《3》  


 ええ?、と沢木はますます分からないというふうに目を丸くした。日向は足許でじゃらしていたサッカーボールを、つま先だけでひょいと器用に手許に返した。
「つったって、自分がケガしちゃうかもしんないのに?」
「だから──、だから、逃げるって言う若島津は正しいんだ。ちゃんと自分で分かってるやつは、バカなやつには近寄らないし、アブナいこともしねーんだ。それ諺でもある。…クンシなんとかって」
「ナントカ? クンシ?」
 君子危うきに近寄らず、だ。
 ろくにベンキョーもしてないみたいな日向がよく知ってたな、と健が思って顔を眺めていたら、考えていたことは筒抜けたらしい。
「──って、親父がよく言ってたんだよ。オレが喧嘩してウチ帰ると」
 ふいと日向は視線を逸らせた。
 彼の父親は半年ばかり前に亡くなっていた。事故で、それが決して小さなもので無かったので、彼らの仲間内では少し禁句めいたものになっていた。日向が自分から話題に出したのも初めてだった。
「へえ…」
 ポロッと、意識せずに言葉が健の口からは滑り出た。
「──…オレ、日向のお父さんと、ちゃんとハナシしたかったな」
「ああ」
「カッコいい。凄く」
「…ああ」
 頷いて、日向は自分の荷物の方に戻って行った。見送りながら、ちょっぴり健は羨ましい気がした。そんなカッコいい親父が自慢の日向のことが。
 それから、言葉が見つからないほど寂しい気もした。自分はほとんど知らない人だけど、そんなカッコいい大好きな人に、もう二度と会えない日向のことが。
 
 
 
 カントクは言葉通り、さっさと酒ビン担いで帰ってしまったので、なんだか非常に間の抜けた解散になった。
 引き上げる直前、隣町がホームタウンの相手チームのカントクに日向は呼び止められた。そのまましばらく、大人と子供の二人は真顔の立ち話で喋っていた。
「ナンだって?」
 何となく待っていた健に、戻って来た日向はどうってことの無い話みたいに軽く答えた。
「あっちのチームに入らないかって」
「えーっ?」
「設備もいいし、そんなに遠くないからってさ。ウッソつけだ、バス乗らなきゃ行けねぇじゃねーか」
 その言い方では断ったと受け取っていいらしい。そだね、と健は曖昧に相槌を打った。
 だいたい、日向は自宅近所のこのチームでも、練習途中参加・途中早退が多いのだ。それは主に新聞配達のバイトや、まだ小さな弟妹の面倒を見るためだった。そう考えれば、バスに乗って通わねばならないようなチームに、所属出来るはずは毛頭なかった。
「でも、ちょっともったいないかな…」
「なこと、ねーよ。大したことねえ、あそこ」
 今まさに自分達がボロ負けしたチームへの寸評でも無かったが、健はとりあえずもう一度頷いた。
「かもね」
「うちのカントクの方が、いい。あの人、凄いんだ、ホントは」
 それも分かる。ちゃんとやれば、ちゃんと返してくれる。適切な評価とアドバイスを。
 少なくとも、健が時々ちらっと見学だけしていた去年はそう見えた。6年生が中学受験だなんだでボロボロと抜けた途端、このお粗末な有り様になっただけで。
 とにかく今年の5年はヒドいのだ。いっそ日向がキャプテンになりゃいいのに、と健は本気で思う。
 ───すっげーな、3年生でキャプテンだ。ありえねー。
 思って一人で笑っていると、「おい」と日向に声をかけられる。慌てて振り返ったら、えらく間近に日向の顔があったのでギョッとした。
 しかも。しかも、日向の目は恐ろしいほどマジだった。
「な、…ナニ?」
「お前、キーパーやれよ」
「───えェッ?」
 自分でも呆れるほどに、口から出たのはすっとんきょうな声だった。おまけに相当、上ずってもいた。ちなみにこの彼のポジションは、現在のところFW(候補)でござい。
 そんな健の様子に構わずに、日向は畳み掛けるように後を続けた。
「カントクに言われてただろ。前に! ポジションどこにすっか決める時!」
「だ…からそれ、ヤなんだって! オレ、あん時も言ったじゃんか」
 だってキーパーってのはつまんなそうだった。ジミだし、仲間はずれっぽいし、見せ場はと言えばピンチの時だし。失敗すりゃブーブーみんなに言われるだろうし。なんとゆーか、リスク高すぎ?
 走り回って得点する方が、楽しいしカッコいいに決まってる。それに、
 ───それに、初めてちゃんと見たこのチームの試合で、日向のインパクトは凄かった。とにかく、めちゃくちゃ、カッコ良かった。だから一緒にFWやりたくなったんだ、なんて……自分の口からはとてもじゃないが申告出来ない。
「あん時はあん時だろ! オレだってお前のことよく知んなかったし! でも今ならもう知ってる、お前、ゼッタイにキーパーの方が向いてんだよ!」
「わっ…、わっかんねえだろ、そんなこと!」
「分かる! オレは分かる!!」
 どえらい自信を持って日向は言い切った。
「お前目ェいいし、シュンパツリョクあるし、さっきもそーだよ! お前の動き方って時々フツーじゃねえ!」
 いや、それは空手なんてものをやってるせいじゃなかろーうか。寸止めなんてのを日々訓練してると、多少は人様より動きもキレが良くはなろうってものだ。
「だいたいお前、足は早くねーだろ、FWやんなら。直線はともかくボール持ってドリブルさせたら遅ぇじゃん!」
「ほっとけっ!」
 痛いとこ突かれてグサーッと傷付く。ま、まだ慣れてないだけ…というより、確かに健はあの『どりぶる』っつーヤツが苦手ではあった。サッカー競技の上では致命的。おまけに人並み程度の短距離タイム(遅いってほどではないが。断っとくと)。てことは必然的に、日向のあの激烈なスピードダッシュと、ツートップ組むのは現状ではかなりキツい。
 でもほら、色々始めたばっかだし! おいおいと人は成長してゆくのよね!
「…オレ、なぁ日向、オレさ、」
「分かれよ! ホントはお前だって分かってんだろ!」
 ナ、ナナナ何をさ、と訊くより早く、日向の腕が激しく健の両肩を鷲掴んだ。
「このまんまじゃ勝てないんだよ…!」
 振り絞るような声だった。あの時、あの正キーパーに背を向けた時と同じ目だった。
「分かってんだろ! 勝てないんならやってもムダだ、精一杯やったから仕方ないなんて、そんなんウソだ。そんなん、下らねぇし負けたヤツの言い訳だ。オレはゼッタイ、負けたくない。勝つ気がねーんなら、…」
 そこで腕を下ろし、日向は一呼吸を置いた。
「イミなんか、ない」
 意味。意味って何だよと、健はまた訊き返しそうになった。カツコトのイミ。負けないってことだけじゃなく?
 でも今度も口に出して言う前に、日向が本気で、それこそ死にそうなほどの本気で、そう思っているのだけは伝わった。
 言葉や感情ですらそれはなく。
 彼の本気、が身体の芯のところにストーンと落ちた。
 それと一緒に呆気にも取られて、健はしばらくは口をきくのも忘れていた。違うのだ。こいつは他のヤツとは根っこのとこで決定的に違うのだ。それが多分、健が『カッコ良さ』を感じた理由の一つでもあるはずだった。
 ───ああ、そうか。
 知ってたよ、オレは。日向。
 お前はどうせ点を取られるなら、イエロー覚悟であそこで止めに行きたかった。諦めるなんてしたくなかった。例えPK勝負になったとしたって、それは『負け』ってことにはまだならない。
 なのに、なのにあそこでキーパーは負けちゃってた。相手FWに対してじゃなく、自分自身の気持ちとの勝負のとこで負けに入ってた。だからお前は辛かったんだ。見ているのも馬鹿ばかしいほど悔しかった。
 最後まで、最後まで、最後まで。勝ちを諦めたらダメなのだ。諦めるくらいなら、きっと日向は死んだ方がマシだとすら思うだろう。
「お前の方が、ゼッタイうまい」
 日向は怒鳴りまくっていたさっきの激情を不意に潜めて、向こうにまだ居る、今日の相手チームのキーパーを指差した。
「ぜんぜん、うまい。ほんとだ」
 だから、と言ってから日向は少し、単語を探すように黙り込んだ。やがて開かれた口から飛び出た台詞は、
「…お前、だからオレのキーパーになれよ」
「お前、の?」
「オレの、勝てるキーパー。オレと勝って、もっとずっといっぱい勝って、ずっと、凄く遠くずっと、先まで行くんだ」
 遠く。ずっと。
 叶うのかな、と健は瞬間思った。叶うのかな。それは新しい王国だ。新しい宇宙で、どこまでも果てのない大空だ。
 勝ち続けること。こいつと一緒に。
 きっとそこには『イミ』がある。見たことも無い風景が。
「……勝てるキーパー」
「うん」
「お前と」
「うん。オレと」
「…なれる、かな」
「なれる。ゼッタイ」
 日向はいつの間にか落としていた健のボストンを拾って、ほら、と胸元に突き出した。それから真夏の太陽みたいにピカピカに笑って、もう一度、自信満々に繰り返してみせた。
「───ゼッタイ、だ」
 
 
 
 
 王様を見付けた。まだ王国はないけれど。
 少年はいつか堅固な城と豊かな国を、彼自身の力で築いていく。輝かしいその歴史をあらゆる人の胸に刻む。
 でもまだ誰もそれを知らない。
 ひそかに、ここでその建国の手助けを一人誓った、彼と同じほどに幼い歳の少年を除いては。
 
 
 
 
 
「まずはさ、カクメイだよな、カクメイ」
「って、なにそれ」
「キャプテンぶん獲ってさ、サブキャプテンはお前な。んでレギュラー全部うまいヤツで固めるんだ。歳カンケーなく、下手クソな学年上のヤツらなんか追い出してさ」
「マッジでぇっ? カクトク黙ってないよ!」
「カクトクはなんも言わねぇよ。オレらが自分でちゃんとやれば。オレら、ジツリョクでやればいいんだよ」
「……マジでー?」
「まじ! おおまじ! オレ、やるっつったらやるからな!」
「だろうなあ。…あー、そうなんだろうなぁ」
 
 
 
 小さな王冠。小さな宝石。
 だけど確かにその星はきらめき始める。
 
 
 
【END】 

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