奄美大島(貝塚文化と古墓寸見) (鹿児島県)

初めて奄美大島を訪れた機会に、奄美市歴史民俗資料館と奄美博物館を訪れた。
貝塚文化と名付けるにふさわしい大型巻貝類の遺物を見ることができた。

奄美市歴史民俗資料館  奄美市笠利町大字須野670

奄美空港から北へ車で10分の地にある。奄美大島の北部は南部に比べ丘陵が低く、古代から人が住み着いた。奄美沖縄地方の考古学的時代区分は、旧石器時代以降は、貝塚時代(−13世紀)、グスク時代((12−14世紀)、琉球王朝時代(15ー19世紀)と続く。貝塚時代前期は縄文時代に相当し、後期が奈良・平安時代までとなる。

縄文草創期には、南アジア系の海人集団が九州本土にカヌー製作用具・技術をもって到達した形跡がある。しかしながら、6400年前の鬼界カルデラの巨大噴火により、九州南部のこの縄文文化は消滅したとされている。奄美大島では、6,000年前の縄文前期の無文土器や爪形文土器が出土している。これらの土器の文化系統は不明であが、その在来文化の上に、九州の土器文化が奄美沖縄諸島に到来したとされている。貝殻文を持つ九州市来式土器(縄文後期)や九州産の黒曜石が到来した。しかしながら、奄美沖縄諸島の縄文文化には、石鏃、石匙、土偶などは見られず、骨製や巻貝類の製品が目立つ。
 (参考:安里進 琉球文化圏と琉球王国の形成、赤坂他編「日本を問いなおす」、2002、岩波書店)
貝塚前期より、住み良い・暮らし良い環境(珊瑚礁に囲まれ緩やかな砂浜)に恵まれた奄美北東海岸(笠利町)に人は住みつき、魚貝類に恵まれた生活があったと思われる。貝塚後期からグスク時代には、次第に交易を中心として、自然の良港に恵まれた奄美西海岸に人が集中していったらしい。

奄美市歴史民俗資料館の展示紹介パンフレット表紙は、奄美大島の先史時代を代表するくさび型石器(漁撈用)、脚付き石皿や土器が飾る。宇宿貝塚遺跡(縄文中期ー中世)の発見は昭和3年に遡り、日本考古学会による発掘調査は昭和30年から、昭和53年からは町教育委員会が発掘調査している。南島起源の土器とともに九州市来式土器も出土し、笠利小遺跡からは母子の人骨も完全な形で発見された。資料館には、これらの出土遺物、持込まれた黒曜石の九州産地分布図、縄文前期の無文土器や爪形文土器などが展示されていた。また、最近のマツノト遺跡(貝塚後期、6−10世紀)から出土した遺物が多く展示され、ヤコウガイの工作品が多い。ヤコウガイを集積・加工する「ヤコウガイ大量出土遺跡」として注目されている。奄美・沖縄の貝塚文化は、前後期ともに、イモガイ・ヤコウガイの食と工芸を中心とした文化、およびその交易の文化であり、土器を中心とした考古学的位置付けでは計り知れない面があるようだ。
中国(唐、宋)の交易を物語る双魚文の陶器破片(ニヤドグスク出土)が展示されていた。浅鉢の内部底面の盛り上がった円板上に鮮やかに印されていた。双魚文はつい先日に真野古墳出土の金銅製双魚袋金具を見ていただけに、7〜12世紀の唐・宋の流行を見たような気がした。最近の発掘調査より得た「中世の赤木名グスク」の概念が、イラスト化され説明されていた。グスクは環濠集落(あるいは山城、チセ)に共通する要素があるが、戦争よりも宗教的要素(拝所)が強いのが印象的だった。
 



 
   
     ガラス玉製ネックレス
(宇宿貝塚出土)
   宇宿下層式土器
(宇宿貝塚出土)
(上の写真は奄美市歴史民俗資料館パンフレットによる)
宇宿下層式土器(縄文後期・約3,000年前?)は南島起源の土器で奄美独自の土器とされる

資料館と用岬(笠利岬)の中間に、辺留城(ベルグスク)がある。県道を挟んで海岸線までの広い舌状地一帯である。辺留グスク古墓はその先端にあり、北大島に多くある箱型石棺墓が4基ある。箱型の持つ意味は不明である。   古墓の箱型石棺墓   平石で覆われた石棺墓が辺留グスクの先端部に他の墓石を囲むようにあり、中にはまだ人骨が重なっているのもある。近くの薩摩藩・大島奉行所の一族の墓とされ、ビーチロック(枚千瀬)で構成される。

奄美博物館  奄美市長浜町517 博物館のエントランスホールには、くり舟、カヌーなどなどの航海道具が中央を占め、巻貝類の展示、ヤコウガイの貝匙を含む工芸品などが展示され、太古より島の生活が貝と交易を中心にして成り立っていたを知らせてくれる。

貝塚前期(縄文時代)にはイモガイの漁撈採取、後期(〜奈良・平安時代)にはヤコウガイの研磨・工芸技術の開発により交易経済が発達し、広く中国・日本本土との交流があったらしい。その後のグスク時代や琉球王朝時代での信仰・宗教の展開も重要だ。

琉球列島の先史時代(貝塚前期)の考古学調査は、約3万年前の山下洞人や1万3千年前の人骨の発見が著名であるが、それ以後の沖縄奄美の遺跡は縄文後期以降のものが多い。その中でもグスクと琉球王朝期の考古資料は重要だ。日本の歴史の地域性の重要さを更に認識させるものと思われる。

本土では急激なバブル復興・開発に伴い考古学発掘調査も急進したが、最も大戦の被害を受けた沖縄・奄美諸島は、その恩恵をあまり受けていない。
ヤコウガイ 貝匙(工芸品?磨きの技術) 有孔製品(漁の道具?) イモガイ 小湊フワガネク遺跡出土の貝玉、赤色顔料付着のものもある
↓安里進「琉球文化圏と琉球王国の形成『いくつもの日本』」2002によると↓
中国・日本との交易品としてヤコウガイとその工芸品は珍重された。日本では、8世紀後半頃から蝶細の材料として、9〜12世紀には天皇家や寺社の祭器や外国への献上品として文献に登場する。 紀元前後から3世紀にかけて、九州弥生社会との間でゴボウラやイモガイなど大型巻貝の交易が行われるようになった。酋長や司祭者たちの権威・霊力を示す腕輪に加工された
兼久式土器  底に葉の模様(葉の上で製作)
兼久式土器は、7世紀前後に成立し11世紀に消滅する。
  鉄製釣道具    兼久式土器と同じ層で出土し、7〜11世紀に金属器が伝来したことを示す。(下は兼久式土器)
本土・九州・北海道の土器は縄文・弥生時代を通してよく研究され、よほど土器に精通していないと理解に困難なほど分類・編年がなされている。その地域性も顕著で、それを理解することが考古学入門の端緒のような気がする。しかしながら、奄美沖縄諸島の土器は不明な点が多い。この事は、人口が限られていたことや発掘調査が遅れていることなどにも因るだろうが、もともと漁猟採取を主の食事源とし、堅果類のあくぬきなどの煮炊き、貯蔵などを必要としない生活の場が主流であったことが想像される。展示コーナーの一角に「向井一雄氏収蔵考古資料展」があった。氏は徳之島・兼久集落で農業を営むかたわら考古遺物の収集に40年を費やし、塔原遺跡(縄文後期〜弥生初頭)の発見をする。収集した石器・黒曜石などとともに、塔原遺跡(後期)、千間遺跡(後期)、喜治遺跡(晩期)出土の縄文土器片と喜治遺跡出土の兼久式土器片が展示されていた。このような方々によって、遺跡・遺物が保存されてきたようだ。最近では、九州の大学や当地の考古学専門者による発掘調査が進んでいるようだ。

二つの資料館・博物館を見て:「奄美では、先史時代より、巻貝の利用・工作が際立っている。これに対して、土器・武器・武具は少ないまたは皆無である。弥生・古墳時代を経て大和朝廷が成立していく過程と貝塚後期・グスク時代を経て琉球王朝が成立していく過程は、年代的にも内容的にも類似性と異質性が含まれている。大和朝廷の祭祀が原始道教的なのに対して、琉球王国の祭祀は少し異なっている点も興味深い。大和朝廷の枠外にあった点では琉球と北海道(アイヌ)は同じだが、一方は王国出現があり、他方は首長の勃興はあったが王国は成立していない点が異なり、文化のルーツも南方アジア系と北方シベリア系と異なっているようだ。