甲斐風土記の丘(山梨県)
(銚子塚古墳附丸山塚古墳、上の平方形周溝墓)

山梨県立考古博物館・埋蔵文化財センターは、中央道・甲府南ICを降りてすぐの所にある。甲斐風土記の丘・曽根丘陵公園の北東の一画に考古博物館があり、銚子塚古墳附丸山塚古墳(ちょうしづかこふんつけたりまるやまづかこふん)が北西に、方形周溝墓群を含む上の平(うえのだいら)遺跡が南側丘陵上にある。考古博物館では、当公園内の古墳に加えて山梨県各地の遺跡・古墳の説明と出土品が常設展示されている。数多い展示品が見易く配列されている。私が訪れた時には、春季企画展「縄文の華」(6/24まで)が催されていた。山梨県出土の縄文土器は、全国的にも超一級で見応えがあった。山梨県の古墳は、古墳時代前期に築かれたものに特徴があり、倭王権の黎明初期の中部・関東における状況把握に重要な役割を果たす。古墳時代前期は、畿内倭王国が中央集権化を目指して各地を侵攻したというより、むしろ各地で夫々の地に相応しい政治・文化体制を作り出す土壌を生み育てていた時期であろう。各地の有力首長は畿内との接触を通して夫々の政治・文化体制を整えていく。

甲斐風土記の丘・曽根丘陵公園
甲府盆地の南側は御坂山系で遮られている。御坂山系は、本栖湖・河口湖など富士五湖と甲府盆地との壁になっている。この御坂山系が甲府盆地にさしかかる丘陵地帯に曽根丘陵は位置する。この地帯に密集する遺跡・古墳、とくに銚子塚古墳附丸山塚古墳を中心として、「甲斐風土記の丘」が整備された。山梨県立考古博物館・埋蔵文化財センターはこの一画に位置し、1982年(昭.57)に開館した

2006年に開催された第24回特別展「甲府盆地から見たヤマトー甲斐銚子塚古墳出現の背景」の展示目録には、古墳の発掘と出土品・副葬品、およびそれらの他地域との比較、この地域の出土品として特徴的な木製品と祭祀・儀礼との関係などが、図・写真入りで分りやすく掲載されている。

銚子塚古墳は1925(大.14)頃からその存在が確認されており、石室の確認、副葬品の発掘も行われ、1930年(昭.5)には国史跡に指定された。1966(昭.41)には本格的な測量調査も行われ、1974(昭.49)からの「風土記の丘」整備計画に伴い、1983(昭.58)ー85に第1次、平成10年と16年に第2次発掘調査が行われ、突出部、木柱・木製品などが新しく発見された。2006(平.18)には史跡整備は完了し、一般の見学が可能になった。整備以前の副葬品・出土品は、東京国立博物館などに収蔵されているが、里帰りして当考古博物館に常設展示されているものも多い。

丘陵の中腹・東側に大丸山古墳がある。1929年《昭.4)に地元民により発掘され、組み合わせ式石室が見つけられ、石枕、三角縁獣文帯三神三獣鏡などを含む多くの副葬品が報告されている。自然地形を利用した構造で、銚子塚古墳に先行する4世紀中葉頃の築造と見られている。正確な測量はされてないが、全長99m~120m、後円径49m、前方幅34~49mとされている。近くまで行ってみたが、木々が覆い判然としなかった。
杯塚 公園内にある墳丘の一つ。かんかん塚の東隣にあり、外観は古墳のようだが、出土品から中世の供養塚と考えられている。 かんかん塚古墳 直径26mの円墳で五世紀後半築造の首長墓とされる。その大きさから、銚子塚古墳以降にこの地の首長勢力は衰退したと推察されている。

丸山塚古墳
5世紀前半の築造。直径72m、高さ11m、竪穴式石室をもつ。副葬品は四神四獣鏡、鉄斧、鉄鎌、鉄剣、鉄銛、石釧、(東大に収蔵)、出土品は埴輪、鉋(当考古館に収蔵)
石碑がある。中央は何か文章が書かれている。右は「道祖神」で左は「史跡丸山塚古墳」の碑。 墳丘は二段構成で埴輪が立てられていた。銚子塚よりやや遅れての築造。
墳頂に竪穴式石室(5.5m×0.95m×高0.85m)がある。木製棺の周囲に、板状、柱状の石を積み上げて造る。床が赤色塗装され、側壁に赤色円文が残っていた。 丸山塚と銚子塚を併せて、銚子塚古墳附丸山塚古墳としているが、丸山塚の東側にも二つの墳丘らしきものが復元されている。

甲斐銚子塚古墳
4世紀後半の築造。墳丘全長169m、後円部径92m・高さ15m、前方部巾68m・高8.5m、竪穴式石室をもつ。東日本最大級の前方後円墳。墳丘は三段構成で、埴輪が立てられ、葺石で覆われていた。副葬品は鏡五面(内行花文鏡、三角縁神人車馬鏡、環状乳神獣鏡、だ龍鏡、三角縁三神三獣鏡)、車輪石、石釧、杵形石製品、貝釧、勾玉管玉、鉄剣、鉄刀、鉄鎌、鉄斧、鉄鏃などがあり(東京国立博物館に収蔵)、出土品は埴輪・土器・木製品などが当考古館に収蔵。
前方部正面から見る。 前方部墳頂から後円部を見る。
後円部から前方部と周濠(搾石)を見下ろす。主軸は東西を指す。 後円部墳頂の中央西よりに、南北に向いた竪穴式石室(6.6m×0.93m×高1.35m)がある。
平成16年の発掘調査で発見された突出部(とっしゅつぶ)が再現されている。石を敷詰め周濠に向って傾斜していて、古墳のマツリ場と推定される。東日本の古墳時代前期では始めての発見である。周濠を横断する土手状の高まりも確認され、陸橋・渡堤の可能性も考えれると説明板に記されている。造出し部とは少し異なり珍しい。
周濠に相当する部分は搾石で表現されているが、畿内古墳に見られる水を溜めた堀ではなかったようだ。
周濠からは木柱や、円盤形・蕨手(刀剣)形・棒状木製品が発見された。木柱は直径20cmほどあり、数mのおおきな柱であったと推定される。円盤形・蕨手(刀剣)形・棒状木製品は組み合わせて用い、高さ2.4mのマツリの道具として使用されたと推定されている。半円形円板形木製品も出土しており、畿内古墳で出土した笠形木製品(祭祀用)と比較検討されている。畿内のものより古く、古代の祭祀場や呪術的マツリを連想させる。

銚子塚古墳の全景
  晴れていれば、櫛形山、間ノ岳、北岳、鳳凰三山など南アルプスを背景とする。
西に南アルプス、北西に八ヶ岳、北に金峰山・大菩薩連峰を見渡し、笛吹川の恩恵を受ける肥沃の地である。
(マウスを写真上):冬の晴れた日に再訪問すると、後円部の向こうに間ノ岳・北岳を見ることができた。)

上ノ平方形周溝墓群
曽根丘陵の南上部は「上の平(うえのだいら)遺跡」と呼ばれ、東西に延びる曽根丘陵のほぼ中央に位置し、数万年前からの遺跡が点在する。甲府盆地最古の生活跡と見られている。ここに、弥生時代後期から古墳時代にかけての128基の方形周溝墓群と20軒の住居跡もみつけられている。方形周溝墓群は共同墓地であったようだ。方形周溝墓群の3基は盛土・溝を掘って再現し、他はレンガで囲いツツジなどを植え公園化している
周溝墓は形が判るように、レンガで囲いをつけ樹木で覆っている 南端の三つの周溝墓は、盛土され周溝が再現されている

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