弁護士の増員問題から見えるもの
                              
                             「青年法律家」445号、2008
  

                                        弁護士 溝手康史
  
 「望ましい法曹人口」という理念に基づいて司法試験合格者数3000人という数字が定められたが、「望ましい法曹人口」という点から言えば、日本の弁護士の数は圧倒的に足りない。しかし、日本ではヨーロッパなどと異なって経済的に余裕のない市民は弁護士に依頼することが困難であり、弁護士が企業や役所など社会の多方面で雇用されるような社会的なシステムもない。平成15年以降、弁護士の数が急増しても裁判所の事件数が減少しているのは、裁判所の事件数が弁護士の数ではなく司法のシステムに左右され、日本の司法が利用しにくいからである。
 市民が弁護士に依頼できるかどうかは、社会、経済、法的制度に左右されるのであって、弁護士の数が増えれば、自然に弁護士に依頼できるようになるわけではない。マスコミ関係者、大学の研究者、法律家の多くが「弁護過疎」(弁護士過疎)の実態を知らず、もっぱら統計数字を見て「弁護過疎」を論じている。「百聞は一見に如かず」は司法に関しても当てはまる。
 私は11年前(平成8年)に弁護士過疎地と呼ばれる人口4万人(当時)の地方都市で開業したが、この地域で多くの借金に関する事件の処理をしていると、それだけで弁護士としての役割を果たしているという「自己満足」に陥りやすい。しかし、借金に関する事件以外の一般的な市民事件が少ない点は、日本の司法を象徴している。
 この地域で一般的な市民事件が少ないのは、「弁護士が足りない」からではなく、司法が利用しにくいからである。裕福な階層や一定の規模以上の企業を除く庶民は、住宅ローンやクレジットの支払に追われていて、弁護士費用を払う経済的余裕がない。法律扶助を利用しても司法に金がかかる点は変わらない。しかし、サラ金に追いつめられたり、離婚や近隣紛争などが激情化して深刻な事態になれば、追いつめられて弁護士に依頼する。かくして、借金に関する深刻な事件と「激情型紛争」が過疎地を象徴し、これが弁護士が過疎地を敬遠する理由の一つになる。
 以上の点は過疎地に限ったことではなく、都会の平均以下の所得層にそのまま当てはまる。現在、過疎地と都会との経済的格差はいっそう拡大しつつあり、この地域の住民のほとんどが都会では平均以下の所得層に相当する。都会での所得格差に基づく弁護過疎を、人口が数万程度以下の地域に持ってくれば「弁護士過疎地」になる。経済的余裕のない庶民は、「心理的、経済的によほど深刻な事態」にならなければ弁護士に依頼せず、また、深刻な事態になっても紛争を放置して悲惨な結末を招くことがある。
 司法試験合格者数3000人を決定したとき、恐らく、@全国の過疎地に大量の弁護士が必要、A弁護士が増えれば弁護士の需要も増えるという想定があったと思われる。マスコミは「全国の地裁支部管轄地域で、弁護士が1人もいない地域が3個所、弁護士が1人しかいない地域が21個所もある」ことを強調するが(これは、平成20年中に解消された)、過疎地が必要とする弁護士の数はマスコミが大騒ぎするほど大きなものではない。むしろ、弁護士の総数がどんなに増えても弁護過疎を解消できなことの方が問題なのである。
 本来、過疎地での開業、日弁連公設事務所、法テラスのスタッフ事務所は、そのようなシステムがあるかどうかという問題であって、弁護士の増加とは関係がないのだが、この点が意図的に無視されている。「都会の弁護士が過剰になれば過疎地やスタッフ事務所に赴任するだろう」という次元の低い発想は、司法の発展を真面目に考えているとは思えない。弁護過疎の解消がシステムの問題であることは、医師の総数をいくら増やしても無医村を解消できないことと同じである。
 弁護過疎を解消するためには、扶助費の償還免除、平均的な所得層を法律扶助の対象とすること、弁護士強制主義、弁護士報酬の平準化など利用しやすい制度が必要である。司法がドイツやスウェーデンのように利用しやすくなれば、弁護士の需要は人口にある程度まで比例したものになる。
 アメリカ型の司法は競争と格差を前提とし、法律扶助制度は救貧的で貧弱であり、弁護過疎は解消されないが、ヨーロッパ型の司法は、競争と格差の制限及び是正、広範な法律扶助制度、弁護士強制主義、市民的事件における弁護士費用の平準化、利用しやすい訴訟手続などにより弁護過疎の解消を志向する。
 裕福な階層や一定規模以上の企業については競争原理が妥当しても、平均的な市民層の日常的な事件や、消費者、労働、行政、福祉、教育、医療などの紛争解決に必要なものはパターナリズムである。これらの分野はもともと「利益」や「競争」とは無縁であり、市民が少ない経済的負担で司法を利用でき、同時に弁護士の業務として経済的に成り立つ制度が必要である。これらの分野を過剰になった弁護士の激しい競争に委ねるならば、結果的に、例えば破産や消費者事件などが弁護士の激しい顧客争奪の対象となり弊害が大きい。
 一般の市民に関する限り、標準的な報酬額で多くの事件を処理するスタイルのヨーロッパ型の司法が望ましいが、これは従来の日本の弁護士の「少ない事件数で高額の報酬をとる」スタイルの否定を意味する。現在の弁護士大幅増員論は、庶民を蚊帳の外に置いたまま、競争原理に基づくアメリカ型の司法を実現しようとする経済界と、机上の理屈に基づいて「望ましい法曹人口」の達成を急ぐ「理想派」によって推進され、従来の業務スタイルを維持したい弁護士層が消極的に容認している。
 私は、市民が弁護士に依頼できる制度が確立されれば、弁護士の増加は必要だと考えており、「条件付増員賛成論」に立つ。しかし、一般の庶民が弁護士に依頼しにくい制度のもとで弁護士が急増すれば、弁護士が過剰になり弊害が生じる。したがって、司法試験の合格者数1500人程度から出発し、法曹人口増加の前提となる制度の確立や弁護士の需要を検証しながら弁護士の増加を図る必要がある(「青年法律家」445号、2008年に掲載)。
  

弁護士の増員問題から見えるもの(加筆版


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