アコンカグア・ガイド登山事故・1審判決について
(仙台地裁平成27年3月17日判決、損害賠償請求の棄却)

 
                                              溝手 康史

 2013年に南米のアコンカグア(6959m)の公募登山隊に参加した登山者(当時44歳)が、登頂後、下山途中で疲労のため動けなくなり、避難小屋(屋根がなく、壁しかない)でビバークし、凍傷のために両手の指全部を失った事故について、引率ガイドに対し、7279万円の損害賠償請求訴訟を起こした。判決は、請求棄却。控訴がなされた。
 この判決は、なぜか、マスコミから黙殺されているが、登山者にとって非常に重要な判決なので、紹介する。

 被害者は、登山歴が30年以上、ヒマラヤの8000m峰に登頂するなど海外登山の経験が豊富だった。引率したガイドは、日本山岳ガイド協会の認定する国際山岳ガイドの資格を持っていた。裁判所(仙台地方裁判所平成27年3月17日判決)は、ガイドに、参加者の危険を回避し、適切な指示や危険が予想される場合に登山を中止するなどの注意義務があるとしたうえで、この事故に関しては、注意義務違反が認められないとした。途中で他の参加者が下山したが、被害者は自らの意思で登山を継続したこと、途中まで被害者の体調もよく、天候悪化の兆しがなかったこと(ただし、風が強かった)、他のパーティーの登山者や登頂者が多数いたこと、登頂するまでは時間的に余裕があったこと、下山途中でヘッドランプや食料、無線機などの入ったガイドと被害者のザックが落下したこと(その原因については、争いがある)、下山途中で被害者の目が見えなくなったこと(雪盲ではない。原因は不明)、連絡を受けた現地ガイドが避難小屋まで登り、一晩、被害者に付き添ったこと、引率ガイド自身の凍傷の危険があったことなどの事情を考慮し、裁判所は、ガイドに注意義務違反がないと判断した。判決文は、55ページあり、詳細な事実認定を行っている。
 ひとくちに「公募登山」といっても、その法的な形態はさまざまである。共同登山的な公募登山もありうる。このアコンカグア登山では、裁判所は、ガイドに一定の注意義務を認めたうえで、登山内容、参加者の経験、技術などのレベル、事故時の状況などから、注意義務違反を否定した。
 事故当時の風速は不明だが、この日の予想風速は秒速12.5mだった。したがって、この日、秒速10〜20mの風だった可能性がある。もともと、アコンカグアは風の強い山であり、登山日の前後はもっと風が強いと予測されており、登頂日のチャンスが限られていた。裁判所は明示していないが、高所登山における危険性の承認の範囲が重要である。参加者に相当の登山経験があり、登山のリスクを認識して登山を行う場合には、ガイドが負う注意義務の範囲は、それに相応したものになる。判決文に書いてなくても、裁判官は、当然、この点を意識している。
 ガイドが有償で登山を実施する場合に、ガイドには客の安全確保義務がある。ガイド料は、労力、ノウハウ、注意義務の対価という面がある。この注意義務の範囲は、登山形態によって多様であり、アコンカグアのケースでは、被害者の登山経歴に照らして、ガイドの安全確保義務の程度はそれほど重いものではなかった(被害者の登山経験が少なければ、それに反比例して、ガイドの注意義務が重くなる)。高所登山では、ガイドのできることに限界がある。ガイド自身に生命身体の危険が及ぶ場合には、ガイドが緊急避難的に先に下山しても、違法ではない。かつてエベレストの大量遭難事故の時に、ロシア人の山岳ガイドが1人で先に下山したケースがあったが、法的には違法ではないだろう。他方で、動けなくなった客に付き添って一緒に亡くなったガイドもいるが、ガイドに付きそう法的な義務があるわけではない。ガイドが傍に付き添っても、装備がなければ、ガイドができることはあまりない。
 国内のツアー登山では、夏山登山で風速10mで登山をして客が遭難すれば、ガイドの責任が生じる可能性があるが、アコンカグアではそうではない。当たり前だが、山と参加者のレベルと認識が異なる。アコンカグアの事故でも、理屈としては、裁判所が、「ガイドに、天候が悪かったので登山を中止すべき義務があった」と判断することは可能である。国内の事故であれば、そうなるだろう。しかし、悪天候で登山を中止していれば、高所登山は成り立たない。ある程度の凍傷は想定内であり、この事故では不運にもその程度が大きかった。

 参加者の自己責任の範囲は多様だが、高所登山では、自己責任の範囲は広い。自分の疲労の程度や体調管理は、他人にはなかなかできない。凍傷になるかどうかも個人差が大きいので、客が自分で管理するほかない。たとえ、凍傷になっても、高所登山では、「想定内の出来事」のことが多い。目が見えなくなる状況も、ガイドには管理できない。高所では、動けなくなること=死につながりやすい。高所登山で、ガイドがどこまで責任を負うかをあらかじめ明確にすることは難しい。事故は、すべて異なるので、個別に判断する他ない。
 高所登山では、参加者の自己責任の範囲が広い。この点を、この判決が「確認した」点に法的な意義がある。裁判で、山岳ガイドの責任(刑事、民事)が否定された初のケースであり、どういう場合にガイドの責任が否定されるのかという判断におけるリーディングケースである。

 また、海外での山岳事故に関して、被害者が加入する傷害保険の適用がないこと(リスクの高い登山は傷害保険の適用外。これは国内でも同じ)、ガイドが加入できる賠償責任保険がない(海外の登山を引き受ける保険会社がないようだ)という問題もある。個人賠償責任保険は、「職務」は対象外。凍傷が「疾病」であれば、疾病保険(生命保険の特約)の対象になるが、それは難しい。登山中に胃潰瘍になったというのであれば、疾病保険の対象になるだろう。生命保険はリスクの高い登山でも適用される。
 
ガイド登山中の事故の裁判例
過去の裁判例として、以下のものがある。
・八ヶ岳静岡文体協遭難事故・民事(静岡地裁昭和58年12月9日判決)。請求認容
・春の滝散策ツアー事故・民事 (札幌地方裁判所小樽支部平成12年3月21日判決)。有罪
・羊蹄山ツアー事故・刑事(札幌地方裁判所平成16年3月17日判決)。有罪
・トムラウシ事故・刑事(旭川地裁平成16年10月5日判決)。2002年の事故について。有罪
・屋久島沢登り事故・刑事(鹿児島地方裁判所平成18年2月8日判決)。有罪
・白馬岳事故・民事(熊本地裁平成24年7月20日判決)。請求認容
・白馬岳事故・刑事(長野地裁松本支部平成27年4月20日判決。東京高裁平成27年10月30日判決)。有罪
・アコンカグア事故・民事(仙台地裁平成27年3月17日判決。控訴中)。請求棄却

 暴風雪が関係した事故としては、羊蹄山ツアー事故、トムラウシ事故(2002年、大量遭難死事故よりも前の事故。2009年の事故は裁判になっていない)、白馬岳事故があるが、アコンカグア事故との違いは、「客が承認すべきリスクの範囲」である。
 ガイド登山中の事故に関して、ガイドの責任(民事・刑事)が否定されたのは、アコンカグア事故の裁判が初めてである。
 ガイド登山で事故が起きれば、ガイドの注意義務違反(過失)が認定されることが多い。それは、事故後に検証すれば、どこかに人間のミスを見つけることが多いからである。ほとんどの山岳事故は、自然が持つリスクと人間の判断のミスマッチから起きる。アコンカグアの事故でも、後で考えれば、「こうすればよかった」という判断ミスは、たくさんあるだろう。しかし、それらは法的な過失を意味しない。ミス=過失ではない。過失の判断は、裁判所による価値判断である。
 しかし、世論は、ミス=非難=過失と考える傾向がある。その根底に、日本には、人間のミスを非難する文化、法の支配の軽視、情緒的な判断を重視する文化があるように思われる。

 この判決は、リスクを伴う山岳事故において、ガイドの過失が否定されるのはどういう場合なのかを検討するうえで、法的に重要な先例的意味を持っている。
 他のアウトドアスポーツ、たとえば、スキーツアー、ラフティングなどの裁判例の少ない分野でガイドの責任が否定されるケースをこの判例から推論することが可能である。
                               
                                溝手康史(みぞて やすふみ、弁護士)


「登山の法律学」、溝手康史、東京新聞出版局、2007年、定価1700円、電子書籍あり

                                

               
  
 「山岳事故の責任 登山の指針と紛争予防のために」、溝手康史、2015
        発行所 ブイツーソリューション 
        発売元 星雲社
        ページ数90頁
        定価 1100円+税