田名向原遺跡と勝坂遺跡 (相模原市)

最終氷期(約1,5万年以上前まで)が終りに近づき、次第に温暖化して間氷期に入る頃、人々は小動物・魚・森の恵みを食料として、定住する生活形態をとりだした。その最古の姿・跡がいつ頃からなのかは気になるところだが、食料資源に恵まれていたと思われる神奈川県・相模川沿いの田名向原(相模原市)に、最古の住居状遺構が見つかった。約2万年前・後期旧石器時代の遺構である。縄文時代に入ると、狩猟よりも採取生活を中心とした定住化が進む。縄文中期には、全国的(とくに中部・関東以北)に大きな集落が栄えたが、勝坂遺跡もその跡である。相模川上流域にある二つの遺跡を訪れた。定住化により文化が生まれる

田名向原遺跡   相模原市田名塩田3丁目13番地
県道48号(主要地方道 鍛冶谷相模原線)の塩田下T字交差点

後期旧石器時代に、人が定住または季節的に住み着いたことを示す全国的に最古の定住状遺構である。平成9年(1997年)に発見され、平成10年(1998年)に国史跡に指定された。その後、遺跡整備のため第2次~第5次調査がなされ、約2万年前の遺構であると推定された。平成17年(2005年)以降、史跡公園化が実施されほぼ完成状態にある
(国指定)史跡田名向原遺跡公園案内図
(左写真)入口より階段を上り多目的広場を住居状遺構(復元)に向かう。南東方向に向かっている。 「住居状遺構」というのは、後期旧石器時代に定住したか季節的なキャンプサイトとしての利用かは推し量れないので「住居跡」と言わないと、相模原市立博物館での館長講演会で聴いた。
(右写真)多目的広場の西端には谷原13号墳の位置表示の植込みが、広場の外側向こうに谷原12号墳(復元)と14号墳の位置表示の盛土がある。
各所(3ケ所)に相模原市教育委員会のリーフレットが用意されており、谷原古墳、竪穴住居と住居状遺構がよく理解できる
         住居状遺構を北西方向から見る。右上(南方向)の礫が切れた所が入口と考えれている。
狩猟具としての尖頭器193点、ナイフ形石器21点、加工道具としてのスクレイバー54点、クサビ形石器9点、彫器3点、敲石2点と、その他剥片など2,516点などが出土した。石材としては、黒曜石2,357点で圧倒的に多く、推定産地は蓼科エリアが最も多く、静岡天城、箱根、長野和田、栃木高原山エリアがつづく
      縄文時代の竪穴住居(復元)
床面を掘り窪めたことを特徴とする竪穴式住居の復元で、縄文時代中期の様式である。公園の主テーマである旧石器時代の住居状遺構は、堀窪みののない平地式である。
相模川とその支流流域には勝坂遺跡群を含めて10以上の縄文住居遺跡群があり、10~数10軒が集まっている。復元された住居跡は単独にあったようで、口径20cmの深鉢形土器が一つと打製石器、敲石、磨石などが出土した
      谷原12号墳(復元) (7世紀前半築造)
谷原古墳群の西端にあったものを移築・復元したもの。石室内からは、直刀6点(1点は81.6cm)のほか鏃、銀メッキ耳環、水晶切子玉など玉類など423点が出土した。谷原古墳群は約500m内に14基あり、13号と14号は元あった位置を示す。相模川流域には城山町から厚木市にかけて前期の海老名市秋葉山古墳群(国史跡)と中期~後期の古墳群5つがあり、平塚市に中期の真土大塚山古墳(三角縁神獣鏡出土)がある。上流部には後期古墳が残る

地層展示パネル



建設中のガイダンス施設

黄褐色ローム層

暗黄褐色の砂室ローム層
住居状遺構確認面


黒い砂層(火山泥流層)



段丘礫層


段丘が形成されたのは、約10万年前前後で、その後、河筋の変化、相模川の運ぶ砂、活発な全国的火山活動(箱根の火山活動を含む)による降灰・泥流などの影響を受ける。
上の写真の上部・火山泥流層は相模川沿いに流れ来た富士山噴火によるもので、上層の黄褐色のローム層は18,000年前の富士山の降灰層(関東ローム層)とされる。この地に人が住み着いた時期には、砂と降灰が混じっていることから相模川が近かったことを示している

勝坂遺跡 D区  相模原市磯部1730 

下溝から座間方向に進み、磯部で左折すると、すぐ右手に駐車場がある。木立の中を歩いて、段丘台地にある勝坂遺跡D区の北端近くまで登る。南側の入口から台地下にも遊歩道がある。南入口から坂を下り、左折・右折・左折してA区に到達する

遺跡公園建設の計画もある

住居遺構は埋戻され、D区は一面が広場になっている。土器のほか、打製石斧も出土している。農耕が始まっていたのかも知れない。縄文時代に人が住んでいた土地を思い浮かべて楽しもう
北入口の近く。大げさな標識はない。 南から国指定史跡広場を見る。左の住宅地の向こうは、米軍座間キャンプ。
北入口から広場(D区)を見る。左に照葉樹林 照葉樹林の隙間(西側)から相模川・丹沢方面が見える。
北入口付近。車止めと案内板が勝坂遺跡であることを示す 台地下の照葉樹林の中の遊歩道。シラカシを中心とする常緑広葉樹林で二次的に回復したもの

西側の台地下は湿地になっている
有賀神社と湧き水地(写真)がある。勝坂のホトケドジョウ(相模原市天然記念物)がいるようだ。環境の悪化で絶滅が危惧されていると案内板にあった
勝坂遺跡 A区
梅林と民家の間を入っての突き当りにA区がある。A区直前の左側道脇に標識土器の発見地点がある A区は広場として保存されている。前方右の林の中に勝源寺がある
 
 勝坂遺跡出土の土器は、
 相模原市立博物館
 (相模原市高根3-1-15)
 で見ることができる。
 現在、写真撮影禁止になっている

勝坂遺跡出土の15,000年前頃(縄文草創期)の土器片も展示されている

縄文中期の勝坂式土器 (勝坂1,2,3式があり、千葉県の阿玉台(おたまだい)式や長野県の藤内式・井戸尻式と同時期)が展示されている