上毛野の古代散見 (群馬県東部)

群馬
毛野国(けぬのくに)は、古くは、現在の群馬・栃木両県にまたがっていた。中央の大和王国が律令国家として成立していく過程で、群馬側は上毛野(上野国)に、栃木側は下毛野(下野国)に分割された。
古墳時代の上毛野(かみつけぬ)国は、諸地域の豪族を統一する王(首長)を持つ連合国であったと考えられている。国内諸地域は、西毛・北毛・東毛などと呼ばれることがあり、東毛は現在の太田市周辺をいう。

昨年、東国の古墳を見て周った。 首長墓と見られる大型古墳は、時期により地域を転々とする。初期首長墓としては、4世紀前半の前橋市の前橋八幡山古墳・天神山古墳から始まり、4世紀中葉の太田市の朝子塚古墳と高崎市の浅間山古墳につながる。
5世紀始には、藤岡市の白石稲荷山古墳が築造され、中葉には東日本最大規模の太田天神山古墳が太田市に現われる。引き続き、伊勢崎市に赤堀茶臼山古墳が出現した後に、保渡田八幡塚古墳が榛名山東麓(高崎市)に築造される。6世紀始の榛名山大噴火の後、七興山古墳(藤岡市)や綿貫観音山古墳(高崎市)が出現したが、次第に古墳は小型化し古墳時代の終焉に向かった。

今回は、群馬県立歴史博物館(高崎市)発行のパンフレットを手に、初期古墳を多く輩出した東毛地域(東部上毛野国)の古代を見学した。


太田市歴史公園   太田市世良田3113-9
東毛歴史資料館

太田市歴史公園では、中世の典型的な荘園「新田荘」と新田氏から出た「徳川氏の故郷」を公園としている。東毛歴史博物館は公園の一隅にあり、中世・近生の文化財に加えて、古代に毛野国の中心地だったことを誇る出土品を展示している。

縄文時代の展示としては、新田町大根地出土の深鉢類は、この地での中期後半の土器の模様が控え目だったことが窺われ、下田遺跡から出土した中期から後期の木製品、漆器は珍しい。中でも、渦巻文で体部を飾られ物憂げな仮面のような顔を持つ土偶は印象的だ。群馬県内の弥生文化は、西に厚く東南に薄いのが特徴で、古墳時代に遺跡数が急増することから、集団入植があったと推定されるという。3世紀の中国製と見られる三角縁仏獣鏡、6世紀の倣製鏡とされる六獣鏡なども興味深い。埴輪も豊富に展示されている。5世紀後半以降の小規模な古墳群から出土するらしい。奈良時代の唐三彩陶枕の破片の出土など律令国家体制下でのこの地域の繁栄も感ぜられる。
世良田東照宮 世良田東照宮拝殿
長楽寺は、承久3年(1221)に徳川義季が開基した。当初は臨済宗の禅寺であったが、慶長8年(1603)に徳川家康が寺領を寄進し、僧天海を住持にし天台宗に改宗・復興させた。寛永17年(1640)の日光東照宮改修の際に、旧奥社拝殿・唐門・木造多宝塔を移築した。

三仏堂は、長楽寺の中心的な建物で、慶安4年(1651)に三代将軍家光の命により再造され、数回の修復を経て現在に至っている。阿弥陀如来を中心に左右に弥勒菩薩と釈迦如来を安置するが、訪問時には拝観できなかった。いずれも像高2m余の木造寄木造の座像である。
長楽寺 三仏堂


国道354線と石田川が交差する地点
石田川 (石田川は大泉町で利根川に合流する)

弥生時代の終り頃に、伊勢湾・東海西部にルーツを持つ一団がこの地に入植したらしい。石田川式土器は、それまでの弥生土器と違い、多少の地域性は持ちながら、全国的な斉一性を持っているという。石田川周辺からは、水田祭祀に用いたと思われる精巧なニワトリ形埴輪が出土している。毛野国に新しい息吹が現われた地域である。

朝子塚古墳  (ちょうしづかこふん)  太田市牛沢町1110-2
石田川から1.5kmの国道354沿いにある。墳丘長123.5m、後円部径62m・高さ12m、墳頂平坦面径16m、前方部幅31m・高さ7m、長さ16m。主軸は南東方向をとり、前面に葺石が敷かれていたとされる。周掘りは幅約28mとされる。裾部と墳頂部に二重の円筒埴輪列、後円部に方形区画された円筒埴輪列があったと推定される。円筒埴輪は大型の器台円筒や朝顔形円筒と普通円筒で、形象埴輪としては、穿孔のある壺形埴輪、家形埴輪、盾形埴輪の断片が出土した。主体部は未調査だが、竪穴系とみなされている。4世紀末から5世紀初頭のかけての築造とされる
朝子塚古墳の概念図 
 くびれ部を削り現在の生活道路として往来しやすくしてある
後円部への登口は、
信号のある交差点「牛沢団地入口」にある
後円部墳頂には祠が立つ。 
向こう側はすぐに急な崖斜面となる
前方部を見る
東西に主軸を持つ朝子塚古墳を南側から見る。左側が桜で覆われた後円部
前方部を北東から見る 北東から見た後円部と国道354

塚廻り古墳群   太田市竜舞町3089
墳丘全長22.5m、円丘部径17.7m、造出部幅8.7m、長さ4.8mの帆立貝式古墳で、周囲に4.5m幅の周掘をもつ。主体部は円丘中央と北側裾部にあり、裾部では箱型石棺が見つけられた。墳丘部から円筒、朝顔形円筒、家形、器材、人物、馬の形など304基の埴輪が出土し、造形の良さと配置の明確さで、埴輪祭祀の典型として昭和60年に一括して国重要文化財に指定された。埴輪の現物は、群馬県立歴史博物館に展示されている。6世紀中頃の築造で、中小首長墓とみられる
古墳の内容を明記した親切な説明板 塚廻り古墳群第4号墳の全景
  円丘部の埴輪列

盾埴輪、大刀埴輪、家型埴輪、朝顔形埴輪などが規則正しく配列されている。
  造出部の埴輪列 (葬送儀礼)
発掘調査結果を忠実に復元したもの。祭人達を率いる巫女である”大刀を持つ女”その後に”踊る仕草の女子”神に供える食物を持つ”内膳の女子”続いて覡(おかんなぎ;神主)と推定される”跪座する男子”そのあとに”馬飼い人”と”馬”が配列され、”祭り”の情景を表す。(説明板より)
塚廻り古墳群は、太田市東部地区土地改良事業の際、偶然水田下から発見された7基の古墳の一つである。
広い水田の中の農道脇にあり、墳丘高さも低く、見つけるのに苦労した。番地を頼りに探すと良い
伊勢崎市赤堀歴史民俗資料館   伊勢崎市西久保町二丁目98
縄文展示で興味深いものとして、曲沢遺跡出土の土偶三体を見た。いずれも完形でないが後期のもので、顔の表情がこの地特有の素朴さがある。縄文中期の石製垂飾も展示されていた。
古墳時代の出土品としては、東海地方西部に出自を持つ土器が注目される。この種の土器は東日本の中でも特に毛野地方に流入されたようだ。鳥(鷹)形平瓶の須恵器もある。赤堀村16号古墳(伊勢崎市)出土の凝灰石製の舟形石棺は珍しい。8km離れた地から運ばれ加工されたと説明されていた。5世紀前半の帆立貝式古墳・赤堀茶臼山古墳から出土した形の良い家型埴輪も興味深い。ほかに多くの埴輪が展示されている。
ここでも唐三彩陶枕(レプリカ)が展示されていた

大室公園   前橋市西大室町2545

赤堀歴史民俗資料館の西・約3kmに位置する。赤城南麓にあり、入口の「時の広場」の南奥に、国史跡の後二子古墳と小二子、さらに中二子古墳、前二子古墳が並ぶ。南西奥には養蚕農家など赤城型民家を整備した「民家園」がある。東側は池を配して芝生のある家族連れの行楽ゾーンとなっている


小二子古墳
墳丘長38mの小前方後円墳で、「後二子古墳並小古墳」として史跡登録されている。後二子古墳と西の山にはめ込まれたように造られている。埴輪列が再現されていて、前方後円墳のミニュチュアを見るようで興味深い。石室は壊されていたが、全長6m、奥壁部分で幅1.8m・高さ1.8mと推定されている。後二子同様に、石室入口に焼土が二ヶ所あり、儀式に使われた土器が出土した。古墳6世紀後半の築造とされる。(説明板より)
後二子古墳
墳丘長85m、後円部径48m・高11m、前方部幅60m、全長106m・幅80mの二段構成の前方後円墳とされる。出土副葬品としては、武具(太刀振、太刀金具2、小刀2振、鉄鏃若干)、装身具(金環11個)、馬具(轡片)、須恵器(高杯、提瓶)。6世紀後半の築造とされる。
前方と後円部の高さに差が無く、「二子」と云われることが分かる。 後円部墳長より西側の石の山との窪地に造られた小二子古墳を眺める。
石室は、玄室を広くした両袖型で、大きな石の使用を特徴とする。玄室は間仕切石で前後に分けられ、奥には遺骸とともに装身具・太刀など、手前には武具・馬具・須恵器などが置かれていた。この石室は、基壇面を掘り下げて造られ、入口までは基壇面を掘りくぼめた墓道がついている。出土した土器から6世紀後半~7世紀初頭の築造と考えられる。(説明板より)
中二子古墳
墳丘長107.5m、後円部径65m・高10.5m、前方部幅74m・高10mで前方部幅が後円部径を上回っている。二重の掘を含めると全長170mになる。墳丘は2段構成で、斜面は山石や河原石で覆われていた。中堤に盾持人と朝顔形埴輪が規則正しく配置されていた。墳丘上や中堤から盾持人、人物、太刀、靱、翳など種々の埴輪が出土した。中堤の地層から6世紀中頃または後半の築造とされる。
後二子古墳から中二子古墳へ。 右(西)側が前方部。前・後部の高さはほぼ同じで、二子と呼ばれることがよく分かる。 古墳の周囲を歩いて、前方部下から後方部を見る。
前二子古墳
墳丘長93.7m、後円部径68.8m・高13.6m、前方部幅64.8m・高13.8m、周掘と外周溝を含めると全長148mになる。横穴式石室の玄室は、長さ5.2m、幅1.6m、羨道部の長さ8.6m、幅1.1m、高さ1.8mと測られる。
大室古墳群で最初に造られた大前方後円墳であり、上毛野氏の先祖とされる豊城入彦命の墓と伝えられた古墳の一つで、古くから大切に保存されてきた。
6世紀中葉以前の築造とされる。

明治11年(1878)に、村人により石室が開かれ、多くの貴重な副葬品(武具、馬具、農工具、装身具)が発見された。
装身具には、耳環、管玉、白玉、ガラス小玉などが含まれている
中二子古墳から見る前二子古墳。 埴輪列は中二子古墳の中堤上にある。 後円部の墳長部。前方部と殆ど高さの差がなく、幼い子供の遊び場になっている。
石室は、小ぶりの石で積まれ、玄室と羨道が長いのが特徴。床には、加工された凝灰岩の平石が敷かれ、石室はベンガラで赤く塗られていた。玄室は扉石を立てて閉じられていた。関東地方に横穴式石室が取り入れられた初期の古墳とされる。(説明板より)
M-1号墳

公園整備に先立ち、昭和63年に発掘調査した結果に基づき、平成5年に盛土・芝張りし王子の姿を再現したもの。全長37m・幅39mの帆立貝式の古墳で、6世紀後半の築造とされる。
現在は、子供の崖上りの楽しい遊び場となっている。このほか周囲に2~3の小古墳が発見されている。

赤城神社 (三夜沢)   前橋市三夜沢町114
御由緒によると、祭神は、赤城神、大己貴命、豊城入彦命。東国開拓の神々が祀られている古来の名社である。承和6年(839)に朝廷から従五位下を賜っているので創建は古い。延喜式には名神大社に列せられ、長元元年(1028)には上野国の二の宮とされる(一ノ宮は貴前神社)。ちなみに、上野国の一ノ宮は富岡市の貴前神社(御祭神は経津主神、姫大神)で、三ノ宮は渋川市の伊香保神社(御祭神は大己貴命、少彦名命)である。
元々は赤城山の神を祀る神社であるが、上毛野氏の氏神として上毛野氏の祖先とされる豊城入彦命を祀ったようだ。豊城入彦命は、崇神天皇の子で、大物主命(大己貴命)の住む三輪山(御諸山)との関連が深い。日本書紀では、崇神天皇は兄(豊城入彦命)に東国を治めさせ、弟(景行天皇)に位を譲った。景行天皇が遣わした豊城命の孫(御諸別王)は蝦夷征伐・東国統治に功をなし、その子孫が上毛野氏として繁栄したとしている。
拝殿 「神代文字の碑」がある。復古神道を体系づけた平田篤胤系のもので、明治3年に建てられた
拝殿裏からやや離れて本殿がある 本殿の千木は女千木である

岩宿遺跡   みどり市笠懸町阿左美1790-1
岩宿遺跡は、赤城山東南方の小独立丘陵上にある旧石器時代の記念碑的な遺跡である。桐生在住の相沢忠洋氏により槍先形尖頭器を始め旧石器時代の遺物が発見され、昭和24年(1942)からの明治大学考古学研究室の発掘調査を経て、それまで日本には縄文時代以前の文化が存在しないとされていた常識が覆された。
調査A地点前の岩宿ドームでは、この地の地層の実際を見ることができる。遺跡の中心には岩宿博物館があり、発見史や出土品、旧石器時代の解説などが展示されている
岩宿博物館 琴平山(196m)の麓(右端)に調査D地点がある
調査A地点は稲荷山(191m)の南麓。やや奥にC地点 岩宿ドーム(調査B地点)

群馬県埋蔵文化財調査センター展示室  渋川市北橘町下箱田784-2
車の場合は、渋川ICから国道17号で利根川にかかる坂東橋を渡り、下箱田信号を左折、県立小児医療センター方面に小高い丘を登る。医療センターの向側に群馬県埋蔵文化調査センターがある。入口右側奥の建物2階に発掘情報館・展示室がある。日曜日から金曜日のAM9:00~PM16:00に開館している。
群馬県埋蔵文化財調査センター 縄文土器、人物埴輪、古墳模型、古墳時代の住居模型のと群馬県内に見られる石器に関する瀬戸内技法・畿内土器の解説など教育的展示が多い
ハート形土偶を真中に右に筒形土偶(左:荒砥上川久保遺跡出土、右:壁谷遺跡出土(複製))と左に県内出土の土偶4点が展示されていた。 収蔵展示室には、時代ごとに群馬の出土品を公開している。生で見られるのは楽しい。石器・土器・埴輪が出土遺跡を明記して並ぶ。樹皮製曲物容器、唐三彩の陶枕などの逸品も展示されている。弥生時代の土偶と末期の渡来土器も興味深い