弁護士のブログ 2010年
2010年12月19日
「岳人」の連載のテーマ
雑誌「岳人」の3月号の連載記事は、山岳の管理全体の問題を扱う予定。4月号はトムラウシの事故、5月号はツアー登山の問題、6月号は山岳ガイドの問題など。そのあたりまで予定を考えている。その後は??? テーマは自由に考えることができるが、実際に原稿を書くのは、けっこう大変である。
2010年12月17日
相談料は高いか
今日来た相談者は、電話帳の広告を見たそうだ。その相談者は法律扶助で無料相談をしたのだが、「電話帳の30分で5000円という料金は非常に高く、それだけを見れば弁護士に相談できなくなる」と言う。同感である。私も30分〜1時間で5000円の相談料は高いと思っている。
しかし、1時間3000円程度の相談料では、経済的採算がとれず赤字になる。法律事務所では、事務員の給料、家賃、弁護士会費(月額約5万円)、リース料、光熱費、通信費、交通費、宣伝広告費、書籍費などの経費が1時間あたり約5000円程度かかる。経費のうち大きいものは、事務員の給料と家賃である。私の場合には交通費が月額約10万円かかる。
弁護士が法律相談をしている時は、当たり前のことだが、弁護士の労働は相談料の獲得以外には向けられていない。顧問料とか名目上の役員報酬を得ている弁護士は、法律相談をしている間に相談料以外の収入があるが、顧問料などを得ていない弁護士は、相談中は相談料しか収入がない。相談以外に、事件処理をする時間あたりの収入も、単価の安い法律扶助事件や国選事件などを多く扱っているので、それjほどい高いわけではない。庶民を対象とする仕事では、弁護士は時間を10分単位で切り売りしているという感じである。この点は、開業医などと同じだろう。1時間5000円の相談料は、それだけでは弁護士は経費を支払えば収入ゼロになる。
このような経済的な仕組みと相談者の懐事情の間のギャップが、弁護士が利用されない大きな障害になっている。
病院では2時間待たされて、診察時間3分で800円の診察料をとられる。健康保険で3割負担の場合、病院に2600円が入る。公的医療保険制度があるから診察料が800円程度ですんでいるのである。同じような制度が司法にもあれば、30分の相談の相談者負担額が1500円ですみ、弁護士に5000円の相談料が入ることになる。人間は、3分で800円の初診料は高くはないが、1時間で5000円の相談料を高く感じる。弁護士や開業医は、時間を切り売りする仕事であり、時間単位で考えれば3分で800円の初診料の方が高い。
ある料金を高いと感じるか安いと感じるかは、その人の頭の中の「金銭に関する物差し」によって異なる。「金銭に関する物差し」は、その人の収入や資産に影響される。1時間5000円の相談料を高いと感じる人もいれば、「1時間も相談してもらって、5000円でいいんですか」と言う人もいる。また、ある料金を高いと感じるか安いと感じるかは、その人の満足度によっても異なる。相談時に、相続、年金、貸金、土地紛争、離婚など10項目くらいの相談内容を質問する人がいるが、1時間の相談で10回分の相談を受ければ満足度が高い。10万円分の相談が5000円でできれば安いと感じるだろう。一般に、訴額の大きい紛争の相談では、5000円の相談料でも満足度が高い傾向がある。
それでも、1時間で5000円という相談料を高いと感じるのが庶民の感覚だろう。金銭感覚は、法律事務所にどれだけ経費がかかるかが基準ではなく、その人の家計が基準になる。事務所の経費を削減すれば、30分3000円という相談料も不可能ではないのではないか。
2010年12月15日
忘年会
三次地区の法律事務所が合同で忘年会
2010年12月8日
山岳救助ヘリの有料化問題
山と渓谷社の記者から、ヘリの有料化問題について電話とメールで取材があった。埼玉県で山岳救助ヘリを有料化する条例案が検討されている。山岳ヘリだけの問題ではなく、安易な救急車の使用や安易な夜間救急病院の使用問題などと関係する。
日本山岳文化学会の会議の最中にも、赤旗の記者から、埼玉県のヘリ条例化案について意見を求められた。
ヘリ有料化についてのコメント
・ヘリ有料化は、救急車の費用、救助費用、都会でのドクターヘリの費用、災害時の救助活動の費用、救急病院の利用などとも関係する。都会でのドクターヘリは無償なのに、山岳救助の場合だけ有料にできるのか、登山者以外の山岳救助(林業作業員、林道工事作業員、山菜採り、狩猟、観光客、山小屋従業員、釣り師、測量作業員、救助活動者の二重遭難)、集落の近くの山であれば無料なのか、山岳の範囲はどこまでかなどの問題がある。沢登り中の登山者は有料だが、釣り師は無料か。沢で遊んでいた子どもの事故の場合は、有料か。山林火災の失火者が焼け死にそうな時に救助する場合、自己責任として有料になるのか。すぐに避難しなかった登山者や作業員、救助隊員も自己責任か。
・ヘリの費用が契約によって発生するとすれば、意識不明の重病人を通りがかりの登山者が通報した場合、ヘリの費用は誰が負担するのか。意識不明の重病人は救助の意思表示をしていないので、負担させることはできない。山での自殺未遂者の場合。
契約によることなく賦課金だとすれば、法律の規定が必要である。これは、法律では無税なのに条例で課税できるのかといった問題とに似ている。
・有料の場合と無料の場合の基準は明確でなければならず、恣意的な運用はできない。行政の裁量に合理性がなければ違法となる。処分に対する不服申立、行政訴訟への移行という制度になる。
・緊急性がない場合など正当な理由のない救助要請は有料とすることが可能
・自己責任による遭難の場合は有料といういい加減な運用はできない。すべての遭難は自己責任か他者責任である。心筋梗塞による救助要請でも、日常生活の不摂生やトレーニング不足は自己責任の面がある。すべての成人病は自己管理の甘さが原因。過労による救助要請は必ずしも自己責任ではないが、緊急性のない場合が多い。自己責任による事故は有料だとすれば、多くの交通事故は自己責任であり、特に事故の加害者の帰責性は高いが救急車を有料としていないこととの関係など。
・自己責任による事故でも国家が無償で救助するのが世界の趨勢である。「自己責任論」を受け入れる日本の文化は世界の中で独特のものであり、文化研究の対象として非常に興味がある。
・所得の多い人は有料、救助費用が高額な場合は一部有料という扱いは可能だろう。
・県警ヘリは無料、消防ヘリは有料というバランスの問題
・有料化により、緊急性のある遭難者がヘリの要請を自粛することが懸念される。市民の生命身体を守るという消防の任務を果たせるのか。
・資産家はかえって有料ヘリをタクシー代わりに使いやすくなるのではないか。消防ヘリは民間ヘリよりは料金が安いので、民間ヘリの代わりに人の輸送に消防ヘリを利用されないか。
・消防機関が航空業を営むことになるので、航空法に基づく営業の許可が必要になるのではないか。有料になれば料金にみあったサービスの提供義務が生じる。「金を払うのに、来るのが遅い!」と苦情を言う被救助者がいるかも。
その後の埼玉県での条例化の動き
記事によれば、
「埼玉県自民党県議団は、県内で発生した山岳遭難事故で県の防災ヘリコプターが出動する場合、遭難者にその運航費用を負担させることができる権限を知事に付与する」という条例案を2010年9月の議会へ提出予定だったが、同県議団内で「議論が不十分だ」という声があがり、検討の末、12月12月の成立を目指す運びとなっていた。しかし、12月13日(火)に明らかになった『埼玉県防災航空隊の緊急運航業務に関する条例(案)』の条項には、肝心の有料化の文言は見当たらず、附則2で、「県は、航空機の適正な運航の確保及び山岳遭難等の発生の抑止の観点から、山岳遭難に係る緊急運航に要した費用の遭難者等による負担その他必要な方策について早急に対応するものとする」という記載にとどまっていた。」 これは、ものごとをあいまいに処理するいつものパターン。
この条例案は12月22日可決された。
2010年12月7日
共同通信社札幌支局記者の取材
共同通信社札幌支局の記者がわざわざ北海道から三次に来て取材した。トムラウシの事故について、約2時間にわたり取材を受けた。会社の幹部の刑事責任を問うのは困難なのではないか・・・・・送検はされるかもしれないが。
そういえば、以前も、東京から新聞記者が山岳事故について取材に来たことがあった。マスコミは取材費用がふんだんに使えるようでうらやましい。大学の先生は大学から研究費が支給される。僕の場合は、何か調査しようにも、経費はすべて個人負担になるので、それが研究の限界になる。毎月10万円の書籍購入費と10万円の交通費。1件の確定判決文を入手するために交通費10万円をかけていたら、弁護士業が破産する。
2010年12月4日
中国地方弁護士会連合会「支部問題協議会」に出席
中国地方弁護士会連合会主催の「第1回支部問題協議会」が福山市で開催された。
労働審判、裁判員裁判を地方裁判所支部で開催すべきこと、支部の裁判官が不足していることが報告された。
地方裁判所の本庁に機能が集約され、支部の機能が低下しつつある。他方で、支部の弁護士の数が急増しており、支部機能の拡大が求められる。
2010年12月2日
高校の同級生の集まり
久しぶりに高校の同級生7人で広島市内で夕食。
37年振りに会った人もいたが、それにしてもずいぶん変わったものだ。例によって、昔話。そこにいない同級生の話題とキリマンジャロ登山の話などが酒の肴。なぜか、野球班の三振、振り逃げの話が壊れたレコードのように何度も出てくる。
それにしても、同級生に医者の数が多い。当時は医学部ブームだったのか? 医学部を中心に大学の研究者になった者が多い。僕も、文学に惑わされさえしていなければ、たぶん、医学部に進学していただろう。。文学部志望だったが、文学部に進んで自分が何をしたいかという確信がなかったので、願書を出す時に、法学部に変更した。しかし、法律にどうしても興味がわかず、大学1、2年の頃は文学部への転部を考えていた。そのままグータラな学生生活を送っている間に卒業時期になり、あわてて司法試験を受けるようになった。今でも、法律にはそれほど興味がない。
高校の男子の同級生90名中、十数人が大学や研究機関にいるのではないか。当時の母校に研究者を育てやすい雰囲気があったのかもしれない。確かに、当時は、いつも自由研究をしているような雰囲気があった。現代国語では、レポート提出のみで試験がなかった。僕は全集を読み、教師から参考文献を借りて、原稿用紙に50枚くらいのレポートを書き、非常に楽しかった。高校時代に蓄えたエネルギーの量がその後に大きく影響するようだ。個人的には、「もっと、いろんなことができたはずなのに」という後悔ばかりが思い出される高校時代。
2010年11月28日
広島山岳会80周年記念式典
東京にいたため、残念ながら欠席。
2010年11月27、28日
日本山岳文化学会での報告
東京で日本山岳文化学会の第8回大会が開催され、初めて大会に出席した。早朝、名古屋から東京に向かう。
27日に、「登山道の管理責任」というタイトルで発表した。従来、このような議論が少なかったので、関心が高かったようだ。同時に、日本山岳文化学会の論集に、「登山道の管理責任」というタイトルの論文を書いたが、あとで読み直すと、内容の不十分さばかりが目について仕方ない。
「登山道では自己責任」と単純に考える登山者が多い。これは、登山道に人工的なものが全く持ち込まれていなければ正しい。しかし、登山道自体が人工的なものであり(土地の掘削という意味で)、さらに鎖や梯子、橋、山小屋などが設置されている。人工物については必ず「管理」、「欠陥」の問題が生じる。上高地にある橋を1日に数千人の登山者やハイカーが通行しているが、この橋が腐朽して落下して死者が出ても、「ハイカーは自分で橋の安全性をチェックすべきだった」とは言えないだろう。鉄骨やコンクリートの橋は、都会でも山の中でも強度は同じはずだ。ハイキングルートの場合は、橋の鉄筋の強度が弱くてもよいという理屈は成り立たないだろう。都会でも山の中でも人工物を設置する者はそれなりの責任を持つべきであり、責任が持てないのであれば設置すべきではない。そもそも橋がなければ、誰も通行することがないので、当たり前のことだが、橋の落下事故は起きない。落下するような橋がある場合も、橋がなければ事故が起きないという意味で安全なのである。橋がなければ、川を渡渉することになるが、アメリカのジョンミューアトレイルではこれが当たり前であり、それが自然の中のトレイルの本来の姿である。ジョンミューアトレイルは誰でも歩ける登山道であり、アメリカの中学生や高校生もよく利用しているそうだ。渡渉をするようなルートでも、当然のように受け入れる姿勢は、日本とは自立心のレベルが違うというべきか。
高校の同級生の中島泰君が僕の報告を聞きに駆けつけてくれ、30数年ぶりの再会だった。一見してすぐに彼だとわかる。その後、彼は朝鮮半島情勢の関係で仕事ができたと言って、あわただしく会社に戻っていった。朝日新聞の論説委員ともなると多忙なようだ。彼は朝日新聞の夕刊に、大会の紹介記事を書いてくれた。
夜は懇親会。元日本ヒマラヤ協会専務理事の山森氏らと話をした。
28日は、重広恒夫氏ら日本を代表する登山家が出席するシンポジウム。大日岳事故の安全検討会で一緒だった明治大学の飯田先生と出会った。
その後は、昼食抜きで、遭難分科会の会合。関西大学の青山先生は分科会のためだけに大阪から参加。直前にUIAの会議でロシアに10日間くらい行っておられ、相変わらず多忙なようだ。
夜8時の帰宅。さすがに疲れた。
2010年11月26日
愛知県山岳連盟「遭難を考える会」での講演
夜、名古屋で愛知県山岳連盟主催の「遭難を考える会」があり、登山の法律問題について1時間45分話をした。参加者約50名。以前よりも、多少はわかりやすく話がでいるようになったような気がする。
これは、大日岳事故の安全検討会で一緒だった名古屋工業大学の北村先生(愛知県山岳連盟理事長)から頼まれたものだ。山岳ガイドの石川富康さん(「世界の果てまでイッテQ」のモンブラン登頂の世話役で、チラっと出ていたような気がする)とは初対面だったが、石川氏が愛知県山岳連盟の会長であることを初めて知った。そういえば、何かの本でそんなことを読んだことがあったような・・・・広島の平田さんと一緒に、ブロードピーク(8000メートル峰)に一緒に登ったと言っていた。
石川さん:「もう、あまり山に登れなくなった」
私:「もう、十分に登られたのではないですか」
2010年11月11日
備北法律相談センターの相談件数ゼロ
今日は久しぶりに広島弁護士会備北法律相談センターの相談担当だったが、相談の申し込みがない。相談件数ゼロ。同じ場所で月に2回は三次市の無料法律相談になっているが、こちらの方は2、3件相談がある。しかし、弁護士会の法律相談は原則として有料相談なので、以前から相談が少なかった。しかし、まさか、ゼロとは・・・・・・
最近、備北法律相談センターでも、所得の少ない人については、法律扶助を利用して無料相談が受けられるようになり、県北の場合は、約半数の人が無料相談を受けられるはずだが、弁護士会の相談センターに法律扶助の適用があることがほとんど知られていないようである。
この地域では借金に関する相談が大半を占めるが、最近、全国的に借金に関する相談が減少している。この地域でも、相談や事件が以前よりも減った。備北法律相談センターの相談件数0は、この傾向を反映したものなのだろう。弁護士と司法書士の急増の影響もある。都会の弁護士の過疎地への進出も激化している。
おまけに、備北法律相談センター受付職員が休暇をとっていたので、私が相談センターの電話番をしなければならず、事務所に帰るわけにもいかない。備北法律相談センターで3時間電話番をするが、電話は1本もかかってこない。備北法律相談センターに閑古鳥が鳴いていた。時間の無駄。
もともと備北法律相談センターは設立当初から相談者が少なく、大赤字だった。相談者が少ないのに、備北法律相談センターの存在理由があるのだろうか?
2010年10月27日
「岳人」への連載
来年1月から山岳雑誌「岳人」に登山に法律問題について連載をすることになった。以前の「山の法律」の続編に当たるもので、今、原稿を書いている。
2010年10月6日
裁判員裁判受任
強盗致傷事件で裁判員裁判の弁護人をすることになった。広島地区の弁護士と2人で受任。これから準備をしなければ・・・・
2010年10月5日
広島拘置所三次支所の改築問題
広島拘置所三次支所を改築することになり、平成22年9月から1年間、広島拘置所三次支所が閉鎖される。そのため、広島地方裁判所三次支部で裁判を受ける刑事被告人は、広島市内にある広島拘置所や広島刑務所に収容される。
問題は、
@、弁護人は被告人に接見するために広島市内まで出向かなければならないこと
A、裁判の度に、広島市内から三次の裁判所まで被告人が護送されることになり、広島刑務所などの護送のための人手不足と、三次の裁判所の刑事事件の審理は水曜日だけなので、裁判の期日が入りにくい。
という問題がある。
これを解決するためには、検察庁が刑事事件をすべて広島地方裁判所本庁に起訴すればよい。そうすれば、起訴後は広島市内の弁護士が国選弁護人になり、被告人との接見が容易になる。広島弁護士会が検察庁にその旨の申し入れをしているが、検察庁にはあまり問題意識はないようだ。
縦割り行政の弊害がある。
法務省 拘置所が古くなったの改築する。
法テラス 国選弁護人名簿に従って弁護人を選任する。
裁判所 国選弁護人はきちんと接見して、任務を果たしてもらいたい。
検察庁 どこの裁判所に起訴するかは検察庁の内部問題である。
弁護士会広島地区会 三次支部管内の事件は広島地区の弁護士の担当ではない
@について、接見のために往復約6時間くらいかかることになり、なかなか接見に行けない。被告人が「すぐに面会に来てほしい」と言っても、2週間後くらいでないと接見に行けない。否認事件などでは頻繁に接見する必要がある。すぐに接見に行かない場合には国選弁護人が懲戒処分を受けることになる。これでは、とても責任を持てないので、国選弁護人を引き受けることができない。不利益を受けるのは被告人であり、関係機関が困るわけではない。
現在、私は、国選弁護人の受任は、広島地裁本庁で起訴される重大事件、在宅事件に限って受任している。今日、三次警察署で逮捕された被疑者が容疑を否認しており、三次地区の弁護士が誰も受任しないという事態が発生した。マスコミは、「国選弁護人のなり手がいないのは、弁護士が足りないからだ」と言うだろうが、弁護士が10人いても状況は変わらない。
今後、この問題はどのように展開していくのだろうか。
2010年9月29日
武富士の会社更生法申請
武富士が会社更生法の申請をした。私は、和解、判決、交渉中のものを含めて武富士に対し合計約2000万円の過払金返還請求権をあつかっており、回収し損ねた。今年の5月に武富士から過払金600万円を取り戻した人がおり、それ以降は、武富士の引き延ばし戦術のために回収できていなかった。他社についても、過払い金の取り戻しは、早い者勝ち状態にある。
今後、いずれは過払金返還請求事件が消滅し、クレサラ事件も減ると思われるが、武富士の倒産はそれを象徴する事件である。今後、生き残るサラ金は少ないだろう。
今まで、過払金返還請求やクレサラ事件で「食っていた」弁護士は多い。弁護士の激増という状況のもとで、サラ金がつぶれて、一緒につぶれる法律事務所が出てくるのではないか。
2010年9月25日〜26日
中高年安全登山指導者講習会「西部地区」
登山研修所、日山協主催の中高年安全登山指導者講習会(宮島)で、講義V「リーダーの責任と法律」を担当した。参加者は滋賀県、沖縄県を含め西日本から約100名。
24日にあった講義Tの「中高年登山の現状と問題点ー楽しい登山とリスク」は北村憲彦氏(名古屋工業大学、愛知県山岳連盟)が担当され、内容のある話だったようだが、僕はこの日は仕事があり、参加できなかった。北村さんとは大日岳事故の安全検討会、サーチアンドレスキュー研究協議会で付き合いがある。懇親会の後、部屋で兵庫岳連の古賀さんと北村さんと3人で、サーチアンドレスキュー研究協議会が扱うべき課題について午前1時頃まで議論をした。
それにしても、皆さん、元気ですね。中高年のパワーと情熱に、ひたすら、感心するばかり。
2010年9月10日
新司法試験の合格発表
今年の新司法試験の合格率は約25パーセントだった。当初、法科大学院は司法試験合格率7割を想定していたようだが、受験者が9000人もいれば、3000人合格させても合格率7割よりはるかに下がる。法科大学院を五月雨的に認可した時点で、合格率の低さが想定されていた。
法科大学院をたくさん作ってしまうと、大学関係者は教え子にできるだけたくさん受かってほしいと考えるのが人情である。法科大学院の学生が3万いれば、全員に司法試験に受かってほしいと思うのだろう。当然、司法試験の合格者数を3万人にしてほしいという意見が出てくる。しかし、司法政策はそんなに恣意的なものでよいのか。
今後、旧司法試験を廃止して、予備試験を実施することになる。予備試験を実施するのは、法科大学院が金がかかりすぎること、法科大学院制度が働きながら司法試験を受ける社会人を排除してしまうことへの世論の反発からだろう。
簡単に予備試験に受かって新司法試験を受験することが可能になれば、金のかかる法科大学院に入る者が減るだろう。したがって、おそらく予備試験の合格者数はきわめて制限されるのではないか。従来、旧司法試験の合格者数を制限し、法科大学院経由の方が法曹資格を得やすくするという政策がとられたが、今後は予備試験合格者と法科大学院終了者がともに新試験を受けることになるので、従前のような差別的な扱いができない。
予備試験について、法科大学院卒業者と同等レベルという合格基準にすれば、法学部卒業者で優秀な人は、予備試験ー司法試験というルートで合格できるだろう。法科大学院に行かなくても法学部で4年間勉強すれば司法試験に受かることになれば、法科大学院の存在理由がなくなってしまう。そこで、予備試験の合格者数を制限することになるのではないか。
予備試験合格者数を「人数制限」することが懸念される。
急激な規制緩和をすると、緩和当初、「開発利益」に似た利益が生じる。
規制緩和で司法試験合格者が急増すると、制度改革当初の合格者は規制緩和による利益を得やすい。法科大学院ができた後、7、8年間は新司法試験合格者は規制緩和の恩恵を受けることができる。法科大学院ができ、それまで司法試験に合格できなかった者がかなり法科大学院に入学した。私の知っている、長年司法試験を受け続けていた司法書士も、意を決して法科大学院に入学した。知人の行政書士も法科大学院に入学した。弁護士の師弟で新司法試験で合格した者は多い。医者が私立の医学部を増設して、自分の師弟を医学部に入学させるのと同じ状況が司法にもあった。法科大学院の創設により、法律の研究者の就職難を解消させることができた。法科大学院が低迷している大学の法学部の人気回復に役立った面もある。当初は、急激な規制緩和は「よいことだらけ」だと考えやすい。
しかし、急速な規制緩和の結果、規制緩和による利益は急速になくなる。司法試験合格者が急増すると、その後の新司法試験合格者には、就職難、独立しても仕事がないという厳しい現実が待っている。
他方、市民の側は、弁護士の数が増えても、弁護士に依頼するには金がかかるという現実は変わらない。弁護士の数が増えても、弁護士費用の額はそれほど変わらない。この点は弁護士報酬の額が高いアメリカを見れば明らかである。
あらゆる制度改革には制度の継続性が重要である。
年金の支給額を、20年、30年かけて徐々に減らせば社会的混乱は少ないが、数年のうちに、年金受給額を5分の1に減らせば社会は混乱する。発展途上国であれば、これが社会不安、治安の混乱、クーデターの原因、政権崩壊の原因になりかねない。
司法試験についても、10年間で合格者を5倍に増やせば、社会が混乱するのは当然である。
2010年9月8日
弁護士の就職難
最近、相変わらず弁護士の就職難が叫ばれている。
司法試験合格者数が増えれば、弁護士の就職難は当然の結果である。予想したとおりになった。法科大学院ができた時、現在の状況が予測でき、私は何年も前からあちことで文章に書いてきた。なぜ、予測できたかというと、過疎地の実情から判断すれば、現在の司法のシステムのもとでは、弁護士の数が増えても弁護士の仕事が増えないことが明らかだったからである。弁護士が近くにいても、弁護士に依頼できる人が限られることを、私は開業後に痛感していた。弁護士が近くにいても、「弁護士に依頼しにくい」という市民の声が強い。これは弁護士の数の問題ではなく、司法のシステムの問題である。
ある法律事務所では採用弁護士1人の募集に対し、150人の修習生の応募があったらしい。地方でも過疎地でもすでに弁護士は余っている。地方でも過疎地でも、弁護士に依頼したいという市民は多いが、現実には弁護士の仕事が少ない。
法曹資格者は、なぜ、弁護士になりたがるのか。
法曹資格者は民間企業や役所、各種団体などで、なぜ、活躍しようとしないのか。
全国で、弁護士と司法書士の数が急増しているが、全体としての事件の数は増えず、むしろ若干減少している。
弁護士の就職難、開業難は激化している。これがさまざまな弊害をもたらす。まあ、政策の失敗、ということでしょうな。
今後、業務として成り立たなくなる法律事務所が増えるだろう。ドイツやアメリカでは弁護士の破産が多い。アメリカでは、仕事がないために借金をする弁護士の姿は、テレビが題材にするくらい、珍しくなくなっている。いきなり破産から始まる弁護士の物語など・・・・
経済的に困窮した弁護士が預かり金の一部を着服すれば犯罪になるが、預かり金の5割を報酬としてとれば違法ではない。既に、3割、4割の報酬をとる司法書士や弁護士が出現している。アメリカでは5割の報酬をとる弁護士は珍しくない。そういう弁護士に依頼しなければよいのだが、一般の人にはそれがわからない。3割の報酬をとられても、巧妙な説明に誤魔化されて、意味を理解できない人は多いだろう。また、裁判に勝ちたい一心から依頼者は「絶対勝ちますよ」という勧誘文言に弱く、簡単に騙される。これは「絶対合格しますよ」という予備校、「絶対効きますよ」という薬局と同じく、詐欺的な商法である。
今後、弁護士の宣伝が過剰になっていくだろう。「弁護士費用5割引キャンペーンセール」、「今月に限り、申込者は弁護士費用無料」、「着手金無料」などと宣伝し、5割の報酬をとる(この点は広告では説明しない)などの手法、相談者を紹介した人にキックバックするとか、商品の進呈などの手法など。「着手金無料、5割の報酬」という手法はアメリカでは一般的である。日本では、ヤクザの貸金取立業が報酬5割である。
最近は、やたらと、抽象的な名称をつける法律事務所が増えた。○○総合法律事務所、○○中央法律事務所、○○総合司法事務所とか、花の名前をつける事務所も多い。○○司法事務所は司法書士の事務所が多いが、法律事務訴と勘違いする人も多い。田舎では、司法書士と弁護士の区別のできない人も多い。「なんとか司法弁護士さんです」などと言う人や、「調停裁判にかける」と言う人もいる。私はかつて広島市内の広島北部法律事務所(広島市西区)に勤務していたがあるが、広島北部法律事務所と庄原市にある広島北部司法事務所は名前が似ており、まぎらわしい。広島北部法律事務所は北部事務所、北部法律事務所とも呼ばれており、広島北部法律事務所と実在する広島城北法律事務所と混同する人が多かった。広島城北法律事務所は単に城北事務所と呼ばれていた。「広島北ナントカ事務所。とにかく北がついた名前の事務所です」と言う人がいた。「ひまわり法律事務所」、「ひまわり基金法律事務所」、「○○ひまわり法律事務所」、「ひまわり○○法律事務所」などが多く存在し、非常にまぎらわしい。
事務所名が抽象的な名称では弁護士の顔が見えない。以前は、抽象的な名詞は弁護士が多数いる事務所に限られ、弁護士が多数いるので弁護士の顔ではなく、事務所の性格が事務所の個性になった。弁護士が1人の事務所では、事務所の性格ではなく、弁護士個人と依頼者との関係という、個人と個人の関係から業務が成り立つ。1人事務所では弁護士個人を離れて法律事務所は存在しない。弁護士が1人の事務所で抽象的な名詞を使用すると、弁護士の顔と個性が見えにくくなる。弁護士の数が増えれば、弁護士の個性を市民が選択する時代になる。弁護士の個性とは、能力、人格、性格、料金の額、経験、仕事のスタイル、考え方などを意味する。抽象的な事務所名は目立つことを意図したのかもしれないが、これほど抽象的な名称が増えれば、市民から見ればみな似たような名前に見えてしまい、かえってわかりにくく、目立たないのではないか。
企業や役所で経験を積んだ法曹資格者は、その後に弁護士に転職すれば経験を生かせる。若い法曹資格者はいきなり弁護士になるのではなく、企業や役所で活躍してもよいはずだ。法曹資格を得た後に、銀行、保険会社などに勤務した経験があれば、きっと有能な弁護士になれるだろう。6、7年大企業で働けば、弁護士の開業資金くらいは溜まる。もっとも、いずれ会社をやめるかもしれない法曹資格者を企業が雇用するかどうかであるが、優秀な人材であれば企業はその点を気にしないのではないか。法曹資格者が法務省などに雇用されるシステムがあってもよいはずだ。現在、裁判官や検察官から法務省への出向の制度や、経験を有する弁護士から裁判所や法務省などへの任用などの制度があるが、そうではなく、新規法曹資格取得者を官庁が雇用するシステムが必要だろう。民事調停官や家事調停官を、経験のある弁護士から任用するのではなく、新規法曹資格取得者から任用し、専門官として育成する制度が必要ではないか。
不運にも司法試験に受からなかった法科大学院修了者は、役所や企業でその知識を生かせるはずだ。企業や役所は法科大学院修了者を歓迎しない傾向があるが、これは法科大学院が司法試験予備校化しているからである。
ドイツでは司法試験合格者が多いので、司法試験合格者のうち、成績優秀者だけが、裁判官、検察官、弁護士になる。司法試験合格者の多くは弁護士にならない。いきなり弁護士として独立開業しても仕事がないので、そういう者などいない。多くの者が事務職員として勤務する。弁護士になるよりも、企業に勤めた方が待遇がよいのだろう。ドイツのように弁護士の仕事の多い国でもそういう状況であり、司法があまり利用されない日本では、弁護士の需要は限られる。厚生労働省が2010年2月24日に公表した「平成21年賃金構造基本統計調査」によると、弁護士の平均年収は680万円であり(基準年齢は40歳くらいか?)、これは今後も下がり続けるだろう。弁護士の数が増えれば、安い給料でも雇ってほしいという弁護士が増えるからである。弁護士の初任給300万円の法律事務所もある(法律事務所の事務員よりも給料が安い!)。年収200万円程度の開業弁護士もおり(むしろ、開業当初は赤字経営になるのではないか)、市場原理からいえば、今後、司法修習生の弁護士離れ、学生の法科大学院離れがすすんでいいくだろう。
アメリカやドイツでは法曹資格者が企業や役所で活躍する場面が広いが、法曹資格者が単なる法学部卒業生よりも、よい待遇を受けるのは当然のこととされる。オランダでは警察署長になるには法曹資格が必要だとされている。アメリカでは弁護士の数は多く、競争が激しいが、一般の弁護士は50万円以下の事件を扱わない。競争原理は、報酬の見込めない事件から弁護士が手を引くという方向に機能する。その結果、アメリカの弁護士費用の額は日本よりも高い。アメリカでは、競争原理が、法曹が弁護士ではなく企業や役所に就職するという選択をもたらす。アメリカでは、企業や役所の待遇や地位、将来性、仕事のやりがいなどの点で、弁護士よりも魅力を感じるから、企業や役所に入るのだろう。日本では、競争原理が法曹資格者をして企業や役所に就職するという選択をもたらさないのは、なぜだろうか。日本の企業や役所は、法科大学院修了者よりも優秀な大卒者の方が有能だと考え、あるいは、よほど扱いやすいと考えるのだが、企業や役所が法律家を必要とする状況が望まれる。
ケータイ弁護士
弁護士の就職難にちなんでケータイ弁護士というテレビドラマはどうだろうか。
主人公は、サラリーマンをやめて苦労して司法試験に受かったが、法科大学院時代の学費と生活費が借金となり、司法研修所で借金の額がさらに増えた。弁護士の就職難のため、ソクドクするが、事務所を借りるだけの金がない。自宅マンションを事務所にするが、居住用マンションに妻と2人の子供がいる状態では、当然、仕事の依頼がない。携帯電話1本で仕事をする。「相談料無料」という広告を出し、たまに、携帯電話での相談があるが、1時間相談をしても1円も金が入らないことに気づく。国選事件は順番待ち。1か月の収入が10万円、そのうち5万円が弁護士会費で消え、あとは交通費と携帯電話代で消える。先輩から紹介された事件では、経験不足から失敗し、依頼者から損害賠償を請求される。金がないので、賠償責任保険に入っていない。妻のパート収入でかろうじて生活しているが、借金が増えていく。
あるとき、携帯電話に電話があり、それはヤクザから貸金の取り立ての依頼だった。その他、筋の悪い訪問販売業者から高額な報酬で、脱税の指南の依頼や刑事事件の証拠隠滅の依頼があるが、主人公は断る。妻から、仕事を引き受けなかったことを激しくなじられ、激しい口論の末に、妻に家から追い出される。以後、主人公は公園で生活するようになる。所持品は携帯電話のみ。唯一の楽しみは携帯電話のブログ。これが生き甲斐。
やがて、料金滞納で携帯電話が使用できなくなり、仕事もブログもできなくなる。唯一の生き甲斐を失った主人公が絶望して、自殺を考えていた時、同じように自殺しようとしている路上生活者に出会い、2人は自殺を思いとどまる。それをきっかけに主人公は路上生活者の支援に奔走する。偶然、ある路上生活者の死亡事故をてがけたことから、多額の損害賠償金が入り、その報酬で借金を完済することができる。事件がマスコミで大々的に報道され、知名度が一気にあがる。自分の体験を本に書き、ベストセラーになる。テレビのゲストコメンテーターになる。事件の依頼が一気に増える。妻、子供と再会し、復縁。メデタシ、メデタシ。
アメリカでよくあるサクセスストーリーだが、アメリカでは弁護士のこのようなストーリーは珍しくないだろう。
日本で受けるためには、主人公は自己犠牲と悲劇的ニュアンスのあるヒーローでなければならないかもしれない。たとえば、主人公は、有名になったが、今でも、事務所を持たず、携帯電話1本で路上生活者のために奔走している。若くて美人の妻から、「今までのことを許してほしい」、「子供たちが父親を必要としているので、戻ってきて」と懇願されるが、主人公は、「今、自分にはやるべきことがある」と言って、振り向くことなく、立ち去ろうとする。妻は泣きながら、「どうして?」、「私は、あなたが戻ってくるのを、ずっと待っています」と言う。主人公の目に涙が浮かぶ・・・・・・これではメロドラマではないか!
2010年8月29日
司法修習生に対する給費制廃止問題
現在、司法習性に対し、給与が支給されているが、今後、これを裁判官、検察官について返還を免除し、弁護士について返還させることが予定されている。裁判官と検察官は公務員であるが、弁護士は私的な自営業なので、自営業者から取り戻すべきだという意見が一部にあるのだろう。
フランスの国立スキー登山学校は山岳ガイドを養成する研修機関であるが、研修生に給料が支給される。登山学校を卒業して試験に合格すれば、山岳ガイドになるが、山岳ガイドは国家資格を有する私的な自営業である。
北欧などの大学は授業料が無料であり、学生には生活費支給される。フィンランドでは大学の入学年齢が平均21歳であり、職業歴のある者も多い。
日本の警察学校、消防学校、防衛大学、防衛医大などは給料をもらいながら、研修を受けるが、防衛医大などを卒業後、自衛官にならない者もいる。
国家がこれらの研修生や学生に給料や生活費を支給するのは、国家がそれらの養成は社会の責務であるという趣旨からである。北欧などで大学などを含めて教育費が無料なのは、優秀な人材を養成することは社会の責務であり、個人の私的な利益のために高等教育を施すわけではない。本来、国家資格はその資格の需要を考慮して適正な数を維持すべきであり、国家資格の濫発は資格に対する権威と信用の低下を招く。しかし、日本では、医者の資格を除き、ほとんどの国家資格が濫設、濫発され、国家レベルの資格商法が行われている。
従来、法曹の養成は社会の責務であると考えられ、修習生は公務員とされ、給料が支給されてきた。
もし、医師の養成が社会の責務であると考えれば、医学部はすべて国立とし、授業料を無料とすることになるが、その場合には医学部の入試は激烈な競争となるだろう。しかし、その方が、家庭の経済力に関係なく、優秀な人材が医師になるので、社会にとっては好ましい。日本のシステムは、おそらく医師会が政治家に政治献金をし、医者の師弟が医者になりやすいように医学部の入学に金がかかる制度にしたのだろう。法曹になるために何千万円もかかるような制度にすれば、裕福な家庭の師弟はもっと楽に法曹になれるだろう。
現在、司法試験に合格した時点で修習生に平均330万円の借金があり、1000万円以上の借金のある修習生もいる。これは法科大学院に金がかかるからである。法科大学院は資力のある者でなければ入学することができないが、修習生への給費制を廃止すれば、それを加速することになる。修習生はアルバイトが禁止されるので、それまでの借金の返済は貸与金で返すことになり、借金で借金を返す構図になる。裁判官、検察官は返還免除になるが、裁判官、検察官の仕事=公益活動ということではなく、役所でも民間企業でも給料は私的に消費される。弁護士の仕事は弁護士法によって規律され、公益的な面がある。現在では、新規弁護士の収入が裁判官や検察官よりも多いというわけではない(私の場合も、弁護士になった当時の給料の額は、実質的には裁判官とほとんど変わらなかった)。弁護士は、月額約5万円の弁護士会費の負担や、さまざまな団体からカンパや会費を求められ、書籍購入、交通費なども自己負担である。
ボランティア団体や民間で公益活動を行う弁護士は返還免除にならないというアンバランス。研修所を終えて、地方公務員になった場合、公益法人の職員になった場合、国立大学の助手になった場合、私立大学の助手になった場合、外国の公法人の職員になった場合(国連職員など)、弁護士会の専従職員になった場合、政治家の公設秘書になった場合、それぞれどうなるのか。研修所を終えても無職の場合はどうなるのか(今後は、家業の手伝いや民間企業に勤務しながら法律事務所への求職活動をする弁護士未登録者が増えるのではないか。登録すれば会費負担が生じる。ドイツでは新規登録弁護士のうち、82パーセントの者が弁護士業以外の副業で収入を得ている。日本では弁護士は副業禁止)。研修所の卒業試験に不合格となった者はどうなるのか(不合格者が増えている)。おそらく、「法曹にならなければ返還免除」ということにはならないのだろう。
裁判官や検察官が初任給の中から返還することになると、扶養家族がいる場合には生活が苦しくなることを考慮して、裁判所が「身内に甘く」なり、返還免除としたのだろう。他方、裁判官・検察官に返還させることになると、警察官、消防士、自衛官、書記官などの研修中の給料を返還しないこととの整合性が問題になろう。
弁護士になった者は多額の借金の返済に迫られ、現在の弁護士の就職難、新人弁護士に仕事がない状況からすれば、弁護士はどのようにして金を稼ぐことになるのだろうか。弁護士が「金のなる木」に群がることになり、アメリカのように貧乏人を相手にする弁護士はきわめて少数になってしまうのだろう。申請すれば5年間返還を猶予することが可能となるらしいが、今後、弁護士登録後5年後、借金の額が修習生当時よりも増えている弁護士が増えるだろう。「破産すれば返還免除になる」ことを最初から予定するわけにもいかないだろう。
私は、国立大学の授業料が年間5万円だった時代に奨学金とアルバイトで大学を卒業し、卒業後は学習塾の講師や公務員として働きながら司法試験を受けた。私は司法試験に受かった時は公務員であり、司法試験合格後半年で役所を退職して、司法修習生という公務員になった。つまり、公務員から公務員へという転職である。司法試験に受かった後、公務員としての給料は減った。
しかし、その後、国立大学制度も法曹養成も格差社会のシステムの中に取り込まれてしまい、当時の私のような社会人は、多額の借金をしない限り、司法試験を受けることは不可能になった。今の制度は、法科大学院を重視するために、私のような社会人を司法試験から閉め出している。
この問題について、一般の市民はあまり関心を持たない。ほとんどの庶民は、一生の間に、自分が弁護士と何か関わりを持つとは考えていない(弁護士と関わりを持つようなことになりたくないと考えている)。そして、実際に、一生の間に弁護士に依頼する人は市民のほんの一部である。実は、その関心の薄さが「日本の司法がいかに利用されていないか」という問題を象徴している。
マスコミは「弁護士の数が足りない」ことを強調するが、過疎地では、「医者の数が足りない」ことに市民は危機感を感じて署名活動を行い、自治体は医師の確保に努力するが、弁護士の数が少ないことに関心を持つ市民はほとんどいない。むしろ、「弁護士の数が増えると、自分が訴訟を起こされるかもしれないので、困る」という感覚を持つ市民が多い。一般市民の感覚としては、世の中に多くの事件があるので弁護士がいなければ困ると考えるが(自分が困るわけではない)、弁護士がたくさんいる必要があるかと言えば、自分は弁護士に依頼することはないので、どちらでもよいという人が多い。所詮、司法の問題は他人ごとである。
修習生に対する給費制の廃止は、修習生の数が増えたことに起因する。そこで、そもそも修習生の数を増やす必要があったのかという最初の疑問に戻ることになる。修習生の数が増えて、一般の庶民にとって何かメリットがあっただろうか?
2010年8月20日
日高山系で学生パーティーが遭難
河原で幕営中に鉄砲水でテントが流され、3人が死亡し、1人が助かった。河原で幕営したことがミスだが、助かった学生や亡くなった学生、大学が、なぜか非難される。自然災害に巻き込まれ運転を誤って交通事故に遭うようなものだが、日本では山岳事故の被害者(当事者)が非難されることが多い。
山岳事故は故意に起こす事故ではないが、「こんな事故はいいかげんにしてもらいたい」などと、故意に起こす事故のように非難する人が多い。おそらく、それは、登山行為そのものは意識的な行為なので、「危険な登山をやめろ」という意見が含まれているのだろう。しかし、自動車の運転は故意による行為であり、自動車事故のほとんどは過失によるものであることと、山岳事故の構造に違いはない。両者の違いは、自動車の運転は経済的価値をもたらしやすいが、登山はそうではないという点だろう。日本では、経済的価値をもたらさないことをすることは、否定的に考えられる傾向が強い。
このケースでは、リーダーや大学の法的責任は問題にならない。
2010年8月
強風による低体温症の検証
意図したことではないが、結果的に、南アルプスの3000メートルの稜線で風速毎秒20メートルの風の中を歩いた。
その感想
・強風下では体力を非常に消耗すること(個人の体力差が出やすい)。これが歩くペースの低下を招く。
・バランスを保つには筋力を要すること(女性は強風に弱い)
・動き続けなければ低体温症の危険があること
・睡眠不足、栄養不足は想像以上に体力を消耗させること。特に中高年者には影響が大。
・強風に対する装備がなければ簡単に低体温症になるだろう。
・身体を濡らさない工夫が重要
・2009年のトムラウシの事故の時の気温は5〜6度だったと思われ、この程度の気温はアルプスでは珍しくない。
精神的にどれだけ落ち着いて行動できるかが重要。これは経験が左右する。強風時に、衣類を着込む、風をよけて休憩する、停滞しない、栄養補給、ツェルトでのビバークなどは冷静でなければできないだろう。
2010年8月3日
日本テレビ社員の遭難
7月31日に日本テレビの社員2名が沢で水死した。ガイドが引率していたが、解散した後の事故なので、ガイドは関係ない。なぜ、引き留めなかったのかと言ったところで、ガイドは記者を強制することはできない。
テレビのニュースで、「沢登りは山登りとは違って危険である」と述べていたが、沢登りも、山登りの1ジャンルなのだが。また、司会者が、「沢登りと聞くと、小さい頃、沢ガニをとって遊んでいたようなイメージがするのですが、かなり危険なんですね」と言っていたが、オジサン、それは「川遊び」でしょ。沢登りのイメージはそんなものなのか。
沢登りを英語にすれば、「傾斜のきつい渓谷や滝のclimbing」ということになろうが、climbingを日本語に訳しにくい。climbingを「登り」と日本語に翻訳するのだが、日本語の「登り」は歩いて登ることを意味することが多く、climbingとは異なる。これは日本の山のほとんどが歩いて登ることができるからである。climbingを岩登りと訳すことが多いが、それはrock
climbingであって、climbingの対象は、崖、岩、氷、雪、沢、滝、人工壁などさまざまである。climbingを「クライミング」とカタカナ表記すると、クライミングは岩登りをイメージしやすい。mountain
climbingは「登山」という日本語に翻訳されるが、それは正確ではない。moutain
climbingは「山の急峻な崖、岩壁、岩稜、氷、雪壁、雪稜などを手を使ってよじのぼる」ことを意味する。mountain
climbingは日本の登山の一部の、例外的な、特殊な(と考える人が多い)形態であるが、ヨーロッパアルプスでは、mountain
climbingは登山の一般的な形態である。
こんな議論は、関心のない人にはドーデモヨイことであるが、この業界の関係者には重要な問題である。それは、刑事訴訟法上の「勾留」をマスコミが「拘置」と表記することは、不正確だという問題に似ている。「勾留」の概念は重要であるが、一般の国民は関心がないので、勾留、拘置、拘留、拘束、留置でもみな似たような難しい言葉というイメージで受け取られる。
ヌカビラ岳遭難
北海道のヌカビラ岳で、ツアー客8名が救助される事件があった。4人のガイドと8人の客という構成はガイド登山の限界だろう。ガイドの判断で事故を回避したので、賢明な判断だった。メデタシ。もし、トムラウシのように、行動を強行していれば、3、4人の死亡者が出てもおかしくなかったのではないか。
他にも、北海道で、4人の登山パーティーで、3人が救助され、1人が亡くなった事故があった。
これらの遭難報道を聞いていると、何となく北海道の山が面白そうに思えてきた。かつて大雪山には登ったことがあるが、来年は、ぜひ、北海道の山に登ってみたい。
2010年8月日
太田川でカヌー
広島県にある太田川で久しぶりにカヤックをした。実質的には1時間の川下り。カヤックを車に積み、川下りの終点に自転車を置き、川下りの出発点に車を置き、カヤックを車から降ろし、川縁まで担ぐという作業が準備作業としてある。1時間の川下りのための準備作業が3時間くらいかかる。川下りの終了点から車のある場所まで自転車をこいで戻ることになる。
2010年7月23日
司法修習生就職難
司法修習生の4割が就職先未定だという報道があった。最近の数年間では、弁護士の仕事は減少傾向にあり、司法試験合格者が増えれば、就職難は当然の結果だろう。
司法試験に受かってもそれだけでは弁護士の仕事はできない。法律事務所に就職して弁護士の実務経験を経て、1人前に仕事ができるようになる。医師の国家試験に受かっただけでは治療ができず、3年くらいは研修医をするのと同じように、弁護士も3年くらいは見習い期間だと考えた方がよい。裁判官も10年間は判事補であって判事ではない。ヨーロッパの山岳ガイドは国家試験に受かった後、数年間はガイド補である。司法試験合格者の増加にともなって司法研修所の研修期間が短縮され、弁護士としての実務研修はほとんどなされていないのが実情である。困ったことだが、市民のほとんどは、「自分とは関係がない」と思っている。これも困ったことだ。
この地域でも、弁護士や司法書士の数がここ数年で急に増えた。苦労して弁護士や司法書士の資格をとっても、資格があるだけでは「食っていくこと」が困難な時代になりつつある。過疎地でも田舎でも、弁護士と司法書士の数が増えた結果、仕事のない弁護士がたくさんいる。田舎でも、弁護士と司法書士の仕事の取り合い状態があり、そこに、都会の弁護士が過剰な広告を利用して市場参入しているのが現実である。都会の弁護士は、都会での仕事が減ってきたので、過疎地で仕事を漁っている。そのような弁護士の報酬の額は非常に高い。すべて1回限りの顧客なので、「預かり金から高額な報酬を取ったら、後は野となれ山となれ」、「依頼者が不満を持っても、後の祭り」である。
かつて、「弁護士過疎地をどうするのか。弁護士が足りない。弁護士を増やせ」と声高に叫んでいたマスコミは沈黙するようになった。
弁護士が増えれば弁護士の仕事が増えるのであればよいが、現実には、弁護士の仕事は最近の不景気やクレサラ事件の減少により、減少傾向にある。当たり前のことだが、弁護士の数が増えても弁護士の仕事は増えない。
市民は「弁護士費用が高いから弁護士に依頼できないのだ」と言い、弁護士は、「ボランティアのような安い費用では食っていけない」と言う。
ヨーロッパのように、弁護士や司法を利用しやすい制度がなければ、弁護士の数が増えても弁護士の仕事は増えない。庶民から見れば、弁護士の数が増えても自分が依頼できなければ意味がない。また、弁護士に依頼する人が増えれば、紛争が増えて嫌だと考える人は、相変わらず多い。弁護士の数が増えれば、弁護士費用が安くなると考える人が多いが、建設業者の数が増えれば、家の建築コストが下がるだろうか。競争によって弁護士費用の額は若干下がるが、競争が激しくなっても高級車が50万円で変えないように、30万円の裁判費用が5万円になることはない。東京で弁護士費用60万円が50万円に下がったとしても、過疎地では従前から30万円程度で受任している。低利の住宅ローン制度や、地価の制限、住宅供給公社、所得格差の解消など、家の建築費を支払える状況がなければ、家がたくさん売れないように、弁護士の利用もそのような制度が必要である。現在、日本には、弁護士に依頼できるための低利のローン制度すらない。医療保険制度のように、弁護士を安い費用で利用しやすい制度がなければ、弁護士への依頼は増えない。
アメリカでも、ドイツでも司法試験合格者のうち法曹になるのは一部であり、多くの者は企業や役所に就職している。日本でもそれが必要だろう。しかし、企業や役所に就職するのであれば、大学の法学部を出ていれば十分であり、わざわざ法科大学院を出る必要はない。そのため、ヨーロッパの国々には法科大学院はなく、法学部卒で法曹資格を得た後に就職する。もっとも、オランダでは警察署長は法曹資格を持つ公務員という位置づけがなされており、このように法曹資格のあることが企業や役所で役に立つ状況がなければ、法曹資格は意味をなさない。
私は公務員をしながら司法試験を受けていた。その前は、週6日間、学習塾の講師をしていた(日曜日は山に登っていた)。私は大学卒業後、仕事をしながら司法試験を受けていた。現在は、法科大学院に行かなければ受験資格がなく、法科大学院を働きながら卒業するのは無理である。法科大学院の学費も高い(私が学生当時、大学の学費は年間5万円だった)。結局、法科大学院ができてからは、私のように社会人が働きながら司法試験を受けることができなくなった。私が司法試験に受かった時、公務員としての貯蓄は50万円程度しかなかった。私には法科大学院に行くだけの貯蓄がなかったし、親の援助(父親はその数年前に亡くなっていた)も期待できない。当時、もし、法科大学院制度があったとすれば、私は資力がないために、法科大学院に行くことは無理だっただろう。かつての司法試験は誰にでも門戸の開かれた公平な試験であり、能力と努力によって受かることが可能だった。司法試験が誰にでも開かれていたために競争率が高くなったのである。 しかし、現在は、資金と時間がなければ法科大学院に入ることができない。私のように働きながら司法試験を受けることができなくなった。入り口で制限を受ければ、司法試験の競争率が下がるのは当然だろう。
法曹の人気が高ければ、どのような制度にしても激しい競争が生じる。所詮、競争の程度問題にすぎない。法科大学院の定員を増やせば、司法試験の合格率が下がるのは当たり前である。
どんな資格でも、有資格者を濫増すれば、有資格者を使う経営者側は使いやすくなる。日本では、どの資格でもだいたいそんな傾向がある。建築士の有資格者は非常に多いので、建築士は企業に従属し、企業の不正を黙認する。脱税を咎める税理士事務所はつぶれる。医者の数を大幅増員し、医療保険制度を廃止すれば、月に10万円の給料でも雇ってほしいという医者が出現し、病院の経営者には都合がよい。しかし、そのような医者は、病院の給料では生活できないので、病院の患者の治療を早く切り上げて、アルバイトの時間を捻出するだろう。医療保険制度がなく、医師の競争が激しければ、開業医は診察料をタダにして患者を勧誘し、高額な手術費や検査料で儲けるようになるだろう。現在、「相談料無料」で客を勧誘して過払金請求で高額な報酬を得る弁護士がいるが、医療の世界でも、「診察料無料」の誇大広告で過剰検査、過剰手術をして利益を得ようとする医者が現れるだろう。
今のような弁護士の急増状態は、@悪徳弁護士の増加、A破産する弁護士の増加をもたらす。弁護士の仕事、つまり、サービスという商品は目に見えないので、弁護士は簡単に依頼者を騙すことができる。従来、庶民は弁護士に依頼することが少なかったので、司法との関わりがなかったが、今後は庶民は弁護士に騙されることによって、弁護士との関わりを持つようになるだろう。その時になってはじめて、事態の重大さに国民が気づき、倫理規定の強化や弁護士の研修を実施するが、過当競争によって生じるトラブルは過当競争がある限り、解消できない。タクシーの急増によるさまざまな弊害は、結局、減車政策をもたらしたのだった。開業医の数が一気に6倍に増えれば、不要な検査や手術が増えるだろう。破産する医者が増え、ある日突然、病院が閉鎖され、患者が放り出される。一度捕まえた患者を離さないために、医者はさまざまな病名をつけることになるだろう。弁護士についても、金の払える顧客に対し、付加価値の高い法的手段を選択させて、より多くの報酬を得ようとする。1年ですむ裁判を3年かけて3倍の報酬を得るなど。また、弁護士が顧客から預かった金の使い込みや、金を預かったまま破産することが多くなるだろう。預かり金は、裁判所が破産の費用に使い、顧客に返還されないことになる。ドイツでは毎年800人の弁護士が破産している。
弁護士の増加は、弁護士を利用しやすくする制度の拡充に合わせて、徐々に行うべきであって、それが健全な社会の良識である。急激な増加は、あまりにも弊害が大きい。
法科大学院は多額の税金を使うだけで、国民にとってメリットはない。国民から見れば、弁護士や裁判官が法科大学院卒か法学部卒かは、どちらでもよいことである。法科大学院に多額の税金を投入するくらいなら、不足の深刻な小児科医や産科医の増加に税金を使った方がよい。法科大学院は大学の人気回復のためのプロジェクトであり、大学のために作った制度である。法科大学院政策は失敗だった。世界の中で法科大学院があるのは、日本、アメリカ、カナダだけであり、他の国に法科大学院がないのは当然だろう。
法科大学院を廃止した方がよいが、既に作ってしまったものを廃止することも多くの支障を伴う。まるで作りかけた巨大ダムの後始末のようなものだ。政治の無策のひとつだろう。
法科大学院制度を維持するならば、法科大学院の定員を減らし、法科大学院卒業生の8割くらいが司法試験に合格できるような制度にすることである。その場合、法科大学院の入試にかなりの競争が生じるが、それは医学部の入試などと同じく仕方ない。フィンランドの教員養成課程の入試は10倍の競争率があるように(フインランドの高校入学・大学入学の競争を考慮した実質的な競争率から言えば、日本の旧司法試験並みと考えてよい)、どの国でも人気のある資格にはかなりの競争が生じることはやむを得ない。現在のように、入試の倍率が1倍以下の法科大学院があるようでは、競争原理が機能していない。
私は、法曹資格を得てもそのまま公務員としての仕事をしてもよいという気持ちもあったが、2年間司法研修所に入るためには、役所に休職制度がなく、いったん退職しなければならなかった。その役所は内部に法曹資格者が必要だという考えはなかった。そして、いったん、退職して役所に復帰するためには、また公務員の採用試験を受けなければならない。役所はそこまでしなければならないほどの魅力のある仕事でもなかった。役所にもっと魅力のある仕事があり、2年間休職できる制度があれば、公務員にとどまったのだが、現実はそうではなかった。
2010年7月2日
弁護士会の会報に「人間の主体性について・・・弁護士の雑感」を書く。例によって、例のごとく、堅苦しいテーマを、ちょっと知的で、ちょっと面白そうな内容にして、テキトーに書いた。
2010年5月2〜3日
乗鞍岳、御嶽山・山スキー
乗鞍岳、御嶽山で山スキーをする。メンバーは、広島山岳会、プラス、高校の同級生。いずれも、山頂まで何時間か歩き、山頂からスキーで滑降するという日帰り登山である。乗鞍岳の山頂は強風が吹き荒れ、けっこう寒かった。最近はあまり山に登っておらず、「寒い場所は今年初めて」というありさまなので、調子がイマイチだったのは当然だろう。3000メートルのピークを2つ踏んでも、「まあ、こんなもの」という程度の感想である。滑降はそれなりに楽しめた。
乗鞍岳山頂
2010年4月25日
日本山岳サーチ・アンド・レスキュー研究機構理事会、及び、総会(神戸市)
今年度、山岳事故の第三者調査法、登山倫理、事故マップ、登山教育の実態調査などを研究、実施することが確認された。
2010年4月24日
村上春樹の「1Q84」を読む。全体的にサスペンス的であり、これは本を売るためのある種のテクニックなのだろう。ストーリーの展開に不自然さと無理があるが、サスペンス小説ではないと割り切れば、我慢できないこともない。この種の小説は思想を描くことに意味があり、ストーリーは二の次である。ストーリーは思想の道具でしかないのだろう。ストーリーは不自然、ゲーム的でつまらない。まあ、フィクションだから何でも話を作ることが可能と言ってしまえば、それまでだが。
村上春樹の描く世界は、存在の根拠の稀薄さ、現実の非現実性、不確実性の世界とそれらに対する人間の不安である。「私が私の実体であることをどのように証明すればいいのだろう?」 現代社会に生きることは、そのような不確実性な虚像に翻弄されることを避けられないようである。現実の非現実性は、オウム事件や少年の凶悪事件、大量殺人事件などの加害者たちも同様に感じているのではないか。自分の起こした重大事件が、現実のものとは思えない感覚。夢の中の出来事のような感覚。「すべては夢の中の出来事のように思えます」 離人症は現代特有の症状である。このような不確実性や不安がなぜ生じるのかという点に興味がある。
「海辺のカフカ」も、基本的には同じモチーフの作品であり、作品中に、現実や実在を確信できないあやふやな「生」が充満している。現代社会ではこれに共感する人は多いのだろう。これらはすべて人間の意識の産物であり、人間の脳の中で展開される物語である。
これに対し、登山の世界は、確実性と実像の世界である。登山の世界では、頭で考えることではなく、手、足、皮膚で感じ、身体で実体験することがすべてである。登山では人間の意識が生物的な身体活動に宿ることを実感する。自然の中ではすべてが安定した微妙なバランスのうえに成り立っていることを感じる。人間も自然の一部なので、微妙なバランスと安定感の上に生存しているが、このバランスが少しでも狂うと、不安、神経症、うつ病、精神疾患、人格異常などが生じる。今の社会は、このようなバランスが崩れやすい。人間は、生まれた直後から、親子関係というフロイトが述べるような不安要因にさらされ、学校、就職、企業、結婚などでそれらの不安要因が積み重なる。
カフカもそうだが、村上春樹の世界は都会が前提である。村上春樹は、しばしば「森」を舞台として取り上げるが、それは自然的な意味の森ではなく、都会の中の森、人間の頭の中の森である。この点で、「森ガール」が、自然的な意味の森ではなく、都会の中のオアシスとしての「森」をイメージしている点と共通性がある。現代の人工的な文化は余りにも頭でっかちになりすぎたのではないか。村上春樹は、小説家は問題を提起するだけで、問題を解決しないと言うが、村上春樹の小説を読んでも問題は解決されない。混沌とした世界に対する警鐘を鳴らすだけである。実感できるもの、経験に基づいた生活の積み重ねが、この種の不確実性に対する回答になるのではないか。
この本の思想や問題提起はともかく、ストーリー自体は退屈でまったく興味が湧かなかったので、けっこう苦痛を感じながら最後まで読んだ。ゲーム的なストーリーに興味の持てる人は一気に読み通すことができるだろう。
2010年4月17日
「風の谷」パーティーの遭難事故
岳人755号に「風の谷」パーティーの遭難事故に関する記事が載っている。これは、今年の正月に山岳ガイドの山田哲也氏が主催するガイド登山(客は6名)で、北アルプスの黒部五郎岳を目指したが、大雪のために行動が困難となり、ヘリで救助された事件である。予備日を1日超過したが全員無事だった。
この事件について、登山としてはいろいろな問題点が指摘されるかもしれないが、法的な観点から見れば問題はない。そもそも死傷者が出ていないので、損害が発生していない。1日の下山の遅れがあるが、それがガイドのミスに基づくものだったとしても、客は冬山ではこの程度のことは予想・覚悟すべきであり、損害賠償責任は生じない。
県警ヘリの要請が安易だったのではないかという批判があるようだが、法的には、仮にそのような問題があったとしても(その点の事実関係は不明)、違法ではない(仮病を使ってヘリを要請するような場合は違法であり、県に対し損害賠償責任を負う)。仮に、ヘリを要請しなかったために客が凍傷などを負ったとしても、冬山での凍傷はある程度は予想すべき部分があるので、通常は、ガイドに責任は生じない。ガイドに責任が生じるとすれば、客が凍傷にかかったのをガイドが知りながら、それでもヘリを呼ばず(天気がよくヘリが出動可能な場合)、ガイドが最後まで頑張って自力下山することにこだわったために、凍傷への対応が遅れ客が手足を切断したような場合である。ガイドが、客の凍傷を知った時点で、適切に対処すべき注意義務を負い、それを怠ったとして法的責任を負うことになる。
ガイドは、「登山としては失敗」と述べているが、法的には損害が発生する前にヘリを要請し、損害を未然に防止したので、賢明な判断だったと思われる。メデタシ。
2010年4月11日
広島山岳会総会
2010年4月1日
高校野球、広陵高校の敗退と「腹切り」談話
高校野球を見ながら考えた。
広島県代表の広陵高校が準決勝で負けたのは、ぬかるんだグラウンドがかなり影響したようで、選手には気の毒だった。しかし、高校野球のルールを決めた以上、主催者が試合の中断、中止を決めない以上、どんなに悪条件でも、負けは負けである。どんな試合でも運、不運があり、スポーツはそういうものである。
それに関連して、島根県の開星高校の野球部督の「末代までの恥」、「腹切り」談話が思い出される。どんなに強いチームでも負けることがあり、高校野球は所詮、運、不運の面がある。誰もが、この監督をバカな監督だと思うだろうが、問題はその発言に対する社会のパッシングである。バカな監督ではあるが、マスコミが大々的に報道するような事件ではない。笑ってすむようなドーデモヨイことなのだが、それを大事件にし、許さないのが日本の社会である。日本の社会は厳しいですね。寛容さがない。相手チームはこの発言に怒るのが当然だが、それ以外の人たちは自分とは関係のないことなのだから、「変な監督だ」くらいの笑い話ですませてよいと思うのだが。監督が辞任するという点もいかにも日本的である。
21世紀枠出場
21世紀枠での出場については、民主的公平性に反する。オマケで出場するのだからメデタイではないかという意見もあろうが、21世紀枠がなければ、地区予選の上位校が何校か出場できるはずのところを、21世紀枠という曖昧模糊とした基準で恣意的に出場校が選出される結果、本来選出されたであろう学校が選出されない結果となるのである。
進学校のチームや離島や僻地のチームは21世紀枠に入りやすいようであるが、野球は教育の一環であり学力も重要というのであれば、選手に学力試験を実施することが公平ではないのか。離島や僻地のチームを優遇するのであれば、その根拠と基準が議論されなければならない。ドイツ人であれば、必ずこのような議論をするのではなかろうか。「日本はドイツではないのだから、ものごとは曖昧でよいのだ」と言ってしまえばそれまでだが。オリンピックの代表選考などでも、日本のスポーツ界には常に不明朗さがつきまとう。オマケの選出はルールを無意味にする面があり、大学の裏口入学とか、学長推薦による入学などと同じく、公平とは言えない。
2010年3月21日
氷ノ山・山スキー
兵庫県と鳥取県の県境にある氷ノ山で山スキーをした。
この日は裏日本は大荒れという天気予報だったが、参加者の休暇の都合でこの日の実施となった。気温が低いために雪はすべて氷化しており、氷ノ山は「氷の山」になっていた。スキーよりも、スケート靴の方が似合いそうだった。
午前中は曇りで、下の写真のようにマアマアの天候だったが、午後になると吹雪と強風になり、視界がきかなくなった。地図とGPSで方角を確認しながら下山する。こういう時の氷ノ山はルート迷い遭難が起きやすい。他の登山者はいなかった(こういう悪天候で登山する者がいないのは当然だろう)。
もし、遭難すれば、「中高年グループ、大荒れの氷ノ山で遭難。山を甘く見た無謀登山か」などと大きく書かれるのだろう。
午後4時下山。帰路では、来る時には雪のなかった道路にシャーベット状の雪が積もっていた。
2010年3月10日
蟻が像を倒した日
日弁連会長選挙の再投票で、宇都宮候補が当選し、次期会長になることが決まった。これは、派閥支配による従来の日弁連執行部に対する批判的な弁護士が多かったということの結果である。宇都宮さんは大学の先輩であり、私は学生の頃、いろいろとお世話になった。
従来の日弁連執行部は、司法改革をかかげ弁護士の増員政策をとったが、基本的に、従来の日弁連の執行部には、大企業、経済界、政治家、資産家、大学などの意向が強く反映していた。弁護士が依頼者から金をもらうことによって成り立つ業種なので、資力のある者や社会的、経済的な力のある者が弁護士の主たる依頼者層になる。日本の政治経済を動かしているのは、東京を中心とする大都市の大企業、経済界、政治家、資産家、大学などであり、弁護士はその影響を強く受ける。社会的に力の大きい者の影響を強く受ける点ではマスコミ(企業の広告がマスコミの主な収入源である)も、弁護士も同じである。選挙中に、巨大法律事務所や派閥、経済界の意向にそった会長を選ぶべきだと率直に述べた日弁連元幹部もいる。
今の社会では、競争力のある企業、能力があり社会的に成功した人、親の資産を相続した資産家などが、「勝ち組」とされ、弁護士の主たる収入源はこのような人たちが支払う弁護士費用から成り立つ。日弁連の執行部を構成する弁護士の多くは、安定した顧客層を持ち、経済的に安定した弁護士である(そうでなければ、収入にまったくつながらない弁護士会の会務をできない)。
これに対し、宇都宮候補を支持した弁護士の多くは、消費者事件など庶民の日常的な事件を扱う弁護士であり、今の社会の中で比較的恵まれない立場にある市民の事件を多く扱っている。むろん、地方でも「勝ち組」は弁護士の主たる収入源であるが、東京の経済力と較べれば雲泥の差がある。地方でも弁護士の主たる収入源が「勝ち組」であることに変わりはないが、多くの弁護士はそうではない一般の市民の事件を多く扱っている。
今の社会では特別な才能がある人、特別に努力した人、資産のある者、運のよかった者などが「成功者」「勝ち組」になるのだが、競争は必ず勝者と敗者を生む。「頑張った者が報われる社会」に反対はしないが、敗者はのたれ死にしてよいということにはならない。たとえ、敗者であっても健康で文化的な生活は必要である。社会的に成功する人は国民の一部であり、多くの市民は「弁護士に依頼するような経済的余裕がない」のが現実である。そのような一般の庶民の抱える紛争に関する限り、「弁護士の数が増えれば、司法が利用しやすくなる」という従来の日弁連の発想は空虚である。むしろ、弁護士に依頼しにくい状況のもとで、弁護士の数だけが増えれば、消費者が弁護士の利益争奪戦の犠牲になるなどの弊害が生じている。増加した若手弁護士を中心とする弁護士層が、従来の執行部の路線では司法の抱える問題を解決できないと感じたことが、今回の選挙の結果となった。
2010年2月27日
トムラウシ遭難事故に関するシンポジウムが神戸市で開催された。日本山岳サーチアンドレスキュ研究機構主催。出席者は約300人。
情報管理の研究者、医師、ガイド協会役員、旅行業者、雑誌記者、気象の専門家などの報告に基づいて、討論が行われた。私も、「トムラウシ遭難事故の法律問題」というテーマで報告を行った。
限られた時間の中で密度の濃い議論が行われたのではないかと思っている。
2010年2月20日
山と渓谷4月号の「トムラウシ・オピニオン」というコーナーに、「問われるツアー登山のあり方」というタイトルの文章を書いた。
ツアー登山は、ハイキング的な登山にとどめるべきで、自重することが大切だという趣旨の意見である。トムラウシの事故以来、この点を何度も述べているが、なかなか登山家に理解してもらえない。その大きな理由は、「ツアー登山は登山である」という意識が強いために、「登山はこうあるべきである」という発想に縛られる登山者が多いからである。そのような発想からは、ツアー登山を本来の登山の姿に近づけようとする意見が生まれるが、両者の間のギャップを埋めることはほとんど不可能である。それは、ツアー登山の顧客層の志向と登山家の志向がまったく異なるからである。
私は、「ツアー登山は、パック旅行、ハイキング、レジャーと同類の商品であり、通常の登山ではない」と考えている。「ツアー登山は旅行であって登山ではない」と言うこともできる。ツアー登山は旅行であるから、登山の領域に進出すべきではない。もし、登山の領域に進出するのであれば、旅行の形式ではなく、登山にふさわしい形式をとるべきであり、それはガイド登山、山岳会などでの登山、単独登山などの形態である。古典的なガイド登山は、個々の客の能力や山域に応じて個別的に登山内容をアレンジする。古典的なガイド登山は客が決まった後に登山内容をアレンジするが、ツアー登山はあらかじめ登山内容をアレンジしたうえで、客を募集するという違いがある。ガイド登山は登山内容を客に合わせるが、ツアー登山は客を登山内容に合わせようとするので、無理が生じる。
ツアー登山を「あるべき登山の姿」に近づけようという努力は、永遠に不可能な課題を追及するむなしい試みである。パック旅行の延長として、「気軽に連れて行ってもらいたい」と考えているツアー登山の参加者に、「あるべき登山の姿」や「自立した登山者」を説いたところで、馬の耳に念仏だろう。そうではなく、ツアー登山では一定レベル以上の危険なことはしないという制限を課すことが、安全なツアー登山のために必要なのである。それ以上のレベルの登山をしたい人は、それに応じた形態の登山(ガイド登山、山岳会などでの登山、単独登山)をすることが賢明である。
2010年2月10日〜16日
エコツアーの研修会の講師をしに小笠原島に行った。財団法人日本交通公社の主催で(国の補助金事業)、エコツアーの法律問題について、父島と母島の2箇所で講演をした。ついでに2箇所でエコツアーを体験した。エコツアーは、小笠原固有の動植物など自然の解説を受けながら、ハイキングを行うといったものである。父島と母島のエコツアーのコ−スを2つ実際に歩き、法的な観点から問題点がないかを尋ねられた。私の回答は「問題なし」。エコツアーの関係者はコースがそれほど整備されていないことを気にしていたようだが、コースは通常の登山道のレベルであり、危険と言えば危険だが、所詮登山はそういうものである。登山道をすべてコンクリートで固めればエコツアーにならないだろう。
夜、地元の観光協会や役所の人たちの暖かいもてなしを受けた。ありがとうございました。
小笠原の未来はどうあるべきかという熱い議論がなされ、私も無責任な意見をいろいろ言ったが、酔っていたので内容は忘れた。本へのサインを求められ、酔っていたので、自分の名前を書き間違えるという失態も。
行き帰りとも、トキオの山口、城島が出演する鉄腕ダッシュ村の撮影スタッフと一緒だった。山口は、フェリー乗り場でふざけて赤ん坊をからかって泣かせ、面白がっていた。どこにでもいるような元気なフツーの若者であり、親近感が湧いた。城島が船の甲板に何度も出てタバコを吸っている様子は、その辺のオッサンとあまり変わりなく、これまた親近感が湧いたのだった。
帰りに船が出航する時は、10艘くらいの船が見送りをし、最後は島の人たちが海に飛び込んで、海の中で手を振るという恒例の見送りがあった。良い経験ができました・・・・
2010年2月6日
弁護士と司法書士の暴利行為について
現在、過払金請求をめぐり、25%から40%といった高額な報酬をとる弁護士、司法書士、行政書士が問題になっている。これは弁護士や司法書士の急増が背景にある???
弁護士や司法書士の数が急激に増えても、日本には市民が簡単に弁護士に依頼できる制度がないので、多くの市民は弁護士に依頼しない。日本で弁護士に依頼する人は、ある程度以上の規模の企業、資産家、多重債務者、離婚、交通事故、医療事故などに遭遇した運の悪い人に限られる。医療事故で弁護士に依頼する人は、日本全体でせいぜい年間数千人程度である。交通事故に遭っても、そのほとんどは保険で処理されるので、弁護士を必要としない。
日本では、一生の間に弁護士に依頼することのない人が圧倒的に多い。日本では、日常的に法的紛争が生じても、医者を利用するように気軽に弁護士に依頼できるわけではない。したがって、弁護士の数が急増すると、経済的に困窮する弁護士が増える。法律事務所は収入が0でも、家賃や事務員の給料、リース代、書籍費などがかかり、事務所を維持するためにかなりの固定経費がかかる。弁護士の数が増えても日本全体の事件が増えているわけではなく、事務所を維持するために、同じ事件数からより多くの報酬が発生しなければ、食っていけない弁護士が生まれる。「金の取れる時にできるだけ金をとっておく」という傾向が生まれる。このような弁護士は、採算のとれない刑事事件や法律扶助事件、無償奉仕活動はできない。誤解する人が多いが、自分が生活できるだけの収入がなければ、人権活動をすることは難しいのが真実である。日本のマスコミには自己犠牲を美徳とする風潮があるが(かつて、大手A新聞は、「余裕があるから人権活動をする、というのはおかしい」とのたまったことがある・・・・)、自己犠牲では健全な市民社会は作れない。自分の命を犠牲にして生徒を助けた教師は美談でも何でもなく(「聖職の碑」など)、それは重大な失敗箪として後世に伝えられるべきである。弁護士が経済的に採算のとれない事件や無報酬の活動をするためには、事務所を維持し、自分が食っていけるだけの最低限の収入のあることが必要になる。
現在、過払金請求事件では簡単に利益が得られるので、弁護士と司法書士の間で事件の獲得競争が生じている。弁護士や司法書士の数が増えても報酬額は安くならない。これは、不動産業者の数が増えても仲介手数料が安くならないのと同じである。競争の激しい不動産業界では、客の勧誘のための宣伝が激化し、勧誘のためのサービスはようなるが、手数料の額は高いままである。宣伝費用等は手数料に転化する。業者の経営が不安定になると、業者は採算のとれない物件を扱わなくなり、少ない取引で多くの利益を得ようとする。弁護士の数の多いアメリカでは弁護士の競争が激しく、3〜5割の報酬をとる。アメリカでは訴額50万円以下の事件を弁護士は扱わない。
「弁護士の数が増えれば、競争により、弁護士の報酬が安くなるのでは?」と素朴に考える人がいるが、そうではない。競争によって価格が下がるためには、医療保険のように、誰でも弁護士を利用できる制度のあることが前提になる。日本の司法には一般的な費用の分割払制度がない。
医療保険のない時代には、限られた階層の人しか医者を利用できず、医者の数がどんなに増えても医療費の額は非常に高額なままだった。現在、医療に関しては、医療保険によって、誰でも医者を利用できるようになると同時に価格も統一されているので、低価格をめぐる競争は生じない。このような制度は司法にも必要であり、それがなければ、弁護士に依頼することのない一般の庶民にとって弁護士の数は関係がない。
司法を誰もが負担可能な費用で利用できる制度が必要である。それがなければ、弁護士の数が増えても、庶民にはあまり関係がない事柄でしかない。
2010年2月1日
この地域の弁護士が1人増えて、計4人になった。
この地域は、日弁連や広島弁護士会からは弁護士過疎地と呼ばれているが、従来、弁護士2人体制の時でも、私は個人的には、弁護士が足りないと感じたことはない。あるテレビ局から取材を受けた時、「この地域では、弁護士が足りないために、どのような不都合があるのでしょうか」という質問を受けた。私は、「今まで弁護士が足りないと感じたことはない。弁護士の数が少ないために、弁護士が困るということはない。不便を感じているかどうかは、市民の側に聞いてみなければならないのではないか」と返答した。「弁護士が足りないはずだ」と言われても、「???」である。
一般に、弁護士過疎を問題にする弁護士、マスコミ関係者、学者、財界人たちは都会のコンクリートの中で生活し、統計数字を見て過疎地では弁護士が足りないと考える。しかし、弁護士が足りないかどうかは、過疎地に住む人たちが考えることである。私が過疎地で10年以上の経験したことからすれば、私は依頼のある事件をすべて受任してきたので(勝訴の見込みのない事件を除く)、私自身は弁護士過疎を感じていない。市民から弁護士が足りないという意見はほとんど出ず、むしろ、司法に対する関心のなさが目立つ。私が、事件を引き受けるつもりでも、弁護士費用を用意できないために弁護士に依頼しないケースが多かった。多少金のある市民は遠方の都会の弁護士に依頼するケースが多く、彼らは物理的距離を金銭で克服できる。訴額の大きな事件では、依頼者が金さえ払えば、東京の弁護士でも広島市や三次市まで来て事件を処理している。
そうすると、これは弁護士の数の問題ではなく、弁護士に依頼しやすい制度がないことが問題なのである。ここでいう弁護士費用は、10万円、20万円のレベルの金額である。この地域では10万円、20万円を用意できない市民が多いと言うと、都会の弁護士は、「そうなんですか」、「先生もたいへんですね」などと言って面白がる。彼らは冗談だと思うのかもしれない。5000円という相談料の金額は、それだけで弁護士への相談をあきらめるに十分な金額である。「それなら、無料で相談をしてあげればいいじゃないか」という意見があり、実際に無料相談をすることは多いが、事務所を維持するために経費がかかるので、すべての相談を無料というわけにはいかない。実際には、1時間で5000円の事務所経費が必要になる。
弁護士過疎を問題にする弁護士、マスコミ関係者、学者、財界人たちは、弁護士過疎を唱える一方で、いつでも自分の財布の中に10万円くらいの金があるので、5000円の相談料を払えない人たちを理解できない。かれらは、従来、そのような人たちを相手にしてこなかったというのが実態だろう。夜のネオン街で、1万、2万の飲み代を払ったり、ゴルフで1日に2、3万円を使うのが当たり前の生をしてれいば、庶民の感覚は理解できない。
法律相談に法律扶助が適用されるようになり、所得の少ない人について無料相談が可能になったことは画期的なことだった。私は、これは法律扶助元年と呼んでよいくらい革命的なことだと考えている。実際に、以後、私の事務所では相談の8割が、法律扶助の無料相談になった。
その次の課題は法律扶助の償還免除制の導入と、法律扶助額と償還額の関連性の切断である。
法律扶助の償還免除制は、所得の少ない人には、法律扶助の償還金を免除するということ。過去に、法律扶助の償還金を払えず、破産する人がいた。
法律扶助額と償還額の関連性の切断は、法律扶助額は弁護士が事件処理に必要な金額とし(時間制で費用を算定することが望ましい)、依頼者の償還額はその人の所得に応じて償還可能な金額することである。現在は、法律扶助額=償還額という制度になっており、弁護士に支払う扶助額が増えると、それはすべて依頼者負担になるので、扶助額を増やせないようになっている。法テラスが報酬額を決める時に、依頼者の意見を聞き依頼者の合意を得て決定するが、それは法テラスが決定する報酬額がすべて依頼者の負担になるからである。事件終了後、依頼者が毎月5000円ずつ10年間、報酬を払い続けるような決定を法テラスがすることもある。現在の制度は、依頼者負担が原則になっており、依頼者の自己負担=自己責任を基調とする自由主義の考え方が基本にある。司法支援にいう支援は、自己責任論にこだわっていたのでは実現できない。
他方で、法律扶助の無料相談が可能になれば、多くの相談者が法律扶助登録法律事務所に流れ、また法律扶助事件が全体としての弁護士費用の相場を押し下げる作用をもたらすので、法律扶助の適用範囲の拡大を歓迎しない弁護士が少なくない。若い弁護士の多くは、法律扶助の適用範囲の拡大を歓迎するだろう。
司法制度の根本的な改革を恐れるのは、現在のシステムのもとで高額な報酬を得ている弁護士(法律扶助制度の拡充は現在の弁護士の報酬システムを根本的に変える)、巨大法律事務所、大企業(消費者が簡単に企業に対して製造物責任訴訟などを起こすことを恐れる)、法務省と財界(裁判官の増員、法律所予算の拡大などの予算規模を拡大したくない)などである。
現実には、どんなに弁護士の数が増えても弁護士費用を払えない市民は弁護士や司法書士に依頼できない(法律扶助を利用しても費用を負担することに変わりがない)。「弁護士が足りない」という宣伝は、「市民が司法を利用しにくいのは、弁護士の数がたりないからだ」という先入観を固定化する機能を持つ。弁護士の敷居が高いのは、弁護士に依頼しやすい制度がないからである。市民が弁護士に依頼しにくいのは、弁護士に依頼しやすい制度がないからであって、弁護士の数が少ないからではない。「弁護士に依頼しにくいのは、弁護士費用が高すぎるからである」という意見があるが、弁護士の数が多いアメリカでは弁護士費用の額は日本よりも高い。ヨーロッパでも、弁護士費用の額は、やはり、かなり高い。裁判に時間と労力がかかれば、ある程度の費用になることは、経済的な法則である。
弁護士の数がどんなに増えても、弁護士に依頼しやすい制度がなければ、弁護士に依頼できない。これは、過疎地で少しでも弁護士をしてみれば、すぐにわかることだが、都会のコンクリートの中で考えていたのでは、わからない。百聞は一見に如かず。
2010年1月4日
アマゾンに書評を2件掲載した。
「ヒューマンラーは裁けるか」、シドニ−・デッカー、芳賀茂 監訳、東京大学出版会
「死刑でいいです」、池谷孝司 編著、共同通信社