町田市三輪町を歩く
(東京都)

町田市三輪町(みわまち)は、奈良時代に大和の三輪から移住した人々が住みついた所と云われている。。現在の東京都町田市三輪町は、東縁を神奈川県川崎市と南縁を横浜市と接し、西縁は横浜市と川崎市飛地の麻生区岡上と接している。川崎市飛地(とびち)が生じた理由は、江戸時代以来の度重なる郡境・市境の変化と関係している。岡上(おかがみ)地区は、江戸時代以降「都築(つづき)郡岡上村」で、現在の横浜市の北端であったが、南多摩郡の「鶴川村」や「三輪村」や現川崎市麻生区の「都築郡柿生(かきお)村」などと共同して村の管理をしていた。昭和になって、市町村の整理が何度か行なわれた後に、「岡上村」と「柿生村」は横浜市には入らずに、川崎市(古くは橘樹(たちヴぁな)郡)へ、「三輪村」は「鶴川村」とともに町田市に編入された。「岡上村」と「三輪村」の村人意識が強かったのか、町田市と川崎市と横浜市の縄張り争いなのかは分らないが、不思議な行政区画として残っている。奈良時代には、現在の三輪南遺跡で焼いた瓦が、川崎市飛地の岡上廃寺(現在の岡上神社附近)で使用されたと推定されるように、岡上地区と三輪地区は一体として機能していたようだ。
関東の南西端(現在の東京都と神奈川県)は、中世以降に目覚しい発展を遂げた地域である。特に首都圏・大都市として発展した今、その中世以前の風景を現状から想像するのは難しい。

比較的昔の姿を残していた大河川の中・上流域や丘陵地帯も、昭和30年代からの都市近郊開発で大きく変化した。しかしながら、それにともなう遺跡調査により、まとまった縄文時代からの遺跡群が見つけられている。早淵川流域の横浜ニュータウン遺跡、恩田川流域のなすな遺跡、鶴見川上流域あるいは多摩川支流の乞田川と大栗川流域の多摩ニュータウン遺跡などがある。

テレビドラマ・バラエティ製作の一拠点として活動しているTBS緑山スタジオ(横浜市青葉区)は、町田市鶴川駅から真光寺長津田線(地方道139)で約1.5kmの距離にあり、昭和50年(1975)からの土地造成から始まり、昭和56年に竣工した。この頃から、三輪町周辺の宅地造成も拍車をかけた。

緑山スタジオの町名は奈良町である。「三輪町」、「奈良町」と大和・ヤマトに起因する土地名がこの周辺には多い。三輪町を歩くと、新しい家並みの隙間に古墳後期・奈良時代の遺跡が点在する。


   白坂横穴群、西谷戸横穴群の位置 (町内の三輪町案内板から)
三輪町は、奈良時代にヤマトからの移住者が、ヤマトの三輪と似た所として定住したと説明される。神奈備・三輪山を仰ぐヤマト三輪地域の風景とはあまり結びつかないが、昔風の田舎が随所に潜んでいて心を癒す。その風景と点在する奈良時代の遺跡を巡りながら、ヤマトから移住した時代を偲ぶのも一興である。

三輪南遺跡 (A-9地点)
奈良時代後半(4軒)と平安時代中期(1軒)の集落遺跡と窯址1基。
瓦、土師器甕、須恵器瓶などが出土し、瓦職人の住居と推定される。
    ゆりの木公園の一画にA-9地点遺跡が保存されている。
手前から1号(平安時代)と2・3号(奈良時代)の竪穴住居跡。三輪南遺跡A-8地点からは、古墳時代中期の祭祀遺構と考えられる土拡が3基確認されている。
三輪南遺跡では瓦窯址が見つかっている。奈良時代の瓦窯址で、窯の中から約3000点の瓦が出土した。ここで焼かれた瓦は、500m北東にある岡上廃寺に供給されたと推定されている。   瓦窯址(奈良時代後半期)。左後方に奈良時代の竪穴住居跡。
「半地下式有階有段登窯」で、焚口部・燃焼部・焼成部の3つからなり、長さ5.2m、最大幅1.45mを測る。1基だけが発見されている。
西谷戸横穴墓群 (にしやと) (東京都史蹟) 昭和58~59年に調査され、9基がみつかり、人骨の一部と、副葬品としての装身具と金銅製圭頭太刀の部品が出土した。金銅製太刀が出土した5号墓内には線刻画が描かれているというが、フェンス内には立入れないので、全体を眺めるだけ。
下三輪玉田谷戸横穴墓群へは、鶴川厚生病院・鶴川女子短大の東側の細い道で南に向かい、横浜市「寺家ふるさと村」に出る。癒しの「三輪の里」の田舎道を歩き、低い丘陵を切通しで通過する。三輪町から横浜市の寺家に抜けるこの道は、以前は舗装もなく人道りも全くなかったが、ここ10年余り寺家の「ふるさと村」が整備されて、休日はふるさと村附近は賑わっている。しかしながら、ふるさと村への客は、横浜上麻生線側から入ってくるので、三輪町からの道はまだ静かな三輪の里らしい景色を楽しめる。上の写真は三輪町から切通しを越えて出てきた所(左写真)と横穴古墳群のある丘陵(右写真)をふるさと村側から見たもの。丘陵沿いの道を東に進むと、左手に「→横穴墓」の小さな看板がある。
下三輪玉田谷戸横穴墓群 (ぎょくたやと) (東京都史蹟)
1927年、1959年、1972年の調査により、4基の横穴墓が見つけられた。谷戸最奥部の分水嶺となる丘稜上部に位置する。6~7世紀の横穴墓。鉢形の黒色土器や須恵器壺などが出土した。
寺家ふるさと村から登っていくと、左側の谷へ降りるような道があり、道沿いに横穴墓が並んでいる。奥から1号~4号と4基の横穴墓がある。1号横穴と3号横穴に「家形彫刻」を見る。2号墓と3号墓は入口が塞がっている。
1号横穴墓 3号横穴墓
1号墓内部(せりあがった天井が見える) 3号墓内部(シンプルな墓坑)
柵外から1号横穴墓内を覗き込んだ。棺座、側壁と天井部の線刻が見える。羨道に続き、前室から玄室(棺座)まで直線的に広がり、玄室はほぼ長方形をしている。天井は中心が高いドーム状となり、側壁にかけて柱や梁などを表現した「家形彫刻」が施されている。天井部から側壁に向う梁は約15本の突線で表現されている。詳細は見学できないが、装飾古墳の玄室を見るようで興味深い。3号墓の線刻はよく見えない。
恩廻(おんまわし)公園調節池
三輪町の東はずれの鶴見川沿いにある。管理棟には展示室もあり、寺家ふるさと村から三輪町に帰ってきて、一休みするに良い。

鶴見川は東京都町田市上小山田を水源として、川崎市、横浜市を通り、東京湾に流れ込む全長42.5km、流域面積235kmの一級河川。

昭和30年代以降の急激な都市化により、水田の消逸、コンクリート化などにより大雨時の氾濫が起こり、その対策として、下麻生の恩廻公園の地下に広大な調節池を設置し、鶴見川の流量を調節している。鶴見川には横浜市都筑区川和町にも同様な施設がある。
椙山神社(すぎやまじんじゃ)
祭神は、日本武尊、大物主命、意富斗能地神
元慶元年(877)大和三輪より勧請の伝承がある。
椙山神社とその東側は、縄文中期~平安時代の宮之前遺跡(A,B地点)で、古墳後期の住居址2件と土拡が発掘されている。(1970年)
三輪小学校西側は、椙山神社北遺跡として、縄文時代の土拡、弥生中期の住居址2軒、土拡、甕棺墓、古墳後期の住居址14軒が発掘された。(1981年)
白坂横穴墓群 (町田市史蹟) 昭和36年に調査され、二つの支群に合計13基の横穴墓がみつかった。道沿いの2基へ、見学し易いように階段がかけられている。 玄室内部
棺座は確認されるが、玄室は素掘りのままのようだ。
白坂横穴墓から熊野神社への山間の道はもう一つの「三輪の里」らしさが滲み出ている。「三輪山をしかも隠すか雲だにも心あらなも隠そうべしや 額田王」とか、大伴家持の歌が立て看板で示されている。竹林を左に見て丘陵を緩く登って下る。しだれ桜や畑、大きな古民家を通り、高麗寺(真言宗豊山派の寺。古くは熊野神社の別当寺)に抜ける。
               熊野神社 (町田市有形文化財)
祭神は、イザナギ命とイザナミ命。 元慶元年(877)大和三輪より勧請の伝承がある。明和4年(1767)に別当高麗寺法印亮恰により社殿造営され、嘉永7年(1854)に石像三尊仏を造立して再建された。現在の社殿は、昭和48年に造営されたもの。
          本殿建築様式は江戸中期のもの。
一間社流見世棚造(いっけんしゃながれみせだなづくり)・板葺千鳥破風付(いたぶきちどりはふう)という。屋根は板葺き。
本殿左のアカガシは樹齢300年の神木で、町田市の銘木指定を受けている。