2020年 その2


                                     溝手康史


2020年 その1

2020年 その3





2020年3月31日
YAMA HACKの記事
ハシゴや鎖は誰がかけたの?知っているようで知らない【登山道整備】の謎」
「自由に山を歩いてもいい?悪い?【登山道】を【法律】と【マナー】から学んでみよう」


 登山のウェブマガジン・YMMA HACKの記事。僕のコメントが載っている。https://yamahack.com/4085


 混雑する山小屋・登山道、ツアーバスなどを避ければ、山で新型コロナに感染するリスクはほとんどない。
 ストレスを解消することも必要だ。
 自然の中で人間の免疫力が高まる。
 登山は、レジャーの中では、工夫すれば金をかけないで行うことができるので、不況の時代にマッチしている。会社が休業すれば人々の時間があまる。人の少ない近郊の山に行くだけであれば、金はそれほどかからない。裏山登山でもよいのだ。

 緊急事態宣言が出ても山に行くことは可能だ。家の中に閉じこもってストレスから紛争が増えるよりも、自然の中で」ストレスを解消させた方がよい。欧米の外出禁止令は、発令が遅すぎたので、散歩、ジョギング、自然の中での行動なども禁止した結果、DV事件などの増加を招いた。

 

2020年3月30日
感染法が障害になっている
・・・・指定感染症のしばり
 新型コロナウィルスは感染法で指定感染症に指定されている。その指定は1月のことだが、未知のウィルスを指定感染症に指定したことが間違いだった。指定感染症はその実態がある程度把握できた後に指定すべきだ。新型コロナウィルスはインフルエンザのような感染力があるので、感染法では対処できない。
 感染法は、指定感染症患者を指定感染病院に入院させること、感染していないことを確認したうえで退院させることをなどを規定している。この規定は、感染症患者の数が少ない段階では適用可能であるが、インフルエンザのように拡散すれば、患者全員を指定感染病院に入院させることはできない。
 この規定があるために、国は新型コロナウィルスの検査対象者を絞ることにしたのである。感染者が多ければすべて入院させれば医療崩壊するので、検査対象を限定したのだ。
 これは本末転倒の発想だ。
 本来、検査をするかどうかは、医学的な必要性に基づいて検討すべきだ。WHOが述べるように徹底した検査が望ましいことは言うまでもない。
 検査によって陽性になった場合に、患者の隔離が問題になる。入院施設の能力を超える入院は無理である。発展途上国では整備された病院の地域もあるだろう。この場合には、病院以外の施設に隔離するほかない。検査が先で、隔離の問題はその後の問題である。
 本来、考え方の流れはこのようになるはずだ。しかし、日本では、指定感染病院のベッド数を考慮して検査対象を限定したのだ。本末転倒というのはこの意味だ。医学的判断よりも、医療政策=政治が優先したのである。

 これが検査対象者を限定する日本方式である。この日本方式は法律の規定と管理する側の都合でそうなったのであって、それで感染拡大を防止できるという展望があったわけではない。日本方式の「ポリシー」は後で説明のためにくっつけた理屈である。
 他方、ドイツでは50万件以上の検査を実施し、症状の軽い者は自宅に隔離し、インターネットなどを通して医師の指示を受けている。

 自治体の担当者の意識として、「検査をして、もし感染していれば、指定感染病院のベッドを確保しなければならない」と考え、「入院治療の必要のある症状の重い者を検査する」傾向をもたらしたのだろう。あるいは、「検査を広く実施すれば自分らの仕事が増える」と考えるのかもしれない。検査件数が増えても職員の数が多ければ個人の仕事が増えない。それはシステムの問題である。

 しかし、検査対象者を絞る日本方式でも感染者が増加しているので、このままでは指定感染病院のベッドが足りなくなることは明らかである。
 感染法では一般病院のベッドも指定感染病院に代替できるが、それでは新型コロナウィルスが一般患者に感染する恐れがある。

 軽症の新型コロナウィルス患者は病院以外の施設に隔離することが必要である。公共施設、保養所、廃業寸前の旅館、ホテルなどをこれに転用できる。今は、観光、研修などを自粛しているので、企業の保養所、研修施設などが空いているだろう。廃校になった学校、使われていない寮、作業場、事務所などは、1週間程度の工事で隔離施設に転用できるのではないか。中国が突貫工事で病院を作ったくらいなので、簡易隔離施設はすぐに作れるはずだ。
 50歳以下の症状が改善した入院者は、自宅隔離に切り替えればよい。
 感染者のトリアージ(優先順位をつけること)が重要である。すべての感染者の入院は無理である。

 自宅隔離では家族に感染しやすいが、もともと、感染していることがわかった時点で既に家族に感染している可能性が高いので、家族全員の自宅隔離が必要だろう。その場合には食事などの宅配サービスをするシステムが必要になる。食事以外はインターネットでたいていのものは購入できる。インターネットや電話で病院や保健所と常に連絡をとり、病状が悪化すればすぐに入院させる必要がある。
 中国では、「自宅隔離しても感染者が外出するので、感染が広がる」と言われているが、自宅隔離を守るかどうかは、その国の国民の文化レベルによる。中国では自宅隔離は無意味だろうが、日本では、自宅隔離は有効だろう。

 
このようにな扱いをしようとすると感染法の規定が障害になる。感染法は、感染者を指定感染病院に入院させ、感染していないことを確認したうえで退院させることになっている。現在は、2回の検査で陰性にならなければ退院させていない。現在は未発症の感染者でも長期間入院させており、簡単には退院できない。こんな悠長なことをしていれば医療崩壊するのは当たり前だ。
 入院させるのは、重症者や高齢者だけでよいのではないか。
 感染者の8割は軽症なので入院させることなく、病院以外の施設に隔離または自宅隔離すればよい。
 臨時の隔離施設を感染法上の指定感染病院に指定するという方法もある。これは本来の病院ではないのでおかしいが、できないことはない。戦時野戦病院のようなものだ。所詮、法律は国会で決めればどうにでもなるような代物なのだ。

 都道県知事の英断で柔軟な運用をすればよい。感染者を指定感染病院以外の施設に収容すること、軽症の若者を自宅待機させることは、知事の判断で可能だ。国の指示を待っていたのでは間に合わない。緊急事態では多少の法令違反があっても違法性がない扱いが可能だ。

 裁判所ですら、必要性があれば、法律の明文を無視することがある。東京地裁が破産事件の管轄に関する破産法の規定を無視したケースや、東京地裁が特定の業者が提起する手形訴訟をすべて受理しない扱いをしたことがある。かつて、総理大臣が意識不明になった場合に総理の代行者の指定を超法規的に行い、それが黙認された(本当は、意識不明状態で代行者の指定ができるだけの判断力がなく代行者の指定は無効だったのだが、当時の日本で誰も異議を唱えなかった)。形式的には違法でも緊急措置として違法性が阻却される。検事長の定年延長に関する法解釈の疑惑に較べれば、感染法の規定の柔軟な運用などどうにでもなる。


 あるいは、新型コロナウィルス
を指定感染症から外せば、感染症の縛りから解放できる。指定感染症の取消は政令で可能である。この取消の効果は遡及せず、将来に向かって生じるものであれば既存の措置への影響はない。
 欧米ではこのようにするだろう。法治国家では法的な扱いを変更する。しかし、日本では、法律は「お上」の権威の象徴であり、政権の体面とメンツのためにそれができない。法律は社会統治のための手段であり、必要があれば改正するのが当たり前だが、日本では法律の改正は情緒的な手続きになる。

 さらに、新型コロナウィルスを指定感染症から外すことはせずに、感染法の規定を無視する方法がある。これは、本来、法治国家ではできないことだが、あいまいにものごとを処理する日本では珍しいことではない。これで「お上」は体面や権威を失わないですむ。前記の裁判所の運用や自衛隊の扱いなどがその例だ。憲法9条のもとで軍隊を持てないが、必要性に基づいて自衛隊を保有している。法律はタテマエであり、都合が悪ければ無視することは日本では多い。
 この方法であれば、新型ウィルスをインフルエンザと同じく、感染者を指定感染病院に入院させる必要がなく、病院以外の施設や自宅での隔離が可能である。これがもっとも日本的なやり方かもしれない。
 今後、なし崩し的に感染法を無視する運用がなされるのではないか。多くの国民は感染法を読んだこともないし、そのような法律の存在すら知らないので、関心を持たない。

 
今、日本の社会が崩壊するかどうかの瀬戸際だと考えている国民がどれだけいるだろうか。こんな時でも、ライブに行く若者、夜のクラブにいく者、東京で営業を続けるパチンコ店、レストランで宴会や花見をする政治家夫人、会食や宴会をする緊張感のない政治家がいる。
 国会では政治家がようやくマスクを着用し始めるというノーテンキさがある。これはまるで2011年の福島原発事故当日に、テレビでお笑い番組を放送していたノーテンキさを彷彿とさせる
。あのとき、東京に放射線が降り注ぎ、東京が住めなくなるかどうかの瀬戸際だったのだ。


2020年3月29日
感染者数をどのように考えるべきか

 最近、感染者数が急増しているが、感染者数が増加する割合ほど死者数は増加していない。これは、高齢者の感染が急増していないからだろう。高齢者は自重した行動をとっていると思われる。

 日本では、クルーズ船を除き、感染者の中で死亡した人の割合は約3.3パーセントであり、ドイツは0.7パーセントである。これは検査件数の違いを示している。他方、クルーズ船の致死率の致死率は1.4パーセントである。
 感染者数は検査件数に対応する。2月の時点で日本で公表された感染者数は少なかったが、現実の感染者数はかなり多かったはずだ。その後、3月以降、検査件数が増えたことが感染者数の増加をもたらしたのではないか。
 ドイツは徹底した検査の方針をとり、検査件数が多い。sのため感染者数が多いが、その多くが自宅待機である。ドイツは徹底した情報公開の国である。徹底した検査と情報公開は国民に大きな安心感を与えるだろう。
 
 致死率1.4パーセントで推計すれば、現在までの日本国内の累計感染者数は4200人くらいになる。致死率1パーセントで推計すれば、感染者数は約6000人である。ドイツの致死率0.7パーセントで日本の感染者を推計すれば、感染者数は約8500人になる。

 検査を受けず感染の自覚のない感染者が感染を広げる。感染経路不明の感染者はその一部である。感染経路不明の感染者は多いはずだが、検査を受けていなければ感染していることがわからない。

 政府は、「軽症者は自宅待機を」と呼びかけるが、検査を受けなければ、感染していることを自覚しないので、それは無理である。
 このウィルスの恐さは、「自分が感染したことに気づかず、他人に感染させる」ことにある。検査をしなければ、自分が感染していることに気づきようがない。自分が感染していることに気づかなければ、自宅待機するはずがない。
 日本政府の方針は、「検査を実施しない者を放任する」、「検査を実施しない者に国は関与しない」という方針である。検査対象を限定することによって、国が関与する範囲を限定している。そこには政権維持の思惑が見える。戦後最大の危機になるかもしれない場面で、政府は「政権の守りの姿勢」に終始する。これが国民に大きな不安を与えている。
 日本では、ドイツと違って、国民は政府の行動とやり方を信頼しない。国民から見れば、常に政府の行動は、「何かを隠しているのではないか」という疑念で見られる。日本はドイツと違って、徹底した情報公開がなく、逆に国が率先して情報を隠蔽、廃棄するのだから仕方がない。
 
 日本で死亡者数がそれほど多くないのは、高齢者が行動を自重しているからだろう。高齢者はライブや遊園地、K1の試合などに行かないし、満員電車も可能な限り避けるだろう。
 これに対し、欧米の高齢者は明らかに油断があった。
 高齢者が行動を自重する限り、感染者数は増えても、死者数は漸増を続ける程度ですむのではないか。

 未発症の感染者との濃厚接触を避けることはほとんど不可能である。1対1で会話をしても感染する。しかし、1対1の会話の場合に相手がたまたま感染者である確率は低い。この確率の低さは安心してよい。しかし、密閉空間での集会では数百人の中に1人でも感染者がいれば、感染する可能性があり、感染する確率が高くなる。安全かどうかは、危険性の程度問題、確率の問題である。一般に、あらゆる場面でリスクゼロはありえなず、人々はリスクが低いことで安心する。1対1の会話で感染するリスクはそれほど気にしなくてよいが、マスクを着用すればそれに越したことはない。
 登山をして山の中で初対面の登山者と会話をしても、山では常に風が吹いているので、マスクをしなくても感染するリスクはほぼゼロだろう。
 温泉の湯舟で感染するリスクもほぼゼロだろう。

 100パーセントの感染防止は無理だが、感染のリスクを下げる行動をとれば、感染の確率はかなり低い。

 嗅覚異常など、少しでも異常を感じたらすぐに検査をすることが必要である。海外渡航、濃厚接触者、37.5度以上の熱が4日以上続くことなどの検査条件は撤廃すべきである。高齢者は少しでも異常があれば、検査を受けるべきである。それによって感染者を隔離することが可能になる。

 今後、感染者数は加速度的に増えるだろうが、死亡者数は漸増だろう。検査件数が増えても、高齢者は行動を自重するので、重症者はそれほど増えないだろう。
 集団や人ゴミを避ければ
、1対1で感染するだけで集団感染は発生しにくい。

 ひとりひとりが地道に感染防止の努力をするほかない。いずれワクチンができ、特効薬もできるだろう。ワクチンや特効薬ができれば、新型コロナウィルスはインフルエンザのような扱いになるだろう。


2020年3月28日
外出自粛について

 東京、大阪などでとられた外出自粛に法的な拘束力はない。一人一人がリスクを判断、リスク回避行動をとるのが基本である。
 必要性に迫られてスーパーに買い物に行き、スーパーの人ゴミに入ることはウィルス感染のリスクがある。
 病院の待合室も感染リスクがある。

 他方、これは不要不急の用ではないが、早朝、誰もいない街中を散歩することに感染のリスクはない。
 登山などの自然の中での行動に感染リスクはない。
 すべての外出を自粛することはナンセンスである。外出のリスクを自分で考えるほかない。

 登山などの自然の中でのアウトドア活動は自粛する必要はない。ただし、バスや電車の利用、山小屋の利用、他人とのテント泊、混雑する登山道などは避けるべきだ。

 最近、キャンプが感染リスクがないと考えて人気があるが、混雑するキャンプ場は感染リスクがある。テントは密閉空間であり、テントに複数人が入れば感染しやすい。テントを使用せず、テント外で煮炊きし、テント外でシュラフとシュラフカバーで寝るのがよい。冬用シュラフであれば寒くない。それが無理な人はキャンプをしない方がよい。
 釣りやジョギングは感染リスクがほとんどないだろう。

 仕事をしていない高齢の年金生活者は、田舎に「疎開」してもよいのではないか。田舎には人ゴミがほとんどない。
 知恵を使って長期戦に備えることが必要だ。


2020年3月27日
阪神・藤波選手のコロナウィルス感染

 藤波選手は発熱等はなかったが、嗅覚異常があり、検査を受けたとのこと。国の検査基準を無視して検査を行った藤波選手、医師、検査機関関係者は賢明だった。

 かりに、「発熱がない」、「最近の海外への渡航歴がない」、「濃厚接触者ではない」という理由で検査をしなければどうなっただろうか。少し前であれば、保健所はウィルス検査を拒否していただろう。その場合には、今も、感染の自覚がないまま練習をしているはずだ。それを考えるとぞっとする。藤波選手の検査を行ったことは、ほんとうに、運がよかった。

 それを考えれば、少しでも感染の疑いがあれば広く検査することが必要である。2月からこのような検査を行っていれば、今の日本の感染拡大を防止できたのではないか。
 「検査してほしい」人をすべて検査すれば医療崩壊するという意見があるが、あくまで感染の疑いのある人が保険診療の対象である。それは医師が判断する。
 検査を増やせば感染者が増え、入院患者が増えて医療崩壊するという話が繰り返し医療関係者から唱えられるが、症状の軽い若者は自宅待機でよい。感染者の8割は軽症と言われており、軽症の若者を入院させる意味はない。必要があれば法律を改正すればよい。臨機応変の対処が必要だ。これはあくまで軽症の若者の場合だ。高齢者は軽症でも入院させるべきだ。

 このようなトリアージをしなければ、どのようにやっても感染者が増えていくので、入院ベッドが足りなくなるだろう。今の調子で軽症者をすべて入院させていたら、当然、病院のベッドが足りなくなる。
 検査対象を限定することは検査しない感染者を放任することになり、感染拡大の危険が高い。そのような「無検査感染者」が感染を拡大させていく。「無検査感染者」が風邪だと思って一般医院へ行けば、医師や患者に新型コロナウィルスを感染させることになる。

 当初から検査対象を狭い範囲に限定したことが、今の感染拡大を招いている。検査対象を狭い範囲に限定したのは、既存の医療体制の維持という「管理の都合」を最優先させたからである。その結果、新たな医療体制の構築という視点が欠落した。新型コロナウィルスという危機的状況に対応できるだけの医療体制が日本にも欧米にもない。
 危機状況に応じた臨機応変の対処が必要だが、それは専門家の視野の狭い頭では無理である。専門家は既存の制度の固定的な枠の中でモノを考えやすい。例えば、医師は、現在の病院のベッド数を前提に医療資源が足りるとか足りないと考えやすい。専門家会議の委員は、病院のベッド数に限りがあるので検査対象を限定したのだろう。そこでは感染拡大防止よりも医療資源の維持のほうが優先された。そこには感染者の2割を入院させれば足りるという発想がなかった。
 医師は政治に従属した発想をしやすく、制度を変えるという観点が稀薄である。既存の公共施設や空き旅館などを臨時隔離所として確保することは、医師ではなく政治家が考えなければできない。
 欧米の医療体制は崩壊しつつあるが、日本はこれからが問題である。


 日本に「無検査感染者」はいないと主張する人がいるが、感染者がすべて隔離されれば、新たな感染者は出現しない。感染者が増え続けているのは、「無検査感染者」がいるからである。
 
 厳格な検査基準を設定したのは、専門家委員会と政治家ある。その責任は重い。
 専門家委員は、「私は個人的には広く検査をした方がよいと思っていましたが、政府の意向が「検査を制限する」というものだったので、それを受け入れました」と言い、政治家は、「専門家が決めた」と言い、誰も責任を取らない無責任の構図がいつものパターンだ。
 専門家委員会の議事録を作成せず(作成していても、問題化すればすぐに廃棄する)、意思決定の過程があいまいにされやすい。
 コロナ問題が収束した時にはこの検査基準のあり方が検証されるべきだ。

 37.5度以上の熱が4日以上続くこという国の検査基準は廃止すべきだ。熱が出る前に感染しており、潜伏期間でもウィルスをばらまくのであり、そのような感染者を早く発見して自宅に隔離する必要がある。そうでなければ、感染はずっと拡大し続け、1、2年後にワクチンが開発されるまで続くだろう。


2020年3月25日
ウィルス感染を防ぐ個人のリスク回避行動
・・・自分の命を守る行動とは何か
 本来、2月の段階で検査数を増やして感染者を隔離すべきだった。感染者を早期発見し、自宅での隔離などが必要だった。軽症の若者は自宅隔離でよい。しかし、検査しなければ、感染の有無はわからないので、自宅待機ができない
 しかし、国が、37.5度以上の体温が4日以上続いた場合をPCR検査の対象とするという基準を設定したために、それに該当しない感染者が検査を受けないまま野放し状態になった。そのような人たちがウイルスをまきちらした結果が今の状況である。
 今後、感染は加速度的に拡大するだろう。

 今後は、個人が自分で自分の命を守るほかない。お上が命を守ってくれる保障はない。
 新型コロナウィルス感染を防ぐひとりひとりの行動が重要だ。それが感染拡大防止になる。
 
 感染者が自ら自宅隔離できる自律性がなければ、感染者をすべて入院させることになり、入院施設の不足→医療崩壊→検査対象の制限→感染を知らない感染者が動き回ってウィルスの拡散、という悪循環になる。
 日本では、医療崩壊を防ぐために検査対象を制限している。検査を制限すれば、感染者数がそれほど増えないので、医療機関には都合がよいが、いつまでも感染者が増え続けるのではないか。
 日本では検査を受けていない感染者がかなりいると思われる。日本では検査対象を制限しているので、そもそも感染者がどれだけいるかがわからない。今、感染者として隔離されている人は感染拡大をもたらさない。日本国内に検査を受けていない感染者が多くおり、彼らが感染を広げていくだろう。特に若く未発症の未検査の感染者がウィルスをまき散らすのだ。

 ひとりひとりのリスク回避行動
・・・混雑、雑踏、会議、閉鎖空間での作業を避けること。バス、電車、航空機などのでの密集、集団作業、宴会などをしないこと。手洗い、消毒、マスクなど
 これは、山岳事故や自然災害時のリスク回避行動と考え方は同じである。
 危険性を伴う登山では、常にリスクを考えながら行動することが当然の習性になる。

 
ひとりひとりの賢明なリスク回避行動ができなければ感染が拡大し、外出禁止や営業禁止の一律禁止、学校閉鎖などが必要になるだろう。
 

2020年3月24日
全国の学校の一律再開
 
全国一斉に学校を再開するらしい。
 全国一斉学校閉鎖は何だったのか。感染者のいない県で一斉に学校閉鎖し、一斉に学校を再開するのは、ほとんど儀式だ。

 今、全国一斉学校閉鎖した時よりも、状況が悪くなっているのに、再開する理由は何なのか。今、学校を再開するということは、もともと閉鎖する必要がなかったということだ。


 
3月に全国一斉学校閉鎖をする理由はなかった。北海道や愛知など地域別に学校閉鎖を考えるべきだった。
 
その後、感染者が確実に増えているので、学校閉鎖をすべき地域はこれから増えていくだろう。学校閉鎖は、これから本気で考えるべきことだ。3月の全国一斉学校閉鎖は、政治家のスタンドプレーに学校が翻弄されたということ。

 全国一律という点がおかしい。感染状況は地域によって異なるので、学校閉鎖は地域別に考えるべきだ。
 東京での学校再開はかなりリスクがある。

 学校閉鎖の必要性は、地域によって、これから本格的に生じるだろう。



2020年3月23日
賑わうアウトドア

 
新型コロナウィルスのために観光、レジャーが大打撃だ。しかし、アウトドア活動はあまり影響を受けない。特に金を使わないアウトドア活動が。
 ディズニーランドが感染リスクのあるレジャーの典型だとすれば、冬山登山は感染リスクのないレジャーの典型だ。
 新型コロナウィルス対策は長期戦になりそうだ。我慢するだけでは、長期戦に耐えられない。我慢ではなく知恵と工夫が必要だ。


    

 
この時期でも賑わうスキー場(岐阜県)。駐車場には1000台くらいの車があり、その多さに驚いた。
 スキーゲレンデはウィルス感染の恐れはないが、混雑するゲストハウスは感染のリスクがある。驚いたことに、ゲストハウス内のスキーヤーのほとんどがマスクをしていない。スキーヤーの多くが若者なので、彼らは感染しても軽症ですむと考えているのだろうか。それとも、スキー場は安全だと思い込んでいるのか。スキー場にマスクを持ってくるという発想がないのだろう。とんでもないことだ。
 何千人も利用するスキー場では、確率からいえば、1人くらいはウィルス感染者がいるはずだ。

 
若者ではない私はゲストハウスの混雑に危険を感じてすぐにゲストハウスを出た。こんな場所での長居は自殺行為だ。その後、ゲストハウスに近づくことはなかった。
 冬山登山の事故のリスクよりも、混雑するゲストハウスの感染リスクの方が、よほど恐い。

 本来、スキー場は営業してもゲストハウスは閉鎖すべきだ。それでスキー場に来ない人はそれでよい。
 もちろん、この旅行では、旅館での宿泊はしないし飲食店に入ることもなく、入る店はコンビニくらいだ。移動はマイカーである。

 リスク回避は自分で考え自分で判断する必要がある。自分の命は自分で守るということ。感染のリスクを判断し、それを避ける行動が必要だ。それが感染拡大を防ぐことになる。

 
外出禁止や自粛が問題になるのは、人ゴミの中に出かけるからだ。登山では外出しても感染リスクはない。しかし、山小屋の混雑や渋滞する登山道、ツアーバスなどでは感染リスクが生じる。
 
都会での外出が感染リスクを高めるのであり、アウトドアでは感染リスクはほとんどない。
 アウトドアでのキャンプやバーベキューに感染リスクはほとんどないが、混雑する河川敷でのバーベキューや混雑する花見では感染リスクがある。要するに、感染リスクの有無はやり方次第である。知恵を使えば感染リスクを回避できる。その点は登山のリスク回避と同じである。

 
学校閉鎖はやり方次第で効果がある。感染リスクのない田舎の学校を閉鎖しても意味がない。東京、愛知、北海道で学校を再開することはリスクを冒すことになる。一律に学校閉鎖したり、一律再開することは、あまりにも能がない。それは無能と呼ばれる。

 ひとりひとりのリスク回避行動が必要だ。国民ひとりひとりが自分で考え、判断し、行動できなければ、「お上」に国民の行動を「一律禁止してもらう」ほかない。それがパターナリズムである。全国の学校の一斉休校はその例だ。しかし、リスク回避をすべて「お上」に委ねても限界がある。個々人のひとつひとつのリスク回避行動がなければ、「全部禁止」になってしまう。
 自律的なリスク回避行動をとる点では登山のリスク回避行動と同じだ。
 新型コロナウィルス問題では、その国の国民のリスク回避の知恵のレベルが試される。
 欧米では人々にそれがないことが感染拡大を招いた。
 日本では、それほど知恵を使っていないが、日本人の組織的行動になじみやすいことが行動の自粛につながり、感染拡大防止に役立っているのだろう。

 

    

 風雪で大荒れの大日
岳(1708m、岐阜県)にスキー場のリフトの終点からスキーで登る。これはコース外滑降ではなく、コース外登山である。登山はすべてスキー場のコース外行動だ。
 風速は12〜13mくらいか。コロナウィルスがいるはずもない。山頂付近はまったくのホワイトアウトで迷うリスクがあるので、山頂の少し手前で引き返した。無理をせず、自重した。こんな悪天候でも登山をする物好きが7〜8人いた。



    
 
野伏岳(1674m、福井県)で山スキー。
 
雪の野伏
岳は今回が3回目だが、天気がよいせいか今回は登山者が多く、山は30人くらいの登山者で賑わった。そのうち山スキーは5人くらいだ。数千人が訪れるスキー場に較べれば、雪山は人が少ない。しかも、山では常に風が吹いているのでウィルスが吹き飛ばされる。感染者が登山するとは思えないが。

 
 野伏では、いつも、67歳で癌で亡くなったK氏を思い出す。
 ある年、大阪で山岳ガイドをしているK氏からの年賀状に、「癌の手術を受けた」ことが書いてあった。
 翌年、大阪での講演会の後の懇親会で、K氏は、「一時はどうなるかと思ったが、手術がうまくいってよかった」と言っていた。私も癌になったことがあるので、他人ごととは思えなかった。K氏は生ビールのジョッキ5〜6杯をあっという間に飲み干した。 
 その日、私は大阪市の郊外にあるK氏の家に泊めてもらった。K氏の家には、屋上にテラスがあり、K氏の奥さんが、「ここから星空を眺めるのが好きなんです」と言っていたことが印象に残った。長年、広島で単身赴任をし、山登り三昧の生活で大酒飲みだったK氏だが、家族を大切にしていたことがよくわかった。翌日、K氏に京都を案内をしてもらった。

 K氏の年賀状に、「野伏岳で念願の山スキーをしました」と書かれていたことがある。それは、K氏が癌になる前だったのか、後のことだったのか、記憶が定かではない。私はその年賀状の野伏岳の写真に強く惹かれた。
 ある年の年賀状の礼状に、K氏が「昨年、妻が癌で亡くなりました」と書いていたので、私はひどく驚いた。健康そうだったK氏の奥さんの方がまさか先に亡くなるとは。年齢はまだ60過ぎくらいだったはずだ。
 間もなくして、K氏からの年賀状で癌が再発したことを知った。
 65歳で遭難死したN氏の葬儀でK氏に会った時、K氏は袈裟を着ており、ひどく痩せていたので体調について聞くことができなかった。K氏とN氏はほとんど同じ年齢だっただろう。この頃、O氏も67歳で癌で亡くなった。元山岳連盟理事長のKM氏も中国のトレッキング中に心不全で亡くなったのは65歳の退職直後だったような気がする。
 その1年後、K氏に年賀状を出したが、K氏から年賀状は来なかった。しばらくして、K氏の長男から、「父は昨年癌で亡くなりました。生前の御厚情に感謝します」という礼状が届いたのだった。
 私が初めて野伏岳をスキーで登ったのは、それから間もなくのことである。かつてのK氏の年賀状の野伏岳の写真が強く印象に残っていたからだ。
 間もなく65歳になる私は3回目の野伏
岳を訪れ、「今、自分が生きている」ことを実感するのだった。


 
帰りに九頭竜温泉に入った。入浴者は、2、3人しかいない。これはコロナの影響で宿泊者が少ないからだろう。宿泊せず、入浴だけであれば、感染のリスクは低い。湯舟で感染することは、まず、ないと言われている。
 サウナは密室だが、100度の乾式サウナで新型コロナウィルスが死ぬのかどうかよくわからない。100度で5分煮沸すれば、新型コロナウィルスを殺菌できるらしいが、サウナ室内の空中のウイルスが数秒程度で人の体表面に付着したとすれば、人の体表面は100度よりもかなり低いはずだ。したがって、100度の乾式サウナが安全とは言い切れないのではないか。そんなことを考えていたら、サウナ室に他人が入ってきたので、念のためにサウナ室から出た。
 浴室が混雑していれば、入浴は避けるべきだ。



2020年3月18日
管理優先の日本の社会
 新型コロナウィルスの問題で管理優先の日本の社会が浮かび上がる。

・感染者が一人も出ていない県
でも一斉休校にしたのは、管理の都合による。休校する自治体とそうではない自治体があれば、休校うすべきかどうか迷う自治体が現れる。このような判断を避けために全国一斉休校にした。これは管理のしやすさを優先させたのである。ぜんこくいちりつの扱いであれば、役所が迷わなくて済むからである。
 このような管理のための画一的な扱いは日本では多い。全部同じ扱いであれば、個別的判断をしなくてすむので、管理する側は楽である。しかし、管理される側は不都合が多い。
 学校の規則は管理する側の都合で定める。生徒は学校の利用者だという観点はない。

・検査対象を限定したこと。これは検査する医療機関側の都合による。多くの人が検査に訪れると検査機関が混乱する。検査をして陽性者が増えれば医療機関の仕事が増える。それを避けるために症状が軽ければ検査をしないという方法をとった。検査体制を拡大しなかったことは、医療機関側の都合による。
 感染防止の拡大防止よりも医療管理体制の維持を優先している。

・国はさまざまなレジャー分野に自粛要請をしたが、パチンコ店には自粛要請をしない。パチンコ店の「自主性を重視する」らしい。これはパチンコ業界が自民党と強いパイプがあるからだろう。
 多くの新型コロナウィルス対策が恣意的、思い付き的だが、それらはすべて管理する側の都合を優先させてる。管理の都合を優先させると政策がコロコロ変わりやすい。


・裁判制度でいえば、日本の裁判手続きは、利用者の都合よりも、裁判所の都合を考えて作ってある。地方裁判所では、5分で終わる裁判でも、裁判当事者が出席しなければ、裁判で不利に扱われる。裁判所まで何時間かかるかは関係ない。
 役所も同じであり、郵送不可の書類提出のために往復3時間かけて提出することなど、日常茶飯事だ。
 以前、郵便局が、「博」の字の点が入っていなかった」という理由から、「郵便局に来て、記入してくれ」という電話がかったことがある。私は、「、」を記入するために郵便局に出向いた。これは笑い話のような本当の話だ。

・登山の関係で言えば、登山者は管理の対象であり、登山が簡単に制限される。ある山で事故が多ければ、簡単に縦走や冬山登山が禁止される。大山、富士山など。岩場では、クライマーが騒がしければ、簡単にクライミングが禁止されることがある。観光地では、観光客からクレームが出れば、クライミングが禁止されやすい。管理者は経済的利益を優先させるからだ。
 避難小屋を宿泊小屋にして宿泊料を徴収する。それは管理者の都合次第だ。

・国民は、管理されるだけで自ら主体的に行動しなければ、問題を解決できない。
 新型コロナウィルスの感染拡大防止は、国の施策が重要だが、それだけでなく市民の自覚的行動がなければ実現できない。
そこには管理ではなく、主体性が必要になる。不必要な行動や集団を避けることは、国による管理だけでは実現できない。
 日本人は管理されることに慣れているので、行動やイベントの自粛に向けた組織的行動がなされた。学校閉鎖にしても、国の要請に強制力がないにもかかわらず、おどろくほど多く自治体がこれに応じた。欧米ではこうはいかない。欧米では強制力のある学校閉鎖でなければ、このようにはいかない。日本人の組織的行動が感染拡大防止に役立った。

 イタリアでは、市民が管理になじまないことが感染を拡大させたと思われるが、現在、市民の間に感染拡大を防止しようという市民お自覚が強いことがわかる。集団的管理と言うよりも、市民の自覚が感染防止の行動自粛に向けられている。それがなければ暴動が起きてもおかしくない。中国でも同じである。中国では、市民は国家から管理されるだけの存在ではなく、主体的に行動することで感染拡大を抑えた。市民は管理されるだけの存在ではない。管理されるだけでは、困難を解決できない。
 日本で今後検査数が増えれば、元気な感染者も増えるだろう。そういう人は入院する必要はなく自宅での隔離になるが、自宅で大人しくするかどうかは自律性に委ねられる。強制だけでは感染拡大は防止できない。

 新型コロナウィルスの問題は市民の主体性、自律性が試される問題でもある。



2020年3月16日
今年初めての積雪

 毎年、何度か積雪があるのだが、今年初めての積雪。


       
朝の散歩道にて



2020年3月14日
広島の菊池選手が8000万円請求された件

 マスコミ記事によれば、広島カープの菊池がかつての交際女性から8000万円請求されているとのこと。

・結婚前の交際であり、法的には何も問題はない。

・請求の理由があいまいだが、婚約破棄の場合でも慰藉料は、通常はせいぜい100〜300万円程度である。高額所得者が相手であれば慰藉料額が高くなるわけではない。女性が適応障害になったとしても、通常は、関係解消との間の「相当因果関係」が認められないだろう。
 このケースは、正式に婚約していたわけではなさそうだ。たとえ「真剣交際」でも、それだけでは慰藉料は発生しない。結納後の婚約破棄や結婚式直前の婚約破棄でなければ、慰藉料が認められないことが多い。文書、録音テープ、結納、婚約指輪などの婚約の「証拠」がなければ慰藉料額は0円である。それが裁判の現実だ。

・交際するかどうか、別れるかどうかは個人の自由の領域であり、原則として法律は介入しない。恋愛関係に裁判所が介入していたら、切りがない。婚約破棄ではない場合には、法的な慰藉料額は0円である。

・8000万円の請求額はふっかけたにしても異常な金額だ。交通事故で人が死んでも損害賠償額は5000〜8000万円程度である。これはかなりスジの悪い請求だ。私が代理人であれば、こんな請求は弁護士として恥ずかしくてできない。

・8000万円を請求する弁護士は、着手金をいくらもらったのだろうか。それが気にかかるのは弁護士の習性だ。昔から、「弁護士の着手金が高すぎて、低額では和解ができない」ことが、弁護士間でしばしば言われたものだ。私が代理人であれば、10万円の着手金で300万円程度の請求になるが、東京の弁護士は金額の桁が違うのだろう。アメリカの弁護士であれば、報酬額は取れた金額の30パーセントくらいが相場だろう。ヤクザの債権取り立てでは、報酬は50パーセントだ。

・一般に、恋愛関係のもつれは激しい感情をもたらしやすく、そのような激情を金銭に換算すれば8000万円でも足りないと言う人は多い。「復讐」のために慰藉料請求や弁護士を利用したがる人は「非常に」多い。法律を知らない人が8000万円を請求することは珍しいことではないが、それをそのまま引き受ける弁護士は、かつては少なかった。今はそうではない。
 以前、慰藉料を1億円請求してくれと言う人が何度も相談に来て、断るのに苦労したことがある。同じ相談を受けた別の弁護士は、「着手金200万円を持って来たら引き受けてもよい」と言って断ったそうだ。私はそれを聞いて、「もし、その相談者が本当に200万円を持って来たらどうするのか」と心配した。

・請求する相手がフツーのサラリーマンであれば、8000万円も請求しないだろう。請求の相手の収入が多いから高額な請求をしたのだ。これは法律的に見ればおかしい。請求の相手の収入に関係なく、法律的に計算される慰藉料額は同じでなければ公平ではない。交際相手が高額所得のプロ野球選手であれば「精神的苦痛」の程度が大きく交際相手が低所得であれば「精神的苦痛」の程度が小さいということは、ありえない。誰が交際相手でも苦痛の程度は同じである。

・トンデモナイ弁護士がいたものだ
。まるでアメリカの弁護士のようだが、日本の司法改革はアメリカ型の司法をめざしたのだ。弁護士の自由競争のもとで、高額な請求をするアメリカ型の弁護士が増えている。
 一般論としては、法的に成り立たない請求、威圧的な請求、スジの悪い請求をする弁護士は品位を欠き、倫理上の問題がある。このようなことをすれば、弁護士がいかにもいい加減な人種であるような印象を与え、弁護士の信用がますます低下する。アメリカでは、弁護士は金儲けに抜け目のない信用できない人種とみなされ、胡散臭い人間とみなされる。そのような弁護士を当てにして多くの人が群がり、訴訟社会が成り立っている。
 結論的には、裁判になれば菊池氏に慰藉料の支払義務は認められないだろう。

・なぜ、この事件をマスコミが知ったのか。調停は裁判と違って公開されないので、当事者のどちらかがマスコミに情報を流さなければ、マスコミが知ることはない。政治家と違って、この類のことを週刊誌が取りあげて個人のプライバシーを侵害することに公益性はないだろう。マスコミに情報を流すことは法的に問題になりうる。

・これは野球とは関係のない個人的な紛争であり、芸能人と違ってプロ野球はゴシップ記事で観客が減るわけではない。週刊誌が大きく取りあげるほどの「事件」ではない。


2020年3月13日
ネット・ゲーム依存対策条例

 
香川県がネット・ゲーム依存対策条例を制定を検討している。
 日本人の自律の欠如はここまで落ちたか、情けない、というのが感想。さすが香川県。
 ネット・ゲームの利用を1日1時間に制限する内容に「賛成する」意見が多いようだ。

 何が問題か。
 ネット・ゲームの利用を制限すべきかどうかが問題ではない。
 そのような条例を制定することが問題なのだ。国家等(自治体を含む)は個人の行為にどこまで介入できるのかという問題である。


 
長時間のネット・ゲームはすべきではないが、それは個人的な問題であり、国家等(自治体を含む)の公権力が介入すべきではない。
 もし、ネット・ゲームの法的な制限が必要であれば、ネット・ゲームに1時間で中断する機能を入れるほかないが、テレビなどとのバランスが必要になるだろう。テレビ中毒は問題だが、テレビを長時間連続して見れば自動的に画像が遮断されるシステムは導入できない。パチンコを長時間することを法律で禁止できるか。長時間飲酒することも法律で禁止できない。


 
個人の行動に国家等が介入しても強制できない。それを強制しようとすると、国家等がスマホの使用履歴を閲覧・点検して、使用如何を把握する制度が必要になる。違反すれば処罰するか。香川県の条例は強制できないので、政治家の政治的パフォ−マンスと住民の気休めで終わる。議会での議論自体が税金の無駄遣いである。

 世の中には個人の行動に関してして、倫理や道徳、望ましいことはいくらでもあるが、それらに国家等が介入していた窮屈な社会になる。介入に際限がない。
 生徒は学校の宿題をすべきだが、それを法律で義務づけるべきだろうか。「宿題をすべきである」が、法律でそれを義務づけるべきではない。
 不倫は道徳に違反するが、不倫を処罰したらどうだろうか。不倫禁止法。戦前は姦通罪という刑罰があった。現在は、不倫は損害賠償の対象だが、法律で禁止されていない。
 天皇を敬うことを法律で強制すべきか。戦前は不敬罪があった。尊敬するかどうかは法律では強制できない。「学校の教師尊敬条例」などはナンセンス
 子供が親を敬うことを法律で義務づけるべきだろうか。
 朝の挨拶条例、悪口禁止条例はどうか。
 学校の先生を尊敬することを法律で義務づけるべきか。
 浪費禁止条例。「借り過ぎないようにしましょう」を条例で義務化するなど。
 暴飲暴食防止条例。「飲み過ぎないようにしましょう」を条例で義務化するなど。
 健康維持管理条例。「1日に15分は運動をしましょう」をを条例で義務化するなど。
 結婚と出産を勧める条例(少子化防止条例)。「できれば結婚をして、女性はできれば2人は子供を産みましょう」を言う努力義務を規定する条例。それは、よけいなお世話だ!
 道徳遵守条例。「社会の道徳を守りましょう」を条例で義務化するなど。道徳を守ることは個人的な問題であり、そこまで国家等が介入するべきではない。ネット・ゲームの利用も同じ問題。
 
 法律や条例が個人の行動に介入するのは最小限にとどめる必要がある。日本は介入を最大限にしようとする傾向がある。人間の管理に際限がない。国家の介入は最小限でなければ、窮屈で幸福度の低い国になる。国家の介入を当たり前だと考える国民の幸福度は低い。
 個人が自律して行動できない国では国家等の介入する範囲が広くなる。国家等が国民を監視、監督、保護、指示する国家では、個人の自由の範囲が狭く、国家等の介入する範囲が広くなる。国民は子供のように国家から監視され、保護される。そこには人間の自律はない。江戸時代には幕府が人々の生活の細部にまで介入した。イスラム原理国家では法律で人々の生活を規律する。男性は髭を伸ばすことを義務づけ、何故か、たこ揚げの禁止など。

 電車内で携帯電話使用が非難されるのは日本特有の現象だが、これを法律で強制できるだろうか。欧米では、人々は電車内での携帯電話使用に関知しない。それは個人の問題である。
 電車内での携帯電話使用はマナーの問題である。マナーを守れない者が非難される結果、日本では電車内での携帯電話使用を一律に禁止しようとする。現在は電車内での携帯電話使用は世論の非難によって強制するだけで、法的拘束力はないが、日本ではそのような法律ができかねない。ネット・ゲームの利用の制限はそれと同じ問題である。

法的な義務ではない。これを法律で一律禁止にしたらどうか。


 他人に迷惑をかけないことはマナーの問題である。マナーを守ることができない国では、一律禁止になる。日本ではマナー強制法が制定されかねない。
 日本では倫理を強制する法令が多い。弁護士は、法律ではないが、倫理規範で倫理を義務づけられている。これは弁護士の不祥事があまりにも多いからだ。倫理規範に違反すれば、弁護士会から処分される。日本も裁判官も、法律ではないが、最高裁の処分を通して、24時間、私生活の細部まで規律される。大企業の社員も24時間、会社の倫理が事実上適用される。勤務時間外でも不祥事を起こせば会社から処分される。

 日本や中国、韓国は禁止の多い国である
。個人の自由の範囲の狭い国はたいてい幸福度が低い。幸福度の高い国ではマナーの領域に国家等は干渉しない。国民が互いに干渉・非難し合い、監視し合う国。世論から非難されたら日本では生きていけない。

 登山の分野でも国家等国家等の介入が広がっている。登山届けの提出の義務化や、火山での登山者の努力義務を法律で規定するなどの国家等の介入が広がっている。登山届けを出すべきだが、それは法律で強制すべきことではない。登山計画は、役所ではなく家族に告知することに意味がある。
 最近は、法律で管理されることを当たり前だと考える登山者が多い。そのうち、事故防止条例などができるのではないか。登山では事故を起こさないように気をつけましょうという条例。事故を起こさないことは当たり前のことだが、登山者がそれができないので、国家が事故防止を強制するのである。自損事故を起こした登山者を処罰するようになれば、「禁止国家」が完成する。
 小さい頃から管理されて育つとこうなる。
管理することは、当たり前のことだが、管理する側には都合がよい。しかし、社会的な管理が増えれば、管理のために時間をとられ、それだけ社会全体の幸福追求に使える時間の総量が減る。


2020年3月11日
「登山道の管理と責任」、大雪山国立公園フォーラム
・・・・・中止



2020年3月4日
新型ウィルス検査体制の疑問
 
日本では、新型コロナウィルス検査はPCR検査で行われている。これは日本の国立感染研究所が開発した検査方法とされる。
 スイスのロシュ社の開発した検査方法もあり、これは日本の検査方法よりも安くできるらしい。これは、今年の2月中旬に日本でも導入が認められたそうだが、まだ、実際に実施されているわけではないようだ。
 韓国では大量の検査が実施されているが、これは韓国が開発した独自の検査方法のようだ。
 日本のPCR検査は日本の国立感染研究所が開発した検査方法であり、国立感染研究所と保健所でこの検査が可能である。大学などでも検査は可能だが、制限があるようだ。つまり、大学などでの検査は研究用以外に一般国民に開放されていないようだ。国立感染研究所は自分が開発した検査を独占したいのではないか。役所の縄張り意識か。
 民間の検査会社は、それが利益になるのであれば、いくらでも検査を引き受けるはずだ。PCR検査は機械と技術者さえいれば可能なようだが、民間企業の検査業務参入を妨げるのはなぜか。

 
なぜ、日本で韓国のように多数の検査ができないのか。
 検査するかどうかは、医師ではなく、役所が決めるというのが行政検査だ。
 検査対象を広げることに対する役所と医学界(一部だが)の抵抗が、なぜこんなにも強いのか。

 
 
感染経路が不明の感染者が多数出現している現在では、検査によって感染者を発見して隔離するほかない。これはインフルエンザの感染予防と同じである。新型コロナウィルスの感染力はイフルエンザなみだと言われている。もちろん、地域によって学校や企業、施設などの閉鎖も必要になる。インフルエンザでは、検査対象を重症者と感染者の濃厚接触者に限るようなことはしない。インフルエンザの疑いがあればすべて検査し、隔離する。それは感染経路の把握ができないからだ。

 
ある講演で防衛医大の教授が検査対象を広げると日本の医療体制が崩壊すると述べた。検査数が多すぎれば、その方に医療資源をとられて重症患者の検査ができなくなると言う意味らし。これに関しては、症状別のトリアージと民間の検査機関を活用すれば問題はないのではないか。現在の検査体制では、検査件数が増えれば対処できないだろう。検査体制の拡大が必要である。

 
熱があまり出ないインフルエンザ患者もいるが、インフルエンザは軽症者であっても検査で確認されると自宅謹慎させる。それは感染予防のためだ。しかし、新型肺炎では軽症者は検査を受けることができないので、感染しているかどうかがわからず、歩き回ってしまう。

 
新型コロナウィルス検査対象者を、なぜ、37.5度以上の者に限定するのか。37.5度の科学的根拠は何か。新型肺炎の治療経験の少ない日本で、なぜ37.5度以上という基準を設けることができたのか。
 この基準を満たさない人は、新型コロナウィルス感染者であっても、感染していないと思って動き回るのではないか。37.5度以上の4日以上の継続は「検査の基準」にすぎないが、それを満たしていない人は感染していないと考えて、普段通りの生活をするだろう。新型コロナウィルスに感染しても熱が出なければ、その間にウィルスをまき散らしてしまうだろう。しかし、熱がなくても、新型コロナウィルス感染が疑われる場合には検査すべきである。
 



2020年3月1日
新型ウィルスによる全国の学校の閉鎖
 
国が全国の小中高学校の閉鎖を要請した。

 突然の「布告」で日本全体が大混乱。
 日本経済への影響も大きい。
 学校という行き場を失った子供はどこへいけばよいのか。
 親が簡単に仕事を休める北欧のような国であればよいが、日本はそうではない。
 首相は、自分で子育てをしたこともなければ、サラリーマンとして共働きもしていないので、簡単にこのようなことを思いついたのではないか。総理は、周囲に「お手伝い」がいるような環境で育ったに違いない。

 学校閉鎖の効果は確かにあるが、学校だけを閉鎖しても効果は限定的だ。社会全体の活動を停止しなければ、効果が限られる。感染地域の企業、役所を閉鎖した方がよいのではないか。
 感染地域では人が多く集まる役所、店舗、病院、保育園、介護施設、レジャー施設、予備校、学習塾、専門学校、大学などを閉鎖すべきではないか。
 感染していない地域ではそこまでする必要はないのではないか。
 田舎の1クラス数名の学校でも、離島の全校生徒数人の学校でも閉鎖されることの不合理さ。
 
 問題は、全国の学校の一斉閉鎖という画一性にある。日本では全国画一の扱いが好まれるが、そのひずみが大きい。日本の半分でうまくいっても、半分は弊害が生じるということ。学校の指導要領や教科書検定などと同じ。画一的政策に対し、地域ごとの対処や臨機応変の対処がある。
 全国一律の扱いではなく、インフルエンザのように臨機応変に対処すべきだろう。今までも、全国いたるところで、インフルエンザによる学級閉鎖が行われている。それをマスコミが報道しないだけだ。
 医療専門家がメディアで、「学校閉鎖は感染防止に有効だ」と述べるが、その点に異論はないだろう。問題は、「学校閉鎖が感染防止に有効か」どうかではなく、「全国すべての学校を閉鎖するかどうか」である。有効なことをすべて行うとすれば、企業閉鎖、交通機関閉鎖、娯楽施設禁止、飲食店閉鎖、ホテル閉鎖、外出禁止などが絶大な効果があるだろう。戒厳令を実施すれば可能だ。

 感染者が出た地域では学校閉鎖した方がよいが、全国すべての学校を閉鎖することに無理がある。学校閉鎖したために、学童保育や児童クラブに預けるというのでは、感染リスクは減らない。通常の学級よりも学童保育や児童クラブの方が密集空間になり、感染リスクが増す。

 企業が会社内に保育園や託児所、自習室開設という動きがあるが、そこで感染リスクがある。病院に児童室を開設すれば、学校よりも感染リスクが高くなる。学校閉鎖の結果、医療機関が人手不足で稼働できなければ、本末転倒だ。女医の子供はどうすればよいのか。
 塾や予備校は、口には出さないが絶好の機会とばかりに生徒を勧誘するだろう。生徒が学校を休んで塾に行けば、学校閉鎖の意味はあまりない。
 閉校中の生徒がじっと家の中にいることはありえない。必ず、外へ遊びに行くだろう。生徒がゲームセンターなどの密集した場所へ行けば感染リスクは学校と大差ない。

 満員電車、バス、航空機、スーパー、デパート、飲食店、介護施設、福祉施設、保育園、ゲームセンター、パチンコ店、工場などの閉鎖空間で感染リスクが高いだろう。
 驚いたことに、国会では議員が誰もマスクをしておらず、危機感がない。総理もマスクを着用することなく、宴会をしている。日本中の学校閉鎖するほどの緊急事態に宴会をするとは何事か。政治家の言葉とは逆に、政治家の行動上は危機感の欠如が著しい。
 議員が1人でも感染すれば、全議員を隔離しなければならなくなる。紛糾する国会を閉鎖すれば総理はありがたいかも。
 WHOは、咳やくしみをしない限り、マスクは予防効果がないと述べるが、1日の中で一度も咳やくしゃみをしない人はいなのではないか。花粉症の人は多い。鼻炎のある人は多い。話をすれば必ず唾が拡散する。マスクによってウィルスの吸引量が違うのではないか。マスクは予防効果が科学的に検証されていないが、効果がないという証明もなされていない。防塵用のマスクはかなり予防効果があるのではないか。
 
 私は、以前からマスクをアルコールで殺菌したり、煮沸して再利用している。医療機関では医療機器をそのようにして殺菌しているではないか。高価な手術用メスなどは「使い捨て」にしていない。従来、「マスクの再利用はできない」と言われていたのは、マスクメーカーが商品を売るための陰謀ではないか。

 イベントの中止により莫大な経済的損失が生じた。しかし、政府はあくまで「要請した」だけであって、イベントを中止するかどうか、小中学校の閉鎖は自治体の判断にゆだねられている。イベントの中止による経済的損失や学校での混乱の責任は国にはない、というのが、「要請」という文言の意味だ。その意味で、これは実に巧妙な行政指導である。
 イベントの中止と小中学校の閉鎖は行政指導であって、強制力はない。政府はいつでも、責任回避ができる。行政指導は従う義務はないが、日本ではそれに従ってしまうのが日本の企業文化であり、学校文化なのだ。それをわかったうえで政府が指導をするのだから巧妙だ。
 1年後くらいに、イベントの中止や学校閉鎖による損害に関して、国や自治体を訴える裁判が続出するだろう。弁護士の仕事は増えるが、裁判に勝つことは難しいだろう。

 ウィルスの検査体制の拡充が最優先だ。1台数百万円する検査機器があるようだが、1台500万円の検査機器を2000台購入しても、100億円しかかからない。日本はアメリカから1機116億円の戦闘機を105機追加購入することを決定している。アメリカから追加購入する戦闘機を105機から104機に減らせばすむことだ。

 検査で陰性の判定が出ても、100パーセントの安全性は保障されない。しかし、検査は、陽性者を検出するためのスクーリニングに意味がある。検査は陰性判定よりも陽性判定に意味がある。感染者を早期に隔離するために検査を行うのである。そのためには、少しでも疑いがあればすべて検査すべきだ。感染者の早期発見と隔離が感染予防では重要だ。発熱した者だけを対象にしたのでは、発熱していない感染者が見逃される。熱のない軽症の感染者は動き回るので菌をばらまく可能性が高い。感染者が出た地域では全住民の検査をした方がよい。
 韓国で感染が蔓延しているとマスコミが報道するが、死亡者数は、韓国が22人、日本が12人である。新型肺炎による死亡率は韓国の方が低い。それは韓国の感染者数が多いからだ。韓国で感染者数が多いのは、検査者数が多いからだろう。日本でも、韓国並みに検査すれば、感染者数が韓国並みになり、その結果、死亡率が下がるのではないか。
 
 社会全体に新型ウィルスパニックが生じている。ある地域で感染者が出ようものなら、その地域に行けば、すべての人が新型肺炎に罹患するかのようなイメージを与える。自分の周囲で多くの人がインフルエンザや通常肺炎で亡くなっていても、新型肺炎の危険性にだけ関心が向く。新型肺炎の危険性に気を取られている間に、自分の体内でひそかに癌が進行している人は多いだろう。日本全体では癌に罹患する人の数は、新型肺炎に感染する人よりもはるかに多いからだ。

 国の要請は大きな萎縮効果をもたらす。
 感染が生じた場合の責任問題に対する不安が、日本中であらゆる行動を萎縮させる。感染のリスクが少ない場合であっても、万一の場合の責任問題への不安から、とりあえず自粛しておこうという傾向をもたらす。責任回避のための萎縮。
 全校生徒1人の離島の学校でも学校を閉鎖しておく方が無難だということになるだろう。感染者が出ていない地域の学校でも、とりあえず自粛しておこうという傾向をもたらす。
 その結果、10数人程度集まる行事が中止される一方で、生徒数の少ない学校でも閉鎖され、感染リスクの高い満員電車、バス、航空機、スーパー、デパート、飲食店、介護施設、福祉施設、保育園、ゲームセンター、パチンコ店、工場などは放任状態だ。
 非常事態のもとでは、あらゆる人間の活動が、感染リスクの程度に関係なく萎縮しやすい。

 国や自治体などの管理する側は感染拡大に危機感を持つべきだが、国民の立場では、人口比から見た場合の新型ウィルス感染の確率は高くなく、かりに感染しても死亡率は2パーセント以下であり、それほど不安になる必要はない。若者の死亡は少ない。癌や通常肺炎、インフルエンザの方がよほど罹患率が高く、死亡者数が多い。定期的に癌検診を受けていない人が、新型ウィルス感染を心配するのは、矛盾している。
 インフルエンザで死亡する人は、年間、何千人もいる。癌は感染しないが、罹患率は高い。高齢者は、新型ウィルスで死ぬ確率よりも癌や通常の肺炎で死亡する確率の方がよほど高い。 
 リスクを「正しく恐れる」ことが重要だ。徹底した予防が必要だが、新型ウィルスは感染しても軽症者が多く、死亡率が高くないので、癌ほどの心配はいらない。

 国民の新型ウィルスパニックを回避するために、検査体制の拡充が最も重要ではないか。こちらの方が学校閉鎖よりも、よほど重要だ。
 インフルエンザのように、「新型ウィルスの有無を、いつでもすぐに検査してもらえる」ことは、国民に大きな安心感を与える。
 風邪で熱のある人はすべて新型ウィルス検査を受けたいと考えるかもしれない。このうち、医師が検査をした方がよいと考えた場合は保険適用で検査を受け、それ以外の人は実費で検査を受ければよい。人間ドックのように検査を受けたい人は実費で検査を受ける制度があってよい。
 検査した結果、陰性であれば、その人は「安心」を得られる。これは社会的パニックを避けるために重要なことである。フランスのホメオパシーは科学的には薬効がないが、人々に安心感を与えるという効用があり、販売が続けられている。日本でもこのような現象は多い。政治家も「安心」を選挙時のスローガンにかかげる。
 政策決定は、医学的観点だけでなく、社会的な観点も考慮しなければならない。人間はそれほど賢明な生き物ではなく、社会的な存在である。人間は医学的に動くのではなく、世論と感情に左右されて動く。誰でも、科学的根拠に関係なく、不安になり、安心するものだ。
 日本で検査対象者を限定しているのは、検査数が多ければ数字のうえで感染者数が増えるので(そのほとんどは軽症者だが)、それを回避するためではないか。検査数が増えれば、必ず感染者数が増える。そのほとんどは軽症者だが、国民は感染者数を聞いただけでパニックになりやすい。
 軽症者は、検査することなく、「自宅待機を」というのはその意味ではないか。入院する必要のない軽症者が感染者にカウントされなければ、数字のうえで感染者数を抑えることができる。感染者数が増えて韓国のように政治的混乱が生じると困ると考えているのでは?と勘繰りたくなる。


2020年3月1日
大学の法曹コース新設
 
大学法学部に法曹コースが新設される。これは3年で大学の過程を終了して、法科大学院に進学可能になる。

 法学部、法科大学院、司法試験、弁護士の人気低下が著しい。これらの人気を復活させるための苦肉の策だが、従来の制度と変わり映えがしない。
 4年で行うことを3年で行うということ。法曹コースは大学の教養課程の単位を減らすのか、詰め込み教育化するのか? かつてのように、大学でさまざまなことを経験し、議論し、考えることはもはや難しいのだろう。そこでは多くの「無駄なこと」や「効率の悪いこと」をしたが、長い目でみればそれは大切なことだ。かつては、大学の勉強はテキトーにして、大学の勉強以外の場面で大学生活を「謳歌」したものだが。

 4年の在学期間を3年に短縮したから、どうだと言うのか。大学の学費が高すぎるだけのことだ。
 大学卒業生の平均年齢が28歳くらいのヨーロッパの大学と違って、日本の大学は期間短縮や効率を重視する。
 フィンランドでは大学に入る前に、2、3年世界を放浪する学生が珍しくない。大学新入生の平均年齢は21歳らしい。
 日本人は、そんなにあくせく生きて何になるのか。死んだら誰でもゴミになる。歴史に何を残せるだろうか。

 法曹コースを新設しても、法学部、法科大学院、司法試験、弁護士の人気の回復は見込めない。弁護士になるのに時間と金がかかるが、現在の弁護士業は大卒サラリーマンや公務員ほどの経済的安定がないので、職業としての人気が低下したからだ。
 逆に言えば、かつての弁護士は、収入の多さが職業選択の魅力とされていたフシがある。それは多分にマスメディアが作り出した虚像の面がある。かつてはいわゆる人権派弁護士でもかなり稼ぐ弁護士がいたが、稼ぐのはもっぱら人権活動以外の場面である(ある意味では汚い仕事も多かった)。弁護士には表と裏の顔があり、それは政治家に似ている。
 今後は、弁護士は、経済的安定を度外視する人がめざすべきだ。弁護士の優れた仕事のほとんどはボランティア的な仕事である。金の有無に関係なく、弁護士として自分のやりたいことのある人が弁護士になるべきだ。私は、弁護士は、配偶者が安定した仕事について働けば、「自由度」の高い職種だと考えている。そうでなければ、弁護士は金に縛られやすい。
 裁判官と検察官は経済的安定があるが、閉鎖的組織の中でストレスの多い職種だ。官僚と似たようなもの。
 経済的安定をめざす人は、法学部ではなく医学部をめざした方がよい。勤務医は長時間労働でストレスが多く、開業医は休みにくい仕事だが、経済的安定はある。
 
 大学に、4年制過程、3年の法曹コース、法科大学院、大学院研究科が存在することになり、わかりにくい。法曹コースの新設で、既存の4年過程の人気がいっそう低下するのではないか。
 
 大学関係者は予備試験を廃止したいのだろう。しかし、予備試験は、金をかけずに優秀な人が法曹になれるので、国民の多くから厚い支持を得ている。これを廃止すれば大学のエゴと言われるだろう。

 日本の教育政策は、さまざまな機関や課程を作って、国民に金を使わせようとする。大学、学部、大学院、さまざまな過程と資格の大増設。それらのすべてが金と結びついている。日本の教育は経済活動の一部である。大学は金を儲けなければ、生き残っていけない。日本の教育は一大産業であり、政治家と癒着している。大学は政治家の支持基盤のひとつだ。大学はマスコミにとって大スポンサーであり、マスコミは大学の意向に盲従する。
 金がからむと、国民のために本当に必要な司法と教育から遠ざかる。
 

020年2月26日
原爆手当の請求を認めない最高裁判決

 最高裁が、原爆手当の請求をする被爆者の訴えを棄却した。治療の必要性が支給の要件であり、経過観察中ではダメだという理由である。
 法律を形式的に解釈した判決。
 そもそも、法律が、原爆手当の支給を制限しており、被爆者のすべてに原爆手当を支給するわけではない。戦争被害を受けた者はたくさんおり、なぜ、被爆者だけを優遇するのかという意見があるだろう。空襲で後遺症を負い、家を失っても補償はない。
 社会保障の充実した国では、原爆手当がなくても、年金だけで生活保障がなされるだろう。そのような国では戦争被害者であってもなくても、生活の保障がある。法律自体が政治の産物であり、裁判所はそれを追認する。
 
 裁判所は正義を実現すると考える人がいるが、実態はそうではない。裁判所が考える「正義」は、「法律に書いてあること」だと考える裁判官がけっこういる。法律の奴隷と言えば、怒られるだろう。
 裁判所は、法律の解釈をするが、もともと法律という枠の中で解釈をするので、最初から思考の制限がある。法律家はものごとを一定の枠の中でしか考えない。
 法律は、ものごとの一面をとりあげ、それに一定の価値基準を当てはめて紛争を解決しようとする技術的、便宜的な仕組みである。人間と人間の紛争は、感情や金銭などあらゆる事柄が関係するが、法律はその一部を取り出して形式的に処理するだけである。
 交通事故であれば、不法行為という基準に照らして判断するだけであり、「不法行為に基づく〇〇円の請求権がある」という解決で終わってしまう。交通事故で自分の子供が亡くなっても、、「不法行為に基づく〇〇円の請求権がある」という判決で納得する親はいない。そこで、刑事裁判があるわけだが、死亡事故でも初犯の場合は執行猶予が付くのが一般的で刑裁判も2回くらいの裁判で簡単に終わってしまう。
 交通事故で自分の子供を失った親はどうすればよいのか。それに法律は何も答えない。それが法律の世界である。法律や判例に忠実な多くの法律家はそれが当たり前だと考え、それ以上悩むことはない。
 子供の親権や監護権を争う紛争では、裁判所は簡単に女性に単独親権、監護権を与えて解決する傾向がある。離婚していない夫婦の場合さえ、裁判所は簡単に単独監護権の決定をする。離婚後の共同親権・監護権制度が世界の潮流だが、日本では共同親権・監護権制度が紛争を解決できないというのが裁判官の感覚だろう。
 裁判所が単独親権、監護権を与える決定をすれば、裁判所の「事件」は終わり、裁判官はその事件のことを忘れるだろうが、関係者にとって問題はその時から発生する。子供の立場では、裁判所の決定が出た時点から、子供は片方の親(たいてい父親だが)を失うことになる。子供は父親のいない家庭で育つことになる。子供が片親に引き取られ、他方の親と疎遠になることでは、何も親子の問題は解決されない。子供を奪われた片親の悩み、怒り、悲しみなどが進行する。時には、子供の連れ去りやDV事件、殺傷事件に発展する。

 日本の紛争解決方式は、裁判所にとって都合のよい解決方式を採用しているだけである。裁判官にとって、裁判所が決定をすれば「事件」は終わる。しかし、国民にとってそれでは「問題」が終わらないことが多い。裁判官の立場では、「そんなことを言われても、それは裁判所の仕事ではない」と言うだろう。そんなことはシラネーヨ。ここでの問題は、「裁判所の仕事」かどうかではなく、人間や社会の問題をいかにして解決するかという点である。
 日本は、社会全体が管理する側の都合で成り立つ社会である。国民は、常に「管理される存在」である。国が新型コロナウィルスの問題で全国の小中高学校の閉鎖を要請したことも、管理する側の都合を考えた政策である。

 法律家は、法律の適用や裁判が終わった時点から、「悩む」ことが必要である。そんなことに悩んでも弁護士は1円の収入にもならない。そんなことを考えるよりも営業活動をした方がよほど金になるというのが最近の弁護士の業界である。
 しかし、すぐれた制度や正義の実現は「悩む」ことが出発的になる。現在の判例や法律は政治の妥協の産物でしかない。さらにすぐれた制度や考え方を模索することが、進歩につながる。「悩む」ことのない社会は進歩がない。悩むことをしない法律家は進歩がない。どんなに多くの法律書を読み、頭の中に法律の知識を詰め込んでも、時が立てば法律が変わり、役に立たなくなる。その法律家が亡くなれば、法律家の頭に詰め込んだ知識は消え、あとに何も残らない。

 



「登山の法律学」、溝手康史、東京新聞出版局、2007年、定価1700円、電子書籍あり

                                 

               
  
 「山岳事故の責任 登山の指針と紛争予防のために」、溝手康史、2015
        発行所 ブイツーソリューション 
        発売元 星雲社
        ページ数90頁
        定価 1100円+税

                                 

                      


 


  
 「真の自己実現をめざして 仕事や成果にとらわれない自己実現の道」、2014
        発行所 ブイツーソリューション 
        発売元 星雲社
        ページ数226頁
        定価 700円+税
                                


                                

「登山者ための法律入門 山の法的トラブルを回避する 加害者・被害者にならないために」、溝手康史、2018
       山と渓谷社
       230頁

      
972円