真土大塚山古墳と寒川神社 (神奈川県)
(相模川下流域)
相模川流域で発見された遺跡(旧石器・縄文・弥生・古墳時代)の位置を、緑色で示す。最終氷期が約1万年前に終わり海面が上昇した頃には、海は厚木付近まで入りこんでいた。。従って、旧石器・縄文の遺跡は、相模川上流域と多摩・町田周辺に多い。その後、川の運んだ土砂で下流域の三角州が形成され、下流域の弥生・古墳時代の遺跡が出現する。

真土大塚山古墳
は、近畿の王権が成立し出した4世紀後半(古墳時代前期)に築造された古墳であることが注目される。出土品の三角縁神獣鏡は、京都椿井大塚山・兵庫権現山51号墳・岡山湯迫車塚古墳(2面)と同じ鋳型で造られており、中央王権との関係の深さを示している。古墳は見晴らしの良い砂丘列の上に造られている。相模川と金目川に挟まれた真土の南辺(現在の総合公園辺り)には弥生・古墳時代の遺跡が多く見つかっており、対岸の寒川町を含めて、この付近が中央王権成立時の相模国の一つの中枢であったようだ。

寒川神社は、御由緒によると「創始年代は不明であるが、雄略天皇(456~479)の御代に奉幣、神亀4年(727)に社殿建立と伝えられる」という。金達寿「日本の中の朝鮮文化」によると、「寒川神社の「寒川」は、山形・寒河江の寒河(私の家、社などの意)の当て字であり、朝鮮半島からの渡来人と関連する社であるとも言われ、その氏神社としていたとも言われる。天智天皇の時代に来朝した高麗若光一団が祭った大磯の高麗神社(高来神社)より以前に、朝鮮半島からの渡来人がこの地域に住んでいた」という。

相模国には、朝鮮半島からの渡来者が多い。伊勢原市・日向の白髭神社は武蔵の高麗神社の分社とみられる。秦野は新羅渡来人・秦氏と関連がある。古代の相模国を見ていく上で欠かせないことである。

真土大塚山古墳 (しんどおおつかやまこふん)
平塚市西真土3丁目18 真土大塚山公園内
古墳は公園内に復元されている 中央くびれ部から墳丘上に登れる。若いお母さんが小さな子供を散歩させるに丁度良い。
古墳はこの公園のすぐ南側にあったのを復元したが、墳形・墳丘規模は定かでなく、前方後方墳、円墳、前方後円墳など諸説ある。朱の痕跡をとどめた主体部や多くの出土品が検出されていて、特に三角縁神獣鏡は、「陳是作鏡」の22.1φで注目され、三角縁鏡の魏鏡・国産の議論によく引合に出される。 西(前方の墳丘方向)に富士山、その左右に箱根連山と丹沢を見る。中央王権の東国への進出は、現在の中仙道(東山道)と太平洋沿いの海路と陸路がある。この地は、陸路の一拠点としての役目を果たしていたのだろう。
ガイドブック17「平塚の遺跡」(平塚市博物館2000.3)での説明図では、前方の墳丘の更に右奥に墳丘らしきものが描かれている。
平塚市博物館 総合庁舎の北側にある。丹沢の衝突と相模川の誕生(500万年前頃)、下末吉海進期(15万年前)、古富士火山活動期(8~2万年前)、縄文の海(6000年前)の地形・地層の変化が分かり易く説明されていた。 真土大塚山古墳からの出土品は、三角縁四獣二神鏡(レプリカ:実物は東京国立博物館に展示されている)、変形四獣鏡、銅鏃とガラス玉・勾玉・丸玉だけが展示されていた。変形四獣鏡(7.8φ)は国産で、濃尾平野で造られたとする説がある。銅鏃は多数出土した。


寒川神社 (さむかわじんじゃ)  
神奈川県高座郡寒川町宮山3916
相模国一の宮 三の鳥居と太鼓橋(神の渡る橋という)
 参道に一の鳥居、二の鳥居がある。 
静かな参道
 大晦日、お祭りの日には人ごみになるようだ。
立派な神門
 左に神馬舎、右に礼拝受付所があり、回廊で拝殿に導く。
祭神は寒川比古命と寒川比女命となっている。御祭神は古くは寒川神、近世には八幡神、菊理媛、スサノオの命、稲田姫と称され定説がないようだ。千葉市中央区寒川町のの寒川神社では、天照大神と寒川神が祀られている。 拝殿前に静かな空間が広がる。珍しい方位(八方除け)の神で、参拝者が多い。祈祷者が多いのか拝殿は広い。本殿はこの裏側にある。