冑佛考(三)   (「甲冑武具研究」135号所載・平成13年10月15日・(社)日本甲冑武具研究保存会発行)

                               (社)日本甲冑武具研究保存会評議員   河村 隆夫


 一 まえがき

 「冑佛考」(『甲冑武具研究』第一○五号)、「続冑佛考」(同第一一三・一一四号)で紹介した冑佛に加えて、今回は、冑佛に関する新たな文献や仏像を紹介する。特筆すべきことは、「冑の受張りの中」に仏像が納められていたとする貴重な知見が得られたことである。

 二 冑佛の実遺例

(T)紫糸威二枚胴童具足の冑佛
 
 平成八年三月二十三日、(社)日本甲冑武具研究保存会主催の甲冑武具審査会大阪会場に於いて、出品された紫糸威二枚胴童具足の、兜の天辺の宝珠の中から、緞子の袋に納められた聖観音像が発見された。
 兵庫県在住の岡田正巳氏所蔵のこの鎧兜は、藤堂高虎の支流、伊勢久居藩主が参勤交代の途次に故あって下賜されたものと伝えられ、家紋は藤堂家本流の蔦紋に倣った「丸に蔦」で、甲冑の随所に刻まれている。
 冑は、鉄黒漆塗二十八間四方四方白桧垣付筋兜である。その天辺の宝珠の中に、緞子の袋に包まれた高さ三・五p、幅0・六p、厚さ0・五pの金属製の小像が納められていたのである。(奈良国立博物館の井上氏によれば、左手に未敷蓮華、右手はその蕾をひらこうとして、頭頂部を髻と見れば、ほぼ聖観音とみて良いとの御教示をいただいた。)

(U)長途兜と兜仏

 昭和四十二年六月三日、社団法人として発足した甲冑会の第一回総会が安芸の厳島で開かれた。その記録として、同年十月一日発行の『甲冑武具研究』第十四号に掲載された久山峻専務理事の「厳島総会の記」に、次の記述がある。

  三日になると、全国各地の会員が続々として集まり、総員九十一名という最近にない  盛大なものとなった。(略)武田甲斐人所蔵で、文久の七郷落ちの際、警護にあたっ  た方が着したという「長途」在銘の冑の受張りの中には小仏像が二体も入れてあった  が、古来兜仏とか兜経というのもこれであると思う。(後略)

 さらに、昭和四十三年甲冑会発行の写真帖『明珍春田早乙女以外の在銘冑』注1の目次及び序文に、次の記述がある。

  目次
    (略)
    4長途 武田甲斐人氏
    5同兜仏 武田甲斐人氏
    序文
    明珍春田早乙女以外の在銘冑  
(略)
   武田甲斐人氏の長途在銘の兜は文久の七郷落の時同氏の先祖が従者となって海田市  まで扈従して来た時に被ったもので、受張りの中に二個の護符があり、一方は一寸位  の円い筒形になった像で、これをつつんだ紙には「加藤清正信仰之妙見菩薩写之」と  書いてあり、もう一つの錦の袋に入れたものは高さ八分位の妙見菩薩の座像であった。  最も座像の方は以前に別の兜のものを同兜に封入したことが記録にあるそうだ。昔か  ら兜仏などと云われたものがこれであろう。

 以上、本年三月宝珠の中から発見された冑佛の記録と、三十年前に甲冑会の先達が冑の受張りの中から発見した冑佛の記録と、今回は二つの実遺例を挙げた。
 (平成八年五月十二日、現会長藤本鞍斎氏が、写真集『明珍春田早乙女以外の在銘冑』の中に、昭和四十二年当時の冑佛発見の経緯が記されていることを見つけられ、御教示いただいた。)
 三 文献

(T)日本書紀

 『日本書紀』注2巻二十一、天皇即位前紀に、次の記述がある。

  是時、厩戸皇子、束髪於額、古俗、年少児年、十五六間、束髪於額。十七八間、分為  角子。今亦然之。乃 取白膠木、疾作四天王像、置於頂髪、而発誓言、白膠木、此云  農利泥。今若使我勝敵、必當奉為護世四王、起立寺塔。

 この束髪於額の四天王像について、上原和氏は次のように述べられている注3。

  ところで、厩戸が、 り取って、たちまち四天王の像をつくり上げて、前髪の上にか  ざし、誓願の大見得を切る場面は、馬子の場合に比べると、なかなか劇的であり、『紀』  の記載にも生彩があり、なによりも戦場的リアリティがあるが、かえって史家は、フ  ィクショナルな表現にのみ眼を奪われて、これを荒唐無稽と断じ勝ちである。(略)  しかし、私はふと思う。フィクショナルな表現と見られている『紀』の記述のほうが、  案外に、歴史的なリアリティがあるのではないかと。(略)兵士の眼には、厩戸は、  四天王の像のもつ霊力を身につけた、四天王の霊が憑りついた、まさしく死地回天の  若き武将として、映りはしなかったであろうか。

 やがて幾多の武将の兜に秘められた冑佛の始源、あるいは少なくとも仏像を髪にかざすという着想の源泉は、ここにあったようである。

(U)東山往来

 『続群書類従』注4巻三百五十九消息部『東山往来』に、次の記述がある。

  昨日奉渡萬保利小佛。若奉供養了者。付此使可被令奉請者也。抑奉持之條。尤不審也。  凡夫在俗。濫穢巨多也。縦奉納髻中。又奉係頸下。於其食魚触女。及大小便時。還不  蒙其無禮不浄之過哉。貴師寄吉様被教者所仰耳。謹言。

 『東山往来』は平安時代の教科書で、撰者は清水寺別当定深(ー一一一九)であり、堀河天皇(一六八六ー一一○六)の時代にできたものと推定される。日常生活についての檀那の質疑に師僧が解答を与えたもので、その正編十六身帯仏像真言等不可離状には、小佛を髻の中に納めたり頸の下にかけたりする当時の風習についての問答が記されている。
 (『東山往来』については、平成八年七月、文化庁を訪問した際に文化財保護部美術工芸課文部技官奥健夫氏から御教示いただいた。) 

(V)古寺調査事項取調書

 「和田家文書」注5に、明治二十八年九月十日と記された袋綴五葉美濃判の『古寺調査事項取調書』があり、その一節に次の記述がある。

  一、建物 名称本堂間数間口五間奥行四間三尺坪数二十二坪半
  一、境内 百六十九坪
  一、宝物 ○名称延命地蔵菩薩像 物質木仏坐像丈七寸五分蓮座六寸二分。作僧行基    和田義盛ノ守護ノ像ナリ。○名称灰煉地蔵菩薩ノ像 物質灰煉坐像丈一寸二分蓮    座二寸作弘法大同四年、江ノ島ノ岩窟ニ於テ護摩供養ノ残灰ヲ以テ煉像ス則チ義    盛常ニ兜ノ八幡座ニ安置セラレシト古来ヨリ伝ヘタリ。○名称茶道釜 物質鉄鋳    物作人不詳、和田義盛所持ノ釜ト申伝フ。○名称破籠 物質木細工作人不詳和田    新兵衛尉朝盛所持ノ品ト申○名称茶壺 物質土器、作人不詳和田新兵衛尉朝盛所    持

 和田朝盛は和田義盛の孫で、剛勇かつ和歌に秀で、源実朝の寵愛をうけた。
 建保元年(一二一三)五月、義盛が和田合戦で討死したとき、出家していた朝盛は法衣のまま出陣、「討死交名」に名を連ねたが、実は生存し、相模国三浦郡初音村に五劫寺を中興して開基となった。和田合戦の戦場で息絶えんとする和田義盛が、孫の朝盛に託した冑佛は、秘仏、灰煉地蔵菩薩坐像として今も五劫寺に伝えられている。
( 延命地蔵菩薩、灰煉地蔵菩薩ともに秘仏として、長く開帳されることはなかったが、今回初めて、五劫寺三十八世和田了縁の孫和田悌五郎氏よって、灰煉地蔵菩薩のみ尊像を撮影され御写真を御送り頂くことができた。)

(W)尾山神社誌

 『尾山神社誌』注6第一章祭神五、利家公遺言状(一八頁)に、勝軍地蔵、妙見菩薩立像の二体の写真とともに、次の記述がある。

  (解説)利家公が出陣の際、兜の中には勝軍地蔵を、また懐中には妙見菩薩を秘めて  安全を祈ったといわれている。
  この二体は尾山神社創建に当って前田家から寄進されたもの。

 また、第十一章社宝類一、宝物之部(四二八頁)に、次の記述がある。

  一、銅製将軍地蔵像(丈七分台座八分)             壱躰  卯辰八幡社伝来
  一、木製妙見菩薩立像(丈け五分台座一分余)         壱躰  卯辰八幡社伝来
  一、冑 祭神着用 鉄製鯰尾形竪一尺 分周囲一尺五分   壱頭  卯辰八幡社伝来
  一、冑 祭神着用 鉄製鯰尾形竪一尺六分周囲一尺五寸  壱頭  卯辰八幡社伝来
 
 また、資料編「編年要誌年表」(四五四頁)に、次の記述がある。

  明治六年十月廿二日
  本社ニ伝ハル勝軍地蔵并ニ妙見菩薩ノ矮小ナル銅像アリ。之ヲ以テ物部八幡大神ノ神
  像ナリト伝承スレトモ其実ヲ得ス。又他ニ彼神ノ神霊ナルヘキモノナシ。且彼ノ二体  ノ仏像ハ利家卿ノ兜釜中ニ蔵ラルヽ擁護仏ナリトイヘトモ其証猶詳ナラス。

 尾山神社は明治六年に創建されたが、その起源は、慶長四年閏三月加賀藩祖前田利家卿薨逝に依って、利家卿の霊を神殿に祀り、卯辰八幡宮と称したところから始まる。藩祖であり祭神ともなる前田利家が天文二十年の初陣以来、三十余戦の戦功にに飾られていることは周知のことである。その戦国武将の宗教観を垣間見せるものとして興味深い利家の死に際しての逸話が、『芳春夫人小伝』に次のように記されている。

  利家公瞑目せられんとするや、芳春君自ら「経帷子」を製し、公の枕頭に捧げて曰く、  我君壮年より百戦を経て多くの人命を絶ち給ふ。罪業の酬い恐れなしといふべからず。  願くは之を着けて静に冥福をうけられよと、公莞爾として曰く、予人を殺すこと算な  しと雖も、未だ曽って一たびも不義の戦をなしヽことあらず、いかで地獄に陥らむ。
 
 罪業の報いを恐れる言葉は、芳春夫人の口をかりて語られてはいるが、これがその時代感情の一面であり、利家自身の隠された本心でもあろう。即ち、戦国武将は名利のための殺戮にのみ日々明け暮れ、宗教をさえ戦の方便としていたと思われがちだが、恐らくそれとは別に、彼等もまた全く個人史に由来する信仰に支えられて生きたものと思われる。氏神を聖戦の象徴として掲げ、非情に太刀を振るう武者も、人を斬ればやはり人の子として、戦のほとぼりから醒めたあとは、兜の中の佛に手を合わせたのであろうか。

四 若干の考察

 髻に冑佛を納めて、冑の天辺の穴から差し出していた時代の実遺例はあり得ず、文献によってその存在を確認するほかに手だてはない。また、天辺の穴が小さくなって、髻を解き、大童にした髪中に冑佛を結わえていた時代の実遺例も、同様に求め得ないであろう。 即ち、冑鉢と受張りの間に納められた冑佛のみが、実遺例の可能性を残している。しかし深く帰依する尊像を、合戦の汗や血にまみれた冑鉢の中に、戦の後まで放置しておいたとは考え難く、その多くは帰城の後に、鄭重に厨子に祀ったものと思われる。
 もしも冑佛の実遺例があるとするならば、武将が信仰の対象である冑佛を内蔵したまま神社仏閣に寄進し、社寺の宝物として保存された場合、あるいは戦場やその帰途などに於いて、武将の家臣等が冑佛を内蔵したままの冑を下賜され、家宝として継承した場合などが考えられる。
 髻あるいは髪中に納めた仏像に関する文献としては、以前紹介した『吾妻鏡』『蓬莱山観世音縁起一巻』『安永風土記御用書出』『熊野神社宝物調書』、そして今回の『日本書紀』『東山往来』などがある。さらに「冑の中心」「冑の八幡座」「冑の天辺の穴」等に納めたとする文献も含めると、以前紹介した『花巻市史』『木曾ー歴史と民俗を訪ねてー』『盛岡三十三観音巡礼記』、そして今回の『古寺調査事項取調書』などがある。
 冑佛を冑の中に納めたとする文献は、前回紹介した『富岡市指定文化財資料』『日本甲冑の新研究』『早池峰草紙 おおはさまの伝説』、そして今回の『尾山神社誌』『明珍春田早乙女以外の在銘冑』『日本甲冑武具研究(第十四号)』などがある。

                       平成九年二月十九日 完

注1 『明珍春田早乙女以外の在銘冑』(社)日本甲冑武具研究保存会、昭和43年
注2 『日本書紀』国史大系〔第1巻上〕 (新訂増補完成記)、吉川弘文館、1966年
注3 上原 和 『斑鳩の白い道のうえに 聖徳太子論』朝日新聞社、1972年2月
注4 『続群書類従』(続消息部一 続巻三百五十九)続第十三輯下、続群書類従完成会、1986年7月
注5 「和田家文書」 浜田勘太『初声の歴史探訪記』一六六頁、初声の歴史探訪記刊行会、昭和57年8月30日
注6 『尾山神社誌』 尾山神社社務所発行、昭和48年10月3日

                                     内容一覧