法科大学院志願者数・入学者数の激減と法科大学院の人気凋落
(2016年)


 
                              弁護士 溝手康史

 2016年の、法科大学院の志願者数が8274人であり、1万人以下になった。法科大学院入学者の総数は、計1857人である。これらは、いずれも、過去最低を更新した。これは、市場での競争の結果である。数字からいえば、この状況は絶望的である。ほとんどの法科大学院で、入学者数が定員を下回っている。このままでは法科大学院制度を維持することができないが、かといって制度をすぐに廃止することもできない。困ったものだ・・・・・・ヘンな制度を作ると、こうなる。

 現在、優秀な人は予備試験を受けて弁護士や裁判官になる。予備試験に落ちた人が法科大学院に入る傾向がある。なぜなら、予備試験は法学部生でも受けることができるが、法科大学院は法学部または大学を卒業した後に入るからである。若年の司法試験合格者はすべて予備試験組である。
 予備試験は、旧司法試験並みに難しいが、金がかからない。法科大学院は、高額な金がかかるが、司法試験に受かりやすい。予備試験合格者の方が法科大学院出身者よりも優秀であるのは当たり前だろう。ただし、これは、テストの点数の問題であって、弁護士業ではテストの点数よりも、営業力が重要である。学者が弁護士をしても繁盛するとは限らない。法科大学院の人気低下の原因として、予備試験の存在がある。そのため、大学関係者の間では、「予備試験を廃止すべきである」という意見が強い。しかし、それは本末転倒だろう。
 最近、高卒で働いている人の中に、「法科大学院に入って弁護士になりたい」という人や、大学卒業後就職に失敗して法科大学院に入る人、30代で脱サラして予備試験を目指す人、行政書士、司法書士、土地家屋調査士、公務員などの中に法科大学院をめざす人が増えているようだ。法科大学院に入りやすくなったことがその背景にある。門戸が広がることは悪いことではないが、その理由が、「法科大学院の人気が低下し、法科大学院に入りやすくなった」ことにあるようでは、情けない。

 もともと、司法試験は、勉強さえすれば、平均的な大学生の能力があれば誰でも受かることが可能である。ただし、当たり前のことだが、「誰でも受かることが可能」ということと、「誰でも受かる」ことは、違う。合格の可能性のある人が試験を受けても、「合格者数」分しか合格しないからだ。大学受験でも、現在は、「誰でも大学に入れる」時代だが、全員が希望の大学に受かるわけではない。
 司法試験は、法律の基本的知識を記憶し、それを多少使いこなせれば、受かることができる。ただし、基本的な識の量が半端なく多いので、それを覚えるのが大変である。私が、この「司法試験では知識の記憶が大切」だという点に気づいたのは、弁護士実務についた後のことである。法律の実務は、法律を理解しただけではダメで、知識を使えるように覚えることが必要である。司法試験でも法的な基礎知識を使えるかどうかが試される。そのためには教科書を繰り返し読んで、覚えることが必要である。それはほとんど修行に近い。私は、司法試験の受験時代に、同じ教科書を2回以上、読む気がしなかった。なぜなら、もともと法律の教科書の内容に興味が湧かず、1回読んだ本は「飽きる」ので、何回も読むことが苦痛だったからである。
 あらゆる法律の勉強は、時間さえかければ、誰でも知識を習得できる。ただし、知識の獲得に要する時間の個人差が大きい。法律を理解し、記憶するのに、1年でできる人もいれば、5年かかる人もいる。1、2年の法律の勉強で司法試験に受かる人は、非常に優秀であるが、そういう人はごく一部である。通常、最低でも、大学で4年、法科大学院で2年勉強する。試験に早く受かることが、法律家として優秀とは限らない。知識や理屈を習得する能力と法律の実務家の能力は別である。すぐれた法律論文を書く学者が、すぐれた法律実務家ではない。時間さえかければ、誰でも法律の知識を得ることができ、司法試験に受かることが可能である。法律の実務的な勉強は、それほど高度なレベルではない。ただし、競争倍率が高くなると、同じ程度の学力の者同士で競う場面では、運、不運が合否に影響しやすい。要するに、ドングリの背比べである。司法試験は、ごく一部の優秀な人を除けば、だいたいドングリの背比べのレベルの競争である。
 司法試験では、法律の知識を理解、記憶し、それを事実に当てはめる能力が試される。法律の実務的な勉強は、基本的なことを覚えなければ、試験に受からない。一般に、法律家は記憶力のよい人が多い。大学生の平均レベルの記憶力(これは平均的日本人より高いレベルである)が必要だろう。記憶力という点では、英語の単語を20回辞書で引いても覚えられない人もいれば、1回辞書で引けば記憶できる人もいる。大学に入って、記憶力のよい人が多いことに驚いた。20回くらい辞書で引けば単語を記憶できるというのが、日本人の平均的なレベルだろうか(これは、大学生の平均レベルよりも低い)。日常英会話で支障がない程度に単語を記憶していても、単語の意味の記憶の正確さに欠ければテストで×がつく。「理解したことは、覚えているはずだ」と言う人がいるが、それは記憶力のよい人である。通常人は、理解したことでも、すぐに簡単に忘れる。私は、学生時代から、人名、事件名、単語などの固有名詞をなかなか覚えることができず、すぐに忘れる。自宅の電話番号も、すぐに忘れる。
 法律の教科書も、1回で記憶できる人もいれば、何回も読まなければ覚えられない人もいる。10回も読めば誰でも司法試験に受かるのではなかろうか。もちろん、ある程度の内容の理解が必要だが、司法試験を下位の成績で受かるレベルでは、理解の程度は大したものではない。平均的な大学生の理解力で十分理解できる。世の中の多くの仕事が法律に基づいて行われており、建築、土木、医療、教育、金融、クレジット、保険、不動産、警察、消防、学校、ガソリンスタンドなどの仕事に従事する人は、高卒、大卒を問わず法律をある程度理解しなければ仕事ができない(そういう人は、特定分野に関する限り、新米弁護士よりも法律に詳しい)。そのような理解ができる程度の理解力が、司法試験を受けるために必要だろう。それは、平均的な大学生の理解力のレベルであり、そういう人が10回も教科書を読めばすべて司法試験に合格できる可能があるだろう(ただし、合格者数分しか合格しない)。司法試験は特別な能力がなければ受からないというわけではない。
 私は、法律の教科書を2回以上読む気がせず(なぜなら、内容がつまらないので)、次々と読む教科書を変えた。同じ本を我慢して3回読んだこともあるが、だいたいよく読んでも2回程度である。その結果、基本的なことの記憶が十分ではなかった。
 平均的な学生のレベルで年数さえかければ、誰でも司法試験科目の法律を理解し、記憶することが可能である。理解力、記憶力のよい人は、試験に早く受かりやすいが、それらが「並み」でも、努力すれば合格可能である。司法試験の合格者と不合格者を分けるものは、合格者数であって、能力の有無、試験の内容やレベルではない。合格者数を多くすれば、やさしい試験になり、合格者数を少なくすれば難しい試験になる。当たり前のことだが、法科大学院制度は、合格者数を大幅に増やしたので、その限度で、試験がやさしくなった。
 かつて、司法試験は非常に難しい試験だったが、それは、競争率が高かったからである。旧司法試験の内容が高度だったわけではない(競争率が上がれば、点数の差をつけるために試験問題を難しくする傾向はある)。旧司法試験の合格者が、皆、優秀だったわけでもない。優秀かどうかに関係なく、「合格者数」分の人が受かる。法科大学院ができて合格者数が大幅に増えたということは、優秀かどうかに関係なく、その数だけ受かることを意味する。かつての司法試験も、現在も、司法試験で要求される能力はそれほど高いものではない。司法試験の合格者数が増え、受験者数が減れば、それに応じたレベルの学生が試験に受かるだけのことである。かつての、司法試験合格者は、いろんな意味で「個性的な」学生、猛者、秀才が多かったが、現在は、フツーの学生と秀才が合格している。それは、試験のシステムと合格率が変わったからである。フツーの人が弁護士になることは、フツーの人が教師や公務員になることと同じく、悪いことではない。
 司法試験で要求される能力は、昔も現在も、それほど高いものではない。司法試験に受かっても、それほど大したことではないが、かつては、それが、「経済的に豊かな生活をもたらす」と信じられ(それは、あながち、間違いではなかった)、司法試験に受かることが特別な意味をもたらしていた。しかし、テストで把握できるのは、試験問題を解く能力でしかない。司法試験では知識を使って試験問題を解く能力がためされるだけである。知識を得ることよりも、知識を使って考えることの方が重要である。しかし、考える力自体を試験で判定するのは無理である。時々、「思考力を判断する試験」があるが、それは、「試験問題を解くための思考力」の判定しかできない。考えるうえで知識は必要であり、知識がないのに考えるだけでは、間違った思考に陥りやすい。どんなに偉大な思想家、哲学者、作家でも、政治、経済、社会などに関する知識が偏っていれば、間違った思考に陥る。

 資格大国の日本では、資格を持っていても、就職できなければ役に立たない資格が多いが、法曹資格もそのようになりつつある。テレビドラマとワイドショーの弁護士像と裏腹に、現実の弁護士の不人気振りは目を覆うばかりだ。現在の状況は15年くらい前から予想されたことであり、予想通りの状況が生まれている。

法科大学院の人気凋落の原因
 この原因について、国の特別委員会の座長(学者)は、「要因は複合的であり、社会的信頼を積み重ねる努力が重要」と述べている。この意味不明の他人ごとのような無責任なコメントからは、問題を直視して、根本的に解決しようという姿勢が見られない。「努力する」というのは、誰が努力するのか? 国が努力しなくてどうするのか。
 恐らく、国、法科大学院、弁護士会、裁判所などの関係者の誰もが、「法科大学院制度は、なり行き上、そのようになったのであって、自分が決めわけではない。私は他人が決めたことを大勢に従って推進しただけだ」と言うのだろう。日本的な集団的無責任。法科大学院制度の破綻の原因を直視し、今後の方向性を検討することが必要だが、関係者の誰もが問題を直視せず、問題の先送りをしている。これは、日本の財政破綻や年金問題、原発問題などに似ている。
  
 簡単にいえば、今の状況の原因は、弁護士の数が増えて弁護士の収入が減り、弁護士の人気が低下した点にある。かつて、弁護士人気を支えていたのは、高収入、正義の実現などのイメージだった。かつては、そのイメージは、必ずしも的外れではなかった。しかし、現在では、上記のイメージは当てはまらない。
 一般に、職業が与えるイメージと実際の仕事は異なる。
 検察官は、小説やドラマでは、「巨悪と戦う」というイメージがあるが、実際の検察官の仕事は、ほとんどが窃盗剤や覚せい剤の認めている事件で、いかに刑を重くするかに明け暮れる。
 刑事裁判官は、ほとんどが窃盗剤や覚せい剤の認めている事件で、大量の記録を読み、型にはまった判決文を書く作業に追われる。新聞をにぎわす事件を扱うことは、一生に一度あるかないかである。
 民亊裁判官も、通常は、マスコミをにぎわす重大な事件以外の市民の日常的な紛争の処理のために、記録読みと判決書きのために休みがほとんどない。
 ドクターコトーはテレビドラマの世界のことであって、新米医師は経験不足であり、田舎の人も、田舎の新米医師よりも都会の大病院の医師の方を信用する傾向がある。
 学校の教師は、深夜まで会議と報告書作りに追われ、過労死予備軍であり、テレビの「金八先生」とは大違いである。
 登山家や冒険家を題材にする小説やドラマは、内容に非現実的な嘘が多いが、一般の人は嘘に気づかない。
 小説やドラマでは、その職業のリアリティがありすぎると人気が出ないので、架空のイメージで視聴者を引き付けようとする。
 従来の「人権活動の担い手」という弁護士像は、「職業としての弁護士像」ではなく、「ボランティア活動としての弁護士像」だった。ボランティア活動は、職業とはいえない。仕事を冷静に観察し、それぞれの仕事の客観的な姿を理解して準備し、就業することが科学的である。

 弁護士も、マスコミをにぎわすような事件は、弁護士の日常業務ではほとんどない。小説やドラマが扱う弁護士のイメージは、極めてレアなイメージを誇張して視聴率を稼ぐ。現実の弁護士の仕事は、記録を読み、書面や報告書の作成という地味な作業が多い。派手さがなく、地味な内容が多いという点では、弁護士の仕事も他の職業と同じである。
 弁護士は、正義の担い手というイメージがあるが、弁護士が扱う事件は必ず相手方がいるので、正義の実現は、事件の相手方にとっては不正義を意味する。事件の当事者の双方が「正義を実現する」ことはありえない。弁護士は、事件の相手方から憎まれる職業である。
 弁護士は、「困っている人を助ける」というイメージがあるが、大半の弁護士は、資産家、企業、行政が「困っている場合」に、それを助けることを好む傾向がある。弁護士費用を払えない人が「困っていても」、それを助ける弁護士は少ない。事務所の維持に汲々としている弁護士は、収入につながらない事件まで扱うことは、たとえそのようあ気持ちがあったとしても、現実には難しい。

 弁護士の本来の、そして大半の仕事は、利害の対立する事件の処理であり、それは、やりたくない事件でも収入を得るために引き受けなければならない。
 事件処理を離れた弁護士の人権活動が正義のイメージになるが、これは、実は弁護士の仕事ではなく、ボランティア活動である。弁護士の人権活動は、本質的に収入とは無縁である。弁護士が、冤罪事件、公害事件、消費者事件、過労死、医療過誤事件などで、生活できるだけの収入を得ることは難しい。また、人権活動で弁護士が収入を得ようとすれば、弊害が大きい。弁護士のボランティア活動は「自由」にできるが、それでは収入を当てにできない。弁護士の収入のための仕事はもともと「不自由」である。
  
 弁護士の@正義の実現などのイメージと、A高収入、安定した収入のイメージのうち、@は、ボランティア活動としての弁護士であり、「職業」としての弁護士の姿ではない。Aは、今では、崩壊した。現在では、高収入の弁護士は一握りであり、多くの弁護士は不安定な収入に翻弄される自営業者である。多くの学生は、弁護士になる動機として@をあげるが、Aがホンネという人が多い。もともと、弁護士は、ホンネとタテマエを巧妙に使い分ける要領の良い人が多い。タテマエの議論とは別の学生のホンネからすれば弁護士人気は凋落した、というのが実情である。このような実情に疎い大学や裁判所関係者が、タテマエの司法改革論を唱えても、現実の学生には通用せず、彼らは法科大学院や弁護士という職業に魅力を感じなくなった。

 以上のように述べると、弁護士の業界から嫌われやすい。市民からも、弁護士のよいイメージを壊す弁護士は嫌われやすい。日本では、職業が自己実現の対象とされ、美化されがちであるが、それは、日本が、「仕事中心社会」だからである。世論は、弁護士の仕事も美化したがる。しかし、アメリカでは、弁護士の実態が市民に知られているせいか、弁護士は悪いイメージしかないようだ。

 弁護士の仕事の対象者は、大きく分けると、@企業、保険会社、銀行、マスコミ、不動産業者、事業者、行政、学校、自治体、医師、資産家と、A一般庶民、消費者に分けられる。
 @については、その顧問弁護士の椅子が限られており、それはほぼ固定化されている。弁護士が増えたからすぐに顧問弁護士を変更するということはない。Aは、自由競争の分野であるが、もともと庶民はあまり金がないので、弁護士の数が増えればすぐに消費者の支出できる金が増えるわけではない。増加した若い弁護士の顧客層は、もっぱらAであり、限られたパイをめぐる熾烈な競争が生じているのが、現在の状況である。
 弁護士が「食えなくなった」と言われるのは、後者をさしている。従来は、弁護士の数が少なかったので、Aを相手にする弁護士も、それなりの収入があった。以前は、破産、債務整理事件などの一般庶民の事件が多かったが、それが減少したという事情もある。Aに関する事件の市場が縮小している。
 法テラスの制度は、法科大学院の設置や弁護士の増加とはまったく関係がないが、司法改革の中では、弁護士の増加と抱き合わせで導入された。「抱き合わせ」の意味は、役人がしばしば採用する「アメと鞭」の考え方による。法テラスは、Aを対象とするが、これによりAの事件が若干、弁護士に依頼しやすくなったことは事実である。しかし、法テラスの制度も、消費者が弁護士費用(低額である)を負担することに変わりがなく、破産、債務整理事件を除けば、消費者の財布の紐は固い。
 過労死、消費者事件、労働事件、医療過誤、イジメ、DV事件、公害、環境、行政事件、冤罪などの被害者の代理人になる弁護士はAの弁護士である。これらの事件で、企業メーカー、病院、学校、行政の代理人になる弁護士は@の弁護士である。労働事件の労働者側の弁護士はほとんど無報酬で仕事をするが、使用者側の代理人弁護士は多額の報酬を得ることができる。@を扱う弁護士は、以前から競争があったが、Aを扱う弁護士は、かつては、革新系、ないし左翼系の弁護士が多く、収入につながらないので、競争がなかった。Aの事件は収入につながりにくいが、多くの事件をこなせば、弁護士もそれなりの収入をあげることができる。また、Aの事件の中で、破産や過払金請求、離婚事件は、一定の収入の得られる事件である。
 現在は、弁護士の数が増え、若い弁護士のほとんどが、Aの事件を扱う。@の危険については、門戸が狭いが、Aの事件はすべての弁護士に開かれているからである。その結果、Aの分野で激しい競争が生じているが、もともと、Aは収入につながりにくい事件なので、事件数が多くなければ、食っていけない弁護士が出てくる。
 以上のような構図は弁護士の業界では「常識」である。

 今では、弁護士間の格差が大きく、富める弁護士と、収入の少ない弁護士、食っていけない弁護士の格差をもたらした。今や、弁護士も格差社会の一員である。
 弁護士会は、事件の堀り起こしに躍起になっているが、弁護士の収入につながる事件が増えていない。弁護士の数を増やす一方で、事件の堀り起こしに躍起になるという構図は、奇妙である。「事件の堀り起こし」は、消費者が出す金を増やすことを意味し、消費者の反応は冷ややかである。市民の中間層は、信用経済のもとで経済的に余裕がなく(ローンが多いということ)、法テラスの対象でもないので、弁護士に依頼して出費を増やすことを回避する傾向が強い。
 「最後の資本主義」(ロバート・B・ライシュ)では、アメリカで、格差が拡大し、中間層が没落したことが述べられているが、日本も同様である。日本でも、従来の中間層が、トヨタの社員のような「勝ち組と派遣労働者のような「負け組」に二分化される傾向があり、それに信用経済がもたらす多額のローンが襲い掛かる。「負け組」から脱出しようとして、多額の教育ローンを負担して子供を大学に行かせても、大卒の資格が無意味な時代が到来している。
 法テラスを利用できる人も、それを利用すれば、ローンの額が増えるだけである。収入の少ない弁護士は、仕事が少ないから収入が少ないというよりも、収入につながる仕事が少ないから収入が少ないのである。公的医療保険制度のある医師の場合には、患者の資産の有無は医師の収入と関係がないが、弁護士の場合には、公的支援制度が不十分なため(弁護士費用の一般的な分割払制度すらない)、依頼者の資産の有無が弁護士の収入に直結する。
 弁護士の収入は、企業や消費者が金を支出することによって成り立つ。金にならない弁護士の仕事は、掘り起こせば世の中に無数にある。弁護士が無償で事件を引き受ければ、弁護士の仕事はいくらでもある。庶民については、法律相談時に、「弁護士に依頼したいが、金をかけたくない」という相談者が非常に多い。弁護士が、費用5万円で裁判を引き受ければ、日本全体の訴訟件数は倍増するだろうが、その単価では弁護士は食っていけない(しかし、その5万円を即金で払えない人は多い)。これは、初乗り運賃を100円にすれば、タクシー利用者が数倍に増えるのと同じ理屈である。弁護士会が行うさまざまな活動は際限なくあるが、弁護士に交通費が支給されるだけである(まったくのボランティア活動ではない)。潜在的には弁護士の仕事や任務は多いが、無償で引き受けることに限界がある。ある程度の収入につながる事件の数は限られ、激しい競争がある。経済的に余裕がなければ、弁護士が収入につながらない事件を扱うことは難しい。
 昔から金払いのよい顧客層を獲得することが、弁護士の重要な能力とされてきたが、最近は、そのような競争がなりふり構わない形で熾烈化している。弁護士が、「過払金請求」、「交通事故の被害者側の請求」、「肝炎の補償金請求」、「相続」、「遺言」などの無料相談をテレビや新聞で派手に広告するのは、これらが「金になる事件」だからである。
 現在、格差は、所得格差、都会と地方の格差、職業間の格差、男女間の格差、能力の格差などがあり、このような社会的・個人的格差が護士間の格差に反映する。都会と地方の格差という時、弁護士の業界では、「都会」とは東京をさし、人口20〜50万人くらいの都市が「地方」のイメージである。私の事務所のある人口5万人程度の地域は、弁護士の業界の関心の対象外である。それは、そのような地域に弁護士の収入の対象となる事件(たとえば、訴額500万円以上の事件)が少ないからである。東京と大阪の弁護士会員数が全体の約6割であるのは、社会的な富が東京、大阪に集中しているからである。

 一般に、その職業が安定しているかどうかの判断は、その職業の収入の少ない階層のレベルを見て判断される。不動産業でもコンビニ経営でも高額所得者はいるが、その業種の収入の少ない階層のレベルを見て安定性が判断される。弁護士も、大企業や資産家の顧問弁護士など高額所得者は多いが、平均的なサラリーマン以下の収入の弁護士も少なくない。
 弁護士の競争の結果として弁護士が企業や資産家に従属する傾向が強まった。弁護士を雇用する側から見れば、弁護士の数が多い方が使い勝手がよい。それが、タテマエとは別の司法改革の真の意図である。弁護士は、企業、役所、裁判所、資産家のビジネスを処理する役割を担う傾向がある。弁護士は、企業・役所の内部で仕事をするビジネスマンと違って、企業・役所・裁判所などの外部でその下請け的な仕事をするのであり、企業・役所・裁判所の指示・命令に忠実に動くことで評価される。このように企業や資産家に従属する弁護士のビジネスモデルのイメージは、かつての企業から独立した自営業・人権の担い手という弁護士のイメージとは異なる。この点も弁護士に対する人気低下の一因だろう。
 他方で、弁護士に依頼できるだけの金のない者にとっては、弁護士の数が多いかどうかは関心がない。多くの市民にとって最大の関心事は弁護士費用の額が安いかどうかである。弁護士の数が増えても、弁護士費用の額は安くなっていない。むしろ、報酬の額は、一般市民に見えないところで、以前よりも高額化の傾向が見られる。
 ある程度の弁護士費用を用意できる者にとって、関心事は裁判に勝てるかどうかであり、しばしば、「その事件に関して日本でもっとも強い弁護士」を捜す人がいる。そのような人にとって弁護士の数は関係なく、「日本でもっとも強い弁護士」1人で足りる。

 弁護士の収入は、就職できなければ収入0から出発する自営業者であるが、就職できれば初任給は年収400〜500万円であり、これは、一般的には少ないとはいえない。しかし、弁護士は年齢とともに当然に収入が増える職種ではない。国税庁の資料によれば、平成26年の弁護士の所得の中央値は590万円、年収が400万円以下の弁護士が約37パーセント、赤字の者が26パーセントとなっている。平成31年には、年収の中央値が500万円、赤字の弁護士が全体の40パーセントになると予測されている(法律新聞平成28年5月6日論壇)。これは、歯科医が辿った道と同じである。あるいは、戦前の弁護士が辿った道に似ている。
 このデータについて、「それはウソだ」、「所得をゴマかしているはずだ。弁護士はもっと稼いでいるはずだ」という世論があるようだが、現実が何よりも証拠である。それは、弁護士の人気低下、法科大学院の人気低下という現実である。
 また、弁護士登録をするだけで、月額約5万円の弁護士会費を負担しなければないので、別の仕事をしながら、弁護士登録をすることが難しい。高校や大学の講師をしながら、時々、弁護士業をするには弁護士会費が高すぎる。弁護士は、それに専念するか、しないかの選択肢しかない。この点で副業を持ちやすい医師などと異なる。医師は、医師会への加入は義務ではないので、会費0円で医師の仕事ができる。他方、弁護士は、約5万円の会費を払わなければ、弁護士ができない。事務所を持てば、都会では、通常、最低でも月額100万円近いの支出が必要になるので、収入が少なければ、借金が増えていく。
 月額5万円の弁護士会費について、かつて、「よくそれで弁護士会内で革命が起きませんね」と言われたことがある。「弁護士は、武士か殿様ですからね」と返答しておいたが、「弁護士会は革新的組織のつもりだから」と返答すべきだったかも。今では、弁護士は平民である。平民であれば、弁護士会費は、せいぜい月額5000円が限度だろう。高額な弁護士会費が日弁連の巨大な組織と権力、官僚機構を支えている。今後、高額な弁護士会費は弁護士の中で大問題になるだろう。

 法科大学院に入るかどうかの選択をする学生は、金をかけて法科大学院に入ることは、企業や役所に就職するよりも、リスクが高すぎると感じるのだろう。収入の安定性という点では、弁護士は、教師、大都市の公務員、警察官、大企業の社員などよりも、明らかに劣る(都会の小学校の教師は40代で年収700万円、高校教師が800万円、警察官は800〜900万円くらいである。トヨタでは、高卒の工場勤務で50歳で年収800万円、大卒で1200万円、自衛官は50歳で800万円、幹部は1000万円以上である。裁判所書記官は、50歳で、年収800万円くらいだろう。労働者全体の平均年収は50代で600万円である。
 収入の多くない庶民相手の弁護士は、40代、50代のベテランは年収が増えるが、それでも約600万円くらいであり、フツーのサラリーマンと同じか、むしろ少ない。若い弁護士は食っていくことが難しい。アメリカのフツーのマチ弁は年収約500万円と言われており、日本もそれに近い。アメリカの弁護士は、かつての日本の司法書士のイメージに近いかもしれない。現在では、司法書士は、弁護士との競争があるので、弁護士と同じく、食っていくのが大変だろう。少し前までは司法書士から弁護士に「転職」する人がけっこういた。ただし、日本でもアメリカでも一部の弁護士は、数千万円〜数億円の収入がある。現在は、そういう格差の時代である。
 弁護士になれば、1日の労働時間が長いのに、大学の同級生たちよりも経済的な待遇が悪いとすれば、弁護士を敬遠するのは自然なことだろう。おまけに、マスコミに登場する弁護士の自由のイメージと違って、現実の弁護士が、事務所の維持に汲汲とし、経済的に顧客に従属・依存する傾向は、弁護士という職業に対する魅力を低下させている。

 世論の感じ方や弁護士の見かけに関係なく、学生は、現実的であり、正直である。学生の敏感な反応にいつも驚かされる。今では、高校の進学校では、圧倒的に医学部の人気が高く、法学部は人気がない。かつては、将来、弁護士になるか医者になるか迷う高校生がいたが、今では、それは比較対象ではないのだろう。かつては、医者になるよりも弁護士になる方が難しかったが、現在では、医師、高校教師、大企業への就職よりも、弁護士になる方が易しい。収入の多寡で職業を選択すべきではないが、現実は、その傾向が強い。

弁護士の職業としての人気低下
 魅力のない職業には人は集まらない。職業選択は収入がすべてではないが、現実には、職業の経済的な安定性が職業の選択に大きく影響する。現在の法科大学院の人気低下は、市場での職業をめぐる競争の結果である。
 私は、弁護士になって就職先の事務所を選択する時、収入のことはまったく考えず、当時、日本でもっとも給料の少ないレベルの事務所に入った。私は、司法研修所の教官から、「裁判官にならないか」という勧誘を受けたが、弁護士を選択した。その事務所を選択した理由は、労働事件や公害事件などの「興味深い事件」を多く扱っていたからである。当時は、弁護士という職業の経済的安定性があったので、いざとなれば、独立しても何とかやっていけるという安心感があった。弁護士になってからも、収入をまったく考えることなく仕事をしていた。
 今から振り返れば、あれほど金にならない事件ばかりよくやったものだと自分でも感心している。無報酬で裁判のために東京に行ったりしていた。そのようなボランティア的な活動ができたのは、勤務先の事務所から給料をもらえる身分だったからである(妻が教師だったこともあるが)。ボランティアの仕事も多かった。私は、弁護士になって約25年間、依頼者から消費税を受け取らなかった(免除していた)。その代わりに、外で酒を飲むことはほとんどしなかったし、ゴルフもしなかった。衣類は、いつも格安品である。
 しかし、今では、新規弁護士の誰もが血眼になって就職先を探し、開業しても自分と家族の生活のために、金のことばかり考えている弁護士が多い。そんな状態では、弁護士として、収入を度外視した優れた仕事はできない。弁護士は、金のことを考えていては、よい仕事はできないが、現在の弁護士は金のことを考えざるを得ない環境がある。
 もともと、庶民相手の弁護士の仕事は、テレビや小説の描く華やかな仕事と違って、庶民の無理難題を処理する苦情処理係のような煩雑でストレスの多い仕事である。ある程度の収入を得られるからこそ、ストレスに耐えてつまらない作業に耐える面があるが、収入を得られなければ、「とても、こんな仕事はやっていられない」と感じることが多い。弁護士の精神疾患や過労死が多いのは、このためである(40代、50代での急死、病死が少なくない)。弁護士の飲酒が多いのは、ストレス解消と営業活動の両面がある。
 私は、長年、弁護士の仕事を「人間観察の場」として考え、その経験を自分のライフワークに生かそうという考えでやってきた。実際に、「事故における人間の判断ミスを防止するにはどうすればよいか」などを検討をするときに、長年の人間観察の経験が役に立つ。つまり、弁護士の仕事自体をひとつの研究対象と考えている。
 しかし、一般の弁護士は、仕事にやりがいを求め、現状では、弁護士の仕事は、それを得ることが一層難しくなりつつある。 
 弁護士の人気低下の原因は収入の減少だけではない。弁護士の数が増えて競争が激しくなった結果として、弁護士業が、自分のやりたいことを自由にやれる職業のイメージから、顧客に従属するストレスの多い職業のイメージに変わった点がある。

 弁護士が、顧客の無理難題を受け入れなければ、収入を得られず、生活できない職業であれば、他の自営業者やサラリーマンと大差ない。サラリーマンは、毎月定額の給料を得られるので、よほど気楽である。
 昔から、弁護士を志望する学生は、弁護士が自由業であり、正義のために人権活動をするというイメージに加えて、民間企業(その多くは大企業だが)や役所(上級職)に勤務するよりも収入が良いということが、その動機になっていた。表向きは収入のことは口にしないが、本音では、収入のことを考える学生が多い。高額な収入を得られて、しかも職業のイメージがよいことが、弁護士人気を支えていた。これは「不純な動機」ではなく、競争社会では当たり前の傾向である。アメリカではこの傾向はもっと顕著である。したがって、弁護士の平均所得が低下すれば、弁護士の人気も低下するのは、当たり前のことである。

 現在の法科大学院の状況は、弁護士という職業の魅力の問題であり、「社会的信頼」の問題ではない。民間大企業や公務員の方が、収入の安定性があれば、そちらの方に学生がいく。弁護士の収入がフツーのサラリーマンと大差なければ、わざわざ多額の金のかかる法科大学院に行く者が減るのは当然である。ただし、弁護士が、自分の子供に法律事務所の跡を継がせるべく、自分の子供を法科大学院に入らせる場合を除いて。かつて、開業歯科医が、自分の子供に歯科医院の跡を継がせるために、大学の歯学部を大増設して子供が歯科医になりやすくしたことに似ている。その結果、歯科医が激増して歯科医の収入が減り、歯科医という職種は、資格取得に金のかかる人気のない職種になった。歯科医は、優秀な人材は不要ということだろうか。弁護士も同じ運命をたどっている。
 かつては、優秀な学生が法学部に入り、法曹をめざしたものだが、今では、弁護士よりも医者の方が人気が高く、職種の競争が激しい。最近の法学部の人気低下傾向が著しい。卒業時に企業や役所への就職に失敗して法科大学院に行く学生すらいるようだ。法科大学院への進学が、敗者復活的な手段になっているケースもある。かつては、多くの学生が大企業や役所への就職を蹴って司法試験を受けるのに勇気が必要だった。食って行けない行政書士や司法書士が法科大学院に入るケースもある。
 
 最近、役所や企業が弁護士を雇用するケースが増えているが、雇用期間が限られ、契約社員、派遣社員、臨時雇用などと同じく、ある種の使い捨て的な雇用形態である。雇用する側にとっては、この種の不安定雇用が便利である。
 一般に、法律の専門家を確保するのであれば、優秀な法学部卒業者で足りる。国は、法律の専門家を優秀な法学部卒業者と裁判官の出向者でまかなっており、弁護士を雇用することはない。地方自治体が法律の知識のある者として弁護士を雇用するのだが、本来、法学部卒業者で間に合うはずであり、どうしても弁護士でなければならないということではない(背景に、大学の法学部卒業者のレベル低下の問題がある)。弁護士としての経験を必要とするのであれば、最低でも弁護士経験10年以上が必要だが、役所や企業が雇用する弁護士は経験の浅い弁護士が多い。これは、企業や役所の終身雇用制との整合性をはかるためだろう。役所に入れば弁護士登録ができず、弁護士業務もできないので(兼職禁止)、弁護士ではない。しかし、マスコミや日弁連は、なぜか、「役所内の弁護士」と呼んでいる。1年間でも弁護士経験があれば、その人が定年退職するまで、「役所内の弁護士」と呼ばれ続けるのだろうか?

 最近の弁護士の仕事は多様化しており、成年後見人や借金の整理などのように、庶民相手の弁護士の仕事は、司法書士と大差がない面がある以前は、司法書士、行政書士、ボランティア団体が行っていた仕事を、現在は弁護士が行っている。庶民のレベルでは、弁護士の仕事の多くが、成年後見、借金の整理、親族間の人間関係の紛争であり、高度な内容の取引、労働事件、行政事件、医療事件などはきわめて少ない。これらの事件は、潜在的紛争はあっても、金がないので弁護士に依頼がなされないことが多い。刑事事件のほとんどが犯罪事実を認めた事件であり、情状立証しかしないので、複雑な知識は使わない。サラ金やヤミ金との交渉、成年後見などは、弁護士でなければできない仕事ではない。ヨーロッパでは、日本のように弁護士が借金の整理をすることはしていないはずだ。借金の整理は、法学部卒の能力があれば、弁護士でなくてもできる。多くの成年後見事件は、それほど財産はないが、後見人のなり手がいないために、裁判所から弁護士に指名が来るといってもよい。このような事件では、成年後見人は弁護士である必要はない。身上監護は、弁護士は苦手である。成年後見人に法律の知識が必要なケースでも、司法書士、行政書士、法学部卒者で足りる。公務員試験に受かる程度の能力があれば、誰でも成年後見人を務めることができる。
 かつて、登記業務を除き、司法書士が行っていた仕事を、増加した弁護士が行っている。弁護士の増加は司法書士の仕事を奪うが、司法書士も弁護士の仕事の領域に進出している。

弁護士会は、「法律業務は、司法書士よりも弁護士が行うことが国民の利益になる」と考えているが、これは、弁護士会の思い込みである。弁護士と司法書士の違いは、司法書士は地方裁判所での裁判の代理人になれない点にあるが、日本では、訴訟をする人は国民の0.04パーセントに過ぎず、庶民には訴訟は縁遠い。生涯、弁護士に依頼をすることなく人生を終える人の方が多い。日弁連は、「弁護士の数が少ないから、訴訟が少ないのだ」と考えたが、これは、庶民には、「弁護士に金を取られる」迷惑な話である。
 司法書士と弁護士が仕事の取り合いをし、弁護士の仕事のかなりの部分を司法書士が行っている。借金の整理、破産、家事事件、遺言、相続、後見、契約、雇用、交渉、各種法律相談などの費用は、弁護士も司法書士もほとんど同じだが、司法書士の方が弁護士よりも費用が安いと勘違いする人が多い。これらの事件を司法書士が扱うことを弁護士会は弁護士法違反として問題視しているが、一般の市民には選択肢が多いほどよい。
 司法界でも、マニュアルに基づく報告書の提出が増え、手続の煩雑化の傾向があり、弁護士の事務作業が増えている。弁護士は煩雑な書面作りに追われている。これを事務員にやらせる弁護士も多いが、これらを事務員やイソ弁にやらせると、いやがる。最近は、弁護士の仕事は、銀行、役所、企業などでの事務作業と変わらないと感じることが多い。

 長年、学校の教師をしていた人が、退職後、法律事務所に事務員として勤務した。その人の感想。「法律事務所の仕事がこんなにつまらないとは思わなかった。弁護士は、テレビや小説では、カッコいいイメージがあるが、実際には、実にくだらない作業に追われている。裁判所に提出する資料作りに追われている。弁護士の仕事は、暗い人の悩みやトラブルを聞く内容であり、うつ病になりそうな仕事だ。つまらない話をさんざん聞かされても、依頼者に金がなければ、弁護士費用を払ってもらえない。教師の仕事の方がよほどやりがいがある。最近の教師は、会議、報告書作り、保護者からの苦情処理に追われ、弁護士の仕事と似た面はあるが、子供と接することができる時間は楽しい」
 これは概ね当たっている。ただし、弁護士が行う社会的な活動については、この事務員の意見は当たっていない。弁護士が行う社会的な活動は、やりがいがあるが、それでは収入を得られず、それはボランティア活動であることが多い。
 新聞等に大きく載る事件は、弁護士が派手に活動しているように見えるが、それは珍しい事件である(滅多にない事件だから新聞に載るということ)。弁護士が日常的に扱う事件は、派手さはなく、どちらかといえば、役所の事務作業のような地味な仕事が多い(成年後見、破産管財、民亊訴訟、家事事件、争いのない刑事事件、交渉事件など)。そのような珍しくない地味な仕事はニュース性がないので、マスコミがとりあげることはない。


弁護士の社会的地位の低下
 弁護士の「社会的地位」の低下が、弁護士の人気低下の一因である。
 これは、司法試験の合格者数が増えて、弁護士になりやすくなったこと、弁護士の数の増加、弁護士の収入の低下などが原因だろう。戦前のように、大学の数が少なければ、大学生の社会的地位が高く、就職先にも困らない。大学生が、「末は博士か大臣か」と言われた時代もある。大学教授の地位も収入も戦前と現在ではまるで違う。それは、大学の数が増えて、大学教授の数が増えたからである。現在では、大学教授の能力は、ピンからキリまでさまざまである。判例を羅列して解説しただけの内容のない論文を素早く仕上げるテクニックに長けた無名私立大学の教授がいる。もともと法律関係は、判例という題材があるので、論文を作成しやすい分野である。官僚や実務家からコネで大学教授に天下りをしている。
 現在では、小学校の教師よりも収入の少ない大学の教師(不安定雇用の大学教師など)が珍しくない。戦前は高等師範学校に入るのはかなり難しく、学校の教師の社会的地位が高かった。現在は、」大学の教育学部に入るのはそれほどむつかしくなく、教師の社会的地位はそれほど高くない。ヨーロッパ」では大学の数が多くないので、大学生の待遇が日本よりもよい。例えば、スイスでは、大学はすべて国立であり、大学進学率は20パーセント、学費は無料である。その代わり、スイスの高校を卒業すれば、だいたい3か国語は話せるらしい。大学のレベルが日本とはまるで違う。北欧なども同じである。大学に誰でも入れるようにするのが日本の政策であるが、その結果は、「大学を出てもあまり意味がない」状況をもたらす。
 大学の教育学部の数と教師の有資格者の数を増やせば、教員資格を持っているだけではあまり意味がない状況をもたらす。法科大学院の数と司法試験合格者数を増やせば、司法試験に受かっただけではあまり意味がない状況をもたらす。戦前は、博士号取得者は大学の教師になることができたが、今は、大学の博士課程が濫設され、博士号を持っているだけでは食っていけない。大学医学部の数を増やせば、医師の資格があるだけではあまり意味がない状況になるが、さすがに日本ではそれを阻止している。しかし、フィリピンなどでは、医師の数が多いので、医師であるというだけでは食っていけないらしい。フィリピンの医師は、アメリカに行って看護師をした方がよほど収入が多いらしい。日本の弁護士も、弁護士をするよりも、公務員や会社員になった方がよほど収入が安定している。アメリカでは、弁護士(法曹資格者)の半分は公務員や会社員になる(組織内法曹資格者。組織内弁護士とも呼ばれる)。
 有資格者の数の増加がもたらす状況は、万国共通である。それは、ちょっと考えれば、誰でもわかることだろう。ヨーロッパでは、司法政策に知恵を使うが、日本では、司法政策はなりゆきまかせである。

日本の弁護士は、あまり利用されない
 多くの人は、アメリカの弁護士のイメージやテレビドラマのイメージで弁護士を理解するが、それは日本の弁護士の実態とは違う。日本の弁護士は、あまり利用されていないので、ほとんどの人は弁護士がよくわかっていない。日本では、フツーの人は弁護士に相談をすることはあっても、依頼することはなく、資産家、企業、一部の人だけが弁護士に依頼する。日本で裁判件数が少ないのはそのためである。なぜ、弁護士に依頼することが少ないかといえば、弁護士に利用しやすい制度がないために、弁護士の利用に金がかかるからである。日本では、弁護士に依頼するための一般的な費用分割払い制度すらない。弁護士に依頼するには、低所得者を対象とする法テラス制度を除き、費用を一括で前払いで行うことになっている。20〜30万円を一括で前払いできる人だけが、弁護士に依頼できる。フツーの人は、弁護士から、20〜30万円を請求されると、払えない人が多い。私は、法テラスの対象外の人について、弁護士費用の長期分割払いをして受任することが多いが、他の弁護士の多くは、それを聞くと笑いながら、「先生は、大変ですね」と同情されるのだった。弁護士の業界は、金払いのよい依頼者をいかに確保するかが弁護士の能力とみなされる世界なのだ。他方、法テラスの対象者は、相談がタダなので、何度でも弁護士に相談に来る傾向がある。日本では、弁護士の利用しにくさが、弁護士への依頼の少なさにつながっている。
 司法制度について議論をする学者は、弁護士の実態について何も理解していない。都会のコンクリートの中で数字だけを眺めていては、司法の実態がわからない。実務経験のない人が大学で法律や司法制度を教えている。法科大学院で教える弁護士は、企業や資産家の事件を扱う弁護士が多く、低所得層の事件や「地方」の実情を知らない弁護士が多い。事務所を維持できるだけの経済的余裕がなければ、法科大学院で教えることができない。ここでいう「地方」とは、人口数万人程度の地域をさす。ほとんどの弁護士の仕事の対象地域は、人口が数十万人以上の地域であり。弁護士は、人口10万人程度の都会を「田舎」、「過疎地」などと呼ぶことが多い。
 関係者が実態を知らないまま司法改革を進めた結果が、現在の状況をもたらした。国民も、司法の実態を知らず、司法に関心がないので、現在の状況を理解しない。多くの国民は、裁判の数は少ない方がよいと考え、弁護士の仕事が少ない方がよいと思っている(しかし、弁護士の数は多い方がよいと思っている)。長い目で見れば、健全な司法制度がなければ、もっとも被害を受けるのは国民である。司法を利用しやすい国を知らなければ、現在の日本の状況の「不便さ」を感じない。

 
法曹資格のあり方
 法曹資格を意味のあるものにするためには、経済的に弁護士を利用しやすい制度を構築すること、それに応じて、弁護士の需要が増えるので、弁護士の需要に合わせて弁護士を増やしてくことが必要だった。この点を私は、平成10年頃から、いろんなところで書いてきた。しかし、その後の司法改革は、弁護士を利用しにくいのは、弁護士の数が少ないことに原因があるとして、弁護士の大増員政策をとった。これが、現在の状況を招いた。これは、都会のコンクリートの中で、理屈と数字だけをもとに考えた結果である。現実を知らない人たちが、制度を作ると、こうなる。
 弁護士の数が大幅に増えた現在でも、一般の庶民にとって、弁護士への依頼に金がかかり、弁護士を利用しにくい状況に変わりはない(弁護士の数が増えても、弁護士への依頼事件数は日本全体で減少している)。法テラスの制度があっても、基本的に弁護士費用の「受益者負担」の考え方に立つので、金のない依頼者との間で法テラスへの支払をめぐるトラブルが絶えない。フツーの庶民にとって弁護士費用として一度に10万円も払うのは、大変なことなのだ。また、分割払いで20万円を法テラスに支払うことも大変なことなのだ。庶民は、「10〜20万円の弁護士費用は高すぎる」と感じるが、弁護士にとって、10〜20万円の費用で、2年も3年もかかる事件を処理することは、経済的採算がとれないことが多い。
 市民感覚は、「弁護士は多い方がよいが、法的紛争は少ない方がよい」というものだが、これは市場経済では成り立たない。また、市民感覚は、「弁護士費用の額は安ければ、安いほどよい」というものだが、経済的合理性を欠く弁護士費用は、市場経済のもとで成り立たない。経済的に成り立たないことをめざす政策は、失敗する(そのため法科大学院制度が失敗した)。ボランティアを前提にした制度は、「職業」にならない。アメリカは、弁護士の数が多いが、あらゆることが紛争になり、弁護士の需要がある(アメリカには大学の法学部がないため、法律を勉強した者は弁護士しかいないという点も関係しているだろう)。

 それでも、収入に関係なく社会的に意義のある活動をしたい者にとって、弁護士になりやすくなったことは、悪いことではない。ただし、社会的にすぐれた仕事は、ボランティアでなければできないことが多い。弁護士を30年やってみて、つくづくそれを痛感する。収入を得ることとすぐれた仕事をすることは、両立しないことが多い。現実に、弁護士のすぐれた活動の多くはボランティア的活動である。弁護士会が行うさまざまな活動も、交通費が支給されるので、完全な無償行為ではないが、ボランティア的な活動である。これは、弁護士会が高額な会費を徴収しているので、それで委員会活動の交通費を支給できるのであって、フツーの団体の会費程度の金額ではそれはできない。
 従来、ボランティア的活動をする弁護士は、ボランティア的活動以外の場面で収入を得ていたが、現在は、それが難しくなっている。弁護士の活動の環境は、年々、悪化し、経済的に弁護士のボランティア的活動が困難になりつつある。
 現在、弁護士としての収入の得られる分野は、弁護士が過剰であり、競争が激しい。しかし、収入につながらない仕事をする弁護士は不足している。例えば、無報酬で交通費なども自己負担になるボランティア団体の顧問弁護士、収入につながらない研究活動をする弁護士、社会的な活動をする弁護士は不足しており、この分野の弁護士の需要は際限なく存在する。しかし、最大の問題は、これらの活動では、収入を得られないという点だ。
 多くの弁護士がやりたがるような社会的脚光を浴びる事件や収入につながる仕事をしたいという弁護士は過剰である。私が、弁護士になった時代には、弁護士自体が不足していたので、私は弁護士になったが、今は、弁護士が不足する分野は限られる。「弁護士が不足する分野」とは、多くの弁護士がやりたがらない事件や分野である。たとえば、オウム真理教事件の加害者の弁護人や、殺害された坂本弁護士のようなことをする弁護士は、弁護士の数が増えた現在でも不足している。私は、25年くらい前にヤクザが関係する消費者事件を多く扱ったことがあるが、広島市内の弁護士の多くが、その種の事件を自分で受任せずに私に回すことを不思議に感じたことがあった。当時、広島市内には300人くらいの弁護士がいたが、、その種の事件を扱う弁護士は「不足」していた。ストーカー事件の加害者・被害者の弁護人は不足している。冤罪事件や労働事件、医療事件などを、無償で引き受ける弁護士も不足している。山岳事故の分野を研究する弁護士も、収入につながらないので不足している。

 以前、某新聞が、「弁護士は、経済的余裕がなければ人権活動ができないというのはおかしい」と書いていたが、一定の収入がなければボランティア活動ができないことは、万国共通の歴史的事実である。また、「経済的余裕がなければカンパができないというのはおかしい」と言うこともできない。金がなければ、カンパはできない。弁護士は、多種多様な団体から、カンパや寄付を頼まれることが多い職種である。日本でボランティア的な活動をしている団体の多くが、金がなく、カンパが必要である。
 金があればすぐれた活動ができるというものではないが(金があってもすぐれた活動をしない人の方が多い)、生活が成り立たなければ、すぐれた活動はできない。また、活動資金がなければ、すぐれた活動はできない。あらゆる活動に資金がかかる(交通費、調査費など)。ナイチンゲールの活動は、彼女が資産家だったからこそ、可能になったのである。新聞記者のさまざまな社会的な活動は、会社から給料をもうらうからこそ、可能なのである。芸術家や研究者も、一定の生活保障がなければすぐれた創作や研究ができない。スポーツ選手も、アマチュアであろうとプロであろうと、生活が成り立たなければ、すぐれたパフォーマンスを実現できない。
 しかし、すぐれた活動の前提となる収入の額は、それほど多額ではない。生活できるだけの収入が得られれば、優れた仕事や活動をすることができる。事務所を維持するための経費は、月額80万円くらいでも、何とかやりくり可能である。自宅開業であれば、月額30万円程度の経費で何とかなる。
 最近、顧客獲得の営業活動の能力のある弁護士が増えた。弁護士のボランティア的活動も、営業につながるかどうかが選択基準になりやすい。弁護士が営業上のメリットのない仕事をしない傾向は、現在の経済的な環境の影響によるのだろう。

専門家の競争
 医師、弁護士、大学教師、研究者などの専門家も、競争は必要である。しかし、その競争は専門分野の内容に関する競争でなければならない。医師や弁護士は、知識、技術、経験などの専門性に関して競争することが、社会の発展に寄与する。
 しかし、顧客を獲得し、収入を得るための競争は社会の発展に寄与しない。弁護士が、事務所を維持するために金払いのよい顧客の獲得に汲々とすれば、弊害が大きい。かつては、弁護士が採算を度外視した仕事をすることを可能とする環境があったが、最近の競争の激しさはそれを困難にしている。
 現在、「食えない弁護士」が増加し、多くの弁護士は、「食えない弁護士」に転落しないための競争が生じている。
「食えない弁護士」とは、弁護士の仕事があり、長時間労働をしても「食えない」状態をさす。それは、前記のように、収入につながらない仕事やボランティア的な仕事が多い弁護士である。毎月数十万円程度の収入しかなければ、収入は弁護士会費や事務所経費の支払いで消え、弁護士は「食えない」。あるいは、たとえ弁護士1人は生活できても、家族を養えない状態やローンを払えない状態。

 日本、アメリカ、韓国などでは、ワーキングプアの増加が、国民に、それを転落を回避するための異常な教育競争、過重労働、過労死、うつ病などをもたらしている構造と、司法をめぐる状況は似ている。

 競争がもたらす弊害は、司法に限らず社会のあらゆる分野で生じている。大学は、学生と研究費を獲得するための競争が激しくなり、学生に受けやすい授業になる傾向、保護者の意向を汲んで学生に対する過保護の傾向、芸能人を教師に採用すること、研究費を獲得するために企業や国に迎合すること、役人の天下り、軍事目的の研究の採用、非正規の教師の増加(人件費を抑えるため)、学生の就職と国家試験対策に追われる傾向などの傾向が生じている。もし、学生の就職状況に応じて大学教師の給料を査定するようになれば、学問の発展はない。
 マスコミは、本来、国民に情報を提供する重要な機能を持つが、現在は、激しい競争のために、「金になるかどうか」に左右されている。視聴率の上がらないテレビ番組は企画できない。すぐれた本は売れないので、出版できない。

今後の展望

 弁護士は、かつてのような限られた者だけがなることのできる特別な職種ではない。かつては、弁護士であることが、一種の社会的ステイタスを意味したが、現在は、そのような状況はない。弁護士になるよりも、高校の教師や大企業への就職の方が難しい。現在は、多少の勉強をすれば、誰でも法科大学院に入ることができる。現在では、弁護士になることは特別なことではなく、弁護士になって「何をするか」が重要である。一人前の弁護士になるには、10年かかる。「ドクターコトー」のような新米医師がすぐに僻地で1人で活躍することが危険であるのと同じように、弁護士も経験を得る過程が重要である。この点は、教師や公務員、看護師、山岳ガイド、パイロットなどと同じである。

・今後、社会的弱者の救済や人権活動をする弁護士は経済的困難に直面しやすい(実際に、現在、経済的困難に直面している弁護士が増えている)。「困った人を助ける」弁護士は、それだけでは、食っていけない。人口数万人程度の田舎で開業する弁護士も同じである。そのような経済的困難を解消する工夫と知恵が必要である。団体や組織から支援を得ること、給料をもらえるイソ弁をすること、企業や役所の勤務弁護士、配偶者の安定した収入で生活すること、兼業弁護士など。
・法曹資格者が誰でも弁護士登録をしやすいように、弁護士会費の低額化が必要。1か月の会費は、せいぜい5千円が限度である。現在は月額5万円。それでは現在の日弁連の巨大な活動はできないが、それは仕方がない。あらゆる団体が財力にモノを言わせた活動ができるわけではない。欧米の弁護士会の財政的規模は大きくなく、財力に見合った活動をしている。日弁連はあまりにも巨大な官僚機構になりすぎた。弁護士の社会的な活動は、有志が自ら経費を負担して行うべきだろう。それが、本来のボランティア活動である。会員から強制徴収した高額な会費をもとに、弁護士会活動という「ボランティア的活動」をするのはおかしい。
・安定した収入を期待して弁護士になるのはやめた方がよい。収入の安定性という点では公務員、教師、会社員が、高額な収入という点では、大企業、マスコミ、医師などの方がふさわしい。
弁護士業の副業化を可能にすること。これが弁護士の多様性を可能にする。たとえば、自営業、会社員、著述業、教師、公務員、研究活動、ボランティア団体役員などをしながら弁護士をすること。ドイツでは、アルバイトでタクシーの運転手をしながら弁護士をしている人がおり、弁護士が副業を持つことが一般化している。その場合、高額な会費、兼業の許可制が問題。
弁護士は、収入にとらわれていては優れた仕事ができない。世の中には、アルバイトをしながら、俳優や歌手、芸人、研究者をめざす人は多い。弁護士にもそのような気概が必要である。弁護士をするには経費がかかるが、配偶者の収入があれば、弁護士の収入が不安定でも、生活できる。かつては、男性も弁護士の妻は専業主婦が当たり前だったが、今後は変わるだろう。北欧では、専業主婦はわずか2パーセントである。女性の場合には、夫の収入があるので、弁護士になっても経済的に安心できる。
・自分の生活基盤を確立したうえで、収入にとらわれることなく社会的に意味のある仕事をする弁護士が増えなければならない。
視野の広さ。法律だけを扱う弁護士は視野が狭い。弁護士だけでなく、法律家の視野が狭い。一般に、専門家は、視野が狭くなりがちである。大学教授を見よ。
 弁護士は個別事件の処理に追われるので、もともと住んでいる世界が狭いうえに、競争が激しくなれば、大きな視点でモノを考える時間がなく、依頼者との関係でモノを考えることに汲々とする。依頼者から解任されると、収入がなくなるからである。視野を広げるものは、多様な経験。法律以外の分野の経験が必要である。現状では、弁護士の副業が難しい。
国際的な場面での活躍。これからの弁護士は語学力が必要。
・弁護士の就業先を法律事務所に限るべきではない。法曹資格者が企業や役所に就職すること(弁護士登録しなければ、社員・公務員であって弁護士ではない)。今後増え続ける法曹資格者の受け皿は、企業と役所、団体など(法曹資格者の数が増えれば、そうならざるをえないが、現実には狭き門である)。法曹資格者が公務員の採用試験や企業の採用試験を受ければ、法曹資格がある分だけ、大卒者よりも有利である。理系では、大学院修了者が役所や企業の採用試験を受けている。その場合、法学部を卒業した者と法曹資格者が競合する。企業・役所は、一流大学の法学部卒業者は幹部候補生、法曹資格者は専門職として処遇することになる。
・日弁連は巨大な権力機構、官僚機構になっている。それを高額な弁護士会費が支えている。国民が弁護士を利用しやすくするためには、法曹資格者が自由に弁護士業ができるような環境が必要である。そのためには、弁護士会費を月額5000円程度とし、強制加入制度の廃止が必要である。弁護士自治のために強制加入制度がとられているが、日弁連は、組織が巨大化、官僚化し、市民から遊離している。現状では、弁護士は、弁護士会に従属しやすく、弁護士は、弁護士会からに自立が必要である。弁護士の監督は、国家や日弁連による統制(いずれも官僚的な権力を持つ)ではなく、市民から選出された第三者機関による統制によって行うべきである。
・日本の司法制度は、混乱と混迷だらけだが、日本の司法書士、税理士、社会保険労務士などは、国際的には法律家とみなされるので、これらも法科大学院で養成することとし、司法試験の種類を、1種、2種、3種のように区分して取り扱える業務の範囲を区分するのが、論理的である。アメリカでは、税理士は税務弁護士(税金を扱う法律家)と呼ばれているらしい。アメリカでは、司法書士や税理士に相当する職種は弁護士である。
・現在の状況は、市場経済、自由競争の結果である。弁護士の数を増やし、司法を自由競争に委ねるとこうなる。自由競争を制限する「適正な司法」が必要である。経済的な力は政治力や法的な力を必要とする。富める者は弁護士を必要とし、顧問護士のポストをめぐる競争は熾烈である。貧しい者も潜在的には弁護士を必要とするが、弁護士に払う金がないので、弁護士の数が増えても弁護士の仕事になりにくい。弁護士のボランティア活動が重宝される。北欧のように弁護士を利用しやすい制度がなければ、単なる弁護士増員政策は行き詰まる(行き詰まっている)。


                           


「登山の法律学」、溝手康史、東京新聞出版局、2007年、定価1700円、電子書籍あり

                                

               
  
 「山岳事故の責任 登山の指針と紛争予防のために」、溝手康史、2015
        発行所 ブイツーソリューション 
        発売元 星雲社
        ページ数90頁
        定価 1100円+税

                               

                      
  
 「真の自己実現をめざして 仕事や成果にとらわれない自己実現の道」、2014
        発行所 ブイツーソリューション 
        発売元 星雲社
        ページ数226頁
        定価 700円+税