「兜に秘める伝説の小仏」 (日本経済新聞 文化欄・平成十六年十一月十一日)

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冑仏(かぶとぼとけ)と呼ばれる小さな仏様が、我が家に伝わっている。
高さ七センチほどの小さな厨子(ずし)に納められた像高二センチほどの仏像で、
宝冠をいただき、手は左手の人さし指を右手で握る智拳印を結んだ大日如来。
普段は、仏壇にまつられたご本尊の大きな厨子の中に、脇仏として置かれている。

幼いころ、祖母から、戦場でご先祖様が兜(かぶと)の中に入れて戦った仏様だと聞いた。
河村家は江戸時代、幕府直轄林を管理する御林守(おはやしもり)を務めていた。
山あいにある我が家は町の歴史散策コースの一つになっており、
来訪者があると、いつでも取り出せるようにと胸のポケットに入れていた。

学習塾を経営する傍ら、全国各地の博物館や寺社を訪ね歩き、
歴史書や伝承を調べるようになったのは、一九九三年からだ。
きっかけは、小田原城によく似た小さな仏様があるという話を耳にしたことだった。
早速、現地に赴くと、確かに高さ七tほどの厨子に納められた小さな仏様があり、
「鎧仏(よろいぼとけ)」と書かれていた。

その後、武具、甲冑に関係がありそうな博物館に片っ端から電話を掛けてみた。
「冑仏など、聞いたことも見たこともありませんね」。
そんな返答を何度聞いたことだろう。
だが、いくつかの博物館や神社からは、似たようなものがあるとの返事を得た。

仙台市博物館には、伊達政宗の家臣、浜田景隆の「護身仏」があった。
黒漆塗りで観音開き、厨子の中には色鮮やかな八幡菩薩座像がまつられていた。
ご子孫と電話で話をすると「我が家では守本尊と呼んでいた。
戦の時、兜の中に入れてお守りにした」という。

見学客があると「兜の中に入れて……」と説明していたが、実は半信半疑だった。
それだけに、我が家と全く同じ伝承があることを知り、うれしかった。

甲冑師の三浦公法氏からは、武田信玄の兜について興味深い話を聞いた。
それによると、「甲斐国志」に「信玄首鎧ノ前立金ノ不動」に関する記述があり、
調べてみると、信玄ゆかりの神社に秘蔵されていた、という。
三浦氏に送っていただいた写真を見ると、厨子が我が家のものとよく似ていて、
息が止まる思いだった。

歴史をさかのぼると、平安時代に初の征夷大将軍に任じられた坂上田村麻呂に
冑仏に似た秘仏の伝承があった。
花巻市にある胡史王(こしおう)神社には、
「坂上田村麻呂は兜の中心に薬師如来像を納めていた。
それは、金銅仏で、
小さな黒漆塗りの厨子にまつられている秘仏であった」との伝承が残っていたのだ。

「吾妻鏡」には、源頼朝が平氏追討のために挙兵した直後の話として、
出陣の際、幼いころから信仰していた観音像を、
髪を頭頂部でまとめて束にした髻(もとどり)の中に納めた、という記述があった。
また、同時期の武将、木曽義仲の菩提寺には、
義仲が兜に納めたとされる「かぶと観音」が残っていた。

戦国期の武将では、加藤清正が、
長烏帽子形の兜の内部の頂上に日蓮上人の黄金像を安置していた、という伝承がある。
これは、甲冑研究のバイブルというべき
山上八郎著「日本甲冑の新研究」(一九二七年)に記されていた。

上杉謙信の菩提寺、林泉寺では「兜守(かぶともり)」と呼んでおり、
「一寸から一寸半くらいの小さな仏様が十五体ぐらいある。
身分の低い武士は仏の姿や経文を木彫りにしてお守りにしていた。
位が高くなると、木像を腰につるしていた」という話を聞いた。

冑仏に関する記録はあまりにも少なく、これまで研究対象になることもなかったようだ。
しかし、仏法や武術を相伝する場合、奥義は口伝によって伝えられる。
このことを思えば、武将の私的な信仰の対象である秘仏、冑仏こそ、
彼らの内面を理解する重要な鍵になるのではないだろうか。

戦場に赴く前や、激しい戦闘を終えた後、ひそかに小仏に手を合わせていたかもしれない。
こう考えると、勇壮、豪放といった言葉で語られる武将たちのイメージは一変する。

塾講師の傍らでの研究のため、全国津々浦々まで調査の手を伸ばすことはできていない。
ただ、生徒には、君たちが大人になったころ、
テレビや映画の中で戦国武将が兜から
小さな仏像を取り出すシーンを目にすることになるかもしれない、
と夢を語っている。

これからも、ゆっくりと時間をかけて、冑仏の謎を追いかけていきたい。
(かわむら・たかお学習塾経営)