弁護士のブログ

2010年8月20日
 日高山系で学生パーティーが遭難
 河原で幕営中に鉄砲水でテントが流され、3人が死亡し、1人が助かった。河原で幕営したことがミスだが、助かった学生や亡くなった学生、大学が、なぜか非難される。自然災害に巻き込まれ運転を誤って交通事故に遭うようなものだが、日本では山岳事故の被害者(当事者)が非難されることが多い。
 山岳事故は故意に起こす事故ではないが、「こんな事故はいいかげんにしてもらいたい」などと、故意に起こす事故のように非難する人が多い。おそらく、それは、登山行為そのものは意識的な行為なので、「危険な登山をやめろ」という意見が含まれているのだろう。しかし、自動車の運転は故意による行為であり、自動車事故のほとんどは過失によるものであることと、山岳事故の構造に違いはない。両者の違いは、自動車の運転は経済的価値をもたらしやすいが、登山はそうではないという点だろう。日本では、経済的価値をもたらさないことをすることは、否定的に考えられる傾向が強い。
 このケースでは、リーダーや大学の法的責任は問題にならない。

2010年8月

 強風による低体温症の検証
 意図したことではないが、結果的に、南アルプスの3000メートルの稜線で風速毎秒20メートルの風の中を歩いた。
 その感想
・強風下では体力を非常に消耗すること(個人の体力差が出やすい)。これが歩くペースの低下を招く。
・バランスを保つには筋力を要すること(女性は強風に弱い)
・動き続けなければ低体温症の危険があること
・睡眠不足、栄養不足は想像以上に体力を消耗させること。特に中高年者には影響が大。
・強風に対する装備がなければ簡単に低体温症になるだろう。
・身体を濡らさない工夫が重要
・2009年のトムラウシの事故の時の気温は5〜6度だったと思われ、この程度の気温はアルプスでは珍しくない。
  精神的にどれだけ落ち着いて行動できるかが重要。これは経験が左右する。強風時に、衣類を着込む、風をよけて休憩する、停滞しない、栄養補給、ツェルトでのビバークなどは冷静でなければできないだろう。


2010年8月3日
 日本テレビ社員の遭難
 7月31日に日本テレビの社員2名が沢で水死した。ガイドが引率していたが、解散した後の事故なので、ガイドは関係ない。なぜ、引き留めなかったのかと言ったところで、ガイドは記者を強制することはできない。
 テレビのニュースで、「沢登りは山登りとは違って危険である」と述べていたが、沢登りも、山登りの1ジャンルなのだが。また、司会者が、「沢登りと聞くと、小さい頃、沢ガニをとって遊んでいたようなイメージがするのですが、かなり危険なんですね」と言っていたが、オジサン、それは「川遊び」でしょ。沢登りのイメージはそんなものなのか。
 
 沢登りを英語にすれば、「傾斜のきつい渓谷や滝のclimbing」ということになろうが、climbingを日本語に訳しにくい。climbingを「登り」と日本語に翻訳するのだが、日本語の「登り」は歩いて登ることを意味することが多く、climbingとは異なる。これは日本の山のほとんどが歩いて登ることができるからである。climbingを岩登りと訳すことが多いが、それはrock climbingであって、climbingの対象は、崖、岩、氷、雪、沢、滝、人工壁などさまざまである。climbingを「クライミング」とカタカナ表記すると、クライミングは岩登りをイメージしやすい。mountain climbingは「登山」という日本語に翻訳されるが、それは正確ではない。moutain climbingは「山の急峻な崖、岩壁、岩稜、氷、雪壁、雪稜などを手を使ってよじのぼる」ことを意味する。mountain climbingは日本の登山の一部の、例外的な、特殊な(と考える人が多い)形態であるが、ヨーロッパアルプスでは、mountain climbingは登山の一般的な形態である。

 こんな議論は、関心のない人にはドーデモヨイことであるが、この業界の関係者には重要な問題である。それは、刑事訴訟法上の「勾留」をマスコミが「拘置」と表記することは、不正確だという問題に似ている。「勾留」の概念は重要であるが、一般の国民は関心がないので、勾留、拘置、拘留、拘束、留置でもみな似たような難しい言葉というイメージで受け取られる。

 ヌカビラ岳遭難
 北海道のヌカビラ岳で、ツアー客8名が救助される事件があった。4人のガイドと8人の客という構成はガイド登山の限界だろう。ガイドの判断で事故を回避したので、賢明な判断だった。メデタシ。もし、トムラウシのように、行動を強行していれば、3、4人の死亡者が出てもおかしくなかったのではないか。
 
 他にも、北海道で、4人の登山パーティーで、3人が救助され、1人が亡くなった事故があった。
 
 これらの遭難報道を聞いていると、何となく北海道の山が面白そうに思えてきた。かつて大雪山には登ったことがあるが、来年は、ぜひ、北海道の山に登ってみたい。
 
2010年8月1日
 久しぶりのカヌー
 広島弁では・・・・・・・
 「太田川支流の水内川でカヌーができるという情報があったんよ。そいで、水内川を偵察したんじゃが、水量が少ないし、堰が多いけえ、そこでのカヌーをやめたんじゃ。そいで、太田川本流に戻ってのう、1時間ほど太田川をカヌー(カヤック)で下ったんじゃが、2年振りのカヌーじゃった。一度、瀬でカヌーが転覆してのう、カヌーの底が岩に接触して、カヌーが直進方向から少し斜めになったところに、ちょうど高さ50センチくらいに波立つ箇所があって、カヌーはあえなくバランスを崩したんじゃ。いびせーのう。
 見た目よりも流れが速うて、道路から見た時は浅い瀬じゃと思うとったが、川底に足が届かんかった。ライフジャケットのおかげで溺れずにすんだんじゃが、浮力の大きいライフジャケッは激流でも安心できるのう。カヌーが激流に流されると、カヌーが受ける水の抵抗が大きいんでのう、身体がカヌーと一緒に流されるよのう。急流でカヌーを引いて岸まで泳ぐことができんので、急流が終わる場所までカヌーと一緒に流されるんじゃ。転覆したら精神的にパニックになりやすいんじゃが、急流に身をまかせるしかないのう。カヌーを捨てて身体だけ救うて、カヌーを下流で回収する場合もあるじゃろうのう(回収できる場合のことじゃが)。」


2010年7月23日
 司法修習生就職難
 司法修習生の4割が就職先未定だという報道があった。最近の数年間では、弁護士の仕事は減少傾向にあり、司法試験合格者が増えれば、就職難は当然の結果だろう。この地域でも、弁護士や司法書士の数がここ数年で急に増えた。今では、都会でも地方でも仕事を求める弁護士が溢れている。苦労して弁護士や司法書士の資格をとっても、資格があるだけでは「食っていくこと」が困難な時代になりつつある。かつて、「弁護士過疎地をどうするのか。弁護士が足りない。弁護士を増やせ」と声高に叫んでいたマスコミは沈黙するようになった。
 
 弁護士が増えれば弁護士の仕事が増えるのであればよいが、現実には、弁護士の仕事は最近の不景気やクレサラ事件の減少により、減少傾向にある。当たり前のことだが、弁護士の数が増えても弁護士の仕事は増えない。
 市民は「弁護士費用が高いから弁護士に依頼できないのだ」と言い、弁護士は、「ボランティアのような安い費用では食っていけない」と言う。庶民は、弁護士費用が「保険適用医療のような安い費用」であることを期待している。しかし、そのような制度がなければ、それは実現できない。
 ヨーロッパのように、弁護士や司法を利用しやすい制度がなければ、弁護士の数が増えても弁護士の仕事は増えない。庶民から見れば、弁護士の数が増えても自分が依頼できなければ意味がない。また、弁護士に依頼する人が増えれば、紛争が増えて嫌だと考える人は、相変わらず多い。弁護士の数が増えれば、弁護士費用が安くなると考える人が多いが、建設業者の数が増えれば、家の建築コストが下がるだろうか。競争によって弁護士費用の額が若干下がるが、東京で弁護士費用60万円が50万円に下がったとしても、過疎地ではも従前から30万円程度で受任しているのである。低利住宅ローン制度や、地価の制限、住宅供給公社、所得格差の解消など、家の建築費を支払える状況がなければ、家はたくさん売れないように、弁護士の利用もそのような制度が必要である。現在、日本には、弁護士に依頼できるための低利のローン制度すらない。医療保険制度のように、弁護士を安い費用で利用しやすい制度がなければ、弁護士への依頼は増えない。

 アメリカでも、ドイツでも司法試験合格者のうち法曹になるのは一部であり、多くの者は企業や役所に就職している。日本でもそれが必要だろう。しかし、企業や役所に就職するのであれば、大学の法学部を出ていれば十分であり、わざわざ法科大学院を出る必要はない。そのため、ヨーロッパの国々には法科大学院はなく、法学部卒で法曹資格を得た後に就職する。もっとも、オランダでは警察署長は法曹資格を持つ公務員という位置づけがなされており、このように法曹資格のあることが企業や役所で役に立つ状況がなければ、法曹資格は意味をなさない。

 私は公務員をしながら司法試験を受けていた。その前は、週6日間、学習塾の講師をしていた(日曜日は山に登っていた)。私は大学卒業後、仕事をしながら司法試験を受けていた。現在は、法科大学院に行かなければ受験資格がなく、法科大学院を働きながら卒業するのは無理である。法科大学院の学費も高い(私が学生当時、大学の学費は年間5万円だった)。結局、法科大学院ができてからは、私のように、幅広い社会人が働きながら司法試験を受けることができなくなった。私が司法試験に受かった時、公務員としての貯蓄は50万円程度しかなかった。私には法科大学院に行くだけの貯蓄がなかったし、親の援助(父親はその数年前に亡くなっていた)も期待できない。当時、もし、法科大学院制度があったとすれば、私は資力がないために、法科大学院に行くことは無理だっただろう。かつての司法試験は誰にでも門戸の開かれた公平な試験であり、能力と努力さえあれば受かることが可能だった。司法試験の競争率が高くなったのはこのためである。しかし、現在は、資金と時間がなければ法科大学院に入ることができない。私のように働きながら司法試験を受けることができなくなった。法科大学院という入口制限をすれば、司法試験の競争率が下がるのは当然である。

 法科大学院は多額の税金を使うだけで、国民にとってメリットはない。国民から見れば、弁護士や裁判官が法科大学院卒か法学部卒かは、どちらでもよいことである。法科大学院は、大学のために作った制度である。法科大学院政策は失敗だった。世界の中で法科大学院があるのは、日本、アメリカ、カナダだけであり、他の国に法科大学院がないのは当然だろう。
 法科大学院を廃止した方がよいが、既に作ってしまったものを廃止することも多くの支障を伴う。まるで作りかけた巨大ダムの後始末のようなものだ。政治の無策。

 
 私は、法曹資格を得てもそのまま公務員としての仕事をしてもよいという気持ちもあったが、2年間司法研修所に入るためには、役所に休職制度がなく、いったん退職しなければならなかった。その役所は内部に法曹資格者が必要だという考えはなかった。そして、いったん、退職して役所に復帰するためには、また公務員の採用試験を受けなければならない。役所はそこまでしなければならないほどの魅力のある仕事でもなかった。役所にもっと魅力のある仕事があり、2年間休職できる制度があれば、公務員にとどまったのだが、現実はそうではなかった。役所の仕事に魅力がなかった理由は、役所が「何かを考えて仕事をする」状況ではなく、前例踏襲、マニュアル主義、思考の停止、政治的打算の重視、市民ではなく上司と政治家を見ながら仕事をする状況などである。

 


2010年7月20日

 登山道の管理責任
 
日本山岳文化学会の論集に「登山道の管理責任」というタイトルの論文を書いた。
 今年の山岳文化学会の大会で、「登山道の管理責任」というタイトルで口演予定。
 「登山道では自己責任」と単純に考える登山者が多い。これは、登山道に人工的なものが全く持ち込まれていなければ正しい。しかし、登山道自体が人工的なものであり(土地の掘削という意味で)、さらに鎖や梯子、橋、山小屋などが設置されている。人工物については必ず「管理」、「欠陥」の問題が生じる。上高地にある橋を1日に数千人の登山者やハイカーが通行しているが、この橋が腐朽して落下して死者が出ても、「ハイカーは自分で橋の安全性をチェックすべきだった」とは言えないだろう。鉄骨やコンクリートの橋は、都会でも山の中でも強度は同じはずだ。ハイキングルートの場合は、橋の鉄筋の強度が弱くてもよいという理屈は成り立たないだろう。都会でも山の中でも人工物を設置する者はそれなりの責任を持つべきであり、責任が持てないのであれば設置すべきではない。そもそも橋がなければ、誰も通行することがないので、当たり前のことだが、橋の落下事故は起きない。落下するような橋がある場合も、橋がなければ事故が起きないという意味で安全なのである。


2010年7月10日
プリウスに乗る。
 環境保護のために、通勤にトヨタのプリウスに乗っている。何しろ、年間、4〜5万キロは車で走るので、燃料代がバカにならない。
 乗ってみた感想は、確かに燃費はよい。加速は弱いが、まあ、こんなものだろう。それ以外はフツーの車といった感じ。


2010年7月2日
弁護士会の会報に「人間の主体性について・・・弁護士の雑感」を書く。例によって、例のごとく、堅苦しいテーマを、ちょっと知的で、ちょっと面白そうな内容にして、テキトーに書いた。


2010年5月2〜3日
 
乗鞍岳、御嶽山・山スキー
 乗鞍岳、御嶽山で山スキーをする。メンバーは、広島山岳会、プラス、高校の同級生。いずれも、山頂まで何時間か歩き、山頂からスキーで滑降するという日帰り登山である。乗鞍岳の山頂は強風が吹き荒れ、けっこう寒かった。最近はあまり山に登っておらず、「寒い場所は今年初めて」というありさまなので、調子がイマイチだったのは当然だろう。3000メートルのピークを2つ踏んでも、「まあ、こんなもの」という程度の感想である。滑降はそれなりに楽しめた。


            
                 
     乗鞍岳山頂



2010年4月25日 
 日本山岳サーチ・アンド・レスキュー研究機構理事会、及び、総会(神戸市)
 今年度、山岳事故の第三者調査法、登山倫理、事故マップ、登山教育の実態調査などを研究、実施することが確認された。


2010年4月24日
 村上春樹の「1Q84」を読む。全体的にサスペンス的であり、これは本を売るためのある種のテクニックなのだろう。ストーリーの展開に不自然さと無理があるが、サスペンス小説ではないと割り切れば、我慢できないこともない。この種の小説は思想を描くことに意味があり、ストーリーは二の次である。ストーリーは思想の道具でしかないのだろう。ストーリーは不自然、ゲーム的でつまらない。まあ、フィクションだから何でも話を作ることが可能と言ってしまえば、それまでだが。
 村上春樹の描く世界は、存在の根拠の稀薄さ、現実の非現実性、不確実性の世界とそれらに対する人間の不安である。「私が私の実体であることをどのように証明すればいいのだろう?」 現代社会に生きることは、そのような不確実性な虚像に翻弄されることを避けられないようである。現実の非現実性は、オウム事件や少年の凶悪事件、大量殺人事件などの加害者たちも同様に感じているのではないか。自分の起こした重大事件が、現実のものとは思えない感覚。夢の中の出来事のような感覚。「すべては夢の中の出来事のように思えます」 離人症は現代特有の症状である。このような不確実性や不安がなぜ生じるのかという点に興味がある。
 「海辺のカフカ」も、基本的には同じモチーフの作品であり、作品中に、現実や実在を確信できないあやふやな「生」が充満している。現代社会ではこれに共感する人は多いのだろう。これらはすべて人間の意識の産物であり、人間の脳の中で展開される物語である。
 これに対し、登山の世界は、確実性と実像の世界である。登山の世界では、頭で考えることではなく、手、足、皮膚で感じ、身体で実体験することがすべてである。登山では人間の意識が生物的な身体活動に宿ることを実感する。自然の中ではすべてが安定した微妙なバランスのうえに成り立っていることを感じる。人間も自然の一部なので、微妙なバランスと安定感の上に生存しているが、このバランスが少しでも狂うと、不安、神経症、うつ病、精神疾患、人格異常などが生じる。今の社会は、このようなバランスが崩れやすい。人間は、生まれた直後から、親子関係というフロイトが述べるような不安要因にさらされ、学校、就職、企業、結婚などでそれらの不安要因が積み重なる。
 カフカもそうだが、村上春樹の世界は都会が前提である。村上春樹は、しばしば「森」を舞台として取り上げるが、それは自然的な意味の森ではなく、都会の中の森、人間の頭の中の森である。この点で、「森ガール」が、自然的な意味の森ではなく、都会の中のオアシスとしての「森」をイメージしている点と共通性がある。現代の人工的な文化は余りにも頭でっかちになりすぎたのではないか。村上春樹は、小説家は問題を提起するだけで、問題を解決しないと言うが、村上春樹の小説を読んでも問題は解決されない。混沌とした世界に対する警鐘を鳴らすだけである。実感できるもの、経験に基づいた生活の積み重ねが、この種の不確実性に対する回答になるのではないか。
 この本の思想や問題提起はともかく、ストーリー自体は退屈でまったく興味が湧かなかったので、けっこう苦痛を感じながら最後まで読んだ。ゲーム的なストーリーに興味の持てる人は一気に読み通すことができるだろう。


2010年4月17日
 「風の谷」パーティーの遭難事故

 岳人755号に「風の谷」パーティーの遭難事故に関する記事が載っている。これは、今年の正月に山岳ガイドの山田哲也氏が主催するガイド登山(客は6名)で、北アルプスの黒部五郎岳を目指したが、大雪のために行動が困難となり、ヘリで救助された事件である。予備日を1日超過したが全員無事だった。
 この事件について、登山としてはいろいろな問題点が指摘されるかもしれないが、法的な観点から見れば問題はない。そもそも死傷者が出ていないので、損害が発生していない。1日の下山の遅れがあるが、それがガイドのミスに基づくものだったとしても、客は冬山ではこの程度のことは予想・覚悟すべきであり、損害賠償責任は生じない。
 県警ヘリの要請が安易だったのではないかという批判があるようだが、法的には、仮にそのような問題があったとしても(その点の事実関係は不明)、違法ではない(仮病を使ってヘリを要請するような場合は違法であり、県に対し損害賠償責任を負う)。仮に、ヘリを要請しなかったために客が凍傷などを負ったとしても、冬山での凍傷はある程度は予想すべき部分があるので、通常は、ガイドに責任は生じない。ガイドに責任が生じるとすれば、客が凍傷にかかったのをガイドが知りながら、それでもヘリを呼ばず(天気がよくヘリが出動可能な場合)、ガイドが最後まで頑張って自力下山することにこだわったために、凍傷への対応が遅れ客が手足を切断したような場合である。ガイドが、客の凍傷を知った時点で、適切に対処すべき注意義務を負い、それを怠ったとして法的責任を負うことになる。
 ガイドは、「登山としては失敗」と述べているが、法的には損害が発生する前にヘリを要請し、損害を未然に防止したので、賢明な判断だったと思われる。メデタシ。

2010年4月11日
 広島山岳会総会


2010年4月1日
 
高校野球、広陵高校の敗退と「腹切り」談話
 高校野球を見ながら考えた。
 広島県代表の広陵高校が準決勝で負けたのは、ぬかるんだグラウンドがかなり影響したようで、選手には気の毒だった。しかし、高校野球のルールを決めた以上、主催者が試合の中断、中止を決めない以上、どんなに悪条件でも、負けは負けである。どんな試合でも運、不運があり、スポーツはそういうものである。
 
 それに関連して、島根県の開星高校の野球部督の「末代までの恥」、「腹切り」談話が思い出される。どんなに強いチームでも負けることがあり、高校野球は所詮、運、不運の面がある。誰もが、この監督をバカな監督だと思うだろうが、問題はその発言に対する社会のパッシングである。バカな監督ではあるが、マスコミが大々的に報道するような事件ではない。笑ってすむようなドーデモヨイことなのだが、それを大事件にし、許さないのが日本の社会である。日本の社会は厳しいですね。寛容さがない。相手チームはこの発言に怒るのが当然だが、それ以外の人たちは自分とは関係のないことなのだから、「変な監督だ」くらいの笑い話ですませてよいと思うのだが。監督が辞任するという点もいかにも日本的である。
 
 21世紀枠出場
 
21世紀枠での出場については、民主的公平性に反する。オマケで出場するのだからメデタイではないかという意見もあろうが、21世紀枠がなければ、地区予選の上位校が何校か出場できるはずのところを、21世紀枠という曖昧模糊とした基準で恣意的に出場校が選出される結果、本来選出されたであろう学校が選出されない結果となるのである。
 進学校のチームや離島や僻地のチームは21世紀枠に入りやすいようであるが、野球は教育の一環であり学力も重要というのであれば、選手に学力試験を実施することが公平ではないのか。離島や僻地のチームを優遇するのであれば、その根拠と基準が議論されなければならない。ドイツ人であれば、必ずこのような議論をするのではなかろうか。「日本はドイツではないのだから、ものごとは曖昧でよいのだ」と言ってしまえばそれまでだが。オリンピックの代表選考などでも、日本のスポーツ界には常に不明朗さがつきまとう。オマケの選出はルールを無意味にする面があり、大学の裏口入学とか、学長推薦による入学などと同じく、公平とは言えない。
 


2010年3月21日

 氷ノ山・山スキー
 
兵庫県と鳥取県の県境にある氷ノ山で山スキーをした。
 この日は裏日本は大荒れという天気予報だったが、参加者の休暇の都合でこの日の実施となった。気温が低いために雪はすべて氷化しており、氷ノ山は「氷の山」になっていた。スキーよりも、スケート靴の方が似合いそうだった。
 午前中は曇りで、下の写真のようにマアマアの天候だったが、午後になると吹雪と強風になり、視界がきかなくなった。地図とGPSで方角を確認しながら下山する。こういう時の氷ノ山はルート迷い遭難が起きやすい。他の登山者はいなかった(こういう悪天候で登山する者がいないのは当然だろう)。
 もし、遭難すれば、「中高年グループ、大荒れの氷ノ山で遭難。山を甘く見た無謀登山か」などと大きく書かれるのだろう。
 午後4時下山。帰路では、来る時には雪のなかった道路にシャーベット状の雪が積もっていた。


          


2010年3月10日
 蟻が像を倒した日
 日弁連会長選挙の再投票で、宇都宮候補が当選し、次期会長になることが決まった。これは、派閥支配による従来の日弁連執行部に対する批判的な弁護士が多かったということの結果である。宇都宮さんは大学の先輩であり、私は学生の頃、いろいろとお世話になった。
 従来の日弁連執行部は、司法改革をかかげ弁護士の増員政策をとったが、基本的に、従来の日弁連の執行部には、大企業、経済界、政治家、資産家、大学などの意向が強く反映していた。弁護士が依頼者から金をもらうことによって成り立つ業種なので、資力のある者や社会的、経済的な力のある者が弁護士の主たる依頼者層になる。日本の政治経済を動かしているのは、東京を中心とする大都市の大企業、経済界、政治家、資産家、大学などであり、弁護士はその影響を強く受ける。社会的に力の大きい者の影響を強く受ける点ではマスコミ(企業の広告がマスコミの主な収入源である)も、弁護士も同じである。選挙中に、巨大法律事務所や派閥、経済界の意向にそった会長を選ぶべきだと率直に述べた日弁連元幹部もいる。
 今の社会では、競争力のある企業、能力があり社会的に成功した人、親の資産を相続した資産家などが、「勝ち組」とされ、弁護士の主たる収入源はこのような人たちが支払う弁護士費用から成り立つ。日弁連の執行部を構成する弁護士の多くは、安定した顧客層を持ち、経済的に安定した弁護士である(そうでなければ、収入にまったくつながらない弁護士会の会務をできない)。
 これに対し、宇都宮候補を支持した弁護士の多くは、消費者事件など庶民の日常的な事件を扱う弁護士であり、今の社会の中で比較的恵まれない立場にある市民の事件を多く扱っている。むろん、地方でも「勝ち組」は弁護士の主たる収入源であるが、東京の経済力と較べれば雲泥の差がある。地方でも弁護士の主たる収入源が「勝ち組」であることに変わりはないが、多くの弁護士はそうではない一般の市民の事件を多く扱っている。
 今の社会では特別な才能がある人、特別に努力した人、資産のある者、運のよかった者などが「成功者」「勝ち組」になるのだが、競争は必ず勝者と敗者を生む。「頑張った者が報われる社会」に反対はしないが、敗者はのたれ死にしてよいということにはならない。たとえ、敗者であっても健康で文化的な生活は必要である。社会的に成功する人は国民の一部であり、多くの市民は「弁護士に依頼するような経済的余裕がない」のが現実である。そのような一般の庶民の抱える紛争に関する限り、「弁護士の数が増えれば、司法が利用しやすくなる」という従来の日弁連の発想は空虚である。むしろ、弁護士に依頼しにくい状況のもとで、弁護士の数だけが増えれば、消費者が弁護士の利益争奪戦の犠牲になるなどの弊害が生じている。増加した若手弁護士を中心とする弁護士層が、従来の執行部の路線では司法の抱える問題を解決できないと感じたことが、今回の選挙の結果となった。


2010年2月27日
 トムラウシ遭難事故に関するシンポジウムが神戸市で開催された。日本山岳サーチアンドレスキュ研究機構主催。出席者は約300人。
情報管理の研究者、医師、ガイド協会役員、旅行業者、雑誌記者、気象の専門家などの報告に基づいて、討論が行われた。私も、「トムラウシ遭難事故の法律問題」というテーマで報告を行った。

 
限られた時間の中で密度の濃い議論が行われたのではないかと思っている。


2010年2月20日
 
山と渓谷4月号の「トムラウシ・オピニオン」というコーナーに、「問われるツアー登山のあり方」というタイトルの文章を書いた。
 ツアー登山は、ハイキング的な登山にとどめるべきで、自重することが大切だという趣旨の意見である。トムラウシの事故以来、この点を何度も述べているが、なかなか登山家に理解してもらえない。その大きな理由は、「ツアー登山は登山である」という意識が強いために、「登山はこうあるべきである」という発想に縛られる登山者が多いからである。そのような発想からは、ツアー登山を本来の登山の姿に近づけようとする意見が生まれるが、両者の間のギャップを埋めることはほとんど不可能である。それは、ツアー登山の顧客層の志向と登山家の志向がまったく異なるからである。
 私は、
ツアー登山は、パック旅行、ハイキング、レジャーと同類の商品であり、通常の登山ではない」と考えている。「ツアー登山は旅行であって登山ではない」と言うこともできる。ツアー登山は旅行であるから、登山の領域に進出すべきではない。もし、登山の領域に進出するのであれば、旅行の形式ではなく、登山にふさわしい形式をとるべきであり、それはガイド登山、山岳会などでの登山、単独登山などの形態である。古典的なガイド登山は、個々の客の能力や山域に応じて個別的に登山内容をアレンジする。古典的なガイド登山は客が決まった後に登山内容をアレンジするが、ツアー登山はあらかじめ登山内容をアレンジしたうえで、客を募集するという違いがある。ガイド登山は登山内容を客に合わせるが、ツアー登山は客を登山内容に合わせようとするので、無理が生じる。
 ツアー登山を「あるべき登山の姿」に近づけようという努力は、永遠に不可能な課題を追及するむなしい試みである。パック旅行の延長として、「気軽に連れて行ってもらいたい」と考えているツアー登山の参加者に、「あるべき登山の姿」や「自立した登山者」を説いたところで、馬の耳に念仏だろう。そうではなく、ツアー登山では一定レベル以上の危険なことはしないという制限を課すことが、安全なツアー登山のために必要なのである。それ以上のレベルの登山をしたい人は、それに応じた形態の登山(ガイド登山、山岳会などでの登山、単独登山)をすることが賢明である。


2010年2月10日〜16日
 
エコツアーの研修会の講師をしに小笠原島に行った。財団法人日本交通公社の主催で(国の補助金事業)、エコツアーの法律問題について、父島と母島の2箇所で講演をした。ついでに2箇所でエコツアーを体験した。エコツアーは、小笠原固有の動植物など自然の解説を受けながら、ハイキングを行うといったものである。父島と母島のエコツアーのコ−スを2つ実際に歩き、法的な観点から問題点がないかを尋ねられた。私の回答は「問題なし」。エコツアーの関係者はコースがそれほど整備されていないことを気にしていたようだが、コースは通常の登山道のレベルであり、危険と言えば危険だが、所詮登山はそういうものである。登山道をすべてコンクリートで固めればエコツアーにならないだろう。
 夜、地元の観光協会や役所の人たちの暖かいもてなしを受けた。ありがとうございました。
 小笠原の未来はどうあるべきかという熱い議論がなされ、私も無責任な意見をいろいろ言ったが、酔っていたので内容は忘れた。本へのサインを求められ、酔っていたので、自分の名前を書き間違えるという失態も。
 行き帰りとも、トキオの山口、城島が出演する鉄腕ダッシュ村の撮影スタッフと一緒だった。山口は、フェリー乗り場でふざけて赤ん坊をからかって泣かせ、面白がっていた。どこにでもいるような元気なフツーの若者であり、親近感が湧いた。城島が船の甲板に何度も出てタバコを吸っている様子は、その辺のオッサンとあまり変わりなく、これまた親近感が湧いたのだった。

 
帰りに船が出航する時は、10艘くらいの船が見送りをし、最後は島の人たちが海に飛び込んで、海の中で手を振るという恒例の見送りがあった。良い経験ができました・・・・

        


2010年2月6日
 
弁護士と司法書士の暴利行為について
 現在、過払金請求をめぐり、25%から40%といった高額な報酬をとる弁護士、司法書士、行政書士が問題になっている。これは弁護士や司法書士の急増が背景にある。??? 
 弁護士や司法書士の数が急激に増えても、日本には市民が簡単に弁護士に依頼できる制度がないので、多くの市民は弁護士に依頼しない。日本で弁護士に依頼する人は、ある程度以上の規模の企業、資産家、多重債務者、離婚、交通事故、医療事故などに遭遇した運の悪い人に限られる。医療事故で弁護士に依頼する人は、日本全体でせいぜい年間数千人程度である。交通事故に遭っても、そのほとんどは保険で処理されるので、弁護士を必要としない。
 日本では、一生の間に弁護士に依頼することのない人が圧倒的に多い。日本では、日常的に法的紛争が生じても、医者を利用するように気軽に弁護士に依頼できるわけではない。したがって、弁護士の数が急増すると、経済的に不安定な弁護士が増える。法律事務所は収入が0でも、家賃や事務員の給料、リース代、書籍費などがかかり、事務所を維持するためにかなりの固定経費がかかる。弁護士の数が増えても日本全体の事件が増えているわけではなく、事務所を維持するために、同じ事件数からより多くの報酬が発生しなければ、食っていけない弁護士が生まれる。「金の取れる時にできるだけ金をとっておく」という傾向が生まれる。このような弁護士は、採算のとれない刑事事件や法律扶助事件、無償奉仕活動はできない。誤解する人が多いが、自分が生活できるだけの収入がなければ、人権活動をすることは難しいのが真実である。日本のマスコミには自己犠牲を美徳とする風潮があるが(かつて、大手A新聞は、「余裕があるから人権活動をする、というのはおかしい」とのたまったことがある・・・・)、自己犠牲では健全な市民社会は作れない。自分の命を犠牲にして生徒を助けた教師は美談でも何でもなく(「聖職の碑」など)、それは重大な失敗箪として後世に伝えられるべきである。弁護士が経済的に採算のとれない事件や無報酬の活動をするためには、事務所を維持し、自分が食っていけるだけの最低限の収入のあることが必要になる。
 現在、過払金請求事件では簡単に利益が得られるので、弁護士と司法書士の間で事件の獲得競争が生じている。弁護士や司法書士の数が増えても報酬額は安くならない。これは、不動産業者の数や住宅の建築戸数が増えても住宅が安くならないのと同じである。業者の経営が不安定になると、業者は採算のとれない物件を扱わなくなり、1つの取引で多くの利益を得ようとする傾向が生まれる。弁護士の数の多いアメリカでは、弁護士の報酬額は日本よりも高い。
 「弁護士の数が増えれば、競争により、弁護士の報酬が安くなるのでは?」と素朴に考える人がいるが、そうではない。競争によって価格が下がるためには、医療保険のように、誰でも弁護士を利用できる制度のあることが前提になる。日本の司法には一般的な費用の分割払制度がない。
 医療保険のない時代には、限られた階層の人しか医者を利用できず、医者の数がどんなに増えても医療費の額は非常に高額なままだった。現在、医療に関しては、医療保険によって、誰でも医者を利用できるようになると同時に価格も統一されているので、低価格をめぐる競争は生じない。このような制度は司法にも必要であり、それがなければ、弁護士に依頼することのない一般の庶民にとって弁護士の数は関係がない。
 司法を誰もが負担可能な費用で利用できる制度が必要である。それがなければ、弁護士の数が増えても、庶民にはあまり関係がない事柄でしかない。
 


2010年2月1日

 この地域の弁護士が1人増えて、計4人になった。
 この地域は、日弁連や広島弁護士会からは弁護士過疎地と呼ばれているが、従来、弁護士2人体制の時でも、私は個人的には、弁護士が足りないと感じたことはない。あるテレビ局から取材を受けた時、「この地域では、弁護士が足りないために、どのような不都合があるのでしょうか」という質問を受けた。私は、「今まで弁護士が足りないと感じたことはない。弁護士の数が少ないために、弁護士が困るということはない。不便を感じているかどうかは、市民の側に聞いてみなければならないのではないか」と返答した。「弁護士が足りないはずだ」と言われても、「そうなんですか?」と返答するしかない。
 現実には、どんなに弁護士の数が増えても費用を払えない市民は弁護士や司法書士に依頼できない(法律扶助を利用しても費用を負担することに変わりがない)。「弁護士が足りない」という宣伝は、「市民が司法を使用を利用しにくいのは弁護士の数がたりないからだ」という先入観を固定化する機能を持つ。弁護士の増員に反対する弁護士層を市民の攻撃の対象とすることは、司法を利用しやすくするための司法制度の根本的な改革に市民の関心が向くことを回避する機能を果たしている。司法制度の根本的な改革を恐れるのは、現在のシステムのもとで高額な報酬を得ている弁護士(法律扶助制度の拡充は現在の弁護士の報酬システムを根本的に変える)、巨大法律事務所、大企業(消費者が簡単に企業に対して製造物責任訴訟などを起こすことを恐れる)、法務省と財界(裁判官の増員、法律所予算の拡大などの予算規模を拡大したくない)などである。
 

2010年1月4日
アマゾンに書評を2件掲載した。

「ヒューマンラーは裁けるか」、シドニ−・デッカー、芳賀茂 監訳、東京大学出版会

「死刑でいいです」、池谷孝司 編著、共同通信社


2009年12月21日
 
片山右京氏らの遭難に関して、みのもんたの「朝ズバ」というテレビ番組で、僕のコメントが放送された。おそらく民事責任が生じないだろうという面白くも何ともない当たり前のコメントである。僕は取材したテレビ局のスタッフに、この種の事故はヒマラヤなどでしばしば起こる事故であり、珍しいものではない、冬山は危険なので、運が悪ければこの種の事故が起こると述べたのだが、それらはすべてカットされていた。マスコミはどうしてもこの事故で大騒ぎをしたいらしい。後日、この番組を見たと言う人から何人も連絡を受けたが、テレビの影響力は実に大きい。
 
 また、この日の午後、日本テレビからも同様の取材があり、僕のコメントが夕方のテレビ番組で放送されたらしい。後日、東京に住む妻の妹夫婦からテレビを見たという連絡があった。僕は番組を見ていないので、コメントのどの部分が放送されたのかわからない。

2009年12月19日

 12月18日の片山右京氏らのパーティーが富士山で遭難して2人が死亡した事故について、産経新聞から取材があった。僕は、この種の事故は、危険な登山に常につきまとうリスクであり、運が悪ければこういうことがあり、刑事責任も民事責任も生じないだろうと話した。翌日の産経新聞には刑事責任に関しては僕のコメントが載ったが、民事責任に関する部分がカットされ、早稲田大学の先生の、「民事責任が生じる可能性がある」という内容のコメントを掲載していた。産経新聞は、片山右京氏の法的責任問題を大きく取り上げたかったようであり、「民事責任が生じる可能性がある」という部分が大きく報道された。
 一般論としては、仕事中の事故など、片山右京氏が上司として死亡した従業員を指揮命令する関係にあれば、労災事故になり、使用者の民事責任が生じる
ことがあるが、この事故はそのような事実関係にはなかったと思われる。「
民事責任が生じる可能性がある」という部分だけが一人歩きして、これがいつの間にか、「民事責任が生じるかもしれない」というニュースとして流れた。これは、僕のコメントの趣旨とは逆の内容である。だいたい、マスコミが流す情報は不正確でいい加減なものになる傾向がある。
 

 夕方、高校の同級生5人で夕食を食べた。36年にタイムスリップしたようだった。


2009年11月14日

 大阪府山岳連盟主催の「安全登山の集い」(大阪市)で、登山事故の法的責任について話をした。この種の話は、東京、大阪などで4、5回話しているが、2009年7月のトムラウシでの大量遭難事故があったので、関心が高まったようだ。法的知識が直ちに安全登山をもたらすわけではないが、登山を引率する人にとっては重要な問題である。
 参加者100名。高校の同級生の新宮原が参加していた。学生時代に登山をしていたとのこと。現在は関西大学の工学部の教授であり、内容はさっぱりわからないが、難しい研究をしているらしい。夜は、山岳ガイドの角崎氏宅に泊めてもらう。翌日、角崎氏は京都で鹿狩りの狩猟をするとのことで朝早く出かけていき、僕は狩猟には興味がないので、広島に帰った。


2009年9月20日〜22日
 谷川岳に行った。大島亮吉は谷川岳を「近くてよい山」と評したが、広島からはかなり遠く、登る機会が少ない。20日に山頂に登り、21日、一の倉沢烏帽子沢奥壁南稜を登攀し、一の倉岳岳を経て、中芝新道を下山。22日は幽の沢の岩壁を偵察しただけで帰広。

2009年9月15日
 雑誌「岳人」(東京新聞出版局)10月号に、2009年7月16日にトムラウシで起きた遭難事故の特集をしている。この中で、私は、「ツアー登山の安全性を考える」というタイトルの一文を書いた。

2009年9月6日
(日)
 広島市近郊の窓が山でクライミング。9月の連休に谷川岳でクライミングをするので、1年5か月ぶりに岩に触ってみた。5.9〜5.10cのルートで練習。久しぶりなので、リード2本、トップーロープ5本で、見事に腕がパンプし、1日が終わった。5.10cのルートはメロメロ状態だった。

2009年8月29日〜30日(日)
 芸北文化ランド(元スキー場)で、広島県山岳連盟の指導員研修会があり、そこで「登山指導者の法的責任」というタイトルで1時間20分話をした。7月の大雪山の遭難事故の後なので、けっこう関心があるようだ。
 土曜日は宴会。それにしても酒飲みが多い。

2009年8月23日(日)
 三倉岳山麓のマロンウォールでの広島県山岳連盟のレスキュー講習会に参加。講師の渡邊輝男氏とは、昨年の日本山岳サーチアンドレスキュー研究協議会(神戸市)で同席したことがある。また、以前、天応でのレスキュー講習会でも会ったことがある。参加者が余りに多すぎた。新聞広告と7月の大雪山での遭難事故のためである。
 この日、高校の同級生の瀬川氏と浜本氏に出会う。彼らは講習会の一般講習に参加し、私はクライミング講習に参加していた。浜本と会うのは30年ぶりである。高校の同級生で数年後にキリマンジャロに登る計画があり、それに私もその話に乗ることになった。そのグループのメーリングリストに加わり、以後、メールが届いているが、皆、年甲斐もなく元気そうだ。酒を飲んで朝帰りをして、そのまま10キロ走ったとか・・・・・・自転車で100キロ走行したとか・・・・・・