町田市田端環状積石遺構 (東京都)

町田市の縄文遺跡としては、草早期から晩期まで、約40の遺跡が発掘調査され、前期の本町田遺跡や中期の高ケ坂遺跡の一部が保存・整備して公開展示されている。出土品は町田市考古資料館(小山田)に保存され第2・4土日と祝祭日に公開されている。早期の撚糸文土器や後期中葉のなすな原遺跡(南成瀬)の注口土器や深鉢など多くの出土品を見ることができる。町田市教育委員会発行の「発掘された町田の遺跡」は、町田市役所の社会教育科で求めることができる。

町田市は多摩ニュータウン地区を含み、昭和30年代から団地造成事業が進み、事前調査で多くの遺跡が見つかり現在も発掘が続いている。相模原市・横浜市と隣接し、相模川流域、相模野段丘、鶴見川流域などに興味深い遺跡が多い。大雑把には、相模原・町田・府中の遺跡は、山梨の釈迦堂遺跡から中央道沿いの縄文文化圏の延長上にある。

町田市田端環状積石遺構は、昭和43年に縄文後期の周石墓・土壙墓と後期から晩期にかけての環状列石が発見され、昭和46年に都史跡として指定された。その後、竪穴住居よりなる中期~後期の大規模集落跡も発見された。現在、発掘跡は盛土・整備して保存され、積石遺構は複製展示されている。

遺構全体図 (緑線で囲まれた部分が史跡公園として保存されている)
環状積石遺構全景(南側より) 手前に周石墓、奥に環状列石。周石墓とその周辺から土器が出土した
環状列石の北辺(手前)から西に向かって(右側に)、立石が3ケ所ほぼ等間隔に並ぶ。大きな石棒が、東辺(写真左側)真中にVの字形に2ケ、南(奥)側立石の根元に1ケ横たわっている。環状配石遺構の中央空間に大きな土壙墓(D20とD19)が見つかり、列石の下部からも幾つかの土壙墓がみつかっている。共同墓地だったのだろう。南側(奥)一帯の芝生の部分に住居跡が集中している
北東から西(丹沢山系の方角)を望む。列石の南側(配石墓の北側)には、東側(写真の左手前)に大きな立石が、西端(写真の中央奥)に三つの小さい立石がある。奥の小さい立石近くに石組みピットがあり、大珠が出土した。南側の配石墓からは土器が出土している
以上は、9月13日PM15:40に撮影した

12月27日(冬至は22日)の夕刻、夕日の落ちる位置を確認した。遺構内の芝生・雑草は枯れていた。
田端遺構から西側を望む。 左端に大山、右に丹沢山系がつづく
 配石遺構と丹沢山系 
(冬至には、蛭ケ岳辺りに日は沈む)





南側環状列石外の配石墓からは土器が出土している
(東側から見る)
V字形に横たわる大きな二組の石棒(環状列石東側) 南西の立石付近に大珠が出土した石組ピットがある
北辺西端に立石二本が並立する。
刻線文石も出土した(南西から見る)
環状中央で大きな土壙墓(D20)が見つかり、
朱彩耳飾が出土した。(南東から見る)