2010年1月4日
アマゾンに書評を2件掲載した。

「ヒューマンラーは裁けるか」、シドニ−・デッカー、芳賀茂 監訳、東京大学出版会

著者は研究者であると同時にパイロットでもある。著者は、ハイリスクの業務におけるヒューマンエラーによる事故について、裁判所が専門家の責任を追及することに反対し、「失敗をとがめないシステム」が必要であり、専門家のエラーについて、司法ではなく専門家の組織によって裁定するか、司法の介入を制限すべきだと主張する。その理由として、事故関係者が真実を報告しなくなり、事故原因の究明や安全対策のうえで司法が妨げになることなどを、航空機事故や医療事故の例をとりあげて述べている。
 裁判は人を「裁く場」であり、裁判で真実が明らかにならないことが多い。例えば、被告人が起訴事実を認めれば、それ以上事実の審理は行われず、量刑の資料として情状だけが審理される。アメリカでは司法取引があるが、日本にも類似の制度がある。刑事裁判でも民事裁判でも当事者主義を採用しており、裁判所が職権的にすべてを調査できるわけではない。裁判は制度的に真実を明らかにするためのシステムではない。また、安全対策の構築は行政の役割であって、裁判では無理である。一般に、裁判で真実を解明できると誤解する人が多く、また、裁判を通して事故の再発防止を願う被害者が多いが、裁判ではそれらは実現できない。事故の真相の調査のためには、裁判とは別に事故調査委員会が必要なことは、その通りである。
 しかし、このことが、著者の主張のように司法の排除や関係者の免責を意味することになると問題が生じる。もともと刑事裁判は被害者の加害者に対する「個人的な報復」を国家が代替するものであり、被害者の処罰感情を満たすことが正義に適うという応報的な側面がある。著者は、「前向きの説明責任」を重視し、被害者の処罰感情を考慮しない。この本には被害者に関する論述がほとんどない。しかし、事故に関して刑事責任を追及することは、著者のいう「公正」とは別の「正義」の一部である。民事上の損害賠償も、責任の究明、補償、損害の公平な分担という意味で正義の一部である。ハイリスクの事故に対する司法の介入を制限する著者の考え方は、法の支配や三権分立に基づく近代国家の否定につながりそうである。
 著者は、ハイリスクの業務の事故について、システムや組織が大きく関係することを指摘し、一部の人間だけを処罰することの問題性を指摘する。確かに、組織が関係した事故では末端の者だけが責任を問われるケースがしばしばあるが、システムに起因する事故といえども、システムを作り最終判断をするのは人間であり、それに対し責任を負うべき人間の責任を問うことは「正義」に適っていると多くの人が考える。問題は、司法の介入を抑制するかどうかではなく、本当に責任を負うべき人間が責任を負っているのかという点にある。
 著者の指摘する問題点の根底に、司法が認定する過失の内容や司法のシステムに対する医師やパイロットの不信感があると思われる。人間の行動にヒューマンエラーは常に存在するので、法律を形式的に当てはめれば、事故が起きれば常に人間の行動のどこかに過失を認定することが可能である。被害者や世論は、「事故=誰かに責任がある」と考え、世論が司法をあと押しする。しかし、医療や航空輸送などはもともとリスクを伴う業務であり、さらに過密な業務実態やずさんなシステムのもとで、著者が指摘するようにいつ事故が起きてもおかしくない実態がある。しかし、司法は過失を画一的に形式的に考え、ハイリスクの業務実態を理解せず、業務実態が過失の認定に反映しない傾向があり、医師やパイロットが業務に従事することを困難にする。このようなケースでは過失を認定したうえで執行猶予付の刑や罰金などの軽い刑にすることが多いが、これはハイリスク業務の正しい法的評価とは言えない。ハイリスクの業務に従事する者については、過失の範囲を限定して解釈すべきである。欧米では、ほとんどの航空機事故の関係者が処罰されないが、これは免責するからではなく、責任の認定の仕方を柔軟に行なっているからである。過失の内容及び認定の仕方を合理的なものにすることは、免責することとは異なる。また、著者が事例として引用する形式犯や未遂犯、軽微な事故など、処罰の範囲が広過ぎると萎縮効果をもたらすが、これは処罰の範囲の合理性の問題である。著者は、これらの問題を正面から検討するのではなく、もっぱら司法の排除を主張する。
 現在では、建設機械のオペレーター、建築技師、電気工事士、建築士、山岳ガイド、ダイビングのインストラクター、教師、保母、船員、電車の運転士、猟師、スポーツ選手、警察官、消防士など、多くの事故に専門家が関係している。著者のいう専門家はもっと限定されているようであるが、パイロットと建設機械のオペレーターを区別して扱うことは困難である。また、法的責任の追及が真相究明の妨げになることは、すべての事故や犯罪に当てはまるのであり、専門家だけの問題ではない。汚職事件の関係者を免責すれば、真実を話すだろう。司法による正義の実現と真相究明は困難な課題である。
 アメリカには業務上過失致死傷を処罰しない州が多いようだが、日本でヒューマンエラーを処罰しないこと、例えば自動車事故などの過失犯を処罰しない扱いをすることはかなり困難だろう。著者が述べるように、「失敗をとがめないシステム」のもとで真相究明をしやすいことは明らかであるが、日本においては、それでは「正義」に反すると人々は考えるだろう。ヒューマンエラーを処罰しないことが可能かどうかは、その国の文化が大きく関係している。ヒューマンエラーをすべて免責してよいという文化があれば、それは可能だが、日本では無理だろう。
 著者の言う「公正」は原題名のjust cultureで表現されているが、justは「正義の」という意味がある。著者のいうjustが司法(justice)の扱う「正義」と異なるので、本書で「公正」と訳したものと思われる。著者は、事故の責任の解明よりも事故の再発の防止という利益を重視することが「公正」だと考えているが、それは一種の功利主義の正義観である。理屈で考えれば「前向きの正義」の方が生産的であり、被害者の応報感情のような「後ろ向きの正義」は何も新しいものを生み出さず、合理的ではない。人間は理屈のうえでは意味のないことにこだわり続ける不条理な存在であり、無意味な応報感情も正義の重要な内容の一部である。正義とは何かは、人間とは何かに通じる難問である。ロールズは、正義の観念の根底には公正(fairness)があると述べるが、医師やパイロットなどの社会的地位の高い専門家だけを特別扱いすることはフェアとは言えないだろう。また、正義の観念の中に手続的公正があり、エラーを第三者が公正に判定しようとした結果が司法権になった。尼崎のJR事故の事故調査委員会に見られるように、司法以外の専門家の第三者調査機関の公正さを担保するには困難が伴うことが多い。
 この本では多くの事例が取り上げられ、わかりやすく書かれているが、事例の取り上げ方は恣意的である。この本は最初から最後までほぼ同じ趣旨のことが書いてあり、冗長な印象がある一方でバランスの悪さと偏りを最初から最後まで感じる。
 本書は、専門家が組織の一員として関係するハイリスクの事故に関して多くの問題があることを指摘しており、考えさせられる内容である

  ちょうど、山岳ガイドの事故の責任を考えている時だったので、つい熱が入ってしまったが、こんな長い書評を読む人はいないだろう。


「死刑でいいです」、池谷孝司 編著、共同通信社
第1に、母親を殺害し数年後に2人を殺害した加害者の経歴や行動を知るうえで、犯罪に関心を持つ人にとって有用である。よく取材してあり、感心した。

第2に、発達障害についていろいろと書いてあり、「発達障害を持つ大人の会」の活動の紹介もあり、発達障害の認識を広めることができると思われる。

第3に、この本は広汎性発達障害に過剰に反応し過ぎている。
 加害者は、広汎性発達障害なのか、人格障害なのか、専門家の意見が分かれており、裁判での鑑定では人格障害だと判断されている。したがって、加害者が広汎性発達障害だとの断定はできないし、鑑定意見に従って「人格障害」と考えておくべきだろう。
 しかし、この本では広汎性発達障害に関する論述が非常に多く、本来、「仮定」の議論のはずなのに、加害者が広汎性発達障害と関係がありそうな印象を与えてしまう。加害者が広汎性発達障害ではないとすれば、広汎性発達障害に関する記述はこの事件とは関係がないことになる。広汎性発達障害に関する認識を広める目的であれば、わざわざ凶悪事件と結びつけて書くべきではない。
 もともと広汎性発達障害は犯罪とは関係ないのであり、ほとんどの人は事件を起こすことなく生活している。加害者が広汎性発達障害だと断定されていないのに、凶悪事件に関して広汎性発達障害について述べることは、「発達障害が事件と関係がありそうだ」という間違った印象を読者に与えるだろう。
 仮に、鑑定書が述べるように加害者が人格障害者だとすれば、発達障害に関する記述は、いったい何のために書いてあるのか。

第4に、この事件を防止するにはどうすればよかったのか。
 著者は、「精神面で障害のある人を孤立させてはいけない」と述べるが、これは発達障害の場合のことであって、人格障害に関してはほとんど研究がなされておらず、「お手上げ」というのが現状だろう。ほとんどの重大事件の加害者が社会から孤立しているのであり、「孤立」は障害者特有の問題ではない。著者は「発達障害があれば、孤立しやすい」と述べるが、発達障害があってもなくても、孤立しやすい人間は孤立する。人格障害者は孤立しやすい(と言うよりも、孤立しやすい人間を人格障害と定義づけている)。日本やアメリカで人格障害者が増えている。発達障害者は「それ以外の人間」よりも孤立しやすいのではないかと考えたとしても、「それ以外の人間」の中に人格障害者が多数含まれ、アメリカでは人口の15パーセントに人格障害があるという見解があるくらいなので、どちらがより孤立しやすいかわからないだろう。
 また、「発達障害のあること」が孤立を招くのではなく、「日本の社会が人間を孤立させやすい」ことが障害者の孤立を招くのではないのか。ユニセフの2007年の調査では、日本の子供の中で孤独を感じる者の割がは29.8パーセントであり、先進24か国中最低だった。オランダは2.9パーセントである。他人と違った人間を受け入れにくい社会だから孤立しやすいのであって、「発達障害」だから孤立しやすいのではない。秋葉原の大量殺傷事件の加害者も社会から孤立していたが、今後、「○○障害」というレッテルが貼られるかもしれない。しかし、それは犯罪の原因ではなく、「○○障害」にとらわれる考え方では、この種の事件を防止することはできないだろう。
 犯罪は多様な要因から起きるのであり、発達障害や人格障害が犯罪の原因ではない。加害者のあまりにも劣悪な生育環境や人間関係のもとでは、偏った人格が形成され、些細な理由から事件が起きてもはおかしくない。凶悪事件の加害者の多くが偏った生育環境で育っている。一見、「普通の子供」に見られる者が起こす凶悪事件についても、その生育過程を子細に見れば、相当に偏った生育環境がある。障害の有無は人格形成過程のひとつの事情でしかなく、障害について事件との関係でことさらに大きく取り上げても意味がない。かつてのブータンにはほとんど犯罪がなく、まして子供の凶悪事件は考えられない。発達障害者はブータンにも一定比率で存在するはずだから、発達障害の有無は犯罪とは関係ないことがわかる。人格障害者はアメリカに多く、ブータンに少ないのは、人格障害が生物的な原因によるものではなく、環境の産物だからである。
 この事件を防止するために必要なことは、加害者のようなあまりにも劣悪な生育環境をなくすることと、犯罪の更生のシステムを確立することに尽きる。犯罪更生のシステムは対象者の個性に応じてプログラムを考えるべきであり、障害があればそれに応じて検討されるべきである。しかし、そこでは、障害は、人格や性格、趣向、癖、家族関係などと同じく、対象者の属性の一部に過ぎない。障害がなくても、例えば、「他人の影響を受けやすい」という個性の持主については、それに応じた慎重な更生プログラムや援助が必要であり、日本にそれが欠如していることが大きな問題なのである。人間の多くの属性の中で障害だけをことさらに大きく取り上げるのは、「障害が事件と関係がありそうだ」という思い込みがあると言われても仕方がない。
 この事件は母親を殺した点で加害者の異常性が強調されやすいが、日本では親子間の殺傷事件は多く、親子間の殺人未遂事件や傷害事件のほとんどはマスコミ報道されない。また、複数の被害者の殺傷事件も日本では珍しくない。犯行の動機が解明できていない点が問題とされるが、そもそも、加害者の動機や感情が「わかる」ことができるのかということを再検討する必要がある。他人の動機や感情が「わかる」とは共感性であるが、ひとりひとり人間は異なるので、他人の行動をすべて理解できるとは限らない。異常な人間が増えれば、理解不能な行動も増える。
 一般に、凶悪事件の動機を「理解」できれば、人々は安心し、理解できなければ社会不安を招く。「人を殺してみたかった」、「誰でもよかった」という事件では、加害者に「○○障害」というレッテルが付くと人々は安心する。ブータンで犯罪が少ないこととの対比で考えれば、事件を「加害者の異常性」や「障害」(人格障害や行為障害を含む)に解消させて安心するのではなく、この種の事件が珍しくない日本の社会の異常性にもっと不安を感じる必要がある。犯罪の防止のためには、個人の障害や人格のレベルを超えて、社会、政治、経済、教育、文化、思想など、より大きな視点から考える必要がある。

 著者は以前共同通信の広島支局に勤務していた人であり、何度か会ったことがあるが、「明け方近くまで飲み歩く人」という印象しかない。

                                     
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