
・多くの人が登っている山であること
・観光パンフレットにハイキングコースが紹介されていること。観光パンフレットは初心者を山に誘い込む。観光パンフレットにだまされないこと。
・山開きがなされたこと
・自然の危険性がわかりにくいこと。彼らは、登山ではなく、ハイキングだと考えていたのだろう。日本では、登山とハイキングの区別があいまい。
・登山口に「健脚向き」という看板があったが、これは危険表示ではない。父親は体力に自信があったのだろう。「健脚向き」は体力しか示していない。「道迷いしやすい」、「初心者は遭難の危険があります」などの危険表示が必要。以前、登山をすべて、初級、中級、健脚向きに分類する山岳会があった。その会では、岩登りや沢登りを健脚向きと表示していた。???

 このような遭難は日本のどこで起きてもおかしくない。しかし、一定のノウハウを知ってていれば、絶対に起きない遭難である。


2018年5月5日

 連休中に
山の中で一泊した。熊避けスプレー持参。
 登山というほどのことはしていない。雪山の散策とテントの中で何もせず一晩過ごしただけだ。
 以前から、山の中でそんな時間の過ごし方をしてみたかった。
 何もしない生活の中でこそ、ものごとをじっくりと考えることができる・・・・と思った。が、テントの中で、何もせずに時間を過ごすことはできなかった。私は持参した文庫本をテントの中で読んだりした。
 今の社会では、自然の中で、ゆっくりとした時間を過ごすことが難しくなっている。登山も、かつては分刻みのスケジュールで密度の濃い行動をすることが多かった。常に、「時間がもったいない」という感覚があった。それは街中で生活する時の感覚と同じである。しかし、都会の感覚を自然の中に持ち込んだのでは、自然をゆっくり味わうことができない。


                      


2018年5月2日
広島県向島での刑務所脱走犯の捜索の結末の感想
 脱走犯は広島市で発見、拘束された。向島にいるという前提の捜索は判断が間違っていた。警察の大失態。
・海を泳いで渡ったと聞いて、「やっぱり」と感じる人が多いのではないか。
・山岳遭難者の捜索の場所の判断ミスとの類似性
・向島での間違った目撃情報。海峡を泳いで渡るのは無理という思い込み。バイアス。事故のリスクマネジメントとの共通性。自然災害時の思い込みと似ている。「津波はここまで来ない」という思い込み。誤判、誤診、誤信、冤罪のメカニズム。
・捜索の前提が間違っていた。向島の対岸の尾道の空家を捜索しなかったミス。海を泳いで対岸に渡る海の監視を24時間行うべきだった。海峡を夜間ボートで巡回、海での赤外線による探査など。橋については24時間監視していたが。
・ヘリによる捜索は気休め。山岳遭難者が手を振っていても、ヘリで発見できないことがあるのに。夜間のヘリでの捜索など無駄。これは、政治的パフォ−マンスであり、税金の無駄遣い。


2018年4月26日
大川小学校事故・控訴審判決について
判決文を見ていないが、この高裁判決は、
・1審判決と違って、学校や市の事前の対応について過失を認定した。
・裁判では、どれかひとつの過失を認めれば結論を出せるので、すべての過失について判断するわけではない。高裁は、事故当時の教師の判断ミスのあったことを否定したわけではなく、行政の過失を認定したということ。
・判決を読むと、教師や行政関係者は「そこまでしなければならないのか」と考えるかもしれない。学校が安全管理義務を果たすために教師と公務員の残業がさらに増え、加重労働と過労死が増えそうだ。 市と県は、上告するのかもしれない。上告すれば、県と市は、上告状に約800万円の印紙を貼ることになる。県と市の多数の代理人弁護士にかかる費用は、数百万円か数千万円か知らないが、市と県の顧問弁護士にとって悪い仕事ではない。これらは、住民が税金として負担する。上告しても、判決理由は変わる可能性はあるが、判決の結論が変わるとは思えない。
 しかし、大川小学校では、津波の前に裏山に逃げていれば事故を防ぐことができた。生徒でも、「山に逃げよう」と言っていた。ただそれだけのことがなぜできなかったのか。それを真剣に考えなければならない。裏山に逃げるためのマニュアルが必要だっただろうか。マニュアルが詳細であれば詳細であるほど選択肢が増え、迷いが生じやすい。
 詳細な安全管理マニュアルや会議の実施には長時間労働が必要だが、裏山に逃げるだけであれば、長時間労働は関係ない。真実は単純である。裁判所は行政の責任を認定するために難しい理屈を述べるが、現実に事故を防ぐためのリスクマネジメントは単純である。
 裁判は責任の所在を判断する手続きであり、裁判官は法律の専門家ではあるが、リスクマネジメントの専門家ではない。損害賠償責任を基礎づける論理と現実に事故を防止する方法は異なる。判決文の通りに実施しても、現場の教師が判断ミスをすれば事故が起きる。原発事故も同じである。
 災害を防ぐもっとも有効な方法は釜石方式だろう。釜石の奇跡。あれもこれもやろうとしても効果がない。これはマニュアルの否定から始まる。理屈で考えれば、マニュアルが役に立つと考えがちだが、それは後知恵で考えるから。判決も後知恵の理屈である。後知恵の理屈で国民の安心は得られるが、事故を防ぐことはできない。

マニュアルがあれば事故を防げるわけではない。詳細なマニュアルがあっても震災時に避難させなければ事故は起きる。マニュアルが想定する災害についてはマニュアルが役に立つが、想定外の災害については、マニュアルはほとんど役に立たない。マニュアルがあってもマニュアルを適用すべきかどうかの判断を間違えれば、被災する。強いて言えば、「想定やマニュアルを信じるな」というマニュアルになる。大雨で川が氾濫する場合に山に逃げる方法があるが、山が崩れる場合がないわけではない。地震で山が崩れる場合は山の地形による。場所よって異なるだえろう。「どれかひとつの方法に決めてくれ。
そうすれば判断に迷うことがない」という意見があるが、不確実な、危険性のある自然の前ではそれは無理というもの。現場での臨機応変の判断が重要。現場での判断力を養成することが行政の責任。
・登山でも同じ。マニュアルを作り、計画書を出せば、事故が起きないということではない。事前にどんなに詳細な事故防止対策をしても、だいたい想定外のことが起きる。
事故を防ぎ命を守るためには、想定外の事態に対するリスクマネジメントの判断力が必要である。



2018年4月21日
福田財務事務次官の退任

 役人は誰のために仕事をしているのかという視点。政治家や政権のために仕事をするのが当たり前という感覚。かつての官僚は国民のために働くという人もいたはずだが。1960年頃は、安保反対のデモに参加した経験のある人が「社会を変える」という志を持って官僚になっていた。「青年よ、大志を抱け」がまだ存在した。
 1970年頃は、セツルメント活動がさかんであり、社会問題に関心のある学生もいたが、既に少数派だった。元文部事務次官の前川氏は、セツルメント活動をするような学生だったのではないか。当時、すでに功利的、打算的な学生が多く、風見鶏的で要領のよい学生が多かった。「得にならないことはしない」、「無駄なことをしない」という傾向。学生の小市民的な大勢順応傾向が強かった。
 佐川氏や福田氏、柳瀬氏などのような役人は、古代中国や中世ヨーロッパの時代からいくらでもいた。不平、不満を言いながら、それを表に出さず、権力者に忠実に仕える構図。イヴァン・イリイチ的小市民。裁判官も弁護士も似たようなものである。社会的な視野で考える「大志」がない。正確に言えば、彼らなりに志を持っているが、自分が周囲から評価されることが「志」なのだ。小さいころから上からの評価され続け、それが行動を支える価値観になりやすい。社会的関心の欠落、視野が狭く、体制順応型の学生が増えた。
 私は公務員になって3か月目に人勧完全実施を求めるストライキに参加したが、同期入庁の仲間から「バカな奴。何の得にもならないのに」と冷ややかに見られた。
私は、一緒に行動してくれる仲間が欲しかったのだが・・・・・住んでいる世界が違うと感じた。弁護士になってからは、命をかける登山の世界は、堅実な法律家の世界とは住む世界が違うと感じた。

 麻生財務大臣が福田次官をなかなか辞めさせなかったのは、内閣の人気をもっと低下させるためではないか。
 麻生氏が財務大臣を辞めないのも、内閣のさらなる人気低下を狙ってのことではないか。
 麻生氏が、福田がはめられたなどと世論に逆行する発言をくりかえすのも、内閣のさらなる人気低下を狙ってのことではないか。
 麻生氏と安倍首相の間に確執があるのではないか。「安倍とその奥さんのために、なんで、オレが責任をとらなければならないのか。森友や加計の問題は俺とは関係がない」
 麻生氏の方が年上で先輩であり、自分の方がエライと思っているのではないか。ドーデモヨイことだが、そんなことを勘繰りたくもなる。


2018年4月20日
広島ー中日戦、投手起用の誤算?
 広島の2番手投手が7失点して、広島が逆転負け。新聞に、2番手投手が大誤算と書いてあったが、そうではなく、打たれ続ける投手を代えない「監督の判断」が大誤算が正しい。ただし、打たれ続ける投手を代えない「我慢の起用」はこの監督のいつもの「負ける方程式」のパターンである。勝利の方程式は、ナントカのひとつ覚えのパターン化された考え方である。この日は、試合に勝っている段階で、この試合に負けてもよいつもりで投手を節約したのだろうか。プロ野球は観客のための商業的興行であり、つまらない試合は視聴者が去っていく。

 日本の野球の監督は、大リーグに較べると、投手が打たれ続けても交代させないことが多い。大リーグではリスクが現実化する前に投手を代えるが、日本では、逆転されて初めて投手を交代させることが多い。この点は、企業や役所のリスクに対する考え方と共通性があり、興味深い。事故、イジメ、自殺、不祥事などが起きて初めてリスクに対処するのが日本のパターンであり、それは事後処理であってリスクマネジメントではない。日本ではリスクマネジメントが無視されやすい。
 日本では「何とかこの回だけは抑えてほしい」、「がんばってほしい」、「この回の責任を自覚させる」、「監督の期待と信頼を示す」などの情緒が優先する。日本の野球は監督の「思い」を重視した采配であり、大リーグはデータ重視の冷徹な采配の傾向がある。
 調子の悪い投手が「がんばる」と大量失点をもたらすが、日本では、調子の悪い選手を信頼して使用し続けることが美談になりやすい。中日の監督も、広島が7失点する前に、投手を交代させず、5失点している。決断力の欠如という点で、どっちもどっちだが、広島の監督の方が決断力欠如の程度が大きかった。ダメな時は、どんなにがんばってもダメなことが多いが、監督が、諦める決断ができないのだ。情緒的な日本の野球。打たれた投手に腹を立て、制裁として最後まで投げさせた監督がいる。これはイジメの構図と同じであり、それで投手が肩を壊しても監督は責任を取ることはないようだ。試合に負けた高校生を制裁として炎天下でランニングさせ、熱中症で重い後遺症を負わせた監督が裁判を起こされ、学校が損害賠償責任を負ったケースがある(私が20年前に扱った裁判である)。日本の野球は情緒的であり、リスクマネジメントがない。リスクを認識するためには冷静さが必要である。自分の采配ミスを認めない監督は進歩がない。いつも同じことの繰り返しで失敗する。何も考えない思考力ゼロのノーテンキな人間でなければ野球の監督が務まらないのかと考えてしまうほどの次元の低い実態が日本の野球界にある。

 この点は、登山にも当てはまる。もう少しで登頂できると考えて無理をして事故が起きやすい。トムラウシのツアー登山事故では、ガイドがもう少し耐えれば天候が回復するはずだと考え、がんばった結果、事故が起きた。事故の数時間後には、星空になっていたそうだ。悪天候で「がんばる」と大量遭難をもたらす。ダメな時は、どんなにがんばってもダメなことが多いが、ガイドが、諦める決断ができないのだ。情緒的な日本の登山。野球は情緒的でも敗戦ですむが、情緒的な登山は死をもたらす。太平洋戦争では、最初から負けるとわかっている戦争を「がんばった」結果、多くの犠牲者をもたらした。リスクマネジメントの欠如。
 
 日本の学校でも情緒的ながんばりが蔓延している。情緒的な判断になれている教師は、イジメのリスクを無視しがちである。
 日本の会社ではがんばることが、自殺や過労死につながる。がんばることのリスクを知る必要がある。
 組織に忠実ながんばりとリスクマネジメントの欠如が、役所の組織的な公文書改ざんや偽証につながる。役所では徹夜をして何百箇所もの文章を改ざんしたのだろう。
 日本の社会でがんばることができない者は生き苦しい。引きこもりが増えるのは当然だろう。
 がんばるのではなく、人生を楽しみながら努力をすることが大切である。人間は、人生を楽しむために生きるのだ。


2018年4月13日
森友、加計学園、原発事故、いじめ、学校事故と情報操作
 これらの問題を見渡してみれば、情報が隠蔽、改ざん、操作されることが関係している。不都合なことは国民に隠し、都合の良い情報だけを国民に流す。政治家が、「国民の安全と安心を実現します」と言い、リスクを隠す。原発事故のリスクはゼロではないが、「安全性」を強調する。あらゆることにリスクがあるが、リスクを無視して、学校行事を行い、国民がそれを歓迎する。学校での組体操、学校登山など。勝利優先のクラブ活動や成果を重視する学校教育が、いじめやおちこぼれなどをもとらすが、負の面に目をつむって、メリットだけに国民の目が向く。その弊害の被害者は常に社会的少数者であるが、少数者の声はマスコミから抹殺され、情報が表に出にくい。森友、加計学園問題のようなことは、これまでの行政は行ってきたが、従来は、そこまで露骨にしていなかったこととそれがバレたという点が従来と今回の違い。

 多くの国民は、間違った情報を前提に政治家の行動を判断することが多い。多くの国民は、社会の仕組みや制度、実態、事実の知識がそれほどあるわけではなく、しばしば誤導された間違った情報を前提に判断をしている。かつてのドイツでヒトラーが国民の選挙の結果、支持されたのはそのためである。国民はそれほど賢明ではない。情報操作の恐さをドイツ国民は身に染みて感じ、現在、のドイツは徹底した情報公開をしている。これは情報公開に対する国民の強い関心が前提である。情報があっても国民がそれに関心を持たなければ、ないのと同じである。
 国民が賢明でなければ、賢明な政治家と官僚は生まれない。中国、韓国と北欧、ドイツ、スイス、オランダなどの違いは、国民の賢明さの違いが、政治家と官僚の違い、制度の違い、生産性の違いをもたらしている。日本はどちらかと言えば韓国、中国、台湾に近い法文化を持つ。カントは、何も考えず、不平を言いながら為政者に従う18世紀のドイツの農民について書いているが、当時のドイツの法文化は現在の日本に近い。時代と社会が変われば国民が変わり、法文化も変わる。


2018年4月1日
東京オリンピックでのボランティア活動が自己責任であることに問題があるのか
 
インターネットでこの点が話題になっている。しかし、ボランティア活動は、一般に、事故が起きても自己責任であり、自分で保険に加入しなければならない。それは当たり前のことだ。ボランティア活動は自発的なものであり、自己責任である。それは、自発的に行う冒険や探検、登山が自己責任であることと同じである。海水浴や釣りで事故が起きても自己責任である。ボランティアで登山の指導をする人は自己責任である。したがって、自分で生命保険や傷害保険に加入することになる。すべてのボランティア活動はそのようになっている。
 オリンピックのボランティア活動が問題になること自体がおかしい。このような記事が配信されるのは、日本のボランティア活動が自発的なものではなく、義務的な性格があるからではないか。日本では、PTAや子供会の役員など、義務的なボランティア活動が多い。企業の清掃活動、ライオンズクラブの活動、民間人の山岳救助活動、山小屋の登山道の整備なども義務的なボランティア活動の例である。集会への「動員」では、事故が起きても自己責任である。。東京オリンピックでも多くのボランティアが「動員」されるのではないか。教師のクラブ活動の顧問や、警察・消防の山岳救助活動は、ボランティア的な職務という奇妙さがある。
 
 このように日本ではボランティアの考え方に混乱がある。自発性を理解しなければ、ボランティア活動を理解できない。日本では、ボランティアは自発性よりも無償性が重視される。これは、市民社会の中にボランティア活動が根付いていないことに原因があるのではなかろうか。自発性や自立性の欠如。自発性を否定する文化。上からの指示で「自発的に」動くことが評価される矛盾した社会。それは小さいころから、そのように学校と社会で育てられるから。



2018年3月28日
那須雪崩事故から1年

 
この事故に関して、県、教育委員会と遺族が対立している。刑事責任については、警察が捜査中。この状況は、残念なことだが、1年前の私の予想通りである。このような構図は、行政が関係する事故ではあまりにも多いので、簡単に予測できてしまうのだ。

 民事責任については、県の責任は明らかであり、民事裁判をすることは無駄である。県は責任を認めて遺族に早く謝罪をした方がよい。しかし、行政には「責任回避」の伝統がある。
責任回避は、日本の社会に深く浸透した日本特有の法文化である。
 1審判決が出て、県が控訴し、高裁で和解をするというのがパターンとして多いが、県にとって裁判費用と労力が無駄である。遺族にとっても裁判の負担は重い。民意裁判でも真相が解明されないことが多い。
 民事上の和解ができれば、刑事事件も不起訴になる可能性がある。和解できなければ刑事事件で起訴されるが、起訴されてもそ
れは個人の問題であって行政には無関係だという感覚が行政にある。
 最近の山岳事故では起訴されれば有罪率100パーセントだが、すべて執行猶予がついている。4人死亡の事故でも執行猶予がついている。起訴される教師は1〜3人のいずれになるか。 
 
 裁判をすれば事故が減るかといえば、そうではない。刑事裁判でも真相がわからないことが多い。
 国民の関心は、事故から5年も経てば薄れる。次から次へと新たな事故が起き、世論は新しい事故の方へ向かう。事故を風化させず、今後に生かしていくことが必要。それは、事故の教訓を何等かの制度やシステムにすることであるが、それは裁判ではできない。


2018年3月28日
佐川国会証言の感想
 国会中継を断片的にしか見ていないが、
佐川氏が昨年2月に証言した時、公文書の改ざんはなされていなかった。佐川氏は改ざん前の公文書に基づいて部下から報告を受けているはず。公文書があるにもかかわらず、なぜ、「すべて廃棄した」、「交渉記録がない」、「政治家などの関与がない」と証言したのか。佐川氏は、「当時、忙しかったので・・・・」などと弁解したが、「知らなかった」ということと「廃棄した」とは、違う。改ざん前の時点では、少し調べれば、公文書の存在や政治家の関与がわかったはずであり、「すべて廃棄した」という答弁字に虚偽答弁の認識があっただろう。佐川氏が、「廃棄した」 ことにしたのは、政治家などの関与を否定したかったからだろう。なぜ、虚偽答弁をしたのかが問題である。「理由」がなければわざわざ虚偽答弁をしないからである。
その後、文書改ざんをしたことは、「虚偽」答弁をごまかすためだったと推認できる。
 国会での虚偽答弁に関する政治家との接触については何も述べていない。佐川氏の2月答弁の前に、佐川氏と政治家、内閣府との接触の有無が重要だが、佐川氏は、接触は協議ではないと言うのだろう。佐川氏が、今井秘書官との関係に関して口ごもった点は、重要である。官僚と政治家、政務官、秘書官、大臣との接触は
日常的にあったはずだ。この接触は電話で可能である。政治家、政務官、秘書官、内閣府と電話で話をしたことがまったくないという局長はいないだろう。この接触は局長だけがするとは限らない。課長は日常的に政治家と電話で接触するはずだ。文科省のケースは政治家の「質問」という形をとっており、政治家は、「質問をしただけで、指示はしてない」と主張するのだろう。政治家が文科省幹部の携帯電話の番号を知っているということ。電話1本で役所の幹部が簡単に動く。佐川氏は今までに政治家と何回電話で話をしたことがあるのか。通話記録は電話会社に残る。この日常的な接触にこそ問題の焦点がある。政治家の意向はそのような接触を通じて把握できる。秘書官や官邸、政務官との接触に関して偽証罪の可能性がある。

 佐川氏の証言は法律的にはよく練られたものであり、官僚的答弁に終始した。国民に対する誠実さなどまったくない。官僚が、これほどまでに国民に背信的に行動する社会を日本は作り上げてしまったのだ。小さいころから、「できる子」として育てられ、一流高校、一流大学で大衆を敵視するエリート意識が醸成されやすい。佐川氏は法的責任をかわすことができても
、政治的な責任は別である。
国民の不信を晴らすことができなければ、佐川氏の証言は、法的に成功しても政治的には失敗ということになりそうだ。


2018年3月25日
八ヶ岳で7人が遭難

 阿弥陀岳南稜での事故。ここはノーマルルートではなく、登攀の対象。今の時期の阿弥陀岳南稜は、「それほど難しくない上級コース」である。この表現は登攀経験のない人にはわかりにくいが、下記のとおりである。登攀はロープを使用する登山であり、山歩きはロープ不要で歩いて登る登山である。阿弥陀岳南稜は登攀ルートなので、通常の縦走路と違って、技術、経験を必要とする難しさがあるが、残雪期は登攀ルートとしてはそれほど難しくはない。事故現場は傾斜が約50度であり、これは登山一般のレベルでは傾斜がきついが、登攀としては傾斜が緩い。

登山の難易度
登攀 山歩き
積雪期 無雪期 積雪期 無雪期・上級 初級
    ←難しい 易しい→

 
詳細はまだ不明。ロープに7人が繋がっていたようであるが、本来のロープの使い方をしていれば事故は起きていないはず。コンテニュアス(同時登攀)で登っていたのだろうか。そうだとすれば、それは間違い。事故パーティーは一定の登山技術、経験はあったようだが、リスク回避に熟練していなかったようだ。
 やさしい登攀では熟練者はロープをほとんど使用せず、危険箇所でロープを出すことがある。その場合には、トップは、当然、スタカット(隔時登攀)で登った後でロープをフィックスする。この場合に、トップのビレイに失敗すれば、トップが被害を受けるが、他の6人が事故に巻き込まれることはない。ランニングビレイをとっていなければ、ビレイヤーも巻き込まれることはありうるが。このようなロープの使い方であれば、7人数珠繋ぎの遭難はありえない。
 

2018年3月21日
官僚の忖度
 官僚が政治家の意向を忖度しやすいのは、身分の独立性がないからである。官僚は昇進することだけを考えて仕事をするわけではないが、それでも他人並み、あるいは他人以上に昇進したいという気持ちがある。また、退職後の再就職先なども考えてしまう。現在の佐川氏は、失うものが何もないかと言えばそうではない。退職金約5000万円がどうなるか。年金の満額受給までに年数があるので、その間の収入がどうなるのか。子供が大学生だったり、住宅ローンがあるかも。目立つ再就職はできないとしても、ほとぼりが冷めれば小さな会社の顧問や外国の大学の教職の口があるかもしれない。不用意に話せば、刑事責任の証拠になる・・・・・などの点で、国会での証言に利害がある。佐川氏に、「今後のこともあるから、証言はよく考えてから言った方がよいぞ」と「親切に」忠告する人が、必ず、いる。
 
 こんなことは官僚に限らず、公務員、裁判官、弁護士、大学教師、研究者などの誰もが日常的に関わっていることである。どのような行動をしようと、客観的には大差ない場合でも、主観的に自らの行動を縛ってしまうことが多い。それは、もともと住んでいる世界が狭いために、視野が狭くなるからである。政治家の意向がどうだろうと、マイペースで仕事をすればよいのだが、そのような役人は干される。それは自分のプライドが許さないのだ。常に周囲から「できる人間」として評価されるのでなければ、自分のアイデンティティが失われてしまうように感じる。そんな人間は、官僚に限らず、世論からエリートと呼ばれる人たちに多い。
 役人の世界だけで生きていれば、役人の世界でどう見られるかという点が行動を規律してしまいやすい。役人の世界を出てしまえば世界は広いのだが、何十年もひとつの世界に住んでいると、世界の広さがわからない。これがダメでもあれがあるという人は比較的自由に生きることができるが、役所と離れて完全に離れて生きる人はそれほど多くない。常に元〇〇という肩書で食っていく仕事に就くことが多い。
 
 このような人間の習性を考えれば、政治家の意向が役人に簡単に伝わるシステムや、政治家の意向が昇進に反映しやすい現在の人事ステムに問題がある。公務員の身分のある程度の独立性が必要。終身雇用制(給料の年功序列制)に問題がある。省庁の局長以上のポストは公募制にして政府と無関係の第三者機関が人事を決める必要がある。学校の校長の人事も教育委員会が決めるからダメなのだ。裁判官の人事も最高裁が決めることに問題がある。役所では人事部門がもっともいばっている。閉鎖的な制度は管理する側に都合がよいだけで、国民にとってメリットがない。


2018年3月20日
財務省職員の相次ぐ自殺
 もともと国家公務員は残業タダ働きが当たり前のブラック労働である。私の知人は、国土交通省に努める30代だが、深夜0時を過ぎても仕事をするのが当たり前である。私が、昔、地方公務員をしていた頃は、夜10時までしか仕事をしていなかったが(予算上、残業代は1日に2時間分しか出いない)、それとは大違い。私は、独創性を発揮する余地のない公務員の仕事に嫌気がして公務員を辞めた。たぶん、会社員になっていても仕事を辞めただろう(欧米の企業は多少は異なるかも)。弁護士の仕事も、収入を得るための日常的な業務に関する限り、法律と裁判所が定めたマニュアルの枠の中の事務処理であり、ほとんど独創性を発揮できないのでつまらない。それで私は本を書き、それで生きているようなものだ。

 財務省は特別残業の多い部署だが、今回の森友騒動で、さらに徹夜が増えているのだろう。現在、財務省の自殺者は2人だが、国民は官僚の過重負担を容認している。ある一般人は、「国のキャリア官僚は残業などせず、早く仕事を終わらせて、毎晩、酒飲を飲み贅沢三昧の生活をしていると思っていた」と述べていた。国のキャリア官僚がブラック労働だと言っても国民は納得しない。これではよい政治ができるはずがない。国民の「官僚憎し」の感情が、官僚は、ろくに仕事をせず、贅沢をして高給を得ているという思い込みをもたらすようだ。国民が公務員を叩けば叩くほど自分の首を絞めることになるが、それに国民は気づかない。このような政治は、江戸時代であれば、庶民の不満の矛先を商人に向けさせる支配の手法に似ている。農民や下級武士の困窮は、商人が肥え太っていることに原因があるという手法。農民や下級武士の困窮の原因は当時の幕藩体制にあった。現在も同じ。そのように国民を互いに対立させることによって利益を得る者がいるが、国民はそれに気づかない。
 事実を正確に知ることから民主主義は始まる。



2018年3月17日
政治家の官僚支配、官僚の反乱

 公務員は役所に雇用されているのであって(正確には任用)、政治家に雇用されているわけではない。しかし、自治体の職員は市長という政治家に逆らえず、市長の意向に従って仕事をする。国家公務員も首相に雇用されているわけではないが、首相や大臣のの意向に逆らえない。国家公務員の中で幹部やキャリア組は首相や大臣、その取り巻き(官房、官邸、政務官、秘書など)の意向に敏感になる。これは、会社でも会社幹部や幹部候補者は社長や役員の意向に敏感になるのと同じであり、人間の性だろう。人間は弱い。
 
問題は、首相や大臣、その取り巻きが積極的に官僚を支配する傾向が強まっている点である。2014年に内閣人事局が官僚の人事権を持つようになった。財務省は各省庁の予算を握っているので、省庁は財務省に頭が上がらないが、財務省の幹部の人事は内閣府が握っているので、財務省は内閣府に頭が上がらない。財務省は内閣府(首相)の意向を忖度して動くのは当然だ。
 
政治家による官僚支配は昔からあり、アメリカでは、トランプのように意向に背く官僚をかたっぱしにクビにする。官僚は嫌なら辞める。アメリカでは、役所を辞めても天下りではなく、転職できる。
 しかし、日本では、組織に背いて辞職す
れば、天下りができず、再就職が難しい。終身雇用制で退職後も役所の世話になるので、死ぬまで役所に忠実な官僚が多い。日本では、終身雇用制で転職が難しいので、「これだダメでもあれがある」という考え方がなく、「これしかない」と考える人が多い。自分の信条にあわなければ辞職し、真相を暴露する暴露本を書けば儲かるが、それはアメリカでの話。「ここは日本ですよ」と言う人が多いが、日本
の常識は世界の非常識であることが多い。

 最近、政治家による官僚支配に対する官僚の反乱、反抗がみられる。
・元経済産業省の古賀氏はこの反乱の始まりだったといえようか。
・元文部官僚の前川氏の行動
・防衛省による情報隠蔽がマスコミにバレたのは、役人の中に情報をマスコミに提供した者がいるからではないか。
・近畿財務局作成の決済文書は、詳細な特別扱いの経過を公文書に残しており、これは政治家による官僚支配を記録に残したものである種の反抗とみることができる。
・近畿財務局の職員がマスコミに決済文書書き換えの事実を誰かがマスコミに情報提供したのではないか。
・近畿財務局職員の自殺は、死によって政治による官僚支配を抗議したとみることができる。
・前川氏の講演に関して、文科省が自治体を調査した件。これは、まるで地方自治制度のない国の話のようである。これも自治体の公務員がマスコミに情報提供している。

 官僚は政治家に忠実な者ばかりではない。官僚をうまく使いこなすのは政治家の能力次第。
最近は、官僚が政治家に従うと単純に考える性政治家が増えているのだろうか。


2018年3月12日
森友問題と法の支配の欠如
 
森友問題に限らず、日本の社会では法的なルールに基づいて社会が統治されていない。
・財務省が情報を公開せず、公文書を改ざんしたこと
・加計学園問題では、文科省に政治的圧力が加えられたこと
・政治家の力で公共工事がなされ、国会議員が地元に利権をもたらすことが国民の間で公然と語られている。
・警察官が犯した犯罪を警察が公表しないことが多い。最近、広島県では警察官のわいせつ事件を警察が公表しなかった。事件をマスコミに公表するかどうかが警察の裁量であり、不公平がること。そこには法に基づく公平なルールがない。
・企業活動では法に基づく経営、監査がなされていない。
・会議の形骸化。会議で議論をしない。会議の前に根回しで結論が決まっていることが多い。
・役所の窓口の法を無視した水際作戦。裁判所ですら、本人訴訟の申立を簡単には受理しないことが多い。
・企業、役所、自治会、学校、農協、漁協、スポーツ団体などでは、組織に法律をもちこむことを拒否することが多い。教育の場に法律を持ち込むべきではないなど。学校の治外法権化。スポーツ団体などで法律的なことを言うと村八分になる。
・教師のブラック労働。法的なルールのあいなまいな教師の労働。学校の部活動の法的な性格のあいまいさ。
・日本は40時間労働制の国だが、残業が蔓延しているという実情。役所でも企業でもサービス残業が当たり前。森友問題で自殺した財務省の役人は長時間の残業をしていたが、これは残業タダ働きの結果の過労死である。
・第三者委員会、検証委員会の委員が恣意的に選任されている。
・各種公的委員の選任が行政による一本釣りである。教育再生会議の委員など。
・国民栄誉賞の選考過程に公平なルールがないが、これを国民が受け入れてる。
・高校野球の21世紀枠は不公平であるが、多くの国民がこれを容認すること
・オリンピック代表選手の選考に公平なルールがないことが多い。
・自然の利用に明確な法的ルールがなく、無法状態のアウトドア活動が野放し状態になっている。

 法のルール=公平ということ。日本の社会では公平なルールが軽視され、不公平な扱いが常態化している。日本では、法的なルールはタテマエで飾りでしかない。財務省による公文書改ざんは、官僚の法的ルールを無視する思いあがりの役所文化が招いた。特に財務省には、国民を見下し政治的に行動をしたがる権力志向の役人が多い。


2018年3月11日
佐川氏の文書改ざん指示
 佐川元理財局長が文書の改ざんを指示したらしい。改ざん文書は印鑑が10個くらい並ぶのであり、1人では改ざんできない。森友学園への土地売買は佐竹氏が局長に就任する前に決まっていたことであり、売却は組織全体の問題である。
 役人は自分のために行動することはなく、政治家、上司、組織の意向をくんで行動する。森友学園の設置を手助けしたところで、佐川氏個人に何もメリットはないからである。佐川氏の行動には必ず政治的な背景、組織的な背景がある。改ざんした文書の決済には多数の印鑑が必要であり、改ざんは役所ぐるみで行われている。
 
 佐川氏は、この際、国民のためにすべてを正直にバラせばよいのだが(そうすれば、スッキリした生き方をまっとうでき、歴史に自分の名前を残すことができる。〇〇庁長官というだけでは、そんな肩書きの役人が過去に何百人もおり、歴史に名前が残らない)、自分や家族のことや、組織の仲間、上司のことを考え、大勢に逆らえないかもしれない。役人になる人は、小さい頃から、親や教師の言うことに逆らわず、上から言われたことに従うことを繰り返し、就職後も組織に忠実に生きてきた人が多い。死ぬまで組織を裏切ることはできないという小心な人が役人になっている。
 戦争中にリトアニアで外務省の命令に背いて多数のユダヤ人を救った故杉原千畝氏のような組織よりも個人の信念を貫く人は珍しい。故杉原千畝氏はキャリア官僚ではなく、若干変わった経歴を持つ外交官だった。外務省を追われた後も、自分の行動を自慢することはなく、外務省を非難することもなかった。外務省にとって、故杉原千畝氏は組織の裏切り者であり、外務省は現在でも杉原氏を黙殺している。

 

2018年3月9日
トムラウシ事故のガイドら不起訴
 2009年にトムラウシでのツアー登山中に8人が亡くなった事故に関して、ガイドとツアー会社の社長が業務上過失致死傷罪で送検されていたが、嫌疑不十分で不起訴になった。マスコミからの取材があった。
 
不起訴の理由は、ガイドの一人は死亡したことが不起訴の理由、もう一人のガイドはが精神疾患のために事情聴取できないことツアーに同行したツアー会社の社員は権限のないこと、ツアー会社の社長は義務違反と事故の因果関係のないことにあるようだ。不起訴の決定が早かったのは、担当検事が3月末で転勤するためのようだ。
 国民は、刑事裁判を、責任の有無を判断する手続きと勘違いしやすいが、刑事裁判は、証拠がなければ成り立たない技術的な制度であり、ギャップがある。刑裁判はあくまで、国家が運営する制度であり、国の予算・管理上の都合が考慮されている。 
 すべての事件を起訴し、真相がわかるまで裁判をする制度も可能だが、その場合には、裁判官や検察官の数を現在の10倍に増やし予算も10倍くらい増やす必要がある。増税すれば可能だろう。 
 アメリカでは起訴するかどうかは、陪審員が決める(大陪審)。日本では、不起訴に対し検察審査会への申し立てが可能である。

今後考えるべきこと
 ツアー会社はツアーの内容を無理のないことにすることが必要
 ツアーガイドにはある種の臆病さが必要である。
 ガイド協会はガイドの安全管理の質を高める工夫が必要である。
 国は、旅行業者の管理を強化することは可能だが、旅行業者ではない山岳ガイドが実施するツアーを担当する役所がない。強いて言えば、スポーツを扱う文科省か。文科省は教育の観点から登山を扱うが、ツアー登山は営業活動である。登山を扱う役所が必要。フランスにはスポーツ省がある。
 消費者は、日本のツアー登山の現状を理解する必要がある。それは、ツアー会社もツアーガイドも玉石混淆だということ。自分の命を守るためにはツアー業者の選択が重要である。この点は観光旅行も同じ。格安旅行会社を選んだら旅行海者が倒産することがある。


2018年3月6日
時は金なり

 今の社会では時間は大切である。時間の観念を無視した人間の行動はありえない。経済も時間を前提に成り立っている。ある仕事をするのに何時間かかるかがその価格を決めることが多い。
 しかし、法律の世界には時間の観念はない。損害賠賠償額を決めるのはモノの価格であり、人間の命ですら将来稼ぐことができる収入で算定される。裁判に要する労力や時間は裁判では考慮されない。どんなに時間的に効率の悪い作業であっても、裁判ではそれが当たり前のように行われる。書類作成や些末な手続きのために何十時間も費やされる。弁護士や裁判官の残業代はタダだからである。これは、銀行で1円の残高計算が合わないために、課の職員が何時間も残業をするのに似ている。学校の教師がいくらでも時間をかけて、会議、書類作成、クラブ指導などをするのは、残業代を払わない学校のシステムがあるから可能なのだが、そこには時間的な効率の観念がない。アインシュタインは時間が人によって相対的であるとしたが、物理的な意味だけでなく、社会的な意味で時間が持つ意味と価値は相対的である。今の日本では、誰にとっても時間はタダという時代ではない(20年前のインドでは、時間はタダなのだということを痛感したが)。
 時は金なり。時間を無駄にするなというだけでなく、現在は、時間が経済的な価値持つ時代である。そろそろそれを法律に反映させてもよいのではないか。


2018年3月5日
過疎地・・・・・・なぜ、人口が減ってはいけないのか?
 しばしば、人口が減ることの問題性が指摘されるが、これは自治体側からの視点が強い。自治体としては、住民が減れば住民税が減り、自治体を維持することが難しくなる。自治体の立場では、高齢者の移住を歓迎しない。高齢者は税金の支出ばかりかかり、新たな税収につながらないからだ。しかし、その地域の住民の立場では、1年間に住民が20人増えようが、20人減ろうが関係がない。現在、過疎地で「人口が増えた」ことが評価される場合の増加数は、せいぜい20〜30人程度である。数年単位では、人口減少はほとんど住民の生活に影響はない。
 住民が、「かつては子供の数が多かった」と振り返るとき、それは、数十年単位で考えている。50年くらいの単位で考えれば、地域に大きな変動をもたらすが、それは市場経済がもたらす経済構造の結果であり、小手先の方法ではどうにもならない。長い目で見れば、経済法則にさからうのは無理である。大都会に人口が集中するのは世界の潮流である。先進国の中で日本はまだ農村部の人口が多い方である。今後、日本でも都市への人口集中はもっと進行するだろう。
 学校の統廃合は自治体合併などの影響であり、政策上の問題である。人口が減ることが直ちに学校の廃校を意味するわけではない。人口が減らなくても、学校を統廃合することがある。

 私が住んでいる地域は人口減少地域であるが、そのことで支障を感じることはない。都会に較べれば不便さはあるが、それは人口が減ったからではなく、もともと、ここが都会ではないことの結果である。田舎は、都会ではないから田舎なのだ。田舎は、都会の真似をする必要はない。
 しばしば、地域を活性化させるとか地域振興という言葉を何かのひとつ覚えのように使うが、田舎に住むだけであれば、地域振興は不要である。地域で商売や事業をする人には、イベントをすれば一時的に売り上げが生じるだけで、無駄な税金の支出であることが多い。多くの過疎地で工業団地を造成したが、だいたい失敗した。田舎の自治体は税収が少ないが、それにもかかわらず無駄な税金の支出が多い。人口を増やすために無駄な税金支出をしている。人口減少を前提とする政策が必要である。

 自治体は住民が減れば税収が減り自治体を維持することが難しいと考えるが、事務組合などによって事務負担を減らす工夫が必要だろう。ヨーロッパではそのようにしており、それで人口500人くらいの村がなりたつのだろう。日本の役所、学校、企業、裁判所などであまりにも無駄な会議、会議、手続きが多く、社会のあらゆる場面で効率が悪い。日本は、知恵を使わずに、時間はタダという考え方、情緒的な精神力、長時間労働でものごとを処理する傾向がある。


2018年3月4日
比婆山山スキー
 今年も、比婆山(1264メートル)をスキーを履いて、5時間、歩き、滑降した。冬は道がないのがよい。比婆山はなだらかな樹林の山であり、雪崩の危険がなく、崖や滝がないので、どこでも登り、滑降できる。比婆山の登山口までは、家から車で1時間30分かかり、そんなに近くない。家の「裏山」ほど気楽に行けない。

                        


2018年3月2日
「登山者のための法律入門」 (山と渓谷社)を書いた後のホンネ

 
書いた本人が言うのもヘンだが、予想以上に売れているようだ。喜ばしいことだ。
 内容については、可能な限り、調べ、考えたうえで書いたが、もしかしたら、間違ったところや、不十分なところがあるのではないかという不安がある。なにしろ、書物や論文が非常に少ない問題ばかりを扱っているので、「他人の書いたものを読んでそれをまとめればよい」だけの箇所もあるが、自分で調べて考えなければ書けなかった部分が多いからである。もし、不十分な箇所があれば、「ゴメンナサイ」と言うほかない。完璧さをめざせば、死ぬまで本や論文は書けない。

 この本を書いた後で、「不十分さ」に気づいた箇所がある。イギリスでは、法律でフットパスを利用する権利が認められていると書いたが(41頁)、イギリスでは2000年に制定された法律(the Countryside and RIght of Way Act)により、フットパス以外の山や原野でもアクセスの権利が認められた。ちょうどこの本の最終校正段階で、イギリスの2000年法に関する本を読んでいる最中だったので、それを本に反映させることができなかった。ただし、本の2刷ではこの点を修正した。平日は弁護士業務に追われ、毎朝、午前3、4時に起きて本を書くが、1日に4時間くらいしか研究時間がとれない。日曜日、盆、正月しかまとまった時間がとれず、何をするにしても時間がない。イギリスでは、標高600メートル以上の山はフットパスでなくてもすべて自由なアクセスが可能な土地(Access land)とされている(文献としては、
Right of Way, 3rd edition,John Riddall,JohnTrevelyan,Open Spaces Society and Rambelers' Association,2001。4th edition,2007もあるが、これは本の値段が1万円くらいするので買わなかった)。600メートル以上の場所でも耕作地は除外される。標高600メートルというのは、高山の少ないイギリスのことであって、日本に移し替えれば標高1500メートルくらいのイメージになるだろうか。イギリスの2000年法は、北欧の万民利用権と並んで画期的なことなのだが、日本では関心を持つ人が少ない。

この本で書きたかったこと
 憲法、法の支配、民主主義、人間の主体性と自立性、自然は「こうすれば、ああなる」ものではないこと、リスクマネジメント、日本の常識は世界の非常識、当たり前のことを深く考えることの重要性など・・・・・・ただし、これらを正面から書くと難しい本になるのでちょっとほのめかす程度にしか書いていない。


2018年3月1日
国民総リストラ時代

 他人をリストラすれば、やがて自分もリストラされる。銀行、コンビニ、企業の競争を歓迎する世論は、自分がリストラされ、淘汰されることを是認している。サービスの低価格を歓迎する者は、自分の給料の低価格化に協力している。大学の数が増えることを歓迎する人は、自分や自分の子供の大学卒の資格の地位を一生懸命に低下させている。
 
 誰でも皆同じという横並びを歓迎する日本の文化は、現実に存在する格差を隠蔽する。国民総リストラは、野放しの自由競争をもたらし、能力のある者が勝ち組になる。現実の人間には、能力、性格、個性の違いなどの生物的格差経済的格差があり、誰もが同じスタートラインで競争できるわけではない。格差は、経済的格差だけが指摘されがちだが、生物的格差が経済的格差をもたらしている。

 誰もが幸福になるためには、もっと知恵を使い、賢明な社会のシステムを作ることが必要。北欧などは比較的賢明なシステムを作っている。ノルウェイでは国民の90パーセントが登山をするらしい。小さい頃から自然に親しむことが国民の自立的な判断力を養い、民主政を支えている。それが賢明な社会のシステムにつながっているのではないか。
 野放しの自由競争では、能力のある者、超人的な努力のできる者、運のよい者(莫大な親の財産があるとか)だけが勝つことになる。「がんばれば、幸せになれる」は、「がんばって競争に勝ったものだけが幸せになれる」ことを意味するが、競争に勝って得る幸福はそれほど中身のあるものではない。



2018年2月25日
裏山登山
 最近、日曜日の午後などに、運動がてら家の裏山の藪の中を2時間程度歩くことがある。家の裏に藪があり、そこを20分登ると標高300メートル程度の山の稜線に出る。そこには踏み跡がある。そこからさらに道なき藪の中を歩いて谷を越え、隣の尾根に登ると登山道らしきものに出会う。しかし、その道も途中で消える。
 家から600メートル歩けば、向かい側に山があり、そこでも道のない藪の中を歩き回ることがある。突然、写真のような赤いテープが出てきて驚く。どこにでも、こんな山の中を歩く物好きがいるものだ。これほど金をかけずに健康的な「遊び」はないが、なぜか、このようなことをする人は多くない。まあ、人は人。蓼食う虫も好き好きだが。
 地図を見ながら地形を探ると興味が尽きない。道のない藪を歩くつもりになれば、山が面になり、世界が広がる。道は線に過ぎない。山の面を歩くことで登山の世界が広がる。多くの人は、面の中の線(道のこと)と点(街のこと)の中で生きている。面を知らなければ、点と線の狭さがわからない。世界を知らなければ、日本の狭さがわからない。ものごとの選択も、点や線ではなく、面で考えれば世界が広がる。
 山の中に突然、昔の生活路の跡を見つけることがある。かつては、集落と集落を結ぶ交易路は山を越えてつながっていた。人間が住む場所である限り、山を越えなければ生活できず、人々は一日に何十キロも歩いていた。現在のブータンの農村のように。
 山の中に家の廃墟跡や炭焼きの跡、石垣、割れた食器などが現れることがある。こんな場所でも、家族が生活し、子供たちが遊んでいたのかと想像力を刺激する。木登りや野鳥の捕獲が子供の遊びだったかもしれない。人間のたくましい生きる意欲が山の中をも生活の糧の対象にさせていたのだ。1万年前、この地域はどんな地形だったのだろうかなどと想像することは、楽しい。山の中を歩き回るには冬がよい。雪が積もれば踏み跡が完全に消え、景観が一変するので、未知の山を体験できる。金を使うことはないが、知恵を使わなければ登れない点がよい。登山道を歩く登山は、ただ道をたどるだけで考える必要がないので、つまらない。
 道のない藪の中を歩き回るうえで、GPSは便利だが、これはあくまで非常用だ。GPSの指示通りに歩くだけでは、整備された登山道を歩くのと同じく、頭を使わないのでつまらない。地図と磁石で現在地を確認したうえでGPSを見ると、「自分の判断が合っているかどうか」という一人クイズになり、けっこう楽しめる。中高年の山の中での密やかなクイズ遊び。


              



2018年2月10日
アインシュタインのもたらしたもの
・・・・ものごとの相対性
 
アインシュタインは、重力によって時空がゆがむと言う。時間、速度、空間などは、何かを基準にして初めて測定できる。しかし、地球、太陽系、宇宙などの万物が動いていれば、測定する基準は固定されていない。宇宙自体が急速に拡大している。基準点自体が動いており、固定されたものは何もない。万物は相対的である。

 人間は、何かを基準に判断することに慣れてしまっている。それが固定的な発想をもたらす。習慣、常識、法律、マニュアル、知識など。自由自体が、「〇〇からの自由」であり、起点になるものが存在する。まったく制約がなければ自由の観念は不要である。宇宙空間では自由の観念が無意味になる。
 誰でもものごとに始まりがあると考えるが、宇宙に始まりはないのかもしれない。そんなバカな!と思われるが、始まりを探す過程は無限に続く。「始まりがない」とか「無限に続く」ことを理解できないのは、人間の思考が枠にはまっているからだろう。裁判では、法律家の思考が枠にはまっていることを感じることが多く、それが冤罪をもたらす。
 収入、能力、美醜、善悪、幸福などについても何を基準に判断している。かつてのブータン語に幸福の観念がなかったのは、幸福かどうかを判断する基準が存在しなかったからではなかろうか。すべての人が幸福感を持っていれば、幸福の観念は不要である。万物が相対的であれば、常識や習慣にとらわれるべきではないことになる。万物を相対的に考える人は、今の社会では生きにくい。しかし、それが、第2、第3のアインシュタインを生むのではなかろうか。


2018年2月9日
芸能人の大学受験をネタにしたテレビの視聴率稼ぎ
と日本の不謹慎文化
 
最近この種のテレビ番組が増えている。
 かりに大学に受かっても大学に入って真面目に勉強をするとは思えない。もし、本当に大学にはいるつもりがあるのであれば、芸能人をやめることになる。かれらは芸能人をやめるつもりがあるのか。芸能人の春日は、大学でまじめに勉強をするつもりがあれば、複数の大学を受験すべきだろう。まじめに大学で学ぶつもりがあれば、大学はどこでもよいはずだ。そのようなまともな芸能人がいないわけではない。春日も、複数の大学を受験すれば、どこかの大学には受かるはずだ。学ぶつもりがあれば、そこで真面目に勉強をすればよいのではないか。大学には巨額の税金が使われており、それはまともな学生のために使うべきである。
 多くの受験生が有名大学をめざすのは、卒業後の就職を考えるからである。芸能人たちは、大学卒業後の就職を考えているわけではない。仮に大学に受かっても、すぐに大学を中退するだろう。芸能活動と両立させようとすれば、通信制の大学でもよいはずである。大学で勉強をするつもりがなく、合格という結果だけをネタに視聴率かせぎをしているのだろう。芸能人の大学受験をネタにしたテレビの視聴率稼ぎは不謹慎である。

 日本では、この種の「ヒヤカシ番組」、「悪ノリ番組」は多いが、テレビの視聴率に支えられている。テレビを見る国民がこの類の番組を支えている。テレビ放送の表現の自由は国民の賢明な自律性が前提であり、それがなければ社会は発展しない。日本のテレビ文化の責任は大きい。


2018年1月27日
エレベーター事故無罪判決
とトムラウシ事故の刑事責任
 
2006年のエレベーター事故について、シンドラー社の元課長に対し、東京高裁が無罪の判決を出した。消費者事件を扱う弁護士や消費者団体は有罪判決を歓迎するが、弁護士会の弁護刑事センターは、無罪判決を弁護士の「成果」とする傾向がある。点検作業を行った従業員については、既に有罪の判決が出ている。事故の予見可能性が争点だったようである。一般に、管理職は、直接、点検作業を行うわけではないので、作業員が点検ミスを犯した場合にそのミスについて管理職が事故について予見することは難しい。
 しかし、最近、管理職の刑事責任を問うケースが増えている。尼崎のJR事故では社長などの刑事責任が問われ無罪になった。現在、福島原発事故で東電の幹部の刑事責任が問われてる。倉ケ城での歩道事故では観光課長の刑事責任が不起訴になった。トムラウシの事故では、社長の刑事責任が問われている(書送検中)。最近、事故が起きれば関係者のすべての刑事責任が問われる傾向がある。従業員が勤務中に交通事故を起こせば、社長が刑事責任を問われかねない。登山中に事故が起きれば刑事責任を問われかねない。しかし、積丹岳の事故で救助隊員の刑事責任がとわれるわけではないので、刑事責任を問題にするかどうかは、理屈の問題というよりは情緒的な問題である。
 ミスについて厳しく刑事責任を問う傾向のもとで、日本の社会はますます萎縮するようである。人間のミスについてどこまで刑事責任を問うかは、社会のあり方の問題であって理屈の問題ではない。


2018年1月24日
草津白根山の噴火について

 
草津白根山が噴火して多数の死傷者が出た。噴火事故は自然災害とされているが、スキー中の事故であり、アウトドア活動中の事故でもある。噴火の予知は困難であり、噴火時に逃げることは難しい。噴火事故を避けるためには火山近づかないことしかない。火山は噴火する可能性があり、火山の傍のスキー場は危険なのだが、日本では火山が多いために火山の危険性に対する感性が麻痺してしまっているのだろう。

 
ところで、活火山特別措置法は、登山者等に火山に関する情報収集義務を課しているが、登山者「等」に、スキーヤーや自衛隊員、ゴンドラで山頂に向かう者も含まれる。御嶽山の事故は被災者が登山者だったが、今回は違う。自然災害に関して国民にこのような義務を課すのはおかしい。先進国では珍しい。
 
御嶽山では、一定のエリアに入る登山者や観光客は届け出の提出が義務づけられ、罰則がある
が、白根山でもそのような動きが出るだろうか。スキー客や自衛隊員に入山届の提出を義務づけるのはナンセンスであるが、白根山にスキーで登る者は規制せず、白根山に歩いて登る登山者だけを規制対象とするのはおかしい。


2018年1月18日
「はれのひ」倒産について

 企業倒産自体は予想されるリスクだが、問題は、この会社はもっと早い段階で倒産しているはずだったのであり、倒産が遅れたことが大きな被害をもたらした点にある。この会社は、かなり前から従業員への賃金不払いがあった。労基署は賃金支払いを勧告できるほか、刑罰の適用も可能だった。もっと早い段階で刑罰を科されていれば、この会社はもっと早い段階で倒産していただろう。あるいは、税金不払いについて役所が差し押さえをすれば、倒産が早まる。
 多くの破産管財事件を扱ったが、企業が、「倒産すべき時」に倒産せず、長々と存続したために、負債額が拡大し多くの関係者に被害を拡大させるケースが非常に多いことを感じている。私は、かつて、詐欺的な会社に関して、債権者申し立てで強制的に破産させたことがあるが、それは債権者にとって大変なので(裁判所に250万円の予納金を納付した)、簡単な方法は賃金不払いについて刑罰を科すことである。あるいは、旅行業者のケースでは、役所が旅行業協会への保証金の差し押えをすれば簡単に倒産に追い込むことができる。取引口座の差し押さえも同じ。しかし、労基署は賃金不払いで刑罰を科すことを躊躇し、役所もなかなか差し押さえをしない。税務署などは個人の税金未払いのケースでは簡単に差し押さえをするのだが・・・・・役所は、弱い者には強い姿勢で臨む。


一泊15万円のキャンプ場が現れたそうな
 ホテル並みに豪華なキャンプ場では、法的な管理責任もホテル並みに生じる。街中のホテルでは、不審者対策がしやすいが、自然の中ではそれがしにくい。キャンプ場の警備が大変だろう。最近は、無差別殺傷事件などが多いので安全管理が大変だろう。格差社会では、富裕層が無差別殺傷事件の標的になりやすい。外国ではキャンプ場で銃の乱射事件が起きている。キャンプ大国アメリカではキャンプ場での犯罪が多いらしい。
 キャンプ場に高価な品物を持ち込むと、犯罪を誘発するのではないか。キャンプ場で窃盗や強盗が少ないのは、「山では善人が多い」からではなく、キャンプ場に金目のものが少ないからである。しようと思えばキャンプ場での窃盗や強盗は簡単である。
 キャンプは、金をかけず、文明の利器を使用しないからこそ、「自然」を経験できると思うのだが。キャンプは原始的であればあるほど、楽しめる。


                
 

2018年1月6日

今後の登山の動向の予測

・今後、山歩き、ハイキング人口が増えるだろ。
・人工壁、ゲレンデのクライミング人口が増えるだろう。ボルダリング人気が高くなる。
・山麓の岩場での住民トラブルが増えるだろう。岩場の使用禁止問題がもっと深刻化するだろう。
・アルパインクライミング人口は横ばい。
・やさしい雪山の山歩き人口は増えるだろう。
・沢登り人口は横ばい。レジャーとしてのキャニオニング人口は増えるだろう。
・登山の商業化が進むだろう。
・単独登山が増え、事故が増えるだろう。
・登山道の遊歩道化が進み、一部の山小屋は高級志向になるのではないか。山小屋のスイートルームとか、山小屋でコース料理を出すとか。
・100名山ブームは相変わらず続くが、それにとってかわるブームが起きるかもしれない。
・国民のアウトドア志向が強まり、登山道、キャンプ場の混雑がひどくなるだろう。
・講習会人気が高まるだろう。多様な形態の講習会。
・ツアー登山は根強い人気があるだろう。ツア−登山の多様化。たとえば、講習会を兼ねたツアー登山、植物観察のツアー登山、星を学ぶツアー登山、など。自治体主催の婚活ハイキングなどはどうか。昔、学生の「合ハイ」という言葉があったが。
・登山に対する行政の規制が強まるだろうが、事故は増える。制限すれば事故が減るというものではない。ただし、制限によって登山人口が減れば、当たり前だが事故も減る。高齢者の運転を制限げすれば、高齢者の事故が減るのと同じ。
・登山道をめぐるトラブルが増え、自治体の登山道の管理が今よりは若干、進むだろう。


 
 



                            


「登山の法律学」、溝手康史、東京新聞出版局、2007年、定価1700円、電子書籍あり

                                 

               
  
 「山岳事故の責任 登山の指針と紛争予防のために」、溝手康史、2015
        発行所 ブイツーソリューション 
        発売元 星雲社
        ページ数90頁
        定価 1100円+税

                                 

                      
  
 「真の自己実現をめざして 仕事や成果にとらわれない自己実現の道」、2014
        発行所 ブイツーソリューション 
        発売元 星雲社
        ページ数226頁
        定価 700円+税
                                


                                

「登山者ための法律入門 山の法的トラブルを回避する 加害者・被害者にならないために」、溝手康史、2018
       山と渓谷社
       230頁

      
972円