T もーちん誕生
1998年11月24日、結婚7年目にして我が家に待望のベビーが誕生しました。
夫婦
揃って山口百恵のファンであることから赤ちゃんの名前は、女の子と分かった時点から
「百映」(モモエ)と決めていました。「恵」が「映」になったのは将来
映画関係の仕事に
就いてくれたらなぁという、私の希望を託しての命名でした。
妊娠中は私が20キロ近く太ってしまった(-_-;)という事以外は赤ちゃんに特にトラブルも
無く順調だったのですが、予定日を1週間過ぎても10日過ぎても全く生まれる気配が
無く、 はじめは「初産だし」とのんびり構えていた私もさすがにちょっと心配になってきた
矢先、 あまりの生まれて来なさにヤケになって食べたすき焼きでお腹をこわしたのが
きっかけで(?) ようやく陣痛がきて、予定日を16日も超過してもーちんは生まれてきました。
予定日を大幅に過ぎていた事で赤ちゃんは元気なのか、何か問題は無いのかと、とても
心配しましたが、生まれた直後、へその緒が2重に首に巻き付いていた為、産声
こそ
すぐには出ませんでしたが、吸引した途端に「オギャ−」と元気な声をあげて
くれて、
ドクターに「赤ちゃんは心配ないですよ」と言われた時、心底嬉しかった事を
今でも
覚えています。
「生まれたよ」の知らせに病院へ急いで駆けつけたパパでしたが、正直言ってもーちん
の 第一印象は衝撃的だったようで、あまりのブサイクぶりに言葉を無くしてしまい、
「とにかく元気ならそれで良いよ(-_-;)」と言っただけでした。。。
でもそれは私も一緒で 周りの新生児より郡を抜いての面白顔な我が子に思わず
引いてしまったのは確かです。 (もーちん、ごめんね〜)お見舞いに来てくれたお友達や
家族もみんな同じ気持ちだったらしく、 必ず誰からも「顔って変るから」と言われたものです。
まぁでも今思えばそんな風に可愛いだの可愛く無いだの言ってられたこの頃は幸せ
だったん だなぁってつくづく思ってしまいます。。。
そう、もーちんのジェットコースタ−人生は生後2日目の朝にはすでも始まっていたのですから・・・
この写真、公開するか本気で悩んじゃいました。
生まれた日のもーちん。いつ見ても怖いよ〜
U NICUへ
出産の翌々日の朝、ナース・ステーションへ呼ばれた私は医師から
「赤ちゃんが発熱と嘔吐の為に、大変衰弱していて心配なので、これから大学病院の
NICUへ搬送します。ご主人に搬送先の病院へ向うようにすぐに連絡して下さい。」と
告げられました。
「にゃに〜??」と突然の事でかなり動揺しつつもすぐにパパに連絡をとって、搬送先の
病院へ向かってもらい、犬を入れるような取っ手付きケース(私にはそう見えた)に収まった
もーちんが救急車で搬送されて行くのを産院の玄関から大泣きで見送り、何でもない
無い事を祈りつつ、<もーちん、ピンチ!!>の知らせに産院に駆けつけた母、妹と共に
パパからの連絡を待ちました。
もーちんが搬送されて2時間後、パパから私の元へ電話が入りました。
私が「どうだった?」と聞くと、パパは「点滴で栄養さえ取れば大丈夫なんだって、今のところ特別
悪い所は無いらしいよ」と言いました。「良かった〜!!」と母達と喜び合い、ひとまず安心した
ものの、もーちんに会うまではやっぱり心配だったので、私は通常5日間の入院を1日
繰り上げて4日間で退院して、もーちんに会いに行きました。
久々に会う(と言っても会えなかったのは2日だけですが)もーちんは保育器に収容され
点滴に繋がれては いたものの、見た目はとても元気そうで、10cc程度でしたが口からミルクも
飲めるように なっていました。その後も、もーちんは会いに行く度にめきめき良くなっていき、
熱が下がり、 保育器から脱出し、ミルクの量も標準まで増えた時点で、一通りの検査結果も
異常無しと 出たのを機に、NICU12日間の入院を終え退院の運びとなりました。
結局この時どうして熱や嘔吐が出たのか、原因については、はっきり分かりませんでした。
もしかしたらすでに発病していたのかもしれません。でもこの時点で私達夫婦が思っていた事は
「もう2度と大学病院へ来る事なんて無いだろう、この子はもう大丈夫。」という事だけでした。
NICUでのもーちん、小さかったなぁ。。。
V 家族3人の生活スタート
初めての子供で、しかも生まれてすぐに入院してしまうというアクシデントもあったので、
子育て関しては始めのうち、かなりの不安を持っていたのですが、いざ退院して
一緒に
生活してみると、もーちんはとっても手の掛からない赤ちゃんで、退院以来大きく体調を
崩す様な事も無く、拍子抜けしてしまう程、楽な子育てだったと記憶しています。
私達夫婦はもーちんが生まれる迄、同棲期間も含めると約10年間、大人2人の自由
気ままな、お気楽生活をしたきたのですが、もーちんはそんな私達の生活にとても自然に
溶け込んできて、あっと言う間に愛しい大切な家族となっていました。。。
ただ、いつまで経っても哺乳力が弱く、ミルクの量があまり増えないし、うちの子だけが
いつもゼロゼロしてる気がしてならなかったので、1ヶ月健診の際に医師に
相談しましたが、「やや体重が標準よりも少ないけれど増えてはいるので、
生まれつき食が細い子なのだと思ってあまり心配しない事、ゼロゼロは新生児だから」
と言われ「なーんだそうかぁ」と安心していました。
2ヶ月半で首がほぼ座り、しっかり追視をして手足をいつもパタパタ元気に
動かしているもーちんの姿に病魔の影はこれぽっちも見られなかったし、こんな元気な
子が病気になるなんて思いも寄らず、家族が増えた事がただうれしくて、子供の
世話や家事に追われつつも充実した生活を送っていました。
生後2ヶ月半の頃、少しは女の子に見える様になってきたかな?
W ケイレン出現、うちの子なんか病気なの〜?
体重の増えは悪かったものの、発達面など全く問題なく順調に育っていた
もーちんですが、間もなく3ヶ月に入ろうという矢先に病魔はゆっくりと
忍び寄り始めていたようで、兆候らしきものが
目に見えて起こり始めたのでした。。。
体を左右対称にキュッと縮めながら、目は上に向いたままの状態で3秒位固まった
後に叫び声をあげる・・・ そんな動作を日に2、3度見せる様になったが全ての始まりでした。
今にして思えばもーちんはケイレンを起こしていた訳ですが、何の知識も
持たない私にはその仕草が何を意味するものなのか全く理解出来ずに
いたのです。ただ、ただビックリしてすぐにパパに「何か変だ」と見たままの
状況を話し ましたが、パパは実際に見ていないので「おまえの気のせいじゃないか?」
と言って取り合ってくれませんでした。
でも固まっている時の目の感じが、何か普通じゃないって
思えて仕方無かったので、
子供を持つ友達に相談したり、育児相談の 電話サービスなどあらゆる所へ
問い合わせて聞いてみましたが、他に何の症状も無ければただの
カンシャクじゃないか?という様な答えが返ってきただけでした。
しかし、パパが休みの週末の土曜日。1日中もーちんと一緒に居て
キュッと体を縮めるその動作を初めて見たパパは大変驚き、
「普通じゃないよ、すぐ医者に行こう」と言い、1999年2月27日
もーちんを近所の小児科へ受診させたのです。
小児科の先生は私の話をじっくりと聞いてくれました。そしてもーちんの体を
隅々まで丁寧に診察した後に「お父さんも病室に呼んで下さい」と言って、
「大学病院を紹介しましょう。もっと詳しく検査する必要があると思います」と言ったのです。
やっぱりもーちんの体に何か起きている・・・しかし、それがまさか死に至る事に
なるとまではその時は思いもしませんでしたが、それでも漠然とした焦燥感に
胸騒ぎがして、とにかく怖くてたまりませんでした。
ほっぺが落ちるよ〜
X 思い過ごしでよかった♪ 穏やかで幸せな日々
小児科で大学病院の予約を取ってもらった私達は紹介状を手にもーちんを連れ、
1999年3月4日 検査の為に、もーちんが生後2日目に運ばれ入院し、2度と来る事は
無いと思っていたあの場所を再び訪れたのでした。
小児科のドクターはもーちんを診察した後、「特に心配無いと思いますが、
もしどうしてもお母さんが心配なら検査しましょう」と言いました。
かなりの覚悟で受診しただけに、ちょっと拍子抜けしてしまいましたが、
受診前に本などを読み、もーちんの動作がケイレンに間違いないと確信していた
私としてはこのままでは納得いかないという強い思いがあったので、
「是非検査して下さい」と先生にお願いしました。
年月日 | 検査項目 | 検査結果 |
1999.3.12 | 生理検査 脳波 | 異常なし |
1999.4.7 | 画像診断 MRI頭部 | 異常なし |
しかし、検査の結果は上記の通り、特に異常は認められませんでした。
ただこの時、血液検査は行っておらず、もし採血していれば、また違った結果が
出たのかも知れませんが、とにかくこの時の最後の診療予約の時は
「もうお子さんは連れて来なくていいです」と言われ、更にドクターからは「初めてのお子さんなので
神経質になりすぎているのでは無いでしょうか?もう少し、ゆったりとした気持でお子さんと
向き合ってはいかがですか?」という言葉を掛けられて終了したのです。
私は心のどこかで「そんなはずは無い・・・」と思いつつも
「なーんだそうかぁ。問題は私にあったのね」とドクターの言葉を素直に受け止める事に
しました。なぜならばそう思う事で、体を震わせ叫ぶもーちんなんて居なかった事になるし、全てが
無かった事に
なる。現実逃避と分かっていても私は、そう思う事に決め、
「もーちんは何でも無いんだ」と自分自身に強く言い聞かせ、病院を後にしたのです。
実際、受診後もーちんのケイレンはなぜかぱったりと治まり、そこで初めて
「全てが取り越し苦労だったんだぁ」と思う事も出来て、心底安心する事が出来ました。
そしてもーちんは元々ケイレン時以外は何の問題も無い子だったので
笑ったり、泣いたり、怒ったりと元気いっぱいの極々一般的な赤ちゃんに
戻って私達家族に穏やかで幸せな日々が戻ったのでした。
しかしこの時、この短い数週間が私達家族にとって最も幸せな日々であり、
結果的にはもーちんが何かを感じ取る事の出来る最後の時となってしまうのですが・・・
発症寸前、この写真が元気だった頃のもーちんの最後の写真になりました。
Y 悲しみの渦へ
その日はゆっくりとそして確実に訪れました。5月の連休明けから
再びもーちんの様子に変化が現れたのです。まず眠る時間が異常に長くなってきました。
まるで新生児の様に眠り続けてしまうのです。そして起きてる時が反応が少しづつ
鈍くなってきました。あまり笑わないし、目の焦点が合っていない時があるのです。
とても怖かったけど、また大騒ぎして何でも無かったらと思うと躊躇してしまい、
少し様子をみる事にしました。
しかし最初におかしいと思った5月10日から1度も状況は改善される事は無く、
逆にひどくなる一方のまま5月16日、この日を境にもーちんは全く声を
出さなくなってしまい、笑う事も泣く事もしなくなってしまったのです。
慌てた私達は1999年5月17日再び最初に訪れた近所の小児科を受診しました。
先生はもーちんをほんの少し診察しただけで、
「今度は神経科の方へ紹介状を書きますから1番早い予約で診て貰いましょう」と言いました。
そして「憶測ではありますが」と前置きした後に
「多分お子さんの頭の中で何かが起きてると思われます」と先生は言ったのでした。
頭の中で何かが起きてる・・・家に帰り着いても先生のその言葉が
頭から離れる事はありませんでした。
そしてもう2度と戻れない大きな渦に巻き込まれていくのを感じずには
いられなかったのです。
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