若狭町の古墳 (福井県)
若狭町歴史文化館上ノ塚古墳西塚古墳十善の森古墳白髭神社古墳
下船塚古墳上船塚古墳獅子塚古墳
(若狭町)
(2010.11.27 遺跡・古墳・資料館を巡る旅の記録)
(但馬から若狭へ、雨中の古墳探しの一日)
弥生時代後期末から古墳時代への移行期(2-3世紀)に、日本海沿岸でも共同体(ムラ)の規模が大きくなり、王(オウ)が台頭し、その指標となる墓制の変化が見られる。
丹後半島では、方形台状墓から大型前方後円墳の造営が見られた。また、北陸・越前では、四隅突出型墳丘墓から前方後方または前方後円墳の造営があった。

若狭地方の弥生時代後期末の墓制は、土壙墓または方形周溝墓が主流で、4世紀前半に松尾谷に前方後方墳が現れる。継続的な古墳造営は、5世紀初の上ノ塚から6世紀初の十善の森を経て6世紀半ばの下船塚まで、上中(かみなか)地域を中心に前方後円墳が築かれる。
若狭・上中地域は、小浜まで12km、美浜まで20km、敦賀まで34kmの位置にある。琵琶湖畔・高島市今津町までは、国道303号線で20kmにも満たない。近江・ヤマトとの密接な関係の下に独自の文化を築いたといわれる。

若狭町歴史文化館  福井県三方上中郡若狭町市場20-17
平成17年、三方郡三方町と遠敷郡上中町が合併して若狭町となった。遠敷郡は若狭の中心地で、北川の上流地域が上中で、下中(現小浜市)が下流地域である。若狭町歴史文化館には、若狭の古墳の全体像が展示されている。若狭町古墳マップも用意されていて古墳見学にも好都合である。個々の展示品の写真撮影は禁止されているが、常設展示図録(平成21年発行)があり復習するに事欠かない。
弥生時代に関しては、有樋式石剣(大鳥羽遺跡:中期)が出土したこと、土壙墓(向山B遺跡)や方形周溝墓(府中石田遺跡)が造られたこと、銅鐸の出土(向笠遺跡など中期、後期の遺跡から)などが興味深い。古墳についての情報は、今回見る古墳の他に、日笠松塚古墳という既に削平された直径19mの円墳が興味深い。陸橋の存在、周濠の底に杉柱が4m間隔でならんで出てきたという。古墳祭祀と関係するものとして注目される。
JAの建物の1階にある。 展示室全景
脇袋古墳群 (わきぶくろこふんぐん)  福井県若狭町脇袋

(上ノ塚古墳脇に設置の上中町教育委員会・平成4年の説明板)

上中地域にある脇袋古墳群は、古くの記録では七つの塚よりなり、背後の膳部山(ぜんぶやま)の名に名残をとどめる若狭の国造「膳臣(かしわでのおみ)一族を祀る墳墓・王家の谷と考えられてきた。
現在では、大正年間の採土により墳丘が壊されたものが多いが、谷の上部から中塚古墳、上ノ塚古墳、西塚古墳、糠塚古墳などが残存している。築造年代は、上ノ塚が5世紀初、西塚が5世紀後葉、中塚が6世紀初とされている。中塚古墳は全長72m、後円部径45m(高さ6m)、前方部幅60mの前方後円墳であったといわれている。
原形が良くとどめられた「上の塚古墳」出土品(宮内庁所管)が多かった「西塚古墳」を見て、往時を偲ぶ。

若狭地方には、上ノ塚古墳と西塚古墳の築造年代、5世紀初と5世紀後葉の間を埋める古墳として、向山1号墳と城山古墳がある。向山1号墳(むかいやまいちごうふん)は、5世紀中頃前の築造、全長48.6mの前方後円墳で、脇袋から西1.5kmの尾根上に位置する。城山古墳(しろやまこふん)は、5世紀中頃後の築造、全長63mの前方後円墳。脇袋から北へ3km離れた鳥羽谷の丘陵上に位置する。

上ノ塚古墳 (じょうのつかこふん) (国史跡) 

古墳時代中期初(5世紀初)に築造の前方後円墳。全長100m、後円部径64m(高さ9m)、前方部幅60m(高さ7m)で、北面する。若狭地方最大の前方後円墳。周濠の存在も確認されている。葺石の存在は不明、埴輪は確認されている。

上ノ塚古墳が築造された5世紀初は、丹後半島北部では黒部銚子山古墳が造られた時期で、王墓としては南部の雲部車塚古墳へと移っていく。また、越前では、九頭竜川右岸の六呂山1号・3号墳の時代が過ぎ、左岸の鳥越山・石舟山・二本松山古墳へと移行していく時期である。中央ヤマトでは、百舌鳥・古市古墳群へと大王墓が移る
前方部左角(北東)から 前方に登る(後円部方向を見る)
後円部は平坦に保存されている 前方部左側の段下(一段目)
東南側から見ると、後円部は3段構成に見える 谷間の下方にある西山古墳から見る上ノ塚古墳(左紅葉の裏)。
後方は膳部山、緩やかな斜面に古墳は築かれてている

西塚古墳 (にしづかこふん) (国史跡)  
古墳時代中期後葉(5世紀後葉)に築造の前方後円墳。全長約74m、後円部径39m、前方部幅47m、高さは前方部が後円部よりやや低くなると推定され、南面する。葺石、埴輪、盾形周濠を備えていた。主軸に直交する横穴式石室があり、多くの出土品があった。主要出土品は、須恵器、中国製神人画像鏡、仿製四獣鏡、武器(鉄剣、鉄鉾、鉄鏃)、武具(小札鋲留眉庇付冑、小札鋲留衝角付冑、頸甲、肩甲、横矧板鋲留短甲)、馬具(鉄地金銅張鏡板、同辻金具、同剣菱形杏葉)、農工具(鉄斧)、装身具(金銅製帯金具、銅鈴、銀鈴、金製垂飾付耳飾、佩砥、玉類)など

上ノ山古墳から見る西塚古墳 (正面が西方向)
古墳は平地の中に築かれている。
南西から見る僅かに残った前方部 前方部側から見る後円部の残存墳丘

十善の森古墳 (じゅうぜんのもりこふん)  福井県若狭町天徳寺 
古墳時代後期初頭(6世紀初)に築造された前方後円墳。全長68m、後円部径46m、前方部幅50mを測る。後円部と前方部に形態が異なる横穴式石室が二基あり、両石室ともに壁面に赤色顔料塗布がなされている。墳丘から円筒埴輪が出土し、周濠をもつ。周濠の一部に石室に向うときに通る為の陸橋が確認されている。後円部石室から流雲文縁方格規矩四神鏡、金銅製冠・履、玉類(水晶・ガラス製勾玉、金銅製帯金具、碧玉製管玉、ガラス製小玉・なつめ玉など)、武器、武具、馬具(鉄地金銅張双龍文鈴付鏡板、鉄地金銅張剣菱形鈴付杏葉、木心鉄板張輪鐙片など)などが出土している。伽耶産の金銅製轡とともに百済系の金銅製冠・履やとんぼ玉の出土が注目されている
脇袋古墳群に中塚古墳が築かれた6世紀初に、脇袋の西方2.5kmの天徳寺古墳群に十善の森古墳が築かれた。これにやや遅れて、高浜市に二子山古墳、美浜市に獅子塚古墳が築かれている。
十善の森古墳にひきつづき6世紀前半には、上船塚古墳、白鬚神社古墳、下船塚古墳と中~大型の前方後円墳が造営されつづけた。

若狭に十善の森古墳が築造された時期は、丹後半島北部には際立った古墳は存在しない。丹波(たには)の王墓は南部の千歳車塚古墳(全長88m)となる。越前では、椀貸山古墳が現れる寸前であり、男大迹天皇(継体天皇)が近江高島や越前を舞台として活躍したとされる時代である。継体天皇の勢力と若狭の結びつきが考えられる時代である
手前(東側)が後円部。 国道27号線沿い 後円部は国道に食われ、削られている
北側東寄りから見る十善の森古墳(左後円部、右前方部) 北側西寄りから見る。前方部先端が張出している。
前方部と後円部との高低さが無く、
摘み上げたような墳丘尾根が特徴

白鬚神社古墳 (しらひげじんじゃこふん)  小浜市平野
古墳時代後期前半(6世紀前半)に築造された前方後円墳。全長58m、後円部径38m、前方部幅42mを測る。葺石、埴輪、周濠を備え、円筒埴輪、須恵器(四連壺)が出土した。十善の森古墳につづいて、上船塚古墳と白鬚神社古墳が造られた。
十善の森古墳から国道27号線を小浜に向って走ると、右側に上船塚・下船塚古墳のある森が二つ見える。ここを取り越して、すぐの信号(平野)を右折し、すぐに右折し、国道と平行に少し戻る 戻った道の左奥に神社が見える。JR小浜線しんひらの駅の南東角に当る位置にある。神社は白鬚神社古墳の後円部の頂上にある。後円部がすっかり神社となり、前方部が西側に残る
前方部を北側から 後円部の崩れ方

下船塚古墳 (しもふなづかこふん)  福井県若狭町日笠
古墳時代後期前半(6世紀前半)に築造された前方後円墳。全長85m、後円部径47m、前方部幅47mを測る。周濠あり。前方部と後円部に大きな盗掘坑あり

先ず、下船塚古墳から。案内板の左側から前方部の付根に登る

東側から見る上船塚古墳(左)と下船塚古墳(右)
後円部に登る 後円部墳頂に登ると、すぐ下に盗掘坑が目立つ
後円部から前方部 北側に廻りこむと、全景が見える。(左・後円部、右前方部))
後円部は姿が良い。二段構成であることが分る 後円部から緩い傾斜で平坦な前方部につながる

上船塚古墳 (かみふなづかこふん)  福井県若狭町日笠
古墳時代後期前半(6世紀前半)に築造された前方後円墳。全長70m、後円部径36m、前方部幅50mを測る。周濠あり。後円部に横穴式石室がある。柵で囲われわていて、下草が生茂り立入り禁止となっている。
南東側(後円部側)から上船塚古墳のある林 国道に向って西側の坂道を登って行く。(左側の林内に前方部)
西側(前方部)に沿う緩い坂道 国道27号線側に「国史跡・上船塚古墳」の標識がある。車の往来が激しく、路肩が狭くて危ない

以上が見学できた古墳。以後は、雨が激しく、夜が迫り、所在位置を確認するだけとなった。
城山古墳と大谷古墳
左奥の山裾(長江)の道路沿いに、 5世紀中頃築造の前方後円墳・城山古墳(しろやまこふん)は位置する。全長63mで、上ノ塚につづく若狭の王墓で、埴輪を巡らし、葺石を墳丘二段目のみに施している。近くの三生野遺跡から当時の朝鮮半島の陶質土器が出土している。山への入り方が分らなかった。
大谷古墳(おおたにこふん)は、右手前の山裾、広瀬神社先のY字路右手前にあるはずだが見つからなかった。6世紀中頃築造、直径27.5mの円墳で横穴式石室(玄室長5.1m、羨道長5.6m)をもつ。
松尾谷古墳は、向陽寺渓谷の北側の尾根にある。国道27号線は、尾根の西端に沿って三方に向って走っている。

松尾谷古墳(まつおだにこふん)は、4世紀前半築造、全長35mの前方後方墳で、若狭町では最古の古墳

獅子塚古墳 (ししづかこふん)  福井県三浜町郷市
古墳時代後期初頭(6世紀初)に築造された前方後円墳。全長32.5m、後円部径17m、前方部幅15mで、葺石、周濠が確認され、円筒埴輪が出土している。主軸を東西にとり東面する。後円部の中央に、南に開口する横穴式石室(全長6.0m、玄室長(4.5m×2.5m)と短い羨道をもつ)がある。石室は、花崗岩の小型石材を積上げ、玄室は上部へ至るにつれて狭くなる持ち送りの技術で造られている。玄室内の全面にベンガラ(赤色顔料)が塗布され、羨道からは人頭大の川原石を積上げた閉塞石が確認されている。昭和53年の石室内発掘調査後、石室は埋戻されている。副葬品としては、角杯形須恵器2点を含む多種の須恵器、玉類(勾玉・管玉)、馬具(三環鈴・轡・剣菱形杏葉・鏡板・辻金具)、武器(鹿角装鉄剣・鉄鏃)、農工具(曲刃鎌・鹿角装刀子・鉄鉗)など。被葬者は、耳川流域を支配した豪族と見られ、『古事記』に登場する若狭の耳の別君一族の祖、室毘古王(むろびこのみこ)とする説もある。
説明板には、発掘時の石室の写真がある。 街中に残存した古墳の上、後円部から前方部
美浜駅の東南・国道27号線に沿って南側、関西電力の西側路地の隅にある。東側から国道27号線で仕切られた後円部残存を見る。 街道筋に残存した古墳を前方部側(西側)から見る。