もう一つの季節


僕は御巣鷹山の飛行機事故で死んだ大学の同級生のことを思い出した。

そいつとは一、二年のときの語学の授業で一緒で、教室の一番後ろの隅の席に並んで座って何度かしゃべって、「いい感じ」だと思ったけれど、三年で語学の授業もなくなるとほとんど話す機会もなくなり、卒業してからも当然一度も会わなかった。その彼の名前を十何年しかして、事故の死亡者が新聞全面に二センチ画程度の顔写真つきでズラーッと並んでいる中で見つけたのだけれど、そのときの僕の気持ちは悲しいのでもなく淋しいのでもなかった。

彼と僕との距離は、僕の気持ちが何かそういう生な感情を生み出すよりもずっと離れていたということになるのだが、それでもそいつが死んだことをあっさり忘れたりすることは当然なくて、はっきりした感情にならなかったその出来事を僕の頭は一所懸命何日も考えていて、突然の死に告別式で強く悲しんでいる人たちとは別にその人たちのまったく想像しないところでこのように考えつづけている人間がいるということに人が生きていたということのリアリティも感じたけれど、そういうことよりもっと、なんと言えばいいのか、「もう会えない」ということではなくて、死んだのを知ったことで「会わない」ということがはっきりした形になった----というか、死んだのを知るまでは「会わない」という意識すら持たずに会っていないだけだったのが、そうではなくなった----というか、この時点で彼に関わる過去と未来という二つの時間がもう絶対に動かなくなった(そして僕もその一つの要素として確定された)----とかそういうことで、(後略)

保坂和志『もうひとつの季節』(朝日新聞社 1999) pp.115-116


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