東浦賀のご案内

浦賀の全体図を描くと真中に港があります。
浦賀駅舎の階段の上に立ってまっすぐ見渡すと浦賀警察署旧庁舎と交番、かながわ信用金庫のあたりまで目に入ってきます。
この辺りは浦賀町で、その先に行くと西浦賀になります。
駅周辺と元浦賀警察署の間、その奥に飲食店が数軒あります。
 駅に近い所から行きますと中華料理の広香居さん。
 
店内で日本茶を飲める茶井さん、お茶屋さんです。
 垂涎の的とも言うべき銘酒を飲ませてくれる岩城屋さん。
 ドラッグストアーの2階の回転寿司。
 元警察署のお隣にインド料理のお店
 
かながわ信用金庫の前を右に入ると、かつては勝海舟も来たという鰻屋さんの梅もとさん
 さらに100mほど進むとワインと料理の恵みのさとさんがあります。
このあたりは荒巻町内会と言います。


交番の手前に石碑が立っています。
大衆帰本塚
タイシュウキホンヅカです。
かつては浦賀行政センターの裏山中腹にありましたが、数年前にここに移りました。

大衆帰本塚碑文の読解文です。
浦賀の歴史とふれあう散策ルート」より

この辺りの昔の様を想うに、沢の辺の田処にして葦蟹なども住みけむからに、
蟹田(蟹田川はガンダガワと言う)としも呼び初めにしやあるらん。
近くは薪樵る老翁、牛飼う童も行き交う道の便り悪しき片山陰の荒野にしあれば、
朝の露、夕べの煙の空しき跡を訪う人ならでは、分け入るべくもあらぬ
草むらになむありける。
さるを大御代の栄行くに随い、湊の賑わい弥増さりつつ、野にも山にも家居立ち込み、
往くも復るも所狭くなれば、かの立ち上る煙の末の里中かけて棚引き来るを、
人皆いぶせく思いわびてありしに、このひた浦の事取り給いし大久保土佐守忠董朝臣の、
えも言い知らぬ思したちにて、其墓所をも煙の場をも、いと遥かなる山辺に退け、
なお朽ち残れる古き骸をば皆一処に集へ埋みて、大衆帰本の塚と呼ぶべし。
その記をも残すべしとこと定め給いてしかば、浦人拳りて尊び会える中にも、
川島平吉という者殊更にこの掟を畏み、その故由を、碑を選り据え、
千年の後も忘れざらしめ、また、そこばくの桜を植え添え、昔人の魂をも慰めむとなり。
あわれいみじの心知らいや頼もしのまめ心や。
かく言うは、この浦賀の湊に司たちて仕えまつる中島三郎助永胤
大畑春国篆
元治元年甲子秋九月


少し視線を左に転じると工場が見えます。工場の向こうには浦賀港がありますが、見ることはできません。
更に左に転じるとバス通りが見えます。この道を左に進むと東浦賀になります。
駅前から東叶神社、サニーサイドマリーナ浦賀さんの先の新しい住宅群と和光台までが東浦賀です。
では、浦賀駅に立って長川から始めましょうか。
駅の階段を下りると信号機のそばに案内板があります。



浦賀駅の正面右手に浦賀小学校があります。
長川は、小学校正門前右手から駅前交差点を通り、浦賀港に注いでいます。
でも、道路の下を流れているので見えません。
安政元年(1854)にこの川を利用して日本で初めてのドックが造られ、太平洋横断
直前の咸臨丸の修理が行われました。
また、この河口では日本で最初の西洋式帆船・鳳凰丸が建造されました。
浦賀では、公民館前を流れる蟹田川(がんだがわ)と長川が、名前がついている川となっています。セ

駅の階段を下りて左にまがります。
お寿司屋さんが1階にあるビル、隣はタクシー乗り場で、横浜銀行が並んでいます。人呼んであづま通り商店街です。
タバコ屋さん、お医者さんのビルがあります。

浦賀に詳しい不動産屋の三恵商事さん 電話046-843-2345
旨い中華そばの亜細亜楼さん。この辺りはみかん山と呼ばれています

カレー屋さん、まいどさん、
角に文明堂印刷さんが並んでいます。
ここを左に曲がるとコインパーキングがあります

パチンコ屋さんもあります。道路の反対側にはコインランドリー、美容院さんがあります。



山側に戻りましょう。ここにもコインパーキング
があります。
ビールやお酒の空容器が沢山積まれている手前の月極め駐車場の一番奥に煉瓦造りのトンネル↑が見えます。
旧浦賀ドックが工業用水確保のため、山向こうの溜池から水を引いた水路だそうです。

その先の切通しを抜けると、最初の人家の裏手に船守稲荷があります。
この辺りから乗誓寺まで、かつては大ヶ谷オオガヤの地名で呼ばれていました。



帆船のセールやカバーを作っているお店がその生地でバッグを創作していましたが
2023年春で閉店しました。


歯医者さんがあり、なだらかに左にカーブすると21階建てのマンションがそびえています。

さらに3分ほど歩くと左手に八雲神社参道の道標がありますから左折してください。
突き当たりに見えるのが八雲神社です。
その曲がり角の左上に見えるのが津守稲荷です。角から4軒目に左に上がる小路があります。
では、八雲神社に行きましょうか

●八雲神社●ヤクモジンジャ


享保11年(1726)に建設されたこの建物は、江戸時代には満宝院というお寺でした。
境内右にある、かつてはこの建物の屋根にあった宝珠がそれを物語っています。そのころは修験者(山伏)の道場でした。
明治14年(1871)に八雲神社となりました。



ここには猩々坊ショウジョウボウが居ます。
江戸の昔、疫病が流行った折、これを鎮める魔よけのような存在だったようです。
何年か前に復元しました。
毎年6月の第2土日に行われる祭礼には神輿について町内を練り歩きます。
後ろの山車におわすは八雲神社の祭神「須佐之男命」
この写真には背景に工場が写っていますが、現在は解体されて西浦賀の愛宕山を観ることが出来ます。

参拝が済みましたらもとのバス通りまで戻りましょう。
通りに出て左に向かうと、そこにあるのがワインセラーみやまさです。
食料品とお酒・お米を取り扱っています。
お米は福島県天栄村の内山家の「ひとめぼれ
ワインは毎日飲めるワインを品揃えの中心にしています。
西浦賀にあるファーマシーガーデン浦賀さんのレモンや蜂蜜も販売させていただいております(季節商品)。
1988年に造った地下のワイン蔵は清らかな地下水のお蔭で夏でも涼しく、ワインがうまく熟成するようです。こちらもぜひのぞいてみてください。
2012年には倉庫を改装してカフェを作りました。ケーキとコーヒー、ワインが楽しめます。
電話046-841-0013(酒屋・カフェ共通)

店の正面    

浦賀は全体的に地下水の豊富な土地柄のようです。この辺りも例外ではありません。
今は使われていない井戸の跡らしきものを沢山発見すると思います。

みやまさの角をまた山の方に進むと、ワンこぱんさんが美味しいパンを作っています。







ワンこぱんさんの前の小路を山に沿って歩くと由緒あるお寺さんにたどり着きます。

次は乗誓寺さんです。

●乗誓寺● ジョウセイジ
東教山乗誓寺という浄土真宗のお寺です。
文明年間に了源によって平塚・阿弥陀寺が浦賀に移り、寛永14年(1637)に乗誓寺になったと言われています。
寺伝によれば、開基の了源和尚は曾我十郎の子供であったと言われています。
江戸時代後期には、画僧として名高い雲室がここで数ヶ月間、儒学などを講じたという記録もあります。
明治初年には郷学校を開校し、後に東岸学舎、浦賀小学校へと変遷することになります。
墓地には干鰯(ホシカ)問屋の墓が並んでいます。合掌
本堂の左手に鐘楼(下の写真)があります。




●干鰯問屋●
江戸時代初期、近畿地方を中心に綿作が発達していました。
綿作に最適な肥料が、鰯を加工した干鰯ホシカでした。
東浦賀に軒を並べた干鰯問屋は莫大な財を成しました。
文化面では俳諧に親しむ人も居た様で、干鰯問屋の宮与(宮原屋与右衛門)にも一句残されています。

降り出すや 諸人愛敬 夏の雨 素柏

干鰯の商いが隆盛をみるに伴い浦賀湊の船の出入りが増え、船の航行の安全確保のため燈明堂を建てました。
いつの頃からか石の土台だけになっていた燈明堂が平成元年に復元されました。
ワインセラーみやまさが地下のワイン蔵を造ったのも同じ年のことでした。

 


乗誓寺の門を出て、横断歩道を渡ると顕正寺さんです。

●顕正寺●ケンショウジ
  

東耀山顕正寺という日蓮宗のお寺です。
ここには江戸時代中期の陽明学者・中根東里の墓があります。
東里は下田の人で、若い頃荻生徂徠や室鳩巣といった、その時代の最高の学者について学びましたが、それらの学問に疑問をもち、自ら陽明学を切り開いてきました。後年、浦賀奉行所与力に嫁した姉を頼って宝暦12年(1762)に浦賀に来ましたが、3年後に72歳で没しました。
幕末から明治初期、浦賀に和歌をひろめた西野前知の墓や、直木賞作家・山口瞳氏のご先祖の墓もあります。
本堂を背に門を出て、石段を下り左に曲がると隣には東耀稲荷があります。この辺りは東浦賀2丁目の一部で、新町シンチョウという町内です。

●東耀稲荷●トウヨウイナリ


創建は天命2年(1782)で、名前は顕正寺の山号からとったといわれ、古くは同寺の住職が管理にあたっていました。
このお稲荷さんは、浦賀に数ある中でも一番贅沢に作られていて、欄間や天井などに優れた彫刻が施されています。
屋根には「えびす」「大黒」の飾り瓦があるなど、繁栄していた時代の浦賀の勢いを知る格好の建物と言えます。
先に行きましょう。間もなく左手に郵便局が見えます。
更に歩を進めると右手に鶴屋加藤商店があります。このお店の向かい側の路に入るとすぐに専福寺さんがあります

●専福寺●センプクジ

永昌山専福寺という浄土宗のお寺です。
文化3年(1806)ごろ、一茶が訪れた記録があります。初恋の人がここに葬られているので、その菩提を弔うためであったろうと言われています。
東叶神社の芭蕉碑を建てた福井貞斉の墓もあって、浦賀の俳人たちにはゆかりの深いお寺です。
本堂の脇には、浦賀町の町長を務めた廻船問屋、川津屋・太田又四郎の立派なお墓があります。
専福寺を出て左方向に進み、角で左を見るとそこは東林寺さんです。
東林寺への石段の右にあるのが三浦稲荷です。昔、雷電が来て、ここで相撲興行をしたと伝えられています。
ここで問題です。東浦賀の特徴のひとつ、お稲荷さんとお寺さん、お宮さんの数の合計は商店の数より多い。
嘘か 本当かヘマ

きれいな石段を上って東林寺さんに参りましょう。左の、駐車場になっている坂を登っても行けますよ。

●東林寺●トウリンジ
     中島三郎助 下岡蓮杖撮影 浦賀文化センタ蔵
浦賀山立像院東林寺、大永3年(1523)に開かれた浄土宗のお寺。
室町時代初期の優れた仏像など、市指定文化財があります。
浦賀奉行所与力・中島三郎助親子の墓があります。
三郎助(1821-1869)は明治維新の際、あくまでも幕臣としての意志を貫き、函館(五稜郭の戦)で親子とも戦死しましたが、いろいろな面で浦賀に残した足跡はまことに大きなものがあります。

東林寺をあとにしましょう。真っ直ぐ下りて来ると四つ角に井戸があります。
この井戸、ただものではありません。近くの人に由来を尋ねるのも散策の面白味かも・・・・

井戸がある四つ角で右に向くと海が見えますが、そこが渡船場で、西浦賀に渡ることができます。
この近くの海に面した所にコインパーキングが2か所あります。
今は角を左に曲がりましょう。左に50mほど歩くと洲崎町内会館があります。
その先右側に石川商店があります。そこから3軒ほどさきの角を左に曲がると法幢寺さんの石段が見えます。

●法幢寺●ホウドウジ
明応2年(1493)僧祐崇の開基、円城山法幢寺という浄土宗のお寺です。本堂には恵信僧都の作といわれる阿弥陀三尊像が安置されています。
境内から見渡す湊の眺めは素晴らしいものがあります。
山号に城の字がありますが、裏山が浦賀城であったことを物語っています。浦賀城は永正15年(1518)に三浦一族を破って三浦の地を領した北条氏が房州の里見氏に対する備えとして築いた城です。
海に向かって石段を下り、まっすぐ元の十字路まで戻って左に進みましょう。
次は東叶神社です。石川商店から神社の辺りまでは新井という町内です。

●東叶神社●ヒガシカノウジンジャ 
真ん中の写真は芭蕉の句碑 右端は鳥居の後ろにある「日西墨比貿易港之碑」です。家康の時代に浦賀はスペイン・メキシコ間の貿易の中継港であったらしい・・・詳しいことは是非現地で碑を読んでください。
        

明神山と呼ばれる神社裏山一帯には数多くの史跡があります。
山頂にある本殿への登り口左脇に句碑があります。この句は芭蕉の作と伝えられています

 にょきにょきと  帆ばしら寒き   入江哉

山頂一帯は小田原北条氏の水軍の砦、浦賀城で房州・里見氏に警戒の目を光らせていました。
明神山山頂から房州を望む。左端に釣り船が見えます。晴れていれば更に良く見渡せます。
また、安政7年(1860)の咸臨丸出航を真近に控えた勝海舟が航海の安全を断食祈願したといわれる所があります。

芭蕉の句碑の下を左に入ると「ちい散歩」や「鶴瓶の家族に乾杯」にも出たアカンサスさんがあります。
素敵なガラス張りのお店はすぐに見つけることができます。

神社の先にはサニーサイドマリーナ浦賀があります。


マリーナの2階にはとても美味しい天然酵母による手作りパンのワンこぱんさんがありました。
現在はここを離れて新しい拠点、東浦賀1丁目にあるワインセラーみやまさ宮政商店の近くで営業しています。

ワンこぱんさんのパンはワインとの相性がとても良く、ワイン会にはいつも出来立てのパンを参加者全員で楽しませていただいています。
ワンこぱんさんの電話 046-895-4888

神社の鳥居から右手海沿いには、イタリアでソムリエの資格を得たシェフが腕を振るう ラ・ペントラさんがあります。

では、海を見ながら渡船場(写真)まで戻りましょう。
渡し船は時刻表が無く、こちら側に泊まっていればすぐに西の渡船場まで運んでくれます。
対岸に泊まっている時は待合室にあるベルを押せばこちらに向かって来てくれます。
運行時間は朝から日没まで、正午から1時間は休み時間です。

渡船の待合室の隣には浦賀湾を眺める特等席 カフェ エルマールさん 046-874-7711
浦賀湊を囲む山、東西を往来する渡し船を眺めながら美味しいお料理が楽しめます。
最近の情報はinstagramから

この近くに徳田屋の碑を見ることができます。

●徳田屋跡●
徳田屋は江戸時代から明治、大正期まで続いた浦賀を代表する割烹旅館でした。
嘉永6年(1853)6月のペリー来航の際には佐久間象山と吉田松蔭がここで相会し、今後の対応策などを協議しました。
また、安藤広重や桂小五郎など、浦賀を訪れた文人墨客は必ずと言っていいほど、ここに宿泊しています。
しかし、この徳田屋も大正12年の関東大震災で倒壊しました。


東浦賀の小さな旅、お楽しみいただけましたでしょうか。浦賀を実際に歩いてみたらもっと良いところに気付いてくださるかも知れません。是非お出かけください。浦賀行政センター市民協働事業が作成した浦賀の歴史とふれあう散策ルートもご覧ください

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