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2006年4月5日 発行
名張東京守る会

 

 名張毒ぶどう酒事件第24回全国現地調査は、好天に恵まれるなか、全国から9都府県86人(うち東京から10人)が参加して、3月25〜26日に行なわれました。
 葛尾集落の行事で急遽一日目に変更した現地調査。市内の勤労者福祉会館に集合し、鈴木泉弁護団長の挨拶の後、すみやかにバスを仕立てて現地へ。現地調査の大きな「柱」は「ぶどう酒到着時刻問題」。広島屋、薦生農協、林酒店(当時)などで下車して、弁護団の説明を聞きます。葛尾では、住民の意向を受け、事件現場である公民館跡地や慰霊碑には行かずに公道のみを歩いて、現地を見学しました。

 夜は、「えん罪名張毒ぶどう酒事件全国ネット名張市民集会」に参加。東海テレビが最近放映した「重い扉」という名張事件のドキュメンタリー映像を見ました。引き続き弁護団が、プロジェクターを使って、事件の概要から、再審開始決定の内容に至るまでをていねいに解説しました。最後に、面会人の稲生昌三さん(愛知県在住)が、奥西勝さんの近況を報告し支援を訴えました。

 二日目は、まず弁護団が、再審開始決定までの活動と、異議審でのこの間の取り組みについて報告しました。使われた毒物がニッカリンTではなかったことを証明するために、農薬を捜し歩く日々。開栓実験などに使うぶどう酒の栓を復元するために、素材を調べに会社を訪ね回る日々。新証拠を裁判所に提出するまでの苦労の数々に、参加者一同あらためて弁護団に敬意を表しました。名古屋高検は、いまも毒物鑑定に対して、細かい点を取り上げて「難癖」をつけてきています。弁護団は今年1月に二度目の意見書を提出して、これらの検察の主張に対して、逐一反論をして、すみやかな異議の却下を求めました。他方、やり残しの無いよう、いまもニッカリンTの着色料の調査を続けていて(白ぶどう酒に赤い農薬を入れたら赤くなるはず、という論点)、鑑定書にまとまり次第提出する意向です。11人が参加した弁護団の意気込みをひしひしと感じました。

 次に、参加した各地域からの活動の報告。東京を代表して宮崎孝事務局長が、昨年の11.21集会の取り組みを紹介し、新リーフレットを作成していることを伝え、「この異議審でのたたかいが最も重要。今年いっぱいが勝負。なんとしても勝つために頑張る」と、決意を表明しました。

 最後に救援会中央本部の小川国亜事務局次長が「ここで学んだことを持ち帰って、支援を訴え広げよう」と訴え、現地調査は終了しました。

 現地調査を通じて、テレビ局のカメラが3台入り、取材陣は二桁に。かつてない注目度でした。
 終了後、「東京代表団」有志は、慰霊碑と、奥西家のお墓に献花に。夜は市内の赤目温泉で英気を養い、翌月曜日、名古屋の高裁・高検・拘置所に対して、愛知・三重の支援者とともに要請をしました。

小澤克至
 

事件をまた深く知る充実した3日間になりました

■ 初めて訪れた葛尾でおこった出来事
 急な山道を上り詰めた所にひっそりと佇む集落は、思っていたより家屋の場所に高低差があり、不便があっても互いを見守り合いながら持ちつ持たれつ過ごしてこられたのだろうと想像させるような風景。千葉や東京で生活してきた私が想像できる近所づきあいとは全く別の環境であることを知りました。
 奥へ進んで行くと事件現場の入り口に区長さんが立っており「この先には立ち入るな、いいからさっさと下りていけ!」とそれ以上入ることを許してもらえませんでした。こんな出来事はこれまでの現調ではなかったとのこと……再審開始決定が出て真犯人が存在する可能性が現れ、集落の人たちもピリピリしているのでは、という弁護団の話でした。
 警察の捜査の中で強要させられたに違いない不審な供述の変化があったことも含め、想像を絶する辛い出来事は今なお終結すること無く、この集落の人たちも45年間「被害者」として日々暮らしてきているということを肌身に感じました。
■ 粘りの弁護団
 葛尾地区での区長さんの形相やきつい言葉に全く怯まない弁護団の先生方の姿もかなり印象的でした。集会では、普段は知る機会が少ない弁護団活動の苦労話も聞けました。報告されている一つ一つの鑑定結果などが弁護団の粘りや労を厭わない強靭な精神力の産物なんだということを改めて思いました。
 そんな弁護団もスランプの時期は支援者の励ましや活動がとても力になったそうです。粘りの弁護団を共に支え合う立場の私たちはよりネバネバの強い質でなくてはなりませんね。
■ 冤罪はいかにしてなくならないか
「捜査官が収集した被疑者・被告人に有利な証拠を裁判所に出すようにさせなければ冤罪はなくならない」という弁護団長の言葉。布川事件の桜井さんの経験にもあるように、名張事件でも当然存在するはずの(奥西さんが犯人ではないことを証明できる可能性が高い)村人の調書を検察は「ない」と言っています。
 証拠開示をする声をガンガン響かせ検察に迫りに迫ることで、私たち支援の力も今後の審理の決定的な転換をもたらせる可能性がある……こうしちゃいられないっ! もっともっと署名も集めなきゃ!!
■ 公共の電波を使っちゃっては!?
 東海地域では東京と違い、事件について死刑判決や検察を問題視する特集番組が、細かな検証なども交え繰り返しテレビで放送されています。今回の集会や現地調査にも3社のマスコミが取材に来ており、私はテレビカメラを横目に「これをさらに利用する手は無いかしら?」と考えていました。
 名古屋を中心とした地元の行動が600人だったら630に、80人だったら100人にと、東京からの参加でさらに盛り上げ、長年に亘る運動の蓄積で十分に熱している東京の会のエネルギーもマスコミの画像に映し出す機会をもう1つ2つ増やしてみては!? 再審開始が勝ち取れるかのこの頑張り時、あの手この手で広く大きく事件と奥西さんの無実を知らせたい気持ちになりました。
■ 翌日お参りできました
 葛尾での現地調査は途中で断念せざるを得なかった私たちでしたが、要請行動まで残る予定だった5人で翌日公民館跡地へひっそり行き、慰霊碑へ花をお供えしてくることができました。また、集落の墓地から移されてしまい、今は遠い場所の霊園にある奥西家のお墓にもお参りしました。布川事件の桜井さんが集会の挨拶で語っていらした「奥西さんも本当は葛尾に帰りたいと思う。私も利根町に帰りたかった」という涙に濡れた言葉が繰り返し頭の中をよぎりました。
 現地のテレビで、東京の桜が満開になった様子が映し出されていましたが、名張ではまだまだ固い蕾でした。
 45年前のまさに今日、事件が起こりました。
 いまだ暖かさを取り戻せぬ名張の野山に、幾重にも響き渡る鶯の声。ゆっくりと近づく春と再審開始の報告を、「早く早く」と心待ちにしているかの様に聞こえました。

小池 晶
 
春よ来い

 東京では桜の花が一気に咲きそろうような陽気の3月25日、名張事件の現地調査に初参加しました。近鉄名張駅前は、列車やバスが到着しても乗降客はまばらで、宣伝行動のビラの撒き手のほうが圧倒的に多かったのですが、ほぼ100%の人がビラを受け取ってくれました。事件に関心があるというよりも、物珍しかったのかも知れませんが、断然気分は良かったです。
 バス3台に分乗して現地調査に出発しましたが、途中運転手がルートを間違え私が乗ったバスは最後になってしまったのです。その後の波乱を予感させる幕開けでした。やっと着いた最初の地点広島屋では、それまで開いていた店のカーテンが私たちの目の前でサァーっとひかれてしまい、店の主人から、先々代の時のことなのに大勢でやってこられて迷惑だ、と抗議を受けました。
 さらに、葛尾の集落では、5人ずつ分散してコースから外れずに速やかに通過すること、との注意事項を受け、集落への坂道を登っていくと緊張感がピリピリ。人だかりがあり、現在の区長さんが弁護団に対し延々と抗議していました。その内容は、5人ずつのはずが8人で来た、事前連絡が前日にあったばかり等々約束違反なので、立ち止まらずにさっさと行け、慰霊塔への道は私道(村道?)だから入るな……。後で聞けば以前は、全員一緒に集落内を歩き、公民館跡地等での調査も出来たそうだが。まだ若く見えたその区長さんも、事件当時公民館にいた中の1人だそうで、45年という歳月は長いのか短いのか。葛尾の集落の人たちも勿論犠牲者であり、事件を忘れたいと思う人も多かったと思う。しかし、昨年の再審開始決定により、また事件が蒸し返されるのが嫌なのだろう。現地へ行って肌で感じてみても、真相は見えてこなかったが、奥西さんが無実であることはさらに確信できました。
 弁護団からの報告や各地域での運動の報告もあり、大阪では手製のしおりをつけてビラをまいたり、手製のアクセサリー等を売って活動費にしているとのことでした。夜も集会があり、他の地域の人たちとあ

 
わたしたちができること

 昨年の11月東京集会に参加した。人生の大半を無実の罪で自由を奪われている奥西さんに、励ましのコメントを添えた。再審は決まったのに受け取ることができないと知った。
 奥西さんのふるさとはとてものどかで、花や鳥たちが総出で春を伝えていたのに、人の心はそれを拒んでいたかのようだった。
 わたしたちが裁判で弁舌を振ったり、証拠を崩したりなどということはできなくとも、奥西さんと奥西さんの大切な人たちのために、できることはほかにもあるのではないかと思う。

新倉健一
 
 

 3月27日(月)、現地調査を受けて、東京守る会と、三重・名古屋の支援者13名が、各省庁に要請をしてきました。各省庁には、全国から集められた署名と、現地調査参加者一同からの決議文を提出してきました。


■ 名古屋高裁
 部屋に案内され、13時きっかりに豊島訟廷管理官と大島次席書記官が対応しました。東京からは、再審決定を機に「名張事件」への関心が広がり、昨年の集会を通し支援が広がったこと。東京でこれだけの人々の関心が集まったのは、やはり奥西さんが高齢であること、にもかかわらず、不当な異議申立により、再審自体がはじめられていないことに対し「何かしなければ」という思いからだと伝え、そして、審理をつくすことは大切だが、検察官の異議申立や、その後の書面を見ても、再審決定を覆すものにはなっていない。奥西さんの年齢を考え、異議審については早期に棄却して欲しい。と訴えてきました。特別面会人の稲生さんからは、「無実を訴え、自分が判断を下す相手が、すぐそばにいるのだから、裁判官は奥西さんに直接会って欲しい」と強く訴えていました。


■ 名古屋高検
 高検側は「忙しいから」という理由で、担当検察官は顔を見せず、庁舎内にも入れることもせず、ただの連絡係のような事務官が出てきて玄関口で要請書と総会決議を渡すだけ……という社会常識のない対応を受けました。地元の方が「東京からわざわざ来ているのに、その対応は名古屋人としては恥ずかしい」と詰め寄りましたが、結局はその連絡係の方に伝える形となりました。何を言っても「私じゃ判断できない」という対応。やはり、直接の担当検事に会って、直接要請をしないと、きちんと伝わらないと思いました。


■ 名古屋拘置所
 ここでは今まで要請人数を5人と制限されてきていました。理由は「部屋が狭いから」。今回、東京から6人来ているので、狭くても構わないから6人で要請したい旨を門のところで押し問答しましたが、結局は「3人だったのを5人にしたのだから」ということで、5人しか入れてもらえずに、とにかく部屋へ案内されました(昔は、全員が要請でき、お茶も出た)。ソファーと椅子があったので、ソファーにかけていたら、「そこは上司が座る場所だから」とどかされてしまいました。お客さんをどかすなんて非常識。ここでも社会常識のない縦社会の片鱗をみました。
 中森康雄総務部長が対応。「死刑執行停止の判断が出ているのにもかかわらず、1年間も対応が変化しないのは何故か」という問いに「他と平等に扱わないといけない」「死刑囚の心情の安定」「法律で決まっているから」「検察が異議を出しているから」とのこと。検察は、“再審決定”には異議を出してはいるが、“死刑執行停止”についての異議は出していないはず。「法律には“死刑囚は未決に準ずる”としている。法律より通達を上にするのはおかしい」と反論してきました。「“心情の安定”というが奥西さん本人に聞いたことがあるのか?」という問いについては、「聞いたことはない」とのこと。異議が出されようが、死刑執行停止の身である奥西さんを拘置所に留めておく理由がないのだから、今すぐにでも連れて帰りたい気持ち。拘置所として、手続きがないとできないのはわかっている。それでも、一定の司法判断が出された今、奥西さんについては“特別扱い”をすべきで、拘置所としてできることは直ぐにでも実行して欲しい。例えば、拘置所の理解が間違っている部分(検察が異議を出しているという部分等)を確認し、拘置所が今の奥西さんにできる最大のことをするべきだし、できるはずだと訴えてきました。
 奥西さんの年齢を考えたときに、各省庁の対応にイライラするばかり。万が一、獄死なんてことがあるなら、国全体で無実の人を殺めたことになる。再審という司法制度があるのだから、間違ったことは謙虚に受け入れるべき。私たち運動体としては、思いつく限りの手だてを尽くして、奥西さんを取り戻していきたい。

堀江恭子