高麗神社・高麗山聖天院 (埼玉県・日高市)

埼玉県日高市大字新堀833番地
日本国成立の古代史の隅々で、朝鮮半島からの渡来人の活躍が見受けられる。気候と自然条件に左右された1万年余りの縄文時代の終末には、朝鮮半島から倭人と称された弥生人が稲作文化を伴って北部九州に渡来したことで、新たな時代に移った。そこで築かれた文化(経済・政治)は、またたく間に西日本に王権を確立していった。
縄文時代には西日本と比べ圧倒的に優位にあった東日本にも近畿王権の波が押し寄せる。関東では、近畿に王権が出来始めた時代に(4世紀ごろ)、毛野(群馬)、武蔵(東京)、海上(千葉)などに近畿の王国に匹敵する国があった。海上には初期古墳形をもつ神門5号墳や大型古墳の姉崎天神山古墳があり、毛野には大田天神山古墳、武蔵には宝来山古墳などの大古墳が見られる。その関東の王国にも次第に近畿王権の物部・大伴・安部氏などによる揺さぶりが見え、夫々の王国内に小王国が乱立しだす。近畿の王権内では西漢(文)(かわちのあや)氏、東漢(やまとのあや)氏、秦氏などの渡来人集団の活躍が目立つが、関東では、壬生吉志(6世紀前後)、高麗王若光(7世紀後半)、高麗阿臣福信(8世紀中頃)などの活躍が記録に残されている。

玄武若光(後の高麗王若光)は、天智天皇期(663年)に高句麗の使者として来日した。当時の朝鮮半島は三国時代(高句麗・百済・新羅が併立)の終末期にあり、来日後すぐに百済・新羅が相次いで滅亡し、百済亡命人が大挙して渡来した時代でもある。天武・地統朝の684~690年には渡来人の東国移住策が執られ、朝鮮半島からの渡来人を武蔵・常陸・下野へ移住させている。弥生文化の拡大の意図があったかも知れない。若光も高句麗には帰れず都に留まり、大宝3年(703年)に文武天皇より王(こにきし)の氏姓を賜っている。元正天皇の時代・霊亀2年(716年)に渡来人1799人を武蔵国に移し、高麗王若光を大領として高麗郡を設置している。高麗王若光は天平2年(730年)に亡くなった。

高麗神社の御由緒によれば、「若光は渡来人の高い技術でこの地を開拓し、その遺徳を偲びつくられた霊廟が高麗神社のはじまりで、代々若光の子孫が宮司を務め、現在で60代目となります」とある。隣接する聖天院には若光の菩提を弔っている。

高麗神社 (こまじんじゃ)
山裾を走る道路に沿って、高麗神社の一の鳥居がある。神社の右裏側には鶴ヶ島CCがある。 参道を進めば、二の鳥居に達し、手水場がある。広々とした空間が気持ち良い。
高麗神社の由来が書いてある。日韓皇族、著名人のお手植えの樹が並ぶ。 拝殿を正面に見る。高麗王若光を主祭神とし、猿田彦命と武内宿禰を合祀する。明治期以降に、政治家などの参拝の後、大臣に就いたことが多く、出世明神とされる。
拝殿 神楽殿の前庭に釈超空(折口信夫)の歌碑がある。
高麗家の人が代々住んだ住居。重文。 駐車場近くにある将軍標(チャンスン)は、古代朝鮮半島の村の入口などに置いた魔除け


高麗山聖天院勝楽寺 (こまさんしょうてんいんしょうらくじ)
若光が亡くなったあと、侍念僧勝楽が若光の菩提を祈る為に751年(天平勝宝3年)に建立し、、若光の三男聖雲と孫の弘仁が勝楽の遺志を継ぎ、若光の守護仏聖天尊(歓喜天)を本尊とした。その後、開山以来の法相宗を真言宗に改め、天正年間・1580年には本尊を不動明王とし、歓喜天は別壇に祀る。
正面には、やはり将軍標がある。 池と雷門のバランスが良い寂かな空間がある。
正面に立派な山門(雷門)がある 王廟 
右奥に見える五つの砂石を重ねた朝鮮様式の多重塔
石段を登ると、中門があり庭園が広がる。右奥に書院、左に阿弥陀堂、上方に本堂が見える。 阿弥陀堂 足利時代の様式で、江戸時代に寄進されたもの
平成12年(2000年)に新たに建立された総欅造りの本堂。本尊は不動尊で、聖天尊を別壇に配祀する。 鐘楼の横に立つ高麗若光像 若光の実際の姿は残されてないので想像上の像。高麗若光は晩年に白髭をはやし、白髭様と親しまれて「延命長寿」に霊験あらたかという。
平成12年、左(西)方山腹に、在日韓民族無縁仏慰霊塔が在日有志により築かれた。