北陸の三つの縄文遺跡 (福井県、石川県、新潟県)
鳥浜貝塚、真脇遺跡長者ケ原遺跡
(若狭町、能登町、糸魚川市)
(2010.11.27ー29 遺跡・古墳・資料館を巡る旅の記録)

丹後半島の古墳巡りから北陸の縄文遺跡を巡る旅の最終回である。縄文社会から弥生・古墳時代への道筋は、日本各地により異なる。約10,000年の歴史をもつ縄文文化は、小さな共同体をむやみに拡大しようとする力は無かったが、意外に成熟したものだった。この成熟度は東高西低であり、東の社会ではこの成熟度のためにかえって、より大きな組織力・共同体を志向する弥生社会への移行が遅れたように感じる。大雑把に見れば、北陸の縄文文化は東西の縄文文化の境界上にある。そのような思いを懐きながら、地域的な特色をもつ北陸の三つの縄文遺跡を訪ねた。鳥浜貝塚では、縄文漆と丸木舟に加えて、古環境を探る花粉分析に興味を覚える。真脇遺跡では、縄文の漁村風景と板敷き土壙墓、祭祀用の木柱列を見学する。長者ケ原遺跡では、縄文の大珠・玉生産工房を持ち、長年にわたって硬玉原産地として存在しつづけた村落の在り方に注目する。

鳥浜貝塚 (とりはまかいづか) ・ 若狭三方縄文博物館  福井県三方上中郡若狭町鳥浜122-12-1
     



鳥浜貝塚は、食料・生活具のゴミ捨て場である。川近くでも住居跡(写真右上)は発見されたが、縄文人はすぐ北側・丘陵上の竪穴住居に住んでいたらしい。この地では、石斧柄、棒、鹿角など(写真中)、丸木舟(現存長6.08m、最大幅0.63m、最大内深0.21m)(写真右下)が出土した。

鳥浜貝塚は、縄文時代草創期~前期(13000~5500年前)を主体とする遺跡で、”高瀬川”と”はす川”の合流点に位置する低湿地遺跡である。昭和37年から調査が行なわれ、昭和61年まで計10次にわたる発掘調査が行なわれた。出土した木製遺物など1376点が重文指定されている。

          正面が”はす川”、右から流込む”高瀬川”
  鳥浜貝塚は、はす川の左岸川床の発掘調査で発見された。現在は川中に水没している。
はす川左岸・鳥浜貝塚の西0.5kmには、ユリ遺跡(縄文後期前半)があり、ユリ遺跡の西南1kmに、北寺遺跡(縄文中期中葉から後期中葉)がある。いずれも海抜0~5mの地にあり、出土木製品の保存状態が良い。
         鳥浜遺跡は公園(広場)として保存されている。
             鳥浜貝塚の石碑と縄文人(?)
定説を覆した日本最古の赤漆塗り櫛、石斧の柄、編物、編物、縄やヒョウタン、リョクトウなどの栽培植物などが出土し、縄文人のイメージを一掃した。
若狭三方縄文博物館  不思議なデザインの建物であるが、縄文時代を特徴づける土偶のハラをイメージしているという。鳥浜貝塚をはじめ近辺の考古学的調査の特徴は、当初より考古分野と動物学、植物学、地質学、生物学など自然科学分野の研究者が参加し、総合的な研究が進められた点である。三方五胡は、三方湖(淡水)、水月湖(汽水)、菅湖(汽水)、久々子湖(汽水)、日向湖(海水)の五湖よりなる。いずれの湖も波静かで湖底の攪乱も少なく、それを取り巻く落葉樹林からの堆積物が年輪のように堆積する。流入する河川の集水域は小さく、湖水近隣の環境要素がそのまま堆積層として検出される。その層の変化は、遠く氷河期が終り人間が定住しだす頃の日本海沿岸の気候変動まで記録する。この層変化を調査するために、三方湖や水月湖でボーリングを行い、採取した堆積物の花粉、珪藻などの微化石、あるいは植物遺体を検出する。微化石分析やC14による年代測定など自然科学的方法を用いて得た花粉ダイアグラム(年代による出現する花粉・植生の変化)は、古環境を復元する。このような分野を環境考古学と呼び、三方五胡を控えた若狭三方縄文博物館は、その前線基地となっている。
縄文博物館(DOKIDOKI館)は、国道162号線に面した「縄文ロマンパーク」の南東端にある。 エントランスホールには、縄文杉の大木をイメージした柱に囲まれて、若狭町気山出土の縄文中・後期の大杉株が、瑞々しさを残して展示されている。
鳥浜貝塚出土 深鉢(縄文前期)
三方五胡周辺の出土土器を展示した「土器の径(みち)」コーナがある。
ユリ遺跡1号丸木舟と2号丸木舟(縄文後期)    鳥浜遺跡からも前期と後期の丸木舟が、北寺遺跡からは櫂が出土している。
鳥浜貝塚(縄文時代前期)出土の興味ある品々 
紐と縄 赤色漆塗櫛(レプリカ)と真珠 漆塗土器と丹彩土器
     鳥浜貝塚調査により明らかにされた「縄文漆」の展示。
赤色漆と黒漆で描いた独特の模様で飾る優雅な弓、深鉢、皿などの木製品を生み出した。
土壌の花粉分析、木製品などの樹種同定、火山灰分析、植物の種類を推定するプラントオパール分析、水中に生息する微生物を調べる珪藻分析など、ミクロの世界をハイテク技術で探求する考古学を紹介している。花粉ダイアグラムの一例が示されている。

真脇遺跡 (まわきいせき) (国史跡)  真脇遺跡縄文館 石川県鳳至郡能都町字真脇48字100番地      
真脇遺跡は、能登半島の先端部、金沢市街から能登有料道路経由で約2時間の地にある。奥能登の素朴な漁港・村・田園風景の中にあり、遺跡自体が一つの村の様相をかもしだす。「縄文の里・加夢加夢ランド」などと名付けた遺跡公園となっている。

        真脇遺跡の北側高所から見下ろす「縄文の里」全景

真脇遺跡縄文館

真脇の村は、江戸時代から昭和初期まで、イルカの追込漁が盛んに行なわれた地である。昭和55年(1980)、農村基盤総合整備事業の策定により、平地全域の分布調査が実施され、昭和57・58年(1・2次)発掘調査により、縄文時代前期初頭(約6000年前)から晩期終末(約2300年前)の長期定住型集落遺跡と判明した。出土品は、土器・石器・装身具類・編物具類・木製品・巨大柱・大量のイルカ骨など多彩である。平成元年に37,599.94㎡が国指定史跡となり、平成3年に出土品のうち219点が重文の指定を受けた。

真脇遺跡は、入江奥の標高4~12mの沖積低地にある。水田下1~4mの間に埋もれていたため、植物・動物の骨などがよく保存されていた。大量のイルカの骨が出土し、この地の縄文人の漁業と食性を教える。イルカ骨と一緒に、縄文前期のトーテムポール様の彫刻柱が出土している。

平成13年(第6次)調査では、中期中葉の板敷き土壙墓と3本の木柱列、把手付土製ランプなどを発掘した。平成14年(第7次)からは調査区を変え、1・2次調査では完全に発掘できなかった晩期中葉(約2500年前)の巨大環状木柱環状列(1mΦのクリの木を半割)の全容を明らかにした。
個々の展示品の撮影は出来なかったが、展示室は完結に並べられ、興味深いものが多い。展示室中央には、縄文中期中葉の板敷き土壙墓(3号土壙墓)の切取りが展示してある。人骨は板(スギ材:残存長90cm×60cm)の上に、頭を北にして仰向けで屈葬されていた。頭蓋骨下には、敷板の水平を保つような枕木状の横板があり、埋葬は丁寧に行なわれている。骨胸部には、赤色漆塗装身具があり、歯も残っている。丁寧な埋葬は、このムラ(村)に首長が存在していたことを伺わせるものである。その左のケース内には、縄文前期のトーテムポール様の彫刻柱がある。写真には写っていないが、入口左には、縄文時代のイルカの骨が大量に生々しく展示されている。前期の真脇式土器は見入ってしまうほどに美しい。後期前葉(約4000年前)の土製仮面は、有名な御所野縄文公園(青森)で見た鼻曲がり土面とは違った顔つきをしている。中期中葉の把手付土製ランプ鳥の頭をつけた土器には目が赤彩されていた。、ベンガラ塗装した櫛ヒスイやコハクの玉、様々な耳飾、前期の縄ヒノキとつる草で編んだ籠などが興味深い。縄文晩期層から出土したの巨大環状木柱列については、個々の木柱、出土状況、推定遺構復元図などが展示され、この遺跡の目玉であることが分る。いずれ、何らかの形で復元されるのだろう。廊下に骨角器、土製品や石製品などが展示されている。土製円盤、渦巻紋の描かれた三角擣形(さんかくとうがた)土製品、土偶、石冠、御物石器、多くの石棒などが目をひく。御物石器は、岐阜・北陸中心に出土する用途不明(祭祀用?)の石製品だ。
 
 
真脇遺跡の案内板 特色ある遺物・遺構(縄文館に展示)
木柱資材が積み置かれている。巨大木柱のレプリカでも作るのだろうか? 現在発掘調査中の現場がある。深く掘り込みブルーシートで覆われた辺りが、4基の土壙墓と木柱列が見つかった地点らしい。その右(西)側では中期の住居跡が過去に見つかっている。
                                真脇遺跡全景(北側から)
遺跡は三方を山に囲まれ、南側に海を臨む入江奥にある。左の山裾に縄文館・体験館がある。平坦地右側のブルーシート・小屋などの点在地辺りが発掘調査区で、中期の住居跡・土壙墓、木柱列などが見つけられた。住居跡のすぐ南側で、前・中期の大量のイルカ骨が折り重なって発見されており、イルカ解体場があったと推測されている。縄文中期での海岸線は、イルカ骨出土地点近くまで入り込んでいたと考えられている。山と海からの食料が容易に供給されるムラである。  
真脇遺跡の北側高所には、真脇ポーレポーレと称す宿泊施設がある。 真脇遺跡の北側に真脇遺跡公園、この裏に縄文真脇温泉がある
真脇遺跡や縄文館を囲んで、全体として「縄文の里」としている。(施設利用は兎も角、丘陵部の静けさを保っているのは好ましい)
真脇遺跡南の海岸 長閑な景色が広がる
イルカ漁はこの辺りで行なわれたのだろうか。
海岸線に沿って車で20分も走れば、恋路温泉に着く。侵食された奇岩と赤い鳥居の弁天島が美しい。奥能登には、到る所に日本の原風景が見つけられる。

長者ケ原遺跡 (ちょうじゃがはらいせき) (国史跡)  ・ 長者ケ原考古館  新潟県糸魚川市一ノ宮1388     
糸魚川地域は、昔「奴奈川」、「沼川」などと呼ばれ、『古事記』や『出雲国風土記』などに登場する奴奈川姫(ぬなかわひめ)を祀った奴奈川神社もある。奴奈川姫は翡翠(ヒスイ)の玉生産を担った象徴と考えられ、八千矛命(大国主命)の求婚神話は、出雲とこの地の政治的関係を表していると考えられている。

縄文時代中期の土抗墓からは、ヒスイやコハクの大珠(たいしゅ)が出土することが多く、その原産地は、ヒスイが糸魚川でコハクが銚子(千葉県)とされる。とくに中部・関東圏ではヒスイ製大珠が多く、東北地方でも三内丸山遺跡などでヒスイ製大珠が出土している。これら大珠は、環状集落中央の土抗墓から出土することが多く、集落の首長あるいはその家系での装飾品や威信財・祭祀具(神呪具)であったと考えられる。これら玉の流通は、縄文中期の階層社会や原産地からの交易活動を考える上でも重要な遺物である。

ヒスイは、玉(ぎょく)として、古くから中国で珍重されたが、それらの殆どは新疆地区産の軟玉で、糸魚川産の硬玉とは異なる。宝石としてより優れた硬玉の原産地は、国内の幾ケ所と、アジアではミャンマーやカザフスタンにある。中国での玉崇拝は、その優れた彫工技術によるものであろう。

長者ケ原を中心とした糸魚川地域での玉の生産工房は、縄文時代中期に最盛期をむかえ、弥生・古墳・奈良時代と時が経つに従って次第に後退する。威信財(あるいは祭祀具)としての大珠の役割が、金属製の銅鐸・銅戈・銅矛・銅剣・銅鏡に移行し、大首長国である「出雲・玉作遺跡」や「ヤマト・曽我遺跡」などに勾玉や管玉生産工房が開かれるようになる。朝鮮半島の古墳からも糸魚川原産の玉が出土するようになる。
弥生以降の文化が中国・朝鮮半島からの伝来に負う所が多いのに対して、先住の縄文時代の玉や土偶は、縄文文化の独自性を表現していて興味深い。
     南北約180m、東西約100mの集落跡は北陸随一の規模。
中央を広場として環状の住居配置は、建直しを経ても長い間守られた。水田農耕が主流となる弥生時代の到来とともに、糸魚川地域の住居域は、姫川右岸の河岸段丘を降り、姫川・海川・早川流域や海岸部に移る。

姫川河岸段丘上にある長者ケ原は、木々で覆われた美しい所

長者ケ原遺跡
昭和29~33年に第1~3次調査、昭和46年に国史跡指定、昭和56年に第4・5次調査、平成3~10年に第6~13次調査が行なわれた。
長者ケ原遺跡は、縄文時代中期を主体とする集落遺跡と早・前期を主体とする遺物包蔵地からなる。現在までに10%前後の調査で、24棟の住居跡、掘立柱建物跡、集石・立石を伴う墓坑や貯蔵穴などの遺構が検出されている。ヒスイの玉や蛇紋岩の石斧の生産と交易の拠点であったことを特徴とする。
3500年前に、それまでの19号住居が破壊され、南端に21号住居が一部重なって(写真で下方に)建てられた。 19号住居の中央に掘り込んだ炉があり、周囲に大きな柱跡がある。右上の水溜りが21号住居で、中央に石が組み合った炉がある。住居跡後方の復元住居は20号住居。
20号住居左横から奥(北側)全景を見る 北奥に掘立柱建物と11号住居(石斧工房)が復元されている。
集落に近い一段低い所に湧水がある。集落近辺には何箇所か涌水地点がある。              長者ケ原考古館
長者ケ原遺跡の全貌、ヒスイ玉と蛇紋岩石斧の生産、糸魚川地域の遺跡などが、3室にわたって展示されている。
展示室内部 長者ケ原遺跡の模型や発掘状況の写真が展示されている。出土土器は、在地の土器に加え、信濃川流域や中部高地・東北南部より搬入されたものも多い。    ビデオコーナーではヒスイについての概要が要領よく説明される。
糸魚川・静岡構造線に沿う姫川は、蛇紋岩・滑石・翡翠・軟玉・碧玉・石英などを産出する変成岩帯を侵食し、下流域や海岸に転石する。
縄文時代の玉について 国内のヒスイ出土状況
(上段左から)ヒスイ以前・滑石の耳飾(前期・福井)とヒスイ大珠の始まり(前期・山梨)、多量に出土したヒスイ大珠(中期・青森)とさまざまな玉(中期・長野)、
(下段左から)後期の胸・腹に飾られた大珠(後期・福岡)、さまざまなヒスイの玉(中晩期・山梨)、墓に埋められたヒスイの玉(晩期・青森)
(左欄上から)最北のヒスイ(後期・北海道)、列島北部のヒスイ(後期・青森)、ヒスイの大珠と蛇紋岩の指輪(中期・石川)、
(右欄上から)多量に所有されたヒスイの大珠(中期・茨城)、ヒスイの大珠とハンマー(中期・山梨)、墓に埋められたヒスイの大珠(中期・長野)
長者ケ原遺跡の玉製造の変遷
早・前期 中期 中期 後・晩期
ヒスイ加工の始る前期以前は、滑石、蛇紋岩などで耳飾や管玉が作られた。 ヒスイの玉が作られる。他に軟玉、蛇紋岩、滑石、碧玉なども使われる。 加工進行中のヒスイ玉が長者ケ原遺跡で出土した。 長者ケ原集落は途絶え、近隣の細池遺跡、寺地遺跡(青海町)などに玉生産工房は受継がれ、勾玉や丸玉が作られた
磨製石斧製作工程 (長者ケ原遺跡・中期) ヒスイの玉製作工程 (長者ケ原・中期)
粗割り→敲打整形→研磨整形   石を切る(敲石(ハンマー)と砥石) 粗割り→敲打整形→研磨整形→穿孔
(左側)大珠と未完成品(中期・長者ケ原ほか)  
(右側)ヒスイ(上)と各種の玉(長者ケ原)
細池遺跡・縄文晩期 (ヒスイ)
(左側)(上)内磨砥石、(下)勾玉と未成品、
(右側)(左)管玉・未成品、(右)丸玉・未成品
(左側)後生山遺跡・弥生後期
     (左)管玉と未成品(緑色凝灰岩)、(右)勾玉と未成品(ヒスイ)
(右側)三ツ又遺跡・古墳中期
     (上)勾玉と未成品(滑石)、(下)管玉と未成品(滑石)
    長者ケ原遺跡(縄文中期)から出土した指輪状石製品
蛇紋岩製で北陸地方で出土する珍しいもので、形や大きさに共通性があると説明されていた。
土偶(長者ケ原遺跡・中期)
大正5年に遺跡中央の集落跡南西隅から出土した大型土偶
ミニチュア土器(長者ケ原遺跡・中期)
祭祀用として使われ、住居の廃棄にともなって埋められた。

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