2023年
溝手康史


2023年6月8日
軽井沢バス事故、刑事裁判判決・・・・日本の安全、安心文化
2016年のツアーバス事故で15人が死亡した事故で、ツアー会社の社長と運行管理をしていた社員の刑事裁判で、実刑の有罪判決を受けた。
今後、高裁、最高裁と審理が続くのだろう。
バスの運転手の過失はまちがいないが、管理者も刑事責任を負うのか。
20年くらい前までは、このような者が刑事責任を負うことはなかった。
しかし、JR尼崎事故の強制起訴事件などを契機に、管理者の刑事責任が問われるようになった。
福島原発事故の東電役員の刑事責任を問う裁判もその例だ。
無罪判決も出ているが、今回は有罪になった。
明らかに裁判所の刑事責任の対象が拡大している。
その是非は別として、明らかに、日本では、過失事故の処罰の厳罰化傾向がある。この点は欧米の傾向とは異なる。
これは安全、安心を求める世論が強まっていることを反映している。「安心」は外国語に翻訳できない日本特有の文化だ。
責任は、社会秩序を維持するための儀式だと述べる社会学者がいる。
この傾向からすれば、大規模な山岳事故が起き、世論の非難が強ければ、事故現場にいなかったツアー会社の役員、山岳団体の役員、ボランティア団体の役員、登山道を管理する自治体職員などの刑事責任が問われる可能性がある。
城ヶ倉歩道での落石事故について、歩道を管理していた自治体の担当課長が業務上過失致死罪に問われたが、不起訴になった。
2023年5月29日
長野県中野市の4人殺害事件
この事件の動機などは、まだ、不明なことが多い。
加害者がうつ病などだった可能性がある。
この種の事件を起こせば、事後的に人格障害者とされることが多い。
人格障害者だから事件を起こしたのではなく、事件を起こしたから人格障害者とされるのである。
加害者は、近隣の人の談笑を、自分への悪口と感じたようだ。
他人の行動が気になって仕方がない人がいる。
他人が笑うことが許せない人、他人が幸せそうにしているのが我慢ならない人がいる。
クレーマーがそうだ。
クレーマーは、たいてい子供が嫌いだ。子供は快活で楽しそうにしているから。それで、保育園や学校での子供の声がうるさいと言ってクレームをつけるのだ。
戦争になれば世の中全体が不幸になり、全員が不幸であれば、幸福格差がなくなり、自分の気持ちが楽になると言う人がいた。
常に他人との比較で生きている人は、他人の幸福そうにしていると、それと比較して自分の惨めさを感じて不幸感が増す。そういう人は、コンプレックッスの塊だ。自分のやりたいことがない。
他人が幸せそうにしているのを見ると、自分も幸福になる人・・・・・それは自己を確立している人だ。
他人との比較で生きている人は、「自己」がない。
今の日本では、うつ病などの精神疾患が増えている。
離婚、DV,、近隣紛争、労働相談などでは、うつ病者の法律相談が多い。これらの「現代的な生活環境」がうつ病をもたらすのだ。
統合失調症患者数の統計がないが、増えているのではないか。法律相談者の中で統合失調症患者の割合は高い。
2023年5月17日
なぜ安芸高田市は魅力がないのか
安芸高田市は広島市に隣接しているが、広島市のベッドタウンになることもなく、人口減少が著しい。ここに転居してくる人は少ない。
広島市近郊でも安芸高田市に入った途端に居住環境が悪くなる。
その理由
・交通の不便さ
・市全体に活気がない。店がない。娯楽施設がない。観光施設がない。
・公共料金が高い。
水道料金、下水料金、ゴミ処理費用などすべて高い。
・インターネット環境が悪い。光回線はあじさいネットしかないが、これが非常に高くつく。使い勝手が悪い。これでホームページを作成すると、アクセスに対し、「安全ではない」と表示されるらしい。それで、ビッグローブとも契約している。2つのプロバイダ料金ががかかる。月額12000円くらいプロバイダ料金を払っている。
安芸高田市はITを使う企業に、向かない。
・人間関係が難しい古い考え方の住人が多いので、都会から転居してきた任は住みにくい。
・行政が過剰なお節介、介入をし、住民は余計な苦労をさせられる。役所のレべル、議員のレベル、有権者のレベルが低い。少しでも有能な人間は広島市に出ていく。
2023年5月16日
マスコミの失礼な取材
・某A新聞社が、深夜1時に私の自宅に電話してきて、「今、新聞の原稿を書いているのだが、教えてほしい」と言った。寝ていた私は、寝ぼけたまま質問に返答した。
・ある記者は、「新聞に載せる事件の原稿を代わりに書いてもらえませんか」と言ってきたが、断った。
・電話での30分くらいの取材はよくある。30分程度の事故や事件のコメント、法律の説明は、無償で行っている。
・NHKの記者が、取材したいといって、難度も電話で取材し、「映像を取りたい」と言って別の日に、オンラインで映像をとった。それは記者が、「〇〇について説明をしてください」と言って私に5~10分くらい説明をさせるのだが、その後で、「今のは映像がうまく取れなかったので、もう一回やり直してください」などと注文をつける。これは取材ではなく、講演の録画になった。全体で2時間くらい時間をとられたが、謝礼なし。そんなに時間をとられることを予想していなかったので、取材に協力したのだが、今後は断ることにしよう。
これがNHK殿様商法。
民放の場合は、5000円くらいの図書券程度はくれるのだが。雑誌社の場合は取材費用として1万5000円くらいくれる。
2023年5月14日
地域起こし隊…不人気
呉市で地域おこし隊員として、11人を募集し、9人が応募し、2人を採用したとのこと。11人を募集したのだから、9人を採用すればよいのだが、応募した人の質が低すぎたのか。
隊員と自治体との間のトラブルが少なくない。三次市や安芸高田市で、何件か地域興し隊員、元隊員の相談を受けたことがある。
問題点として、
・給料が安いが、副業の制限がある。
・任期~3年だが、その後の仕事の保障がない。
・田舎では、もともと仕事のない地域が多い。
・中高年者には人気があるかもしれないが、隊員として若者しか募集しないことが多い。
魅力のある仕事には人が集まるが、地域おこし隊に魅力がないといいうことだろう。若者の使い捨て。
安い給料ですぐれた人材を集めるのは無理だ。
仕事のイメージや美辞麗句では人は集まらない。
これは地域おこし隊に限らない。介護士、保育士、教師、官僚なども同じだ。労働条件の改善が必要だ。
2023年5月5日
ラフティングでの事故
群馬県でラフティングのツアー中に死亡事故が起きた。
ライフジャケットを着用し、ヘルメットを被っていても、運が悪ければ事故になる。
ゴムボートが転覆したので、後知恵で考えれば、ガイドのミスを見つけることは容易だろう。通常、転覆しないはずのものが転覆すれば、どこかにミスがある。
そのミスを法的な過失と考えることも簡単だ。
事前に参加者は免責同意書に署名をしているだろうが、日本では、それは無効とされる。
ツアー業者の損害賠償責任は避けられないが、問題は、ガイドや主催者に刑事責任が生じるかどうかだ。
最近は、刑事責任を問う傾向が強い。
2023年4月28日
子どもの声は「騒音」ではない?
国は、「子どもの声は騒音ではない」ことを法律で定めることも視野に検討に入ったようだ。
ドイツなどでは、「子どもの声は騒音ではない」ことを法律で規定している。
「子どもの声が騒音かどうかが問題になるのは、規制基準以上の子供の声の場合である。
日本でも騒音について法律や条例で規制しており、規制以下の騒音は子供の声であってもなくても、違法ではない。規制基準以下では、子供の声が騒音かどうかを問題にする意味がない。
ドイツでは、法律や条例の規制対象となるレベルの音であっても、子供の声を規制の対象外にしているということだろう。ドイツでは騒音規制が厳しことが背景にあるのかもしれない。
しかし、日本で問題になる公園や学校での子供の声のほとんどは、法律や条例の規制以下の音のレベルである。日本では、もともと騒音の規制基準が緩い。規制基準以上の音が問題にあるのは、飛行場、工場、高速道路、新幹線、右翼の街宣車などであって、学校や保育園ではない。
騒音防止条例を超えるレベルの音は、役所が自主規制をするので、規制基準以上の子供の音が出る場面はほとんどない。
そのような音であっても、学校や保育園の音に対し、クレーマーや世論がクレームをつけることが多い。クレーマーは飛行場や右翼街宣車にクレームをつけることはしない。子供が楽しそうに遊ぶ声が気に入らないのだ。
法律や条例の規制対象以下の子供の声は、日本でも違法ではない。規制基準以下の子供の声を違法ではないことを法律で明記する意味はない。
「子どもの声は騒音ではない」ことを「法律で定めるのは、もともと違法でないことでも世論がうるさいので、世論を納得させるるために、法律に明記するという意味だろう。それだけであれば、法律ではなく、政府の「宣言」や日本で多用される閣議決定でもよいのではないか。
日本の緩い基準を超える子供の騒音は、相当レベルの音であり、これは現実にはほとんどないが、もしあるとすれば、規制しなければならないのではないか。
もともと、日本は法律で動いていないので、規制対象以下の子供の声に対する苦情が多いのだろう。
法律や条例の規制対象以下の子供の声に対し、世論から苦情が出て、自治体がオタオタしている実態がある。「クレームを出した者の勝ち」という実態がある。
法律や条例の規制対象以下の音であれば、「違法ではない」と言えば足りる。
薪ストーブや焚火、バーベキューでも規制基準以下の合法の場合でも、クレームをつける人が多い。
それらに不満のある人は裁判をして、違法ではないことの確認をすればよい。ドイツではそうするだろう。ドイツでは請求額5万円程度でも裁判をする人が多い(費用は弁護士保険でまかなう)。それで弁護士の数が多い。
しかし、日本では、フツーの人は裁判をすることなく、嫌がらせをする人が多い。時には殺傷沙汰になる。
日本では、ドイツのように少額の裁判をする人は少ないが、それでも弁護士の数を増やしたので多くの問題が起きている。
2023年4月25日
水泳教室での溺死事故
水泳教室で5歳の子供が溺死した。
事故後に、注意が足りなかったなどとされる。
「もっと注意すべきだった」、「危機感が足りなかった」・・・・そのようなレベルの安全管理をしていたことが、事故につながった。
これでは、事故が繰り返される。
これは安全管理システムの問題である。5歳の子供が対象の場合、マンツーマンで安全管理しなければ、事故は防げない。
人間は、同時に2人以上の監視ができることもあれば、できないこともある。動き回る2人を同時に監視できるのは、伝説上の聖徳太子だけだろう。
海水浴では、親は5歳の子供から数秒間といえども目を離してはいけない。子供にロープをつけておくという方法がある。
これまでの小学校の学校登山で繰り返し事故が起きている。登山でもマンツーマンで安全管理しなければ、子供の事故は防げない。学校では、教師の数が少ないので、マンツーマンでの児童の安全管理は無理だ。したがって、児童の学校登山はできない。危険性のない場所での遠足程度にとどめる必要がある。山以外の場所でのハイキングであれば、教師の目が届かなくても、重大事故が起きにくい。
中学校や高校では、生徒の自己管理能力がある程度はあるので、一定の学校登山は可能だ。
子供会での川での水遊びでの子供の事故もある。ここでもマンツーマンで安全管理しなければ、事故は防げない。それができないのであれば、川や海では子供会活動をしないことだ。プールでは、低学年ではマンツーマンに近い管理が必要だろう。
冬山での高校登山部の安全管理も難しい・・・・・そのため文科省は高校登山部の冬山登山を原則として禁止している。
2023年4月20日
安芸高田市の行政の過剰なパターナリズムがもたらす間違った指示
安芸高田市の窓口で、事件処理に必要な戸籍謄本の申請をした。
事務員が依頼者の改製前原戸籍の謄本1通を取りに市役所に行き、改正前原戸籍謄本1通の申請をした。
これは、単に、依頼者の改正前原戸籍謄本1通が必要だったからである。
しかし、市の窓口の職員は、依頼者の「祖父、曾祖父の原戸籍を取る必要がある」と教示をした。
当職事務員は戸籍の知識がないので、市職員の指示通りに申請書を訂正し、祖父、曾祖父の原戸籍計4通が交付された。このうち3通は、当初、申請していない書類だった。
市職員の間違った教示により、3通の無駄な書類が交付された。
市の窓口の職員が「祖父、曾祖父の原戸籍を取る必要がある」と教示をしたのは、依頼者の相続人を調査するためだろう。これは相続人全員を把握するために必要な書類である。
市の職員は、弁護士が相続人調査をしていると勘違いをし、このように言ったと思われる。
しかし、弁護士の受任事件は相続とは関係がない(依頼者は相続放棄をしていた)。
市の職員は「祖父、曾祖父の原戸籍を取る必要があります」と言う前に、事務員に相続人調査をするのかどうかを確認する義務があった。
市職員が「相続人調査をされますか」と尋ねれば済む問題である。
事務員は相続という言葉を言っていないし、その発想はまったくないので、「申請は相続と関係がありません」と答えるはずだ。
職員がその確認をすることなく、、「祖父、曾祖父の原戸籍を取る必要があります」と言えば、戸籍の知識のない事務員は「改製前原戸籍謄本1通ををとるには、それが必要なのか」と思ってしまうだろう。
職員に、確認義務違反の注意義務違反があった。
翌日、この件について、市役所窓口に苦情を言ったら、市役所は「申請者の同意があった」ことを理由にまったく取り合わない。
市の職員に間違った教示、裁量権を超える不適切な指示、確認義務違反があれば違法であり、申請者の同意は違法性を阻却しない。この場合の同意は無効である。
市には、問題解決能力がない。
市の間違った教示自体はよくあることであり、それ自体はそれほど問題ではない。すぐに是正措置をとれば、問題は生じない。しかし、それに適正に対処しないことの方が問題が大きい。
マニュアル的な思考しかできない市の職員には、問題を解決できるだけの能力がない。
こんなことが当たり前になれば、弁護士は戸籍の知識のない事務員を雇用できなくなる。事務員が弁護士の指示通りの申請をしても、市職員の間違った教示により必要な謄本をとることができないからである。
事務員は市の職員に対し、「これは相続人調査ではありません」と言い、市の職員が勘違いしないようにしなければならないのか。
市職員の思い込みに基づく間違った教示を是正できるだけの知識・・・・それは弁護士並みの知識・・・・がなければ、改製前原戸籍の謄本1通すらとれないことになってしまう。
安芸高田市では、毎回、事務員ではなく、弁護士が窓口に行かなければならないのか。
しかも、問題が起きた場合に、市職員にはそれを解決できるだけの能力がない。
これが安芸高田市のレベルだ。
これはささいな問題だが、このようなことが市と市民の間で日常的に行われているはずであり、看過できない重大な問題だ。
市に対し内容証明郵便を出し、国賠訴訟の提起を検討している。
裁判になれば、市は顧問弁護士に高額な費用を払い、これは税金から支出される。
2023年4月20日
宮島の入島制限
先進7カ国首脳会議(G7サミット)で首脳訪問の候補地となっている広島県廿日市市の宮島で5月中旬の3日間、観光客の入島制限が計画されている。
これは行政指導による制限だと思われる。行政指導には法的拘束力がない。したがって、入島制限による店舗等の休業補償もしないことになるのだろう。法的拘束力がなくても、事実上、強制するというのが日本的なやり方だ。無法治国家、日本。行政指導に法的根拠はいらない。
宮島はフェリーでなければ入島できない。フェリー会社は、施設管理権に基づいて、許可証がなければ乗船させない扱いができる。これは法的根拠のある規制だ。フェリー会社は行政指導に従う義務はないが、役所に逆らうとどんなひどい目に遇わされるかわからないので、フエリー会社は行政指導に従うだろう。
フェリー会社の施設管理権に基づくこの運用が、憲法14条、移動の自由、一般的自由権などにに違反するか。憲法の私人間適用の問題になるが、間接適用説が通説だ。フェリー会社の運用が公序良俗に違反するかどうか。裁判所は違法とはしないうだろう。
フェリーを使わずに個人的に船で宮島に入島する場合には、フェリー会社の管理権は及ばない。これも、行政指導に従うかどうかは、個人の自由である。漁民は自分の船で自由に宮島に出入りできる。
2023年4月19日
「山岳ボランティア活動で生じる注意義務」、溝手康史、日本山岳文化学会論集20号、2023年3月
2023年4月18日
キャンプ場で木が倒れた死亡事故
神奈川県の新戸キャンプ場で倒木委による死亡事故が起きた。
キャンプ場に安全管理する責任がある。この工作物責任は、無過失責任制度。キャンプ場に設置管理の瑕疵があれば、管理者に損害賠償責任が生じる。設置管理の瑕疵は、「通常有するべき安全性」を欠くことを意味する。木が倒れることは、「通常有するべき安全性」とはいえない。倒れるような木を放置していたことは、設置管理の瑕疵に該当する可能性が高い。
また、日本では、この種の事故で刑事責任が問われることもある。
木の近くでキャンプをしたいという人もいる。ハンモックを使うには、近くに木が必要だ。リスクを覚悟のうえで木の近くでキャンプをする人もいるが、そのようなリスクの承認は、日本の裁判所と世論はほとんど認めない。結果的に事故は起きれば、責任が生じやすい。
アメリカでは、キャンプじゃにしばしばクマが出没する。「熊の出没に注意」の看板が掲示されており、裁判所は、キャンパーが熊に襲われても管理者の責任を認めなかった。
日本では、このような事故が起きれば、裁判所は、損害賠償責任と管理者の刑事責任を認めるだろう。それがキャンプ大国アメリカと違う点だ。
アウトドア大国のカナダやニュージーランド、ドイツ、北欧でも、自然の中での利用者の自己責任の範囲が広く、アウトドア活動が法的に保障されている。
日本では、自然の中での利用者の自己責任の範囲が狭く、アウトドア活動が法的に保障されていない。
今後、キャンプ場の木が撤去されるのではないか。キャンプ場は、焚火禁止、犬の持ち込み禁止、ハンモック禁止、自転車禁止・・・・日本は禁止国家だ。これではアウトドア活動は発展しない。
街路樹、公園や学校の木も撤去されることが、加速されるのではないか。
神社の木も倒れれば管理責任が生じるが、神社の樹木をすべて撤去するわけにはいくまい。
個人の住居でも、庭の樹木が倒れて、配達員が下敷きになれば、住居の施設管理義務違反に問われる。
このように倒木の危険性を考えるとm切がないが、一般論としては、倒木の確率が低いので、それほど心配する必要はない。施設管理保険や個人賠償責任保険に加入しておけば足りる。個人賠償責任保険は火災保険に付帯していることが多い。
2023年4月17日
だんじり祭りでの事故
祭りでの事故は昔から多いが、リスクマネジメントがない。
祭りの関係者は、ボランティア活動であり、それで事故の刑事責任を問われるのは割に合わない。
危険な祭りは、リスクを覚悟のうえで実施する必要がある。
観客も危険性を理解して、見物すること。
危険性の承認・・・・日本ではこれが理解されにくい。日本の裁判所もこれを認めない。
したがって、日本では、危険な祭りを実施すべきではない・・・・・これがリスクマネジメントになる。日本では、だんじり祭りや御柱祭りなどはしない方がよい。欧米であれば、可能だが。
高校の登山部は、ハイキングとスポーツクライミングだけにし、高校生の本格的な登山は学校外のクラブで行った方がよい。欧米には、高校に「登山部」はないと思われる。
2023年3月29日
保津川川下り事故
京都の保津川の川下りで船の転覆事故が起きた。
事故の原因は船頭の操作ミスにある。
雇用主は使用者責任を負うが、このケースでは、個々の船頭が事業者であり、管理する組合は雇用主ではないようなので、組合は使用者責任を負わない。
最近の傾向として、雇用主企業の代表者や管理責任者の刑事責任も追及されることが多いが、組合や組合理事者の管理責任jが生じるのかどうか不明だ。
人間のミスは必ずどこかで生じ、それは確率の問題だ。
廃業になった天竜川の川下りもそうだが、保津川の川下りはラフティングの一種である。
しかし、アウトドアスポーツとしてのラフティングと違い、伝統的な川下りはリスク対策が不十分である。
木船は転覆しやすく、客はそのスリルを味わうのだが、事業者と参加者にそのリスクの認識がない。
客観的な危険性と危険性の認識の間に大きなギャップがある。
問題点として、
激流を下るのに転覆しやすい船を使ったこと。ゴムボートではないこと。
いつ転覆してもよいように、ライフジャケットは膨らませる方式ではなく、常時、空気が充満していることが必要だ。カヤックやヨットではそのようなライフジャケットを使う。
伝統的なオールが操作しにくい。
無線機を携帯していなかったこと。
などの点で、リスク対策が不十分である。
伝統的な川下りは客を乗せなければ問題はないが、客を乗せて観光用にレジャー化した時点で(おそらく数十年前)、既にリスク対策が不十分だった。
それが長年、継続されてきた。
それがこの事故で露呈された。
伝統的な形態の川下りではなく、現代のラフティングとしてゴムボートを使用する必要がある。
アメリカでは免責同意書が有効だが、日本の裁判所は免責同意書の効力を認めないので、日本では伝統的な形態の川下りを実施するのは無理である。
日本で多く行われている伝統的な危険な祭りも、日本で行うのは無理である。
欧米では、関係者や観客が危険を了解したうえで実施されているが、日本の裁判所と世論はそのような考え方を認めない。日本では、事故が起きれば、関係者が刑事責任を厳しく問われる。
日本は、危ないことしてはいけないという世論が強く、冒険に否定的な社会だ。
2023年3月26日
日本のアウトドア活動のモヤモヤ感
3月に発行された「アウトドア六法」、山と渓谷社を読んで、「モヤモヤ感が解消しなかった」という感想があった。
この本を読んで、モヤモヤ感を感じたということ・・・・これがこの本の目的でもある。
日本では、アウトドア活動は不法ではなく、「無法」であると述べた研究者がいる。無法・・・法律がないということ、あいまいだということである。
アウトドア活動に関して日本の法律はあいまいである。違法かどうかよくわからない。アウトドア活動はほとんど黙認行為として行われている。目立てば、世論から叩かれ、世論の圧力で制限されるが、目立たなければ黙認されることが多い。
その点が、日本のアウトドア活動の特性である。これを理解することが大切だ。
この本は、「日本のアウトドア活動が法的にあいまいである」ことを「明確に」書いている。
あいまいなことをあいまいなものとして理解することが必要だ。それにモヤモヤ感を感じる人は、「ものごとは明確であるはずだ」という思い込みや願望が強いからだろう。
日本人は、小さい頃から、規則に縛られて管理されて育つ。そこでは、「できるかできないか」が細かく規律される。会社や役所でも、規則に縛られる。しかし、実は、そのような規則の多くが、法的根拠があいまいなのだが、それに気づかない人が多い。かりに、気づいたとしても、組織や集団、世論の圧力にさからうことができない。
アウトドア活動でも、役所の行政指導や世論を「ルール」だと考えれば、似たような状況になるが、法的にはそうではない。
法的にあいまいなものを明確に書くのは、無理である。
それにもかかわらず、「アウトドア六法」という本の出版を企画した山と渓谷社は、かなり大胆だ。私がこの本を企画したわけではない。私は原稿の監修を頼まれただけだ。
問題は、あいまいな日本の法律にある。
アウトドア活動に関する法律が何故あいまいなのか・・・・それは、その方が役所にとって都合がよいからだ。
新型コロナ対策と同じである。日本では、欧米と違って、新型コロナ対策法律ではなく、法的にあいまいな行政指導で対処した。この点を理解いている日本人は少ない。法律と行政指導の区別ができない人が多い。どちらも「お上」が決めたことfだと考える人が多い。それだから行政指導が政治的な効果を持つのである。
日本が欧米並みの法治国家になるには、あと50年かかるのではないか。
現状では、アウトドア活動は、法的にあいまいなので、目立たないように行うことが必要だ。
今後、アウトドア活動を明確にする新たな立法が必要である。
2023年3月25日
「新・高みへのステップ」発行
国立登山研修所発行「新・高みへのステップ」4部、5部が発行された。
「高みへのステップ」の新版である。
旧版の「高みへのステップ」は、持っていても内容的に使うことがない本だったが、裁判で引用されることが多く、知名度だけが目立つ本だった。それに対し、新版は現実に役に立つ本だ。
1~3部は発行済み。計5分冊。
私は、1部と5部の一部を執筆した。
書籍の購入が可能だが、、デジタル版は下記サイトで無料で閲覧できる。
国立登山研修所ホームページ(https://www.jpnsport.go.jp/tozanken/home/tabid/213/Default.aspx)
2023年3月23日
WBCと人間の能力
WBCで日本が優勝した。
大谷がMVPを獲得し、大谷のための大会のようだった。
しかし、チェコのエンジニアをしているアマチュアの投手は、緩い球で大会のMVPの大谷を抑えた点だ。これは驚きだった。柔が剛を制した。
大谷には特別な能力がある。
かつて、イチローは、テレビコマーシャルで、「がんばれば必ず夢を実現できる」と言っていた。
しかし、誰でもがんばっても、大谷のようなプレーは無理だ。どんなにがんばっても、運動オンチはプロ野球の選手になれない。
音楽の才能ゼロの音痴の子供は、どんなにがんばっても一流の音楽家にはなれない。それをめざすことはナンセンスだ。
人間には能力差がある。それを誰もがわかったうえで、日本人は、「がんばれば必ず夢を実現できる」と言う。これはタテマエ。日本人はタテマエで生きている。
ホンネは、誰もが、「人間に能力差がある」と思っている。
しかし、日本ではホンネを言うことはタブーだ。
人間に能力差がある」と言うと嫌われる。
「人間の能力に違いはない」、「がんばれば、できる」という言葉が好まれる。
人間には生物としての個体差がある。
気質や性格も個体差のひとつ。なかなかがんばれない子供もいる。
能力差も個体差のひとつ。
これを無視すれば、うまくいかない。
普段の生活では、能力差を無視しても失敗するだけで、死ぬことはない。
誰でも同じようにがんばらせようとすると、悲劇を生みやすい。
登山では、能力差を無視すれば、命を失う。自分の能力を超える登山=死だ。
岩稜ルートでは、登攀能力がなければ滑落して死ぬが、登攀能力のある登山者は簡単に登る。
岩場でのバランス感覚には天性のものがあり、これは体操選手の才能に似ている。
しかし、岩オンチでも、ふさわしい訓練をすれば、誰でもやさしい岩は登れるようになる。
人間の個体差や能力差を無視したがんばりは失敗する。
人間の個体差や能力差を理解し、それに基づいて努力をすることが成果につながる。大谷をマネても、うまくいかない。
政治家の「身の丈に応じてがんばってほしい」という発言は、本来、自分のレベルや能力に応じてがんばるのは当たり前のことだ。 しかし、それを言うべき政治状況を間違えたので、世論から猛烈なバッシングを受けた。「身の丈」という日本語は、自分に使うべきであって、他人に使うとバカにされたと感じる人が多い。
「身の丈に応じてがんばる」の典型として、身長160センチの者が、通常のバレーボールの選手のような努力をしても無理だ。身長160センチの者が、身長190センチのアタッカーをめざしても喜劇でしかない。「身の丈」がなければ、バレーボール以外の分野でがんばった方がよい。身長160センチが「身の丈」なのだ。
「身の丈を知る」は、「現実を知る」と言い換えてもよい。現実を無視したがんばりは、気持ちが空回りし、うまくいかない。
チェコのピッチャーは、160キロの球を投げることができないが、130キロの緩い球で大谷から三振をとった。
このチェコのアマチュアの投手に感動した。130キロの緩い球で三振をとることも、ある種の才能だ。
登山も同じであり、体格、体力、運動神経に恵まれない者でも、自分にあった努力をすれば、それなりの活躍が可能だ。
体格、体力に恵まれない者は、40キロを背負う縦走登山には不向きだが、訓練すればヒマラヤの岩壁でクライミングが可能だ。
クライミングが苦手で体格、体力に恵まれなくても、普通の縦走登山は可能だ。
未熟者が熟練者向きのルートに行けば、遭難する確率が高くなる。しかし、自分のレベルにあったルートであれば、遭難しない。
「身の丈」に合った登山をすることが、「山で死なない」ために必要だ。
2023年3月14日
「アウトドア六法」、山と渓谷社
2023年3月刊、1980円
私も監修者の一人になっている。
監修とは何か・・・・・よくわからない。監修を英訳すると、編集、監督になってしまい、監修に見合った英語がない! これもあいまいな日本語とあいまいな日本文化のひとつか。
監修者は著者とは別であり、著述内容の責任は著者にある。著作権は著者にある。しかし、内容の責任は監修者が持つことになるのではないか。
監修時にすべて書き直したくなる場合もあるが、監修者は著作者ではないので、それはできない。
監修者は、編集者でもない。
監修・・・・・これもあいまいな日本の文化のひとつだろう。
従来、この種の本はなかった。それは、法的にあいまな分野だからだ。アウトドア活動は、法律の無法状態、法律の隙間で行われている。
あいまいな分野を本にすること・・・・これはかなり勇気と大胆さが必要だ。あいまいなことを「正確に」記述することは難しい。
法律のあいまいさ・・・・これは、自然に対する法律のあいまさだ。従来、経済的利益中心の日本では、経済的利益をもたらすことが少ない自然は、法律の対象外だった。法の無関心。
しかし、ヨーロッパでは、かなり前から自然へのアクセスが国民にとって重要な問題として意識され、自然へのアクセスを容易にする法的な努力がなされてきた。
日本でも、近年、アウトドア活動人口が増えているが、法的な扱いがあいまいなので、トラブルが続出している。
そのようなトラブルは、世論の非難と、これまた、あいまいな行政指導で対処しようとするが、うまくいかない。
川原でのバーベキュー問題。バイクで川原に乗り入れる行為をマスコミは「迷惑行為」とするが、法律はあいまいである。犬連れ登山の可否。
日本でも、「自然アクセス法」が必要である。
分厚い本ではないので、詳細な解説をするのは無理だが、法律の概要を知るには手頃な本だろう。

2023年3月12日
マスク着用の可否は施設管理者が決める
今後は、「マスクを着用するかどうかは個人が決める」ことになった。
しかし、法的には、
・これまでも、マスク着用を義務付けていないので、マスクを着用するかどうかについて、法的な扱いに変更はない。
・これまでも、法的には、マスクを着用するかどうかは、個人が決めることになっていた。
・これまで、マスク着用は、国の行政指導であり、これは「お願い」だった。それを世論の同調圧力が強制していたのである。
・ただし、店舗、飲食店、航空機、公園、駅、列車、役所や会社の建物、ホールなどの施設では、施設管理者に管理権があり、施設管理者は施設内でマスクを着用することを義務付けることができる。これは法的に有効であり、マスクを着用しない者を排除できる。この点は、従前も、今後も変わらない。
たとえば、航空機や列車、飲食店では、マスクを着用しない者の入場を拒否できる。コンサートや野球の試合で、施設管理者は、マスクを着用しない者の入場を拒否できる。
「マスクを着用するかどうかは個人が決める」という場合の個人には、企業や役所、施設管理者も含まれる。
法的には、マスクを着用するかどうかについて、法的な扱いの変更はない。
この点を理解している日本人がどれだけいるだろうか。おそらく、首相ですら、この点を理解していないだろう。日本が法治国家でない所以だ。
欧米では、この点を正確に知っていなくても、多くの市民は感覚的に何となくこの点を理解している。それはそのような法文化があるからだ。それで、欧米では、マスクを着用するかどうかをj法律で決めるのだ。
しかし、日本には、「お上が決めたことは守るべきだ」という法文化がある。これは、江戸時代の法文化に近い。
登山でも同じであり、犬連れ登山の可否、登山道以外の場所を歩いてもよいのか、どこでもテントを張ることができるのか、山菜取りができるのか、焚火ができるのかなどの点は、法律もしくは、山の所有者、管理者の管理権に基づいて決定されることだ。
これらの問題は、マスク着用の可否と同じ問題である。
2023年3月1日
安芸高田市観光協会解散
広島県安芸高田市の観光協会への市の補助金が半分に減らされたため、観光協会が解散することになった。
観光協会は公的機関イメージがあるが、社団法人であり、民間団体である。ただし、自治体の補助金で運営しているので、補助金がカットされると、維持できなくなる。
安芸高田市に観光資源がないわけではないが、それを活用できていない。
日本100名城の郡山城(知名度が低い)
毛利元就の墓地、遺跡(知名度が低い)
多くの山城遺跡(放置されている)
サンフレッチェの本拠地(広島市が本拠地だと勘違いしている人が多い)
土師ダム周辺公園(所在地が安芸高田市だということを知らない人が多い)
中国山地特有のなだらかな山稜は、ハイキングなどのアウトドア活動に向いているが、それに関心を持つ市民はほとんどいない。
今の市長は、無駄な経費削減に努めている。
市主催の弁護士の無料法律相談の回数も、今後、減らす予定だ。
しかし、市民は受動的であり、関心を持つ市民はほとんどいない。市民が民事紛争を抱えた時に、市民の最初の相談先は、弁護士ではなく、警察署や市役所の職員なのだ。
他方、市民が役所の窓口に来訪すると、職員がすぐにかけつけて用件を聞き、担当する職員が出向いてくるという「ワンストップ」政策をとっている。これが行政サービスに無駄な人件費と時間がかかっている。市民に必要性のない過度の行政サービスに余分な税金がかかる。
田舎では、市民は「神様」なのだ。これは、「お客様は神様」という日本の企業風土に似ている。そのため、住民はなにかあればすぐに市役所や学校などにクレームを言う。
また、市は地域振興会にかなりの税金を使い、住民は必要性のない地域振興費の使い途に困っている。地域のイベントの景品購入などに無駄に税金を使う。
このような行政のムダの結果、安芸高田市は、水道料、下水料、ゴミ処理費用が高く、インターネット環境も悪く費用が高い。インターネットの利用料は、広島市の2倍くらいかかる。水道料、下水料も2倍くらいかかり、ゴミ処理費用も非常に高い(広島市は無料)。
それで広島市に近いのに、安芸高田市への転入者が少なく、人口が減り続けている。
私は、友人や知人に、常々、「安芸高田市に引っ越さない方がよい。安芸高田市は、無駄な住民サービスに税金を使い、必要なサービスのレベルが低い」と言っている。
古臭い考え方を持つ住民が多いので、都会から転入しても、近隣との人間関係に苦労する。
行政のムダは、それを歓迎する住民がいるからであり、そのような住民のレベルに見合った自治体行政になっている。
2023年2月26日
十方山での遭難
広島県の十方山で死亡死亡事故が起きた。
下山中に登山口近くで起きたようだ。積雪は約20センチ。
十方山は1000メートルちょっとのハイキングの山だが、冬は積雪がある。
稜線はなだらかだが、稜線まで急登がある。急登箇所を下山中の滑落事故のようだ。
地形的には、奥多摩の山に似ている。稜線はなだらかだが、登山口付近で一気に急下降する。それで、沢に滝が多く、沢が沢登りの対象になる。ハイキングの山だが、登山道で転落しやすい。
雪山登山に不慣れだったことが滑落の原因だろう。
事故のあった瀬戸谷コースは雪山初心者には向かない。
このコースは熟練者には困難ではないが、ガイド登山では下山時にガイドが未熟者をコンテでロープ確保するだろう(広島県では、ガイド登山はほとんど行われないないが)。瀬戸谷コースはそんな急登コースだ。
瀬戸谷コースは急登があるが、トレースが期待できるからか、あるいは無雪期のメインコースだからなのか、雪山登山者が多く、冬の事故や遭難が多い。もっとなだらかなコースが他にいくつかあるが、そこは冬はトレースが期待できない。
2023年2月5日
グローバル化と世界のスタンダード
グローバル化した社会では世界のスタンダードを学ぶことが必要になる。
従来、日本の社会は世界から孤立していた。
企業、政治、経済、法律、裁判、教育、スポーツ、労働などにおいて、日本はタテマエとしては欧米と似た制度を持っているが、その運用は日本独自のやり方が多い。
欧米のような残業規制があっても、ザル法である。
議院内閣制や選挙制度があっても、日本は、投票率が低く、国民の意志が政治に反映されない。実態は、利権で動く野合政治だ。
裁判制度は欧米と同じでも、実態は裁判官の独立がなく、検察主導の刑事裁判だ。
教育制度は欧米のマネをしているが、実態は、戦前から引き継いだ知識偏重の発展途上国型の管理教育だ。
今回、JMSCAの夏山リーダー資格がUIAAの認定資格になった。
従来、日本では、山歩きではロープ技術は必要ないという考え方が強く、JMSCAでも夏山リーダー資格にロープ技術を必要としていなかった。しかし、UIAAの夏山リーダー資格は簡単ロープ技術を必要としている。
JMSCAが夏山リーダー資格にUIAAの認定を得る過程で、夏山リーダー講習にロープ技術の講習を付け加える必要があった。
従来、日本で、山歩きでロープ技術は必要ないという考え方が強かったのは、登山道の整備の仕方と関係がある。日本の登山道は、岩場に梯子や鎖が設置され、誰でも歩いて山頂に登れるように作ってある。日本の山はすべてロープ技術がなくても山頂に登ことができるようになっている。そのような登山道の実態が、夏山リーダーにロープ技術を不要とさせたのだろう。
しかし、UIAAの基準では、ロープ技術がなければ、山歩きリーダーができない。
登山がグローバル化しなければ、日本固有のリーダー観でも、それほど問題は顕在化しなかっただろう。リーダーにロープ技術がなければ、岩場でリーダがロープでパーティーのメンバーを援助することができないが、誰もがそれが当たり前だと考えていれば、不満は出ないだろう。
しかし、登山がグローバル化すれば、外国の登山者が多く日本に来る。日本のリーダーがロープでパーティーのメンバーを援助することができなかったために事故が起きれば、事故が国際問題化しかねない。そのような技術不足の日本のリーダーを訴える外国人登山客が出てくるかもしれない。
リーダー資格を国際的な水準にすることは、そういう意味がある。
リーダーはどうあるべきかという議論において、日本固有の議論ではガラパゴス化しやすい。
リーダーはどうあるべきかという議論に正解はない。欧米のリーダー観が「正しい」ということではない。しかし、欧米の水準が世界水準になるので、それを無視すると多くの紛争が生じやすい。
日本では、バックカントリースキーを「コース外滑降」として世論が非難するが、これは世界の中で特異である。ガラパゴス。世界では、バックカントリースキーは公認されたスポーツだ。それで山岳スキーがオリンピック種目になった。
バックカントリースキーの事故防止の問題は、バックカントリースキーを「コース外滑降」として非難することとは別問題だ。バックカントリースキー以外にも、クライミング、スキューバダイビング、パラグライダー、乗馬、体操、ラグビー、柔道など危険なスポーツはいくらでもある。

2023年2月1日
大山でのバックカントリースノボ事故
大山でバックカントリーでのスノーボーダーの事故の報道があった。
山頂から二ノ沢を滑降中に、3人が雪崩に巻き込まれたらしい。スキー場と関係ない場所での事故だが、マスコミは「スキー場のコース外滑降」と報道していた。
二ノ沢は雪崩の巣・・・・・近づかないのが登山者の鉄則。3月に雪が締まり、気温が低ければ登攀可能かも。しかし、二ノ沢は3月にはたいてい落石の巣になる。
三ノ沢であれば、3月に滑降できる。
新雪時に二ノ沢を滑降する発想は、命がけの冒険家なのか、単に無知なだけなのか。世界にはそういう冒険家はいるが、たいてい長生きできない。
2023年1月28日
アウトドア活動のグローバル化と法文化、
従来、日本は欧米との交流が少なく、日本の文化は独自の発展をとげてきた。
「日本の常識は世界の非常識」ということが多かった。
これに気づかない日本人が多いのは、世界を知らないからである。知っているつもりで知らない。
世界の潮流は欧米の文化がスタンダードになっている。
それがよいかどうかではなく、現実にそうなっているというだけのことだ。
英語が世界の共通語になりつつあるが、これは、英語が、ドイツ語、フランス語、中国語などよりもすぐれているからではない。
パソコンのWordが主流になっているのは、それがすぐれているからではない。日本語ソフトとしてWordは使いにくいが、世界でそれが主流になったので、使わざるをえない。
アウトドア活動でも、欧米の文化が世界を支配している。
アウトドア活動も欧米化せざるをえない。
日本、中国、韓国の文化は、「禁止されない範囲でアウトドア活動を行う」というものだが、欧米ではそうではない。日本、中国、韓国は禁止国家である。これでは、世界の潮流から取り残される。
具体的には、日本でアウトドア活動をする欧米人が増えると、日本では規制が多いので、トラブルが増えるだろう。日本に来る欧米人が増えると、日本の禁止や規制が世界の潮流にそぐわないことが次第に明らかになるだろう。アウトドア活動でも「規制緩和」が必要なのだ。
従来、クライミングは日本では危険な行為として世論からの非難の対象だった。しかし、クライミングがオリンピック種目になると、クライミングに対する世論が一変し、一気に非難が減った。
今の日本ではバックカントリースキーに対する世論の非難が強いが、山岳スキーがオリンピック種目になったので、今後、これは変わるだろう。
欧米では、バックカントリースキーがさかんであり、今後、日本でバックカントリースキーをする欧米人が増えるだろう。
日本の外国人登山者の主流は韓国人であり、韓国の法文化は日本に似ている。しかし、今後、日本で登山をする欧米人が増えるだろう。欧米欧米の法文化は日本とは異なる。
日本では、アウトドア活動中の事故に刑罰を科すことが少なくないが、欧米ではそうではない。
日本では、「危険なことをしてはいけない」という文化が強いが、欧米には冒険を称賛する文化がある。
決められたことをミスなく遂行することを重視する文化。指示されなければできない文化。型にはまったことしかできない文化。冒険を恐れ嫌う文化。テストの成績で能力を判定する文化。
これでは、社会が発展しない。
アウトドア活動は自然がもたらす危険性を承認したうえで行う活動だが、それにふさわしい法解釈をする文化が日本にはない。
刑事裁判でも、日本で逮捕される欧米人が増えれば、日本の刑事裁判の特異性が世界から叩かれる。司法の分野では、「日本の常識は世界の非常識」が多い。
そのような外圧によって日本の刑事司法が変わる可能性がある。言い換えれば、そのような外圧がなければ、日本の司法はなかなか変わらない。司法におけるペリー来航が必要なのだ。日本では、内圧をもたらすべき国民の力が弱く、管理する側の力が強い。
2023年1月27日
白馬乗鞍岳での雪崩事故
白馬乗鞍岳で雪崩が起き、外国人ツアー客5人が被災した。
マスコミが「スキー客」と報道したので、ガイドツアーかと思ったが、そうではなく、ガイドはいないようだ。
ガイドがいるから客なのだが。紛らわしい報道だ。
ネットを見ると、バックカントリースキーを禁止しろ、救助費用を有料にしろなどの意見がある。
しかし、このスキー場はバックカントリースキーヤーがスキー場のリフトを利用することを認めている。
欧米でバックカントリースキーを禁止していないこと、山岳スキーがオリンピック種目になっていることから、先進国の中で日本だけが禁止することはできない。中国、韓国などの「禁止国家」とは違う。
マスコミがバックカントリースキー中の事故をことさらに大きく報道するので目立つが、バックカントリースキーでの死傷者は多くない。アウトドア活動でもっとも死傷者が多いのは、海水浴だ。海水浴での死亡事故は非常に多いので、大きく報道されず、国民から叩かれない。
事故件数が
バックカントリースキー中の死傷者が少ないから、世論から叩かれるのだ。出る杭は打たれる。
遊泳や釣りを禁止しろという意見はない。
「許可された行為だけができる」と考える人が多いが、そうではなく、原則自由、禁止が例外的なのである。それが世界のスタンダードだ。
バックカントリースキーの禁止は、冬山登山の禁止、キャンプの禁止、夏山登山の禁止、海水浴の禁止、釣りの禁止などにつながる。
法的には、バックカントリースキーと、雪の中をスキーで歩いて山の中でキャンプすることを区別できない。
少しでも降雪があれば雪山になるので、冬山登山の禁止は降雪の可能性のある時期の登山禁止になる。
12月以降は高尾山が登山禁止になるか。
山の中にある神社に積雪があれば、正月の参拝は雪山登山だ。
川や海での遊泳や釣りを禁止せず、冬山だけを行動禁止にするのは、平等ではない。
救助費用の有料化は、救急車の有料化を意味する。
救急ヘリの有料化をすると、災害時や観光客、離島での活動なども有料になる。
御嶽山の噴火事故で多くの登山者が被災したが、これは山岳事故である。救助費用をすべて有料にするのか。
アメリカでは、街中の救急車は有料だが、山岳救助費用は無料である。アメリカの民間人の救助活動はボランティアであり、無料だ。

2023年1月26日
幸福格差
人間は生物としてひとりひとり違うので、能力、意欲、性格、がんばり、美醜、体格などの個性の違いがある。
また、生活環境、家庭環境、運不運もひとりひとり違う。
これらが、学歴、職業、富、収入、社会的地位などの違いをもたらす。それが社会的格差である。
社会的格差は、富と機会の偏在だけがもたらすのではない。個人の能力とがんばりの違いも大きい。
それが幸福格差をもたらす。
世の中には幸福な人もいれば、不幸な人もいる。
富や機会がないことや、能力と意欲がないことが不幸の原因だと考える人が多い。
個人的な美醜が不幸の原因だと考える人もいる。
ネットには、富、機会、能力、美醜に関する記事があふれている。
そんな記事ばかり読んでいると、富や能力のないこと、運のないこと、美人でないことなどが、限りなく不幸なことのように思えてくる。ネット記事は、アクセス数を稼ぐための奇抜な内容が多く、それしか見ない人はバカになる。
しかし、現実は、ネット記事とは違う。
資産や機会に恵まれ、能力と意欲があるのに、不幸な人は実に多い。
東大の学生の頃、周囲に幸福な人はあまりいなかった。優秀だが、不幸の塊のような人たちが多かった。
東大の構内を歩けば、いかにも不幸そうな学生や職員(しかし、自分は恵まれた人種であり、けっして不幸ではないと洗脳されている)がやたらと目につく。
なぜだろうか。
どんなに能力があり、がんばっても、上には上がおり、常に競争から落伍するのではないかという不安を持つ学生が多かった。現実に、100人中99人は競争に負ける。
不幸感はがんばりの原動力になるが、それだけでは死ぬまで幸福になることはない。
他方、登山をするようになってからは、周囲に「幸福な人」がたくさんいることに気づいたのだった。
弁護士になってからは、弁護士への依頼者のほとんどが不幸な人たちだった。
田舎で開業した後も、田舎には、都会と経済的、文化的格差に翻弄される不幸な人たちが多かった。
弁護士は、不幸な人たちを扱う仕事だ。
まさしく、現実に幸福格差がある。その格差は大きい。
しかし、幸福の青い鳥は身近なところにいる。
2023年1月25日
何を基準に判断をするのか
判断をする基準次第で結論が変わる。
「山岳事故が多い」…何を基準に、多いか少ないかを判断するのか。登山者数600万人、死亡・行方不明者 はだいたい年間300人。1年間に登山者2万人に1人が死亡する割合になる。
一般に、2万人に1人の死亡者は、「安全」とされる。
新型コロナでは、500人に1人が死亡している。
インフルエンザでは、1000人に1人が死亡する。これは、「安全ではないが、それほど危険ではない」とされる。
交通事故では、1日に約10人が亡くなるが、車の運転よりも、登山の方が危険なイメージがある。
感覚やイメージで、危険かどうか、安全化どうか、安心できるかどうかを判断すれば、議論が混乱する。
しかし、それでものごとを判断する人が多い。
賢明な判断をするには科学性が必要だが、それが、ない。
そのような判断に基づいて国民が選挙で投票し、民主制が成り立っているので政治がうまくいかないのは当たり前だ。
登山道が危険かどうか・・・・・それは人によって判断が異なる。

2023年1月23日
日本的「マスク着用緩和」
日本政府が、マスクの着用を緩和しようとしている。
しかし、日本では、もともとマスク着用を義務づけていないので、緩和もない。
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欧米は、法律でマスク着用を義務づけていたので、それを廃止し、緩和した。
欧米は規制緩和はあるが、日本ではマスク着用の規制をしていなかった。
従来、日本ではマスクは、義務ではなく、行政指導だった。行政指導は役所が行うお願いであり、規制ではない。しかし、行政指導を「規制」だと感じる日本人が多い。おそらく、中国、韓国でも同じだろう。
日本では、行政指導を法令のように感じる人が多い。
アメリカでは、マスク着用の義務化を廃止した後でも、専門家はマスク着用を推奨している。
日本では行政指導という「お願い」を廃止した後は、マスク着用の「お願い」はしないのか。???
義務がなければ義務の解除もない。お願いの解除・・・・・これは理解不能
「そうは言っても役所がマスクを着けろと言えば、つけなければならないのではないか」と考える人が多い。江戸時代ではそうだろう。あるいは、戦前の日本でも、役所の声は天皇の声だった。
かってのヨーロッパでも国王の声は天の声であり、国民はそれに服従した。
国民が政府の声に大人しく従う国は、恐い。
法律は守るべきだが、政府の指導は法律ではない。
法治国家では、すべきかどうかは法律が規定する。
倫理やマナーは強制できない。
政府がマスク着用の指導をするかどうかは、どうでもよい。以前も、今後も、マスクを着用するかどうかは個人が判断すればよい。
2023年1月22日
ストーカー対策
スト-カーによる殺人事件が繰り返し起きている。
弁護士への依頼や警察への相談は、それが役にたつような加害者には有効であるが、それが役に立たない加害者には、有効ではない。
弁護士の立場では、言いにくいが、法律が役に立つ場合もあるが、そうではない場合もある。
法律は、あまり当てにならない。
もっとも有効な方法は、被害者が行方をくらますことである。逃げるということ。
自分の命は自分で守るほかない。
2023年1月18日
東電幹部の無罪判決
東京高裁は、福島原発事故に関して東電幹部の刑事責任を否定した。
あれだけの事故を起こしたのだから東電幹部に責任があるはずだと考える人が多い。
確かに幹部に責任はある。それで東電幹部の民事責任が認められた。
しかし、裁判所は刑事責任を否定した。
責任と言ってもさまざまなものがある。それぞれの責任の要件が異なる。
刑事の過失責任については、もともと判断の枠組みが厳格であり、過失責任が認められる範囲が狭い。
法的責任は、法律が定める範囲でしか認められない。
法律を変えれば別だが、欧米では、過失責任が成立する範囲は日本よりももっと狭い。欧米でも、この種の事故は無罪になるだろう。
アメリカでは、このような過失事故も殺人罪の対象になるが、やはり刑事責任を科さないだろう。
中国や韓国では有罪になるだろうが、それは世界の主流ではない。
どの範囲で刑事責任を認めるかという点の正解はない。現在の先進国の扱いは、歴史の流れの結果であり、故意犯中心の刑事責任の考え方が世界のスタンダードになっている。
2023年1月17日
ウクライナでの戦争
私は、ウクライナでの戦争ではウクライナを全面的に応援している。寄付もした。
しかし、戦争で多くの人が亡くなり、街が破壊されている現実を見た時、他の方法がなかったのかと思う。
戦争で現実に命を落とす人の視点から考えるということ。
正義の戦争ではなく、国民の命を守る闘い方を考えてもよかったのではないか。
戦争開始時に、戦争をしないという選択肢もあった。
これは、戦争開始時のロシアによる占領を意味する。しかし、戦争をしないが、全面的な不服従、抵抗、暴力によらない闘いをすべきだったのではないか。ガンジー流の非暴力主義による闘いである。
デンマークはドイツに簡単に降伏したが、ドイツの支配に徹底して抵抗し、結局、ドイツはドイツ流のデンマーク支配ができなかった。デンマークに派遣されたナチス幹部はデンマーク人の抵抗に遇い、デンマーク人に逆らう統治ができなかった。デンマークの戦死者はわずかだった。
スウェーデンもドイツに簡単に屈服したが、その代わりに戦禍を免れ、戦後の福祉国家としての繁栄をもたらした。
ブータンは、経済的魅力がなかったためにイギリスの植民地化を免れたが、もしイギリス軍がせめてきたら、簡単に降伏しただろう。イギリスの植民地になっても、ブータン人の生活が変わることはなかっただろう。
ベトナムやアフガニスタンのように国民が徹底した抗戦をして勝利する方法はあるが、それがもたらす戦禍は大きい。
非暴力の抗戦は、一時的なロシア支配を意味するので、嫌われるが、長い目で見れば、力による支配は、ウクライナ人の徹底した非協力のもとでは、永続できない。
日本の憲法の戦争放棄は、根底にそんな思想があるのではないか。非暴力による自衛。戦争を放棄すれば、戦争はない。敵国が侵略しても戦争にならない。コスタリカにはその覚悟がある。
他方、戦争による自衛を考えれば、戦死を覚悟しなければならない。
軍事力の抑止力で戦争を防ぐ考え方は、歴史的にみれば破綻する。第一次世界大戦は、列強が軍備増強による抑止力を高めて戦争を回避しようとしたが、失敗した。
他人(自衛隊員、徴兵された日本人、米兵)が戦争をしてくれる場面と、自分が徴兵されて戦死し、あるいは、敵の砲撃で自宅で死ぬ場面では、意見が違ってくるのではないか。
あなたは戦争で死んでもよいですか。
自分だけは戦死しない前提で、戦争に賛成するのは無責任である。戦争では、誰かが戦死する。
戦争が起きない前提で軍備増強をすることも、無責任である。軍隊は戦争をするために存在する。
以上の点は、戦争開始前に判断すべきことであり、現段階では手遅れだ。
ベトナム戦争のように長期化するほかないのだろうか。
この戦争は10年は続くだろう。

2023年1月13日
羊蹄山雪崩事故
北海道の羊蹄山で、13日午後2時半前、羊蹄山の中腹で雪崩が発生、ガイドを含むヨーロッパ国籍とみられる外国人10人のうち女性1人が巻き込まれ、死亡した。バックカントリスキー中の雪崩事故のようだ。
羊蹄山ではバックカントリースキーがさかんであり、ツアーもある。これは「コース外滑降」ではない。
通常、この種の事故では世論が激しく非難するが、被害者が外国人の場合は、世論はあまり反応しない。
雪崩事故が起きたということは、通常は引率ガイドの判断ミスがある。
日本では、この種の事故では民事責任だけでなく、ガイドの刑事責任が問われる。
しかし、外国人ガイドの場合には、それはないだろう。不起訴の可能性が高い。世論が激しく非難しない場合には、検察の対応が緩い。日本の司法は世論で動く。
欧米では、日本と違い、バックカントリースキーの人気が高い。それで、今後、これがオリンピック種目になる
(スキーマウンテニアリング)。今、日本はあわててオリンピックの準備しているが、日本のスキーマウンテニアリング人口は約150人程度である。
欧米では、日本と違い、バックカントリースキー中の事故で刑事責任を問うことはほとんどない。
欧米では、過失刑事責任を問う範囲が日本よりも狭いのだ。日本は過失に対し厳しい国なのだ。
日本と欧米で法文化が異なる。
登山がグローバル化する、とこういう問題が生じる。
日本特有の法文化を外国人に適用しにくい。
子供連れ去りの問題でも、日本と欧米では裁判所の対応が異なる。
日本では、裁判所は、父親による子供の連れ去りには厳しいが、母親による子供の連れ去りを容認する傾向がある。これは、「子供は母親が育てるもの」という社会的価値観が強いからだ。日本ではハーグ条約を骨抜きにする傾向がある。

2023年1月4日
JMSCA上級夏山リーダー資格のUIAA承認
JMSCA(日本山岳スポーツクライミング協会)の上級夏山リーダ資格がUIAA(国際山岳連盟)の承認を得た。JMSCA上級夏山リーダー資格の検定講習会を、UIAAの担当官のスティーブ・ロング氏が来日して審査し、JMSCA上級夏山リーダー資格がUIAA認定資格として承認された。これは、ボランティアの夏山登山のリーダーの資格である。
講習会は日本語で実施するが、資料の作成やUIAAの担当官への説明は英語で行うので、大変だ。
従来の日本夏山リーダー資格は、リーダーにロープによる安全確保技術を必要としていなかった。
しかし、UIAAのリーダー資格は、リーダーにロープによる安全確保技術を必要としている。これが世界ではスタンダードだが、日本ではそうではない。
これまで、日本での夏山縦走のリーダーに簡単なロープ技術が必要だという考え方は、山歩き中心の山岳会などになかった。それは日本特有のリーダー観だ。
私がJMSCAの上級夏山リーダー資格に関わるようになったのは2020年からだが、それよりも何年も前から多くの人が、JMSCAの夏山リーダー資格をUIAAの認定資格にするために尽力していた。
さらに言えば、JMSCAの夏山リーダー資格の創設、それ以外のJMSCAのさまざまな資格の創設、運営に、何十年もの間、多くの関係者が従事してきた。それらはすべてボランティアである。
UIAAの理事者、担当官も、一部の専従事務職員を除き、ほとんどが無報酬のボランティアである。多額の報酬を受け取っているIOCやFIFAの理事者とは違う。UIAAは営利事業を行っていないので、利権が生まれる余地がない。
JMSCAや山岳団体の役員もたいてい無報酬のボランティアである。
なぜ、多くの関係者がボランティアでこのような活動をするのだろうか。
「なぜ、人は、ボランティア活動をするのか」は、「なぜ、人は生きるのか」に似た難問もしくは愚問である。ボランティアをするのに理由はいらない。
登山をしない人は、山岳団体の役員が道楽で活動しているくらいにしか考えない。また、登山者には、「山岳団体の役員が活動するのは当たり前」くらいに考えて山岳団体から無償のサービスを受ける人が少なくない。ボランティアのリーダーを安上がりのガイドと考える人もいる。
しかし、ボランティア活動の恩恵を受けた人の中に、やがて自分がボランティア活動の中心を担う人が出てくる。そこには、「恩返しの気持ち」がある。
社会への恩返し・・・・これは大切だ。北欧などでは、それがボランティア活動の精神を支えているのではないか。
他方、アメリカなどの富裕層の慈善事業は、競争の勝者であることに対する後ろめたさの気持ちが根底にあるのではないか。弁護士の「プロボノ活動」も似たようなものだろう。これは金を稼いでいる弁護士の慈善事業のイメージが強い。普段、ボランティア活動をしている弁護士は、「プロボノ活動」という言葉を使うことはない。必要ないからだ。
それでもボランティアでの講習会などで事故が起きると、講師などに損害賠償責任が生じることがある。
これでは、登山関係のボランティア活動などできないと考えても、不思議ではない。
それで、私は、「ボランティア活動の責任」(共栄書房)という本を書き、「山岳ボランティア活動で生じる注意義務」(日本山岳文化学会論集20号、2023、予定)を書いた。
2022年12月22日
「山の法律相談所」、岳人への連載
雑誌「岳人」に「「山の法律相談所」のタイトルで連載をすることになった。
2023年3月号~
初回の記事は、「テントを張ってはいけない場所はある?」の予定






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