遠江国河村荘と河村氏

                                   金谷町文化財保護審議委員   河村 隆夫

   はじめに

 本稿は、金谷町大代の河村氏に関する歴史的仮説を立証するための論考である。
 仮説の第一は、平安末期から鎌倉初期における河村氏発生の経緯と遠江国河村荘との関係について、
第二は、室町末期における相模国河村氏と金谷町大代の河村氏との関係について、また、第三は、今川氏と
河井宗忠及び河井宗忠と大代河村氏との関係についてである。
 第一の論旨は、遠江国河村荘を河村姓発祥の地とするもので、主に『駿河記』を典拠としている。
 第二の論旨は、相模国河村城落城後、河村氏が遠江国河村荘に還住したとするもので、主に大雄山最乗寺の
法脈を根拠としている。
 第三の論旨は、今川氏と河井氏との主従関係を確認するもので、『人天眼目抄』を新出史料としている。
 最後の論旨は、河村氏と河井氏とが連携していたとするもので、主に天文七年の鰐口銘文を根拠としている。
 これらは新説とは云え、多くは大代河村氏に伝わる伝承であって、本稿の主旨は伝承の確認であるといってもよい。
 幸いなことに、河村家に残された近世文書の中からも、河村氏の足跡を裏付けるいくつかの史料を見つけることができた。

      一  河村氏発生の経緯と遠江国河村荘

    (一) 遠江国河村荘と相模国河村郷

 いままで、河村姓の発祥は、波多野遠義の子秀高が平安末期に居を定めた相模国足柄の河村郷の地名に
起因すると推論されていた(1)。その論拠は、『吾妻鏡』治承四年(一一八○)十月二十三日の条等に、秀高の嫡男
義秀が相模国河村郷を領していた旨の記述が散見されるからである。
 しかし、その河村郷の地名は、治承四年以前には認められない。そこで、『駿河記』に記されている秀高の履歴と、
『吾妻鏡』建久二年(一一九一)十一月二十三日条とを手がかりにして、私は、河村氏の発生は、保元三年(一一五八)
から治承四年の間の一時期、波多野秀高が遠江国河村荘(現菊川町)に居住したことに起因するものと推論した(2)。
 秀高についての『尊卑分脈』の附記の内容と、『駿河記』の附記の内容とを比較すると、前者の「山城権守」が、
後者では「山城守」とされている(3)。また、『駿河記』では、『尊卑分脈』に加えて、「川村中興祖」「初て遠江國川村住居」
「承久之乱属官軍」とあり、この最後のくだりは明らかな誤りで、後世の補遺とも思われる。
 「初て遠江國川村住居」にある遠江國川村が、遠江国河村荘のことであろうと推定されるのは、現在の菊川町内に
比定される河村荘のほかに、同名の荘園や地名は中世以前の資料の中に見あたらないからである(4)。
 
  ◎相模国[竹内理三編『荘園分布図』上巻]

   @河村城(現山北町城山・中世の相模に河村庄は認められない。)
   A最乗寺(旧南足柄町関本) B波多野本庄(現秦野市)
  
  ◎遠江国[同]

   C河村庄(現菊川町) D曹渓山法泉寺(現掛川市上西郷) E松葉城
   F河村家(現金谷町大代) G法昌院(同) H横岡城(同町横岡城之壇)

 おそらく、河村氏発生の経緯は、このようであったろうと思われる。
 『保元物語』に、あたかも主人公のように鮮やかにえがかれている秀高の兄波多野義通は、『吾妻鏡』によると、
保元三年春、なにごとか義朝とのあいだに不和を生じて、俄に洛陽を去った(5)。しかし、妹が義朝との間に朝長を
もうけているなどの因縁で、ふたたび平治の乱には義朝方に与して敗れ、相模の波多野本庄へ還住する(6)。
 弟秀高が遠江国河村荘に居を定めたのは、兄とともに京を落ちてゆくその途次であろう、と推論したのは、ひとつは
保元の乱のとき横地氏(現菊川町)が義朝方に与していること、また平治の乱のとき、義朝の次男朝長は遠江国
友永郷に葬られたと伝えられるなど、義朝方が遠江に落ちたのは丁度その時期だからである。
 やがて遠江国河村荘の開発領主となった秀高は、初めて河村姓を名告り、河村氏の祖となった。また秀高の名は
『吾妻鏡』に一度しかみえず、しかもそれは、秀高の四男河村四郎秀清が、頼朝に父の名を問われて答えたものにすぎない(7)。
 すなわち、河村秀高が相模国河村郷に居住した形跡は認められず、おそらくはそのまま遠江国河村荘に没したものと思われる。
 さらに、平安末期の急変する情勢を承けて、相模国波多野氏が、秀高の嫡男義秀を波多野本庄の西の守りとして、
足柄の地を与えて呼びよせ、そのとき遠江国河村荘に残ったのが、秀高の子本主三郎高政であったと考えられる(8)。
 河村義秀が移住した相模国足柄の地は、のちに河村郷と呼ばれて『吾妻鏡』治承四年(一一八○)十月二十三日条に
初見される。また、『新編相模国風土記稿』に、河村氏の菩提寺である恵華山般若院の開基を、河村山城守秀高公としているのは、
その子義秀が父秀高に敬意を表して祀ったものと思われる。(般若院の本尊は文殊菩薩で、相模国河村氏の文殊信仰は
大代河村氏に受け継がれ、天保六年に河村市平が願主となって文殊堂を建立している。(9))
 以後、永享十年(一四三八)八月に河村城が落城するまでの、約二百六十年間の相模国河村氏の歴史はほぼ明らかに
されている(10)。
 建久二年(一一九一)十一月二十三日、遠江国河村荘の本主三郎高政が荘園の寄進先に遠く離れた北条時政を選んだ
理由のひとつは、父河村秀高の妻が、頼朝の妻北条政子の侍女京極局であったこと、またふたつめは、前々年の頼朝奥州攻め
において、河村千鶴丸が阿津賀志山攻防戦の殊勲のために頼朝から直々に褒賞を賜ったこと、さらに三つめは、石橋山の戦いで
平家方に与した河村義秀が、前年、流鏑馬の妙技を披露して頼朝に許され、ふたたび河村郷を安堵されたことなどによるものであろう(11)。
 遠江国河村荘に関する初見文書は、寛治四年(一○九○)七月十三日、遠江国河村庄の公田三十町を加茂御祖社の御供田と
する旨の加茂社文書であるが、桐田幸昭氏は『中世小夜中山考』のなかで、遠江国河村荘は勧修寺為房が参議遠江守に任じられた
承保二年(一○七五)ころに、賀茂神社を本家職、勧修寺家を領家職として立券されたものとしている。
 その後領家職は、為房の子参議遠江守為隆、さらに九条伊豆弁光房と勧修寺家につたえられ、また、光房の子九条三位光長が海住山寺に帰依して以来、その寺名を家名に冠したともしている(12)。
 本主三郎高政のころの領家職は、海住山寺家の九条三位光長で、その三百年後の延徳二年(一四九○)に、「故海住山大納言家領」として河村荘関連文書があらわれる(13)。以後、近世に至るまで、遠江国河村荘の名は県史資料編に見られるところである(14)。
  すなわち、波多野秀高は保元三年(一一五八)から治承四年(一一八○)の間の
一時期、遠江国河村荘に居住して初めて河村姓を名告り、その地に没した。後に嫡男義秀は相模国へ移住して河村郷を興し、また三郎高政は開発領主として遠江国河村荘に土着したものと推論される。


      (二) 河村氏移住の時期

 金谷町の河村氏と相模国河村氏とを繋ぐ論拠の一つは『駿河記』の系図である。また、相模国河村氏滅亡の時期と、金谷町大代の河村氏発生の時期とがほぼ符合し、さらに舂屋宗能禅師の足跡あるいは大雄山最乗寺の法脈が、河村氏移住の時期と場所とに合致することなどが、二つめの根拠としてあげられる。三つめの相模国河村氏の家紋と金谷河村氏との稀有な家紋の類似、また大代河村家と本陣柏屋河村家の両家に伝わる冑佛の類似については、別稿で考察する(15)。
 『駿河記』の系図を概ね認めるとして、問題は、河村氏が、いつ頃、どの地域へ移住してきたかという事である。
 南北朝時代、河村氏は南朝方に与したために、一時期河村城が南朝方の拠点となったことが『太平記』等に詳述されている(16)。やがて南朝の滅亡とともに相模国河村氏は衰退し、さらに、応仁の乱前夜の争乱のなかで、永享十年(一四三八)八月には河村城が落城、そのとき相模国河村氏は事実上滅亡した(17)。
 『安養寺過去帳』によれば、大代河村家の初代宋心の命日は永正二年六月六日であるから、初代宋心あるいはその先代が大代の地に拠点を築いたのは、遅くとも文明中であろうと思われる(18)。永享十年(一四三八)から文明までの、約三、四十年間に、相模国河村氏は、本貫地遠江国河村荘付近に移住し、さらに文明の末までには、現在の金谷町大代の地に居を定めた。
 この立論の一つの根拠となるのが、舂屋宗能禅師の足跡である。舂屋宗能の出自は、『重続日域洞上諸祖伝』巻第二に、「出奥州藤原氏」と記され、また奥州藤原氏は、『尊卑分脈』によると、左大臣魚名公五男藤成を祖とする俵藤太秀郷の末流であり、実に河村秀高と舂屋宗能とは、時代の差こそあれ同族であることが確認された。
 『吾妻鏡』文治五年(一一八九)八月十二日条には、阿津賀志山攻防戦の論功行賞として、つぎの記述がある。
  一昨日の合戦のとき、千鶴丸は若少であるのに、敵陣に入って矢を射ること度々  に及んだ。その名を河村千鶴丸と云う。頼朝はその名を聞いて、感激のあまり、  今日船迫の駅において、その父の名を尋ねられた。千鶴丸は、山城権守秀高の四  男であることを申し上げた。頼朝はそれを聞いて、俄にその御前において元服の  儀式をとり行った。号は河村四郎秀清、また烏帽子親を加々美次郎長清とした。
   この秀清は、去る治承四年の石橋山の合戦の時、兄義秀が景親の謀反に与した  あと、牢籠の身となるべきところを、母(頼朝の官女で、京極局と号した)の計  らいで、しばらくその名を隠し、休所の傍に置いていた。ついに頼朝ご発進の日  に、譜代の勇士と称して丁重に吹挙したところ御供を許された。そして忽ち兵略  をあらわし、佳運を開いた者である。
 また『藤家河村氏系図』(川村章一氏所蔵)に、秀清についてつぎの一節がある。
  …(筆者略)…加冠者加々美次郎長清也、依比軍功賜岩手、志和、稗貫数箇所、  居大巻城、是当國河村氏之大祖也、…(略)…

◎奥州河村氏一族の分布図[川村章一『川村家の歴史』一二三頁]

   (図)

@大巻城(河村氏居城・現紫波町大巻) A高水寺城(斯波氏居城・同町二日町)
B河村館(河村氏は、元中元年、斯波氏に追われて、佐比内に居館を移した。)
  ◎相模河村城と最乗寺(五万分の一地形図)

   (図)

C河村城址(現山北町城山) D大雄山最乗寺(旧足柄町関本)

 このように、舂屋宗能の出生の地である奥州に、誕生の二百年前から、宗能の出自である奥州藤原氏と同族の河村氏が繁栄していた(19)。
 やがて宗能は、衰亡してゆく河村氏の歴史のあとを追うようにして、この奥州から遙かに離れた相模国河村城の一里程南にある大雄山最乗寺に掛塔し、さらに河村城落城の二年後、忽然として遠江国河村荘の二里程西北に曹渓山法泉寺を開創、のちに、その末寺である金谷町大代の龍燈山法昌院が、大代河村家の菩提寺として中世の伝承を今に語り継いでいる(20)。
 このようにしてみると、河村氏の歴史と舂屋宗能の足跡とが、あながち無縁とは言い切れないようにも思われる。
 大雄山最乗寺は、室町初期の応永元年(一三九四)、開山の了庵慧明が創建したとされ、また了庵は大住郡糟屋荘の藤原氏北家良方流糟屋氏の出身といわれている(21)。
 『続群書類従』によると、河村秀高の母(小野孝兼の女)の叔父(小野孝兼の弟盛経)が、糟屋五郎を名告っている。『吾妻鏡』には、治承四年(一一八○)八月二十三日、石橋山合戦のとき、大庭景親以下平家被官之輩として、河村三郎義秀と糟屋権守盛久とが名を接して記されている。
 建久元年(一一九○)八月十六日、河村三郎義秀は、頼朝の御前において流鏑馬の神技を披露したために、牢籠の身をとかれ、本領である相模国河村郷へ還住したが、その三か月後、建久元年十一月七日には、頼朝入洛の先陣畠山重忠の隋兵として、五十番に糟屋藤太、後陣隋兵九番に河村三郎、十五番に加々美次郎の名がみえる(22)。
 建久四年(一一九三)五月八日、頼朝富士野夏狩の隋兵として、糟屋藤太兵衛尉、波多野五郎、河村三郎、小笠原次郎、の名が連ねられるなど、以後、随所に河村氏と糟屋氏の名が接して散見される(23)。
 永享十年(一四三八)八月二十一日には、足利持氏感状に「河村城責落候、目出候」とある。これは、持氏が大森伊豆守行長を賞したもので、上杉憲実の上野国白井城下向後、まもなく河村城が大森氏によって攻め落とされたことがわかる(24)。その直後、九月初旬に、将軍義教の命を受けた今川範忠が、持氏勢を討つべく足柄山を越えて相模國関本に陣を取っている(25)。関本は大雄山最乗寺の所在地で、河村城から直線距離にして一里程南の地点にある。
 このとき、将軍義教方の河村氏が、大森氏の攻撃によって居城を失った後、大雄山最乗寺に陣を張る義教方今川軍に合流したとしても不合理ではない。今川氏に属した河村氏は、その後、本貫地遠江国河村荘に還住を許され、今川方の遠江攻略の一翼を担うことになったものであろう。
当時の東遠は、斯波氏を守護職としながらも、今川氏の勢力が残っていたことは県史通史編に詳しい(26)。
また、相模の河村氏が移住した遠江国河村荘は、当時小笠原正行が堀之内城主であったものと思われる(28)。大塚勲氏は「遠江堀内城主堀内氏」に、『大日本史料』及び「堀内系図」を典拠として、系図中の一節「正行十五歳之時自豊州来遠州」を、正行が九州探題今川了俊の遠江帰国に随行した可能性を示すものとしている(29)。小笠原正行の子行重から堀内氏を名告り、行重の孫にあたる親基が今川氏の将福島上総介政成に従っているところをみると、堀内氏は今川了俊以来今川方に属していたものと思われる。即ち永享十一年頃の遠江国河村荘は今川氏の勢力下にあったものと推定され、相模国河村氏は、今川範忠によって河村荘内に配されたものと考えられる。また、小笠原氏の始祖加々美次郎長清が、頼朝の御前に於いて河村四郎秀清の烏帽子親をつとめたことは前述した(29)。
 一方、応永三十三年(一四二六)に最乗寺五世を継いだ舂屋宗能禅師は、河村城落城の直後に今川範忠が関本(最乗寺の所在地)に陣を取ってから二年後、永享十二年に、忽然として東遠の地にあらわれ、遠江国河村荘の西北約二里の幽谷に曹渓山法泉寺を創建した(30)。この経緯は、『重続日域洞上諸祖伝』巻第二に、次の如く異様なまでに鮮明に詳述されている。
   最乗寺舂屋能禪師傳
  師諱宗能。號舂屋。出奥州藤原氏。師状貌魁壘。気宇英邁。稍長慕佛師學。歸最  乗大綱和尚室而給侍焉。綱令師研究本来面目話。師日月孜孜不已。一日過農家。  聞舂米聲。忽然撞著。這面目回告所解。綱曰。麼生會。師曰。去年梅今歳柳。顔  色聲香依舊。綱然之。師 辭去遊方。路徑遠州。渇掬河流飲之。其味甚美也。自  謂。渓上必有靈境。乃溯流至源。雙山競秀而有一帯瀑布。恰似支那曹渓山。側有  老尼。縛茆而居。師 就求其地卓庵。後作寶坊。今曹渓山法泉寺是也。(後略)
 大雄山最乗寺から、大慈院、法泉寺、法昌院に至る法脈は『大雄山誌』巻末の「大雄山最乗寺門末寺院系譜」の冒頭「神奈川県最乗寺末」に、数少ない直系寺院としてその名を連ねている(31)。
 現在、曹渓山法泉寺の世話人をつとめている糟屋重範氏は、相模国糟屋氏の末裔であり、『掛川誌稿』に「寛永十九年マテハ、粕屋善左衛門ト云者一人庄屋タリシカ、其翌年ヨリ四組ニ分リ、庄屋ヲ粕屋善左衛門、岩清水惣兵衛、佐藤喜左衛門、石山三左衛門ト云シ」とあり、『掛川市史』には、最近まで残っていた糟屋氏の中世城館跡が図示されている(32)。
 すなわち、大森氏によって強く圧迫された西相模の豪族糟屋氏も、法泉寺の開創のころ、河村氏を含む西相模武士団とともに、東遠の地に移住したものと思われる。
 河村荘付近から金谷町大代へ河村氏が移住したと考えられる根拠のひとつは、大代河村家の菩提寺龍燈山法昌院が法泉寺の法地でありながら、一寺だけ際立って遠く離れた地にあることである。他の中世の末寺は、法泉寺のある上西郷村と、隣接する五明村の内にある(33)。
 法泉寺三世の徳扶宗健の示寂が明応八年(一四九九)七月二十五日、次の法泉寺四世久山芝遠は法昌院の開山で、その示寂は享禄元年(一五二八)十二月二十九日であるから、法昌院の開創はその間の約三十年であったと推定され、法昌院開創の時期と、大代河村家初代宋心の命日永正二年(一五○五)六月六日とが重なることになり、これは河村氏が大代へ移住した時期を決定する二つめの根拠であると考える(34)。
 また、大代河村家の確認できる最古の縁戚は、元禄十一年(一六九八)の文書にある桶田村の佐々木五郎左衛門家(36)、享保九年(一七二四)の文書にある宮脇村の河村市平弟孫太夫(37)であって、桶田村・宮脇村ともに河村荘に隣接している。近世における縁戚関係も河村荘周辺に集中していて、牛渕村の渡辺家(38)、板沢村の栗田家、西方村の伊藤家などが確認される(39)。このように、縁戚の分布が、法泉寺に近い河村荘周辺に偏っていることも、河村氏が大代へ移住する以前に河村荘付近に居住していたと考えられる三つめの根拠である。
 応仁の乱のさなかに上洛した今川義忠は、将軍に謁見して、遠江国懸革荘の代官となるべき勅命を承け、その後の東遠は、今川氏と斯波氏による遠州争奪戦の渦中となった(39)。 

◎曹渓山法泉寺末寺分布図[『遠州曹洞宗小末寺帳』(大日本近世史料)
        及び『曹渓山法泉寺開創五百五十年記念誌』]

@観応寺  上西郷北袋                二世即庵 文明カ
A林慶庵  上西郷梅ケ谷               三世徳扶 文明後期カ
B宝寿庵  上西郷長間                四世久山 天文元年
(久山の示寂と一致しない)
C粟林寺  五明                    四世久山 
D海蔵庵  五明                    (不明)
E徳雲寺 上西郷御堂ケ谷               六世正室
F法正寺  金谷町大代                四世久山

◎大代河村氏の縁戚分布図(近世)[竹内理三編『荘園分布図』上巻]

@桶田村
元禄十一年(一六九八)
 佐々木五郎左衛門家
A宮脇村
享保九年 (一七二四)
                           市平弟孫太夫婿入
B牛淵村
天保十四年(一八四三)
                           渡辺伝平・平重家より嫁入
C板沢村
十一代河村市平の妻
                          栗田孫右衛門家より嫁入
D西方村
十二代河村宗平の姉
伊藤傳九郎家へ嫁す
E曹渓山法泉寺
F龍燈山法昌院
G河村家

 今川義忠麾下の河井氏が、鶴見氏の横岡城に対する拠点として大代字天王山を選び、その砦を守るべく、争乱の地河村荘から河村氏を招いたのは、この時期であったと考えられる。
 横地氏の所領に接する河村荘に、相模から移住してきた河村氏は、今川方に属して斯波方横地氏との均衡を保っていたが、その地が主戦場となるに及んで、河井氏の招きをうけ入れ、居住地を大代に移したものであろう。
 大代の地は、西に粟が嶽をへだてて、今川家被官の朋友河井氏が松葉城を居城としていた。河井氏は、平治の乱のとき、河村氏と同様に義朝方に与して敗れ、遠江に土着した中納言宗忠の末裔であるとされている(40)。やがて三百年の歳月を経て、はなれていた二つの糸がふたたび絡みあうように、河井宗忠三女は、大代河村家の初代宋心に嫁すことになる。(『安養寺過去帳』等には、河井宗忠三女を「松葉城主三女」、初代宋心を「助二良父」と附記している。) 
大代河村家と松葉城とを繋ぐ古道は、現在も部分的に利用されている。
 河村家から三本沢沿いに、通称たけ山の山頂へ向かう山越えのこの道は、途中までは舗装された林道であるが、斜面の中腹から林に入り、地図の上では赤線の道となって山頂に達している。山頂から松葉へ下る道は、四十九折れの道から松葉の滝に通じていて、今でも林業関係者はこの道を利用している。
 多くの人馬がこの古道を行き来していた頃、山頂付近で、松葉へ向かう河村家の馬が絶命し、葬られたとき建てられたという馬頭観世音の墓標は、今も草むらに埋もれている。
 以上を要約すれば、相模国河村城落城の二年後、本貫地遠江国河村荘付近へ移住した河村氏を追って、河村氏と同族の舂屋宗能が、河村氏と深い因縁を有する糟屋氏を伴って訪れ、河村荘の西北約二里の滝の谷に曹渓山法泉寺を創建、のちに、法泉寺四世久山芝遠は、さらに大代へ移住した河村氏の菩提寺として、龍燈山法昌院を建立したものと考えられる。


   二  今川氏と河井宗忠

    (一) 天王山城と河井宗忠

大代天王山の山頂付近にある大きな井戸は、今は茶園造成の土砂に埋もれて、みるかげもなく草むらに覆われているが、ほんの最近まで、常時十トンほどの豊かな清水をたたえ、中世と変わらぬ空の色を映していた。一間四方もある丸太組のこの井戸が、農業用水として使われなくなったのは、昭和の末年ごろのことである。
そこから、尾根をへだてて百メートルほど西に、現在も絶えることなく透き徹った水の湧く泉があって、昭和二十年代頃まで、その山頂の泉のまわりには、水田が耕されていた。その昔、天王山を守っていた兵士たちの喉を潤すには充分の水量である。
 また山頂の茶園から、無数のかわらけとともに出土した古鏡は、明治四十三年まで天王山の山頂に建っていた大宝神社(42)の宝物と思われるが、のちに大代神社に奉納されたあと、紛失して行方がしれない。
 『遠江古蹟図繪』の三十九「野守池」の一節に、夢窓国師が金谷に滞留し、「寺を一箇寺建立したまひ開山と成る。寺号を龍燈山安養寺と云ふ。」と記されている。
 『静岡県榛原郡誌』上巻には、この一節をうけて、
  因みに云、前記安養寺は河合宗仲廃して城地となして此処に居り、其付近に法昌  院を創して自ら開基となり、安養寺は一時全く廃絶の姿となりしも後年又別地に  安養寺を再興せるもの即現時の寺其ものなりと云ふ。
 とある。
 現在の安養寺は、河村家よりも谷間の奥にあり、砦として使えそうな急峻な地形の上に立っている。本尊は、慶長年間に利生寺に移され、その製作年代は、鎌倉期あるいはそれ以前の作とされる(42)。また、安政二年(一八五五)の『安養前住寿山仙翁和尚葬式諸般結算帳』に、「比帳面ハ奥乃村長松院様ヘ相納候帳面ニ御座候以上」とあり、長松院と安養寺との関係が確認された(43)。
 また、法昌院の鎮守は、白山妙理大権現と宗忠八幡大菩薩とされ、宗忠八幡は今でも法昌院の境内に建っている。河井八幡とも呼ばれ、昭和二十六年九月十五日の河村小次郎による祭文も残されるなど代々河村家によって祀られてきた(44)。
 『静岡県榛原郡誌』上巻に、現存する龍燈山法昌院について、次の記述がある。
  大代村法昌院の寺記中に(今井氏の載録せられたるものに據る。)
法昌院 開創、當院奮記に觀應二年三月五日臨濟宗夢想國師開山とあり、後    文祿元年二月川合宗仲公其奮跡に就て精舎一宇を
  建立し、歸依に依り當國佐野郡上西郷村法泉寺八世玄達和尚を
請して開山と為す、故に川合公を開基と稱す云云(法昌院明細書)。
過去帳寫
開山 通山玄達和尚 應仁三月廿四日化す
    二世 揚山順番和尚 文明二年十一月二十二日寂す              
   開基 法昌院殿補庵宗忠大居士   明應五年九月十日
   月桂院殿慶室妙讃大師川合宗仲妻  明應五年九月十日
但夫婦共佐野郡奥野長昌寺池の傍に自殺
とあるも、蓋後人の傳承を記述したるものなるべければ年代其他に杜撰多きが如  し(夢想國師は観應二年九月遷化なれば少しく訝しけれども、斯る類例は他にもなきにあらず、   されども文禄は應仁元年より百二十餘年の後なれば長祿などの誤にやあるべき )、されど何  等か因縁を有したることは自ずから窺知せらるるのみならず、郷人平井磯次氏の  談に法昌院の附近に一地區あり、之れ今川氏の臣河合宗忠の城址なりと傳ふと云  へり、

この、文中にある「一地區」こそ、天王山であったと推定される。
その根拠は、諸書に記されているが、平成九年三月十九日の現大阪大学村田修三教授の御説は、それを決定づけるものと思われる。
当日、村田教授は御体調を崩されて、現地視察こそされなかったが、天王山付近の立体模型と地図、資料等に基づいての御説を、金谷町教育長室において約一時間にわたって披露され、町史編纂専門員片田達男氏と私とで拝聴した。
村田教授の論旨を要約すると、次のようになる。
  @時代についても、平面的にも、河井氏と河村氏との連合軍が、この地域を領し   ていたものと考えられる。
  A大宝神社は、河井氏の宗教領域の境界を示すものであろう。
 B天王山が、茫漠とした城として用いられた可能性は充分ある。茫漠とした城と   は、堀や堀切をつくらず、自然の地形をそのまま要害とした戦闘拠点であるが、   平時には、例えば大宝神社のように民衆ともかかわっていた。

   (二) 今川氏と河井宗忠

 本章の主題である今川氏と河井宗忠との係わりについては、以下『掛川市史』の河井宗忠に関するいくつかの論点について考察を加えながら記してみたい。

(1)『掛川市史』上巻五一八頁・四行目
 同時代史料である『円通松堂禅師語録』には「菊源氏川井成信」と書かれ    ているのである。河井も河合もまちがいではないが、ここでは川井と書くこ    とにしたい。
『掛川市史』上巻五一八頁・一一行目
    『松堂高盛禅師語録』にははっきりと「菊源氏川井成信」と書かれている

『円通松堂禅師語録』に「菊源氏川井成信」と書かれている個所は認められない。また、『松堂高盛禅師語録』なる書は『新纂禅籍目録』(駒澤大学図書館・昭和三十七年六月発行)には掲載されていない。
明應五年(一四九六)九月十日、今川氏親の家臣河井宗忠が、松葉城在城のとき、鶴見因幡守と勝間田播磨守の連合軍に急襲されて戦死したとするのは、深沢山長松院十世中興活山鉄獅和尚の『当院開基来由扣記』(45)を根拠としている。
『当院開基来由扣記』とは、寛延三年(一七五○)、大阪天満の松景山冷善院主である義誉上人の質疑に答えて、活山和尚が上人宛に送った書簡の写しで、長松院は元文四年と宝暦元年の二度の火災によって書物を悉く焼失していたために活山和尚が伝承などをもとに『当院開基来由扣記』を記したものである。
即ち、『円通松堂禅師語録』にみえる「菊源氏成信 」「宗忠菴主」を、今川氏親家臣松葉城主河井宗忠と同定したのは、『当院開基来由扣記』に初見である。
また姓については、文明三年(一四七一)〜同五年(一四七三)に、長松院開山石宙永珊によって筆録された『人天眼目抄』に「懸河河井氏」とあるのが初見である。『当院開基来由扣記』もまた河井としていることから、姓は河井と書くのが妥当であろう。

 (2)『掛川市史』上巻五四四頁・三行目
 …川井成信の戦死の日を明応五年九月一○日としている。なにによって     その月日が記されたのかはわからないが…

河井宗忠について、『円通松堂禅師語録』にみとめられるのは、僅かに次の三個所である。
        悼輔菴宗忠菴主
  明應丙辰秋之季十日。菊源氏成信侍中輔菴宗忠菴主戦死矣。
  因野衲述贅言一章。為還郷一曲以餞行去。
  因縁時節遇冤讎。剣刃光中歸凱秋。
  端的萬關透過去。一心忠義徹皇州。
         宗忠菴主初七日經
  向一毫端上。七莖  紅。無三無二妙。不滅不生宗。
  剣樹刀山壊。 湯爐炭融。鷲峰與今日。貫卻寸心忠。
 悼宗鏡童子
 源氏成信侍中之二男。法諱宗鏡童子者。文明丙午之歳孟夏之月初誕也。
 容顔美麗。精神聰敏。如越谿蓮。似荊山玉矣。父母慈愛鞠養。朝暮不離      懐抱。恨成人遲。期長生計。已及丁末僅二歳也。茲仲呂二十八日。忽得      病苦。逾月累日。將向季夏。而爺孃酸辛謹致丹誠。 爾上下神祇。頻加      醫藥。以療養。嗟吁天哉。不得靈驗。不幸短命而死矣。二親慟哭。戀慕      切也。余雖阻重山復水。傳聞其餘哀不淺。感慨不止。故寄伽陀一章。以      欲截愛河之流。拂迷雲之暗。誠是 錐不達之謂歟。一如他南泉指庭前花。     召大夫云。時人見此一株花如夢相似者乎。若能一撥 轉。豈唯公與陸公      執手而合。天地同根萬物一體之道而已哉。宗鏡童子忽免不孝之罪過。爲
  導雙親之孝子必爾矣。
 「明應丙辰秋之季十日」とは明応五年季秋十日、即ち陰暦九月十日を指しているものと思われる。あるいは秋之季(あきのすえ)と読んでも、やはり陰暦九月十日を指すものであろう。
 本文中屡々『円通松堂禅師語録』が引用されているにもかかわらず、「なにによってその月日が記されたのかはわからない」とするのは、不思議なことである。

(3)『掛川市史』上巻五四三頁・一〜三行目
 早雲は、徐々に原氏と共同歩調をとる国人領主たちを追いつめていったの    である。
その具体的な戦いの経過がわかるのが、明応五年(一四九六)の松葉攻     めである。松葉城は前の章でみた国人領主川井成信(号宗忠)の居城であっ    た。

『掛川市史年表』(46)には、明應五年九月十日の項に「河井宗忠、反今川勢により松葉城で倒れる。」とあり、同時に刊行された『掛川市史』の右の記述と『掛川市史年表』とは矛盾している。 
河井成信を反今川とする説の発生は、どの論文を端緒としているのだろうか。
ここに小木早苗氏の「今川氏の遠江支配」(48)がある。掲載誌の発行は昭和五十四年である。
 その河井氏に関する一節を抜粋してみる。
  …(原氏は)以前より付近の土豪とも一揆的結合があったらしく、川井氏など  もこれに同調していった。
二十年近くの空白を経て氏親が遠江侵入を開始するのは、明応三年(一四九四)  のことと思われる。氏親の遠江における初見文書は、明応五年(一四九六)七月 ◎遠州東部
@河村荘
A堀内城
B横地城
C長松院
D山口
E法泉寺
F松葉城
G安養寺
H河村家
I法昌院
J天王山
K横岡城
L勝間田城
M孕石
N湯日

◎遠州中部
@原田荘
A高籐城
B円通院
C堀越
D川井
E友永
F掛塚

  十八日長松院(現掛川市日坂町)に出した禁制である。
長松院は川合氏の菩提寺であり、川合氏は氏親の遠江侵入開始とともに滅ぼさ  れたものである。
この説の根拠を注釈にみると、
  広瀬良弘「曹洞禅僧の地方活動ー遠江国における松堂高盛の活動を中心にして  ー」(『地方文化の伝統と創造』地方史研究協議会編)(48)
「長松院文書」(『静岡県史料』第四輯、二二四頁)
 とある。
 「長松院文書」ではもとより河井氏を今川方としているので、ここでは昭和五十一
年に発行された広瀬良弘氏の前掲論文の一部を抜粋してみる。
   …これらの多くは原氏一族と思われ、原野谷川流域に居住していたものと思わ  れる。また、やはり原氏と連繋を保っていた菊源氏川井成信は原野谷川上流で孕  石(原氏一族の孕石氏の居住地)の東方、松葉に根拠に置いていた。(傍点筆者)
この説の典拠を注釈にみると、
 『円通松堂禅師語録』四
とある。
広瀬氏前掲論文の次の一節には、明らかな地理的誤解がある。
   …原野谷川上流で孕石(原氏一族の孕石氏の居住地)の東方、松葉に根拠に  置いていた。
河井氏の居城松葉城は、原野谷川上流ではなく、原野谷川から東へ尾根をいくつか越えた倉見川上流にあって、原氏の居城高藤城から、直線距離にして十キロほど北東に離れている。
 また『円通松堂禅師語録』に、菊源氏成信について記されているのは、前掲の三個所だけであるが、そのいずれにも、河井氏が原氏と連繋を保っていたとは書かれていない。広瀬氏が、「連繋を保っていた」とする根拠は不明である。
ところで、広瀬論文の二年前、昭和四十九年に、秋本太一氏が「今川氏親の遠江経略」(49)を発表している。その一節に、
 …(原氏は)松葉の川井氏等とも連携を保っていたことも、同語録によって知  ることができる。(傍点筆者)
とあり、広瀬論文(前掲傍点部分)の表現は、この秋本論文と酷似していることがわかる。また、秋本氏も、「連携を保っていた」とする根拠を明らかにしていない。
秋本氏は、原氏一族寺田氏の出自である松堂高盛が、河井宗忠の戦死に際して詩偈を贈ったことに象徴される河井氏との親密な基調を、『円通松堂禅師語録』の底流に見たことで、河井氏が原氏と連携を保っていたとしたのであろうか。とすれば、例えば孕石氏と河井氏とを比較したとき、歴然たる原氏の血族であり、原野谷川沿いに原氏と領地を接していた孕石氏は、河井氏より一段と強固な連携を原氏との間に保っていてもよさそうであるが、そうとも断定し得ない。実際、明応六年(一四九九)、孕石氏は原砦を攻撃している(51)。
 秋本氏は河井宗忠反今川説の根拠を、さらに『円通松堂禅師語録』の一節に求めている。
  しかし、同(明応)五年になると、松葉城主川井成信の戦死という事件が起こ  ってくるが、これも前記語録によって明らかにされる。
             悼輔菴宗忠菴主                         明應丙辰秋之季十日。菊源氏成信侍中輔菴宗忠菴主戦死矣。
       因野衲述贅言一章。為帰郷一曲以餞行去。
        因縁時節遇冤讎。剣刃光中歸凱秋。
        端的萬關透過去。一心忠義徹皇州。
   この川井氏の事件については、古くより今川氏のために戦死したと伝えられて  いるが(『遠江風土記伝』『掛川誌稿』)、同語録の内容からみると原氏に殉じて  今川軍に討たれたとみるのが妥当のように思われる。最後の皇州も.駿州とみる  より原氏の遠陽州を指したと解すべきであろう。これに対する今川側史料として
  は、明応五年七月十八日長松院に掲げた氏親の禁制が認められる。(『長松院文  書』)。深沢山長松院(掛川市大野)は、川井氏の居城松葉城(同市倉見)に近  く、氏親の禁制は同城攻撃に際して出されたものとみられる。ついで同年九月廿  六日、氏親は同寺院に寺領を寄進しているが、これは戦斗の終了を意味したもの  であろう(長松院文書)。
『円通松堂禅師語録』に、「皇州」という言葉は、この七言絶句の他には認められない。また、「皇州」を、遠陽州と読むべきであろうか。
 「皇州」の使用例を各種の漢和辞典から引用してみる。
    (T)辞源三(商務印書館)
指帝都。南朝宋鮑照氏集二代結客少年場行詩¨“昇高臨四關’表裏望皇州。”       唐李白李太白詩二古風之十八¨“衣冠照雲日’朝下散皇州。”
(U)辞海(上海辞 出版社)
犹帝都。謝眺《和徐都曹出新亭渚》詩¨“宛洛佳邀遊’春色満皇州。”
(V)辞海下冊(臺灣中華書局)
猶言帝都謝眺詩『春色満皇州』
  (W)大漢和辞典(大修館書店)
  帝都〔鮑照、代結客少年場行〕升高臨四關、表裏望皇州。
    〔謝眺、和徐都曹出新亭渚詩〕宛洛佳邀遊、春色満皇州。
      (X)増補辞源(角川書店)
帝都をいふ。鮑照詩「繁霜飛玉關、愛景麗皇州」
 (T)〜(V)は中国版、(W)(X)は日本版である。これらの使用例はすべて、「皇州」を帝都の意味で用いている。
 使用例のないものとして次例がある。
(Y)大字典(講談社)
我が國の稱。神州。
 このように使用例の限られた特殊な「皇州」という言葉を、十五世紀中葉の足利学校に学んだ英聖松堂高盛が、遠陽州を指す言葉として用いたとするのは無理があるように思われる。一心忠義徹皇州、の解釈は、河井成信の一心忠義は京都(帝都)にまで知れ渡った、とするのが妥当ではなかろうか。
つぎに、明応五年七月十八日長松院に掲げた左記の氏親の禁制に、松葉城攻撃の文言は認められない(52)。
      (花押)
  於当寺長松院、甲乙人等令濫妨狼藉者、速可処厳科者也、仍而如件、
    明應五年七月十八日
 明応五年当時、長松院住職は氏親の叔父とされる教之一訓で、長松院開基である河井成信は存命中であった。秋本氏の説によると、長松院二世教之一訓は、生存している開基河井成信を討たんとする今川氏親に、礼銭を携えて禁制を求めたことになる(52)。生きている開基を討つ側にその寺の和尚が与するとは奇怪なことで、後世まで喧伝されるたぐいの話であろうが、そのような風説は寡聞にして知らない。逆に『当院開基来由扣記』には、「公夫妻嘗参院二代教之和尚而聴法」と記されている。
 即ち、この禁制は、長松院付近一帯が戦場となるために、長松院が反今川勢力を恐れて、開基河井成信の主君今川氏親に禁制を求めたとする解釈が妥当であろう。
つぎに、明応五年九月廿六日の氏親の寺領寄進文書に、戦闘終了を意味する文言は認められない。
   遠江国金屋郷深谷・山口郷内奥野・下西郷内仏道寺並五段田事右、為料所     奉寄進之上者、如前々可有執務之状如件、
      明応五年九月廿六日
                       五郎(花押)
            長松院
 長松院への寺領寄進は、今川期には、氏親が明応五年と永正弐年、義元が天文六年と天文十一年、氏真が永禄三年と、今川氏代々寄進が受け継がれている(53)。徳川期にも寄進は続けられるが、今川期に寄進された寺領の内「金屋郷深谷・下西郷内仏道寺並五段田」が減じられていることが次の朱印状写(54)からわかる。
 徳川家康朱印状
   遠江国佐野郡奥野村之内五十八石七斗任先規寄附也并山林竹木諸役等
   免除証者仏事勤行修造等無懈怠可勤仕之状如件
    慶長八年九月十九日 家康朱印
秀忠の代にも五十八石餘、家光の代には四拾八石餘と減じられて爾後家綱以下家茂に至るまで同文の朱印状写が、長松院に保存されている。
 今川期の寄進石高は記録にないが、明治十三年七月に記された『曹洞宗長松院明細帳』の「由緒」の項に「○慶長八年九月十九日徳川家康公ヨリ更ニ五拾八石餘ヲ受ク 傳ヘ云フ今川氏ヨリ受クル所ノ二十分ノ壱ナリト」とある。
これを袋井市春岡の西楽寺と比較してみると、今川期には、義元が天文十二年と二十一年、氏真が永禄四年と永禄八年、永禄十年に寺領を安堵している(55)。豊臣期には、天正十八年十二月廿八日豊臣秀吉寺領寄附朱印状に遠江国西楽寺領事として合百七拾石とあり、徳川期にも、慶長八年九月十一日の徳川家康寺領寄附朱印状写に西楽寺領事として合百七拾石とある(56)。今川から豊臣の間に、寄進された寺領に変化がなかったと思われる根拠は、天正十八年の豊臣秀吉寺領寄附朱印状の次の一節である。
   然上者如有来門前諸役・山林竹木等令免除候也
 即ち、今川、豊臣、徳川と、時代の変遷に伴う地理的価値等の変化によっても、西楽寺においてはさほど寄進の石高に変化がなかったものと思われる。
 このように比較してみると、長松院への今川氏と徳川氏の寄進額の多寡から、今川氏が開基河井宗忠の戦死を悼んで、如何に長松院を厚遇したかが推測される。
即ち、明応五年九月廿六日、氏親の寺領寄進文書は、今川氏親家臣河井宗忠の戦死を悼んで、河井氏を開基とする長松院に与えられたとするのが妥当であろう。(58)
 河井氏を反今川とする説の形成過程は、ほぼ明らかになった。
昭和四十九年の秋本論文、昭和五十一年の広瀬論文、昭和五十三年の小木論文、この三論文によって、約五百年間に渡って語り継がれた史観は逆転したかにみえたが、その三論文の根拠をたどれば、『円通松堂禅師語録』をでていない。新たな史料が発見されたわけでもなく、『当院開基来由扣記』から約二百三十年後に、単に『円通松堂禅師語録』の解釈を反転させたというにすぎない。


三  河井宗忠と大代河村氏


明應五年(一四九六)から『当院開基来由扣記』の書かれた寛延三年(一七五○)までは約二百五十年の歳月を経ているが、寺を子とすれば開基と開山とはその父母にも比すべきもので、来歴を重視する寺の日課の回向文として、歴代の住職に日々詠み継がれるものであるから、『当院開基来由扣記』に記された長松院草創期の内容は、概ね正しいとみてよいと思う。
 即ち、私は、『円通松堂禅師語録』にみえる「菊源氏成信」は松葉城主河井宗忠であり、また宗忠が氏親の家臣であったために、明應五年九月十日の宗忠戦死を悼んだ氏親が、同年九月二十六日に長松院を香華所として土地を寄進したとする説を是とする。
  (一)

 第一の根拠は、河井氏あるいは山名郡川井村と遠江今川氏との関わりあいは古く、その歴史を背景に、やがて斯波氏との火蓋が切られんとする文明の初年、朝比奈備中守が掛川城を築くころに、河井宗忠も今川義忠の家臣として松葉城主に取り立てられたと推論しても不合理ではないからである。
『今川家譜』によれば、三河国今川荘の今川氏は、弘安八年(一二八五)ごろから遠江との関わりをもちはじめている。
 遠江における直轄地は極めて少なく、建武四年(一三三七)の足利尊氏下文にある河会郷と八河郷の二カ所が知られているにすぎない(58)。即ち、後に遠江今川氏と河井氏との関係が生まれる以前に、すでに駿河今川氏と河会郷との関連が認められる。
 応安四年(一三七一)には、今川貞世の九州下向に従軍した武士として「合戦ニ相伴フ侍、遠江・駿河ノ人々、横地・勝間多・奥山・井伊・笹瀬・早田・河井」とある(59)。また貞世が九州探題を罷免されたあと、応永の乱に荷担したとして誅伐されんとしたとき、「忽に可致誅伐よし、鎌倉へ被仰付しを、甥の泰範は日比争論事有り、了俊とは不快にて有りしかとも、かかることは肉親の恨なり、比時、いかてこらうへきとて、身命をなけうち、頻に御訴訟申、了俊父子、其身安穏にて漸々遠州堀越・川合・中村を懸命地に安堵し、此処にて閑居有り」とも記されている(60)。
 のちに堀越氏を名告る遠江今川氏の本貫地堀越に隣接しているのが川井であり、川井を本貫地とする河井氏と遠江今川氏との関係は密接であったことが、地理的にも窺える。堀越川井と掛川は、今川了俊系の勢力下にあったものと思われ、将軍家奉公衆の闕所地であった(61)。
 長禄三年(一四五九)八月、今川範将を盟主とする中遠一揆が勃発したが、範将は駿河葉梨郷に敗死、寛正六年(一四六五)、堀越川井は御料所となって狩野七郎右衛門に与えられている(62)。堀越河井両氏は本貫地を没収されて勢力が衰え、この時期の今川氏陣立てに名を連ねることはなかったであろう。
 ところで、原田荘を本貫地とし、中遠を代表する国人領主であった原氏は、中遠一揆のとき、堀越氏を盟主としてその麾下にあった。応仁の乱においては、『今川記』に、「今川義忠いつまてかくて有へきとて、分国の勢千余騎引率、先陳原・小笠原・笠原・浜松・庵原・新野を先として、後陳は高木蔵人・葛山・朝比奈丹波守等也」とあるところをみると、少なくとも文明八年(一四七六)の義忠戦死の頃までは、原氏は河井氏とともに今川方に属していたものと思われる。松堂高盛(一四四一〜一五○五)が、日高山円通院の住職を継いだのは応仁元年(一四六七)のことで、『円通松堂禅師語録』はその年から始まっている(63)。即ち松堂禅師は、発生以来今川氏への一心忠義に徹している河井氏と、応仁から文明初期までは今川方であった原氏がやがては斯波氏に属してゆく姿とを明確に識別しながら、『円通松堂禅師語録』を記述したものと思われる。
 文明二年(一四七○)、今川義忠は、細川勝元の要請により、斯波方の後方攪乱のために遠江へ進入する(64)。
 文明三年(一四七一)、河井成信は石宙永珊を招いて開山とし、自ら開基となって、懸河大野に深沢山長松院を開創した。『人天眼目抄』によれば、「懸河河井方、母儀点海妙愛ノ佛事ノ用意ニ罷越留守ニ此聴聞ハアリ」とある。これは河井氏の初見文書であり、川僧慧濟のこの講筵は文明三年から五年の間であることが、中田祝夫氏によって明白になった。同氏は、東京大学史料編纂所本『人天眼目抄』の筆者は石宙永珊であろうとしている。
 即ち、長松院創建の文明三年以前に、すでに河井成信が懸河に拠点を築いていたことは明らかである。長松院末として文明十年に創建された聖寿寺(遠江国豊田郡岡村)(65)及び文明十三年創建の養勝寺(遠江国榛原郡下湯日村)が、ともに天竜川と大井川河口の湊に近い要衝地であることを考えれば、河井成信による深澤山長松院の開創は、今川義忠の後押しによる斯波方への一連の布石の端緒であったと推測される(66)。また聖寿寺と養勝寺は、ともに後の長松院二世教之一訓を開山としている。
 懸河に居城をもつ鶴見氏が、文明以前に、河井氏によって横岡城へ追われたことは、後の鶴見氏松葉城攻めの遠因となったのかもしれない。その横岡城の背後から、古瀬戸後期四段階のものと思われる古窯が発掘された。藤沢良祐氏(瀬戸市埋蔵文化財センター)は、これを一四五○年前後から一四七○年代までのものであろうとしている。これは、推論した鶴見氏移住の時期と一致しているし、また、川根沢窯及び三ツ沢窯からの遺物が、横地氏・勝間田氏関連遺跡からの出土遺物と一致していることは、鶴見氏と横地・勝間田両氏との交流をも裏付けているものと思われる。また、瀬戸は当時斯波氏の勢力下にあって、そこから志戸呂へ陶工が移住し高度な窯業技術を伝えていることは、鶴見氏が斯波氏に属していたことを窺わせるものである。 
 『掛川誌稿』「鶴見氏故居」の条に、つぎのように記されている。
 郭中中西ト云所、木戸口ノ内ニ鶴見氏ノ屋敷跡ト呼所アリ、相傳昔遠州ニ三十六  人衆ト云士アリ、其中鶴見因幡守栄壽ト云人、父子三代五十餘年此所ニ居リシト  云、又栄壽ノ城跡、今榛原郡ノ志戸呂横岡ニアリ、此人明應五年、倉見松塲ノ城  主河井宗忠ヲ襲テ討レ、宗忠モ亦死ス、此事奥野長松院ノ記及松堂録ニ載タリ、  然レバ鶴見氏ノ掛川ニ住セシハ、築城以前ノ事ナリ、
 横岡に移住した鶴見氏が大代から安田を抜けて、長松院の脇を流れる逆川を下ると、やがて文明七年(一四七五)の戦場となる山口に出る。山口は南の河村荘に接し、さらに南は横地氏の所領へと続く。長松院の立地は、鶴見氏と横地氏との連携に楔をさし、河村荘の河村氏を援護するための絶好の地点に今川氏の支城として位置している。
この河井成信の遠江復帰を足掛かりにして、今川義忠は、遠江への本格的攻略を開始した。
 文明五年(一四七三)、将軍警護のために上洛していた今川義忠は、幕府に働きかけて、今川方河井成信の勢力下にある懸革荘の代官職を拝命すると、直ちに帰国し、遠江国守護職奪回のための布石を東遠に打ちはじめる(67)。
『駿国雑志』は、この経緯を次のように記している。
 又義忠上京、前将軍義政公、並細川勝元に拝謁す。止る事二百余日、其後臺命あ  り、急ぎ分國に下向し、三遠の賊徒を退治せしめ、海道一遍の管領たるべきの承  命あり。義忠領承し、急ぎ皈國す。家臣朝比奈備中に命じて、遠州掛川に新城を  築く。文明七年春、遠州の住人横地某、勝間田某等謀叛す。
義忠が預け置かれた懸河荘は、南の横地氏、東の勝間田氏が反旗を翻したとき、それに呼応して、横岡の鶴見氏が大代川を遡行して倉見川源流から一気に南下すれば、目前に懸革荘が現れ、鶴見軍は容易にその北面を衝くことができる。その倉見川を押さえるために、河井成信を松葉城主として配したものと思われる。
 このように、懸革荘の北面にあたる倉見川筋に今川方の河井松浦両氏を配した後に、重臣朝比奈備中守に命じて掛川城を築城したものであろう。
 河井成信が、横岡城鶴見因幡守への備えとして、相模から本貫地遠江国河村荘に還住した河村氏を、大代天王山城を守るべく招いたのは、河村荘一帯が一触即発となる文明五年(一四七三)の頃であったとみるのが妥当と思われる。
 今川義忠にとって、松葉城と長松院とが、きたるべき斯波方との戦に備えて掛川城を守るための重要な布陣であったように、河井宗忠の松葉城にとって、三女を嫁がせた河村宋心(助二良父)の守る大代天王山城は、東の鶴見・勝間田両氏に対峙するための要衝であった(68)。
大代河村氏が鶴見因幡に備えて守ることとなった天王山城の山頂に、明治四十三年まで建っていた村社大寶神社(69)について、現大阪大学村田修三教授は、この大寶神社は、松葉城主河井宗忠の宗教領域の境界を示すものであると考えられている。   一方、現在の掛川市倉見川のほとりに建つ松葉神社の、「大寶天皇」と刻まれた鳥居の額について、宮司の戸塚操氏のお話では、「大寶天皇は松葉城の頃からあり、河井宗忠公の勧請によるという伝承が残っている」とのことである。 
 『神社名鑑』によると、大宝天王社、大宝社、あるいは大寶神社は全国に九社のみ記載され、また静岡県神社庁の調べでは、現在それらの名を冠する神社は静岡県内には認められない。
 即ち、松葉城と天王山城とに、ともに祀られていた大寶天王社の名が歴史上極めて稀少な社名であることは、松葉城主河井宗忠と天王山城主河村宋心(助二良父)とを繋ぐ証左のひとつであると考えられる(70)。
  奉寄進大法天王鰐口、願主大代助二郎
  天文七記十一月吉日、大工又二郎
藤枝市安楽寺にこの銘文が刻まれた鰐口がある(71)。これは大代河村家二代目助二良が、天文七年(一五三八)、地名を冠して大代助二郎を名告り、天王山城内の大寶神社に鰐口を寄進したものと思われる(72)。
 文明六年(一四七四)、義忠は遠江見付府中城にあった狩野氏と吉良氏被官の巨海氏を討ち滅ぼし、引間に進出して斯波氏と対峙。このとき中遠一揆に敗死した今川範将の子貞延が、兵一千余騎を義忠に付けられて引間城を攻めている。 翌年、文明七年(一四七五)、義忠は、斯波方の国人横地勝間田連合軍と小夜の中山付近で戦い、そのとき前出の遠江今川氏堀越陸奥守貞延が戦死する。翌文明八年(一四七六)、義忠は横地・勝間田軍を殲滅するが、凱旋の帰途、塩買坂で残党の襲撃を受けて落命した(73)。
 『静岡県史』によれば、今川義忠戦死のあと文明の内訌を経て、突然三通の河村荘関連文書があらわれる。
 最初は、文明十五年(一四八三)五月二十日、二通目は、長享二年(一四八八)三月十八日、ともに後土御門天皇が、遠江国河村荘等を鴨祐長とその子鴨祐平に安堵すると云う内容で、甘露寺親長から中御門宣秀にあてられた奉書案である(74)。河村荘がもともと賀茂社領であったことは、寛治四年(一○九○)七月十三日の寄進文書によって明らかである(75)。
 三通目は、延徳二年(一四九○)二月十八日に、中御門宣秀から清閑寺家幸に送られた綸旨案で、後土御門天皇が、遠江国河村荘を清閑寺家幸に安堵すると云う内容である(76)。
 すなわち、三通の文書は、鶴見氏に対峙するために河村氏が大代へ立ち去ったあとの、荘園所有権の混乱に対する奉書案と見れば、河井氏に追われた鶴見氏の横岡城築城は寛正から文明初年、河村氏の大代移住は文明中、三通の文書は文明末から延徳と、矛盾なく年代順に整列する。
『尊卑分脈』によれば中御門家は河村荘を立券した観修寺家の一門であり、甘露寺親長は中御門宣秀の外祖父、のちに宣秀の妹は今川氏親の妻となり、また氏親の家臣として河井宗忠、宗忠の三女が嫁した大代河村家、そして河村氏の本貫地が奉書案の
河村荘であることを思うと、同時代に河村荘をめぐる人々をつなぐ細い糸が見えてきたようにも思われる。

  (二)

河井宗忠と今川氏とを繋ぐ第二の根拠は、深沢山長松院開基河井宗忠が、開山の石宙永珊、二世の教之一訓にともに参じていることである。開山石宙永珊とは『人天眼目抄』に、二世教之一訓とは『当院開基来由扣記』に確認される。特に教之一訓は、今川氏親の叔父ともされている(77)。この一訓和尚が、開基河井成信の居城を攻撃しようとする今川氏親に、礼銭を携えて禁制を求めたとする説は、どのように考えても頑じ得ないことは前述した。

(三)
                                       河井氏が今川方であったとする第三の根拠は、河井成信の居城松葉城落城の二年前
、明應三年(一四九四)に、伊勢長氏が原氏の高藤城を攻撃したことである(78)。『円通松堂禅師語録』によれば、文明の初年までは明らかに今川方であった原氏が、この頃は斯波方の勢力下にあって、その発生から宗忠戦死に至るまで今川氏への一心忠義に徹した河井氏とは、すでに袂を分かっていたものと思われる。おそらくは、原氏が血族の孕石氏と決別したのもこの時期であろう。
 原氏の居城高藤城は、松葉城から西へ尾根を幾つか越えたところにある。もしも河井成信を反今川とすれば、明應五年(一四九六)に、長松院に禁制を出してまで攻撃しようとした松葉城を見過ごし、掛川を通過して南から高藤城を攻めたことになる(79)。これでは、高藤城を攻めている際に、河井・松浦両氏にたやすく背後を突かれ
たであろうし、退路を断たれたであろう。
即ち、伊勢長氏は、河井松浦両氏を親今川として退路を確保した後に、高藤城を攻撃したと考えるのが妥当であろう。
 今川氏親は、明應五年七月十八日と、同年九月二十六日に、長松院宛文書を発行しているが、これ以前の今川氏の動向を年代順に整理してみると、まず、『円通松堂禅師語録』によれば、明應三年(一四九四)八月、伊勢長氏が原谷郷に侵攻し、松堂高盛の円通院が焼失する(80)。翌明應四年八月、伊勢長氏は伊豆国から甲斐国に侵攻し、直ちに講和を結んで退却(81)。同年九月、長氏は、鹿狩りを装い、突如小田原城に大森藤頼を攻め、手中に収める。ところで、『静岡県史』によれば、明應三年八月から明應五年六月までの約二年間に、伊勢長氏あるいは今川氏親が発給した文書の宛先は、長氏が伊豆国に対して一通(82)、氏親が駿河国に対して四通である(83)。すなわち、
河井成信戦死以前の約二年間、伊勢長氏は、伊豆国から関東を固め、氏親は駿河国の支配強化に努めていたことを窺わせる。
 明應五年(一四九六)七月十八日、氏親の叔父一訓和尚からの要請によるものと思われる長松院宛文書がある(84)。
          (花押)
  於当寺長松院、甲乙人等令濫妨狼藉者、速可処厳科者也、
  仍而如件、
   明應五年七月十八日
 この書状を契機に、長松院開基として氏親の叔父一訓和尚に深く参じ、今川氏被官である河井宗忠は、斯波方鶴見勝間田両氏と、一触即発の対立関係に発展した。
 明應五年九月十日、その日の河井成信の所在は知る由もないが、長松院裏手の宝篋印塔と五輪塔、また今なお長松院境内に祀られている若宮権現「鎮守護法宗忠居士」を人々が尊崇していることを思うと、自決の地は、氏親の叔父一訓和尚の待つ長松院境内であったと考えるのが妥当と思われる(85)。
 直ちに今川氏親は鶴見勝間田殲滅戦の火蓋を切る。
 『掛川誌稿』「鶴見氏城跡」の条に、
  今川家の時、大井川の東相賀村に偽旗を張り、奇兵を長者原より下して此城を陥  たりと云傳ふ。
 とあり、現在も横岡城の対岸に旗方(はっさし)の地名を残している。また、鶴見因幡守が討ち取られ、井戸に身を投げた奥方はやがて唇の紅い小蛇と化して井戸の中に棲息し、人々に畏れられたとも伝えられる(86)。
 明應五年九月二十六日、氏親は河井成信の死を悼み、長松院に采地を寄進する旨の書状を、叔父の長松院二世教之一訓和尚に送っている。この経緯を『深沢山長松院誌』は、次のように記している。
 公の戦死を聞いて今川氏親は大いに悼み、采地として
  『遠江国金屋郷深谷・山口郷内奥野・下西郷内仏道寺 五段田事右、為料所     奉寄進之上者、如前々可有執務之状如件、
      明応五年九月廿六日
                       五郎(花押)
       長松院』
 を寄進し長松院を香華所とし、永く菩提を弔い堂内に、霊牌を祀りて開基英檀と  称し、門外に一宇を設けて鎮守の神と恭敬せり
法名は 宗忠 川井院殿補庵宗忠大居士
御内 月渓院慶室妙讃 大姉
明応五年九月十日卒

(四)

氏親の反今川勢力掃討戦は、鶴見氏のつぎにふたたび原氏に向けられる。
河井氏が今川方であったとする第四の根拠は、原氏一族の孕石氏が反今川方の原氏を攻めたことである(87)。
明応三年九月に、伊勢長氏が原氏を攻撃。同五年九月十日松葉城主河井成信討死。同六年、氏親、孕石氏に命じて原氏を討伐。同七年十一月十三日に、氏親は孕石行重に国衙を給与している。
仮に倉見川筋の河井氏が反今川であったとすると、今川方孕石氏は、東に河井氏、南に原氏の反今川勢力に挟撃され、明応七年に原氏の要害を攻める以前に滅亡していたであろう。
 天文八年(一五三九)、原田荘本郷の一分地頭である孕石光尚が「原田荘本郷之内孕石譜代相伝之知行分坪付石米納所帳」および「国役納所之覚書」という二つの帳簿を書写したことは『県史通史編2中世』に詳しい。その文中に、「この文書に現れる地名は、本郷内とはいっても、原野谷川上流の山間部に点在しており、田地より畠・山野が圧倒的に多い地域である。」とある。また、孕石氏知行分田地の総計は多くみても六・三町(別帳簿は五・六四町)にすぎない(88)。一方、原氏の本貫地原田荘の初見史料である弘長二年分の原田荘細谷村正検取帳の写しを見れば、細谷村の総田数は四十七・七一町である(89)。これは原田荘地頭職原氏知行分一村のみの田数である。河井氏の田数は不明だが、氏の細谷村一村で比較しても原氏と境界を接する孕石氏が、南の原氏と東の河井氏の挟撃に耐えられるほどの勢力を有していたとは思われない。
 従って、孕石氏一人が今川方として、反今川勢力に包囲されていたとするには、地理的にも、その勢力においても無理がある。即ち、河井成信は孕石氏とともに今川方として、東方から孕石氏を援護していたものと推論される。
  本節を概観すると、河井成信については『人天眼目抄』を初見文書とし、つぎに『円通松堂禅師語録』に成信戦死の詩偈と初七日經、また二男宗鏡童子の死を悼む一文があって、それから約二百五十年後の『当院開基来由扣記』に、初めて後世に伝わる河井氏観の始源が記された。河井成信を語る史料は、以上の三点のみである。
 『当院開基来由扣記』が書かれてから約二百三十年後の昭和五十年前後に、『円通松堂禅師語録』をもとに、視座を逆転させるかにみえた三論文(秋本太二「今川氏親の遠江経略」『信濃』二六巻一号、広瀬良弘「曹洞禅僧の地方活動ー遠江国における松堂高盛の活動を中心にしてー」『地方文化の伝統と創造』、小木早苗「今川氏の遠江支配」『駿河の今川氏』第四集)が現れたが、その根拠は脆弱で、五百年に渡る史観を揺るがすほどのものではなかった。

      おわりに

以上、河村氏の発生から中世末期までの過程を検討した本稿の概要は、次の通りである。
保元三年、波多野義通の弟秀高は、遠江国河村荘に土着して初めて河村姓を名告り、後に嫡男義秀は相模国波多野本庄の西へ招かれて河村郷を起こした。そのとき遠江国河村荘に残った三郎高政は、建久二年十一月、北条時政に荘園を寄進している。
 永享十年八月、相模河村城は持氏方大森氏に滅ぼされ、同年九月初旬に、将軍義教方の先鋒今川範忠が河村城の南約一里の地、関本(おそらく本陣は最乗寺)に陣を取っている。そのとき、落城した河村氏は今川軍に属したものと思われる。
 永享十一年一月、今川方小笠原正行が河村荘堀之内に配され、永享十二年には、最乗寺四世舂屋宗能禅師が河村荘の北西二里の地に法泉寺を創建している。おそらくそのころ、大森氏に追われた西相模の豪族は、今川氏によって、東遠に散在する斯波氏闕所地に配されたものと思われる。城を失い今川氏に属した河村氏も、本貫地河村荘内に還住の地を与えられ、その後、今川と斯波の遠州争奪戦の一翼を担うことになったものであろう。
 文明五年、今川義忠は、懸革荘代官職を任命された頃に、従来からの今川氏被官河井成信に深沢山長松院を創建させた後、松葉城主として配置し、懸革荘の北面にあたる倉見川筋に親今川勢力を布陣したものと思われる。また、河井成信は、掛川から横岡へ移城した鶴見氏に対峙するために、三女の嫁した河村宋心(助二良父)を河村荘から招いて、大代天王山城を守らせた。その後河井成信は、今川家お家騒動の時期に原氏が斯波方に属しても、山名郡河井郷に発生して以来仕えてきた今川氏への一心忠義に徹し、明応五年、斯波方鶴見・勝間田軍に襲撃されて戦死した。その死を悼んで今川氏親が長松院に寺領を寄進して以来、今川氏は代々多額の寺領寄進をつづけている。
天文七年十一月、大代河村家二代目助二郎は、外祖父河井成信、亡父河村宋心の遺志を継いで、天王山城の山頂に大宝神社を勧請した。
 奉寄進大法天王鰐口、願主大代助二郎
  天文七記十一月吉日、大工又二郎
右の銘文が刻まれた鰐口は、今も藤枝市安楽寺に保管されている。
 今後の課題は、戦国末期における大代河村氏と金谷宿河村氏の一家両属の結果、武田に属した大代河村氏は土着して大代村の名主となり、徳川に属した金谷宿河村氏は島田金谷に柏屋屋敷を拝領して金谷宿本陣となってゆく両家の過程を究明することである。


年代│ 十二世紀末  十三〜十四世紀   十五世紀   十六世紀 │
│巻│ 秀清 │
州│大│ 大巻城 │
│内│ 秀基元中元年、斯波氏に追われて佐比内に居館を移した│
奥│比│ 河村館 │
│佐│ 舂屋宗能(出奥州藤原氏) │
模│北│ 舂屋宗能 │
│ │ 義秀 最乗寺四世 │
相│山│ 河村郷    河村城落城 │
│川│ 舂屋宗能 │
│ │ 秀高 高政 法泉寺創建 法泉寺四世久山芝遠 │
│菊│ 河村荘 河村荘を北条氏へ寄進 河村氏移住 │
│ │ 法昌院創建 │
江│代│   天王山城主 │
│ │ 忠學宋心居士 │
│ │ 自雲妙性大姉 助二良 │
│ │  松葉城主三女   大寶天王鰐口寄進│
遠│大│    安養寺 │
│ │ │
│川│  松葉城主 河井宗忠 大寶天王 │
│掛│ 長松院創建 │


平成十一年二月十九日  完


   註

(1) 『新編相模國風土記稿巻之十六』村里部 足柄上郡巻之五
(2) 『駿河記』附録四七五〜四七六頁
(3) 『尊卑分脈』左大臣魚名公五男
(4) 『静岡県史』資料編4古代一四五九号
 賀茂御祖皇大神宮諸国荘園〇賀茂社文書 京都府賀茂御祖神社所蔵
日供料
庄園十九箇所
御厨九箇所
寛治四年七月十三日、賀茂御祖社被奉不輸田七百四十五町、為御供田、
近日依有夢想、被供御膳也、且是依神税不足也、又分置御厨於諸国、       俗諺曰、将亡聴政於神、此謂也、
官符
遠江国河村庄  公田三十町
(以下 庄園十八箇所略)
右依有託宣、自寛治三年漸有御沙汰、或社司経奏聞、或公家召注文、
件日被始進云々、自而以降大八膳也、
御厨散在所々
播磨国   伊保崎
(以下 御厨七箇所略)
抑御厨供祭人者、莫附要所令居住之間、所被免本所役也、仍櫓棹通路浜      可為当社供祭所之条、寛治以来代々宣旨以下勅裁分明也、見旧記
○鴨脚秀文文書「代々聖主勅願祭奠并御起文遷宮之年記新加崇重         御遊神領御寄附之事」の記事に「遠江国河村庄 公田三十町」の         記述が見える。

    『掛川誌稿』巻十城東郡河村庄(静岡新聞社、一九九七年)
      河村庄 本所、半済、加茂、西方、富田等ニ続タル諸村ヲ、河村庄七十 村ト称ス、サレトモ其村ハ詳ニセス、又其内ニ友田、和田、澤水賀、西 深谷、倉澤、石神ヲ、河村庄七村ト称ス、
(5) 『保元物語』上・中・下
『吾妻鏡』治承四年十月十七日条
      十七日丙申。為誅波多野右馬允義常。被遣軍士之處。義常聞此事。彼討 手下河邊庄司行平等未到以前。松田郷自殺。子息有常者在景義之許。此 殃義常姨母者中宮大夫進朝長母儀。典膳大夫久經為子。仍父義通就妹公 好。始候佐典廐之處。有不和之儀。去保元三年春之比。俄辞洛陽。居住 波多野郷云々。
(6) 『吾妻鏡』治承四年十月十七日条
(7) 『吾妻鏡』文治五年八月九日条
九日、丙申、入夜、明旦越阿津賀志山、可遂合戦之由被定之、爰三浦平      六義村・葛西三郎清重・工藤小次郎行光・同三郎祐光・狩野五郎親光・ 藤沢次郎清近・河村千鶴丸年十三才、以上七騎、潜馳過畠山次郎之陣、越 此山、欲進前登、是天曙之後、与大軍同時難凌嶮岨之故也、(後略)
    『吾妻鏡』文治五年八月十二日条
     十二日己亥。一昨日合戦之時。千鶴丸若少之齢而入敵陣。發矢及度々。
      又名謁云。河村千鶴丸云々。二品始令聞其号給。仍御感之餘。今日於船
      迫驛。被尋仰其父。小童為山城権守秀高四男之由申之。依之。於御前俄
      加首服。号河村四郎秀清。加冠加々美次郎長清也。此秀清者。去治承四      年。石橋合戦之時。兄義秀令与景親謀叛之後。牢籠之處。母二品官女号      京極局。相計而暫隠其号。置休所之傍。而今度御進發之日。稱譜第之勇      士。企慇懃吹擧之間候御共。忽顕兵略。即開佳運者也。晩景令着多賀國      府。(後略)
(8) 『静岡県史』資料編中世一ー三五六号
    吾妻鏡
廿三日、戊辰、以遠江国河村庄、本主三郎高政奉寄附
北条殿、有愁訴之故也、
(9)『新編相模国風土記稿』巻之十六村里部足柄上郡巻之五
      般若院 室生山 往古は恵華山と号せり、是文殊を安ずるが故なる由、(中略)
      智積寺と号す古義真言宗、開基は河村山城守秀高と云、縁起に見ゆ、往古      川村郷の領主たり、(中略)文殊を本尊とし、愛染を置く(後略)
『金谷町所在文書目録』第三集・「河村家文書」近世L─四七四

   天保六年
 文殊堂建立施主附帳
    未 九月吉日

      大代村 同
        正地 渡辺三郎右衛門 印
      鍵取 組頭
        高柳重三郎 印 杉山平馬 印
      願主 同
       御林守 孕石平蔵 印
        河村市平 印
       世話人 金谷町本町世話人
        山内清兵衛 印 一金弐分弐朱 河村八郎左衛門
       同 一金壱分 櫻井浅右衛門
        渡辺清左衛門 印 一金壱分   永寿講連中
       御林守 一金弐朱   塚田弥五右衛門
        山中庄兵衛 印 一金壱朱   塚田弥惣八
        (後略)
(11)『神奈川県史』資料編五九七四号
    川村章一『川村家の歴史』(私家版、昭和三十八年)
(12)『吾妻鏡』文治五年八月十二日条
    『吾妻鏡』建久元年八月十六日条
十六日戊戊。馬塲之儀也。先々會日。雖有流鏑馬競馬。依事繁。今年始 被分両日也。二品御出如昨日。爰流鏑馬射手一両人。臨期有障。已及闕 如。于時景能申云。去治承四年所与景親之河村三郎義秀。為囚人景能預 置之。達弓馬藝也。且彼時与黨大畧預厚免訖。義秀獨非可沈淪歟。斯時 可被召出哉者。仰曰。件男可行斬罪。由下知畢。于今現存。奇異事也。 然而優神事。早可召進但非指堪能者。重可處罪科者。則招義秀。召仰此      旨之間。射之訖。二品召覧其箭之處。箭十三束。鏑八寸也。仰曰。義秀 依達弓箭有驕心。与景親之條。案先非。今更奇恠也。然猶可令射三流作 物。於有失礼者。忽可行其咎者。義秀又施其藝。始終敢無相違。是三尺 手挟八的等也。觀者莫不感。二品變欝陶。住感荷給云々。
『吾妻鏡』建久元年九月三日条
三日甲寅。大庭平太景能申云。河村三郎義秀。於今者可被梟首歟者。仰 曰。申状太不得其意。早可處其刑之由雖被仰付。景能潜扶之歴多年也。 依流鏑馬賞厚免訖。今更何及罪科哉者。景能重申云。日来者爲囚人之間。 以景能助成活命。 以蒙免許之後。已擬餓死。如當時者。被誅事還爲彼 可爲喜歟者。于時二品頗令咲之給。可還住于本領相模國河村郷之旨。可 下知者。
(12)桐田幸昭『中世小夜中山考』一○六頁、(私家版、    年)
(13)『静岡県史』資料編中世三ー一三七号
(14)『静岡県史』資料編中世三ー三五七三、三ー三五七四、四ー八二四、
     四ー一八七六号等
(15)拙稿「冑佛考」(『甲冑武具研究』一○五号、一九九四年)
拙稿「続冑佛考」(『甲冑武具研究』一一三号・一一四号、一九九六年)
(16)『太平記』十・十四・二十五・三十一・三十二・三十三・三十八
『鎌倉九代後記』史籍集覧所収
(17)『神奈川県史』資料編五九七四号
(18)『川龍院(大代河村家永代院号)家先祖累代霊位(位牌)』(河村家所蔵)
『永代家系記録』(河村勝弘編、河村家所蔵)
(19)拙稿「続冑佛考・第二回」(『甲冑武具研究』一一四号、一九九六年)
(20)『重続日域洞上諸祖伝』巻第二
     最乗寺舂屋能禪師傳
    師諱宗能。號舂屋。出奥州藤原氏。師状貌魁壘。気宇英邁。稍長慕佛師 學。歸最乗大綱和尚室而給侍焉。綱令師研究本来面目話。師日月孜孜不 已。一日過農家。聞舂米聲。忽然撞著。這面目回告所解。綱曰。麼生會。 師曰。去年梅今歳柳。顔色聲香依舊。綱然之。師 辭去遊方。路徑遠州。 渇掬河流飲之。其味甚美也。自謂。渓上必有靈境。乃溯流至源。雙山競 秀而有一帯瀑布。恰似支那曹渓山。側有老尼。縛茆而居。師就求其地卓      庵。後作寶坊。今曹渓山法泉寺是也。(後略)
『曹渓山法泉寺開創五百五十年記念誌』一○頁
     四世 久山芝遠大和尚
      三世徳扶宗健大和尚の後を継ぎ法泉寺四世となり曹渓山の法燈をまもる。
      後五明村に高覚山栗隣寺を開山、又長間に長閑山法寿庵を、更に榛原郡      大代村に龍燈山法昌院を開く。享禄元年(一五二八)十二月二十九日示 寂
『法昌院明細書』
(22)『重続日域洞上諸祖伝』巻第二
    『新編相模国風土記稿』
『大雄山誌』
(22)『吾妻鏡』建久元年十一月七日条
(23)『静岡県史』資料編中世一ー三九二号
(24)『神奈川県史』資料編五九七四号
河村城責落候、目出候、雖不始事、今度其方忠節無是非候、
      殊式部少輔振舞感悦至候、巨細奕首座可物語候、謹言、
八月廿一日     (花押)
大森伊豆守殿
(25)『今川記』(『続群書類従』巻六百二今川記第四)
     然に今川上總之介泰範。京都の仰を蒙り。關口四郎。小笠原掃部助。斉      藤加賀守葛山を先かけの大将として。足柄山を越て關本の宿に陣を取       る。
(26)『静岡県史』通史編2中世三八八〜三八九頁
(27)『掛川市史年表』一○頁(掛川市史編纂委員会、一九九七年)
永享十一年一月 小笠原正行、河村荘堀之内(菊川)に配され堀内を名     乗り、子行重堀之内城主となる。
(28)大塚勲「遠江堀内城主堀内氏」(『地方史研究大井川』第三号、大井川地方史    研究会、一九七九年)
(29)『吾妻鏡』文治五年八月十二日条
(30)『静岡県史』資料編中世四ー一七五九号
      曹渓山法泉禅寺者、舂屋大和尚開山塔頭之霊地也、(後略)
(31)『大雄山誌』附録の二
(32)『掛川誌稿』第二巻佐野郡二日根上郷上西郷村(静岡新聞社、一九九七年)
『掛川市史』上巻五八五・五八六頁
(34)『遠州曹洞宗小末寺帳』(大日本近世史料『諸宗末寺帳』所収)
       遠州法泉寺末寺  通幻派
観應寺 同國西江村     四石
林慶庵  同國同村      壹石
宝寿庵  同國五明村     壹石五斗
      粟林寺  同國西江 壹石
海蔵庵  同國西江 壹石五斗
徳雲寺 同國同所      壹石六斗
法正寺 同國大代村     六石
    『掛川市史』上巻三七三頁表3・三八五頁表4
『曹渓山法泉寺開創五百五十年記念誌』
(34)『掛川市史』上巻三七三頁表3・三八五頁表4
『曹渓山法泉寺開創五百五十年記念誌』
(35)『掛川誌稿』第十巻城東郡桶田村(静岡新聞社、一九九七年)
       桶田村
  小笠山ノ東南ニアリ、庄屋五郎左衛門カ先祖ヲ、佐々木桶田殿ト称ス、 依テ其宅辺ノ田地ヲ桶田垣戸ト呼フ、後一村ノ名トナル、
(中略)
佐々木五郎左衛門 旧家ナリ、今竜崎氏ト称ス、世々庄屋ヲ務ム、先祖 京師ヨリ来リテ住ス、佐々木桶田殿ト称セシニ依テ、宅辺ノ田七八反ノ 間ヲ桶田垣戸ト呼フ、墳墓モ亦其中ニアリ、先祖ノ遺物槍一本、鐙一双 ヲ蔵ス、按ニ太平記ニ、佐々木道誉カ舟岡山軍ノ時、五郎左衛門高秀、 五郎左衛門定詮ト云二人ノ五郎左衛門アリ、一人ハ道誉カ子、一人ハ其 従弟ナリ、此村ノ佐々木氏サル名家ノ名ヲ称スルヲ見レハ、定詮等カ一 族京ヨリ来テ土着セシニヤ、今佐々木氏両家アリ、本家ヲ五郎右衛門ト 云フ、庶流ヲ五郎左衛門ト云、
(36)『金谷町所在文書目録』第三集・「河村家文書」近世D―92
         乍恐以書付を奉願上候御事
      一、大代村名主市平儀去十月病死仕倅八十吉・幼年ニ而御役儀難相勤奉      存候ニ付、後見相立市平・倅ニ名主役被仰付候様ニ村中百姓共奉願上候、      大代村・之儀ハ前々より市平平馬両人ニ而御役儀相勤来リ候・在所ニ御      座候得ハ古来之通り両人相立申度奉願候・市平儀も草切以来之名主ニ御      座候、村受八十吉十六才・ニ罷成り候得ハと少シ間後見仕候ハゝ末々名      主役も相・勤り可申与乍恐奉存候、依之市平弟孫太夫義・弐十ヶ年以前      ニ懸河御領宮脇村へ養子参住所・仕候得共、市平分地をも所持仕、其上      当村出生之者ニ・御座候得バ気立も存知罷有候ゆへ右孫太夫後見・ニ而      八十吉ニ役儀被仰付被下置候様ニ惣百姓とも奉願上候御事・右御願申上      候趣平馬方へ数度訴申候得共存知寄御座候得ハ奥印不罷成候由申候ニ付      乍恐拙者とも名印・計リニ而御願申上候御慈悲ニ被為聞召訳願之通リ被      為仰付被下置候ハゝ末々之者迄難有奉存候以上
                 寛保三年亥三月
以下百六名印(傍点筆者)
(38)『金谷町所在文書目録』第三集・「河村家文書」近世X―500
(39)『安養寺過去帳』(『永代家系記録』、河村勝弘編、河村家所蔵)
(40)『静岡県史』資料編中世二ー二六○九号
(41)『深沢山長松院誌』昭和三十二年四月発行
(42)『静岡県榛原郡誌』上巻
    『金谷町所在文書目録』第三集・「河村家文書」近・現代O―2・3・4・他
    『榛原郡神社誌』
    戸籍謄本
(42)『金谷町史地誌編』四三○頁
(43)『金谷町所在文書目録』第三集・「河村家文書」近世L―477・479
     L―477「安養前住寿山仙翁和尚葬式諸般結算帳」
     L―479「金銭諸払作米取立葬式諸般結算帳」
(44)『金谷町所在文書目録』第三集・「河村家文書」近・現代O―23・25
(45) 掛川市長松院所蔵(原本)
(46)『掛川市史年表』(掛川市史編纂委員会、一九九七年)
(47)小木早苗「今川氏の遠江支配」(『駿河の今川氏』第四集、今川氏研究会、一    九七九年)
(48)広瀬良弘「曹洞禅僧の地方活動ー遠江国における松堂高盛の活動を中心にし    てー」(『地方文化の伝統と創造』地方史研究協議会編、雄山閣、一九七六     年)
(49)秋本太一「今川氏親の遠江経略」(『信濃』二十六ー一、信濃史学会、一九七    四年)
(50)『静岡県史』資料編中世三ー二五四号
 「孕石殿    氏親」
遠江国山名郡内貫名郷国衙引田之事
右、去年丁巳於原要害依抽忠節、為其賞宛行之了、弥可嗜忠節状如件、
      明応七年戊午十一月十三日
                     氏親(花押)
                孕石殿
(51)『静岡県史』資料編中世三ー二一七号
(52)『静岡県史』通史編2中世六五○頁
    『国史大辞典』4「禁制」
(53)『静岡県史』資料編中世三ー二二一、三ー三八八、三ー一四三九
     三ー一六○六、三ー二八二六、三ー二四七○号
(54) 掛川市長松院所蔵(写)
(55)『静岡県史』資料編中世三ー一六二五、三ー一六二六、三ー一六二八
三ー一六二九、三ー二一一二、三ー二一一三、三ー二九八○
三ー三三○五、三ー三三○六、三ー三三九九号
(56)『静岡県史』資料編近世一ー四一二、一ー四一三号
(57)桑田和明「戦国大名今川氏による寺領安堵についてー駿河・遠江を中心に     ー」一一一頁(『駿河の今川氏』今川氏研究会、一九八七年)
      このように、今川氏一族、今川氏と関係の深い人物が葬られた菩提所は、      寺領を寄進された他、多くの特権を菩提所であるということで安堵・寄      進されている。
(59)『静岡県史』資料編中世二ー一七八号
(60)『静岡県史』資料編中世二ー八二五号
(61)『静岡県史』資料編中世二ー一二六九号
(62)『静岡県史』通史編2中世三八八〜三八九頁
    『掛川市史』上巻五○七〜五○九頁
(62)『静岡県史』資料編中世二ー二三四四、二ー二四七○号
(63)『静岡県史』資料編中世二ー二五二七号
(64)『静岡県史』資料編中世二ー二五二六号
(65)開基は門奈美作守。
   『寛政重修諸家譜』巻第九百三十
      藤原氏  支流
       門奈
        今の呈譜に、秀直は波多野三郎義通按ずるに義道は尊卑分脈秀郷流にみえたり
            が後裔門奈玄蕃允昌通が男なりといふ。
      ●直友
         五郎大夫 今の呈譜に、藤太郎秀直に作る。
          今川義元に仕ふ。某年死す。年七十六。法名等専。

      ●直宗
         太郎兵衛 母は某氏。
      今川義元及び氏眞に歴仕し、今川家没落の後めされて東照宮につかへた      てまつり、遠江國豊田郡岡村駒場村にをいて采地をたまふ。天正十二年      五月十八日死す。年六十三。法名淨水。
    (◎この附記によれば、門奈氏は、波多野義通の後裔として、文明十年には、    すでに遠江國豊田郡岡村に勢力を有していたものと考えられる。とすれば、    西相模武士団の一つ波多野氏流の門奈氏が、河村氏や糟屋氏とともに移住し    てきた可能性もある。)
(66)『可睡斎史料集』第一巻寺誌史料、二三三頁(思文閣出版、一九八九年)
(67)『静岡県史』資料編中世二ー二六○九号
(68)『川龍院(大代河村家永代院号)家先祖累代霊位(位牌)』(河村家所蔵)
『永代家系記録』(河村勝弘編、河村家所蔵)
(69)『金谷町所在文書目録』第三集・「河村家文書」近・現代O―2・3・4
(70)『金谷町史』資料編一古代中世一五一号
拙稿「鰐口考」(『金谷町教育委員会主催御林守展資料』、一九九六年)
(71)『静岡県史』資料編中世三ー一四八○号
(72)拙稿「鰐口考」(『金谷町教育委員会主催御林守展資料』、一九九六年)
(73)『静岡県史』資料編中世二ー二四九四〜二四九六号
(74)『静岡県史』資料編中世三ー三八号
         三八    甘露寺親長奉書案  親長卿記
        鴨社河合禰宜祐長申、越中国寒江庄・越前国志津庄御米分・備後国勝      田本庄・遠江国河村庄、任当知行之旨、可令領知之由、可被書遣
      綸旨之由、被仰下候也、謹言、
           五月廿日    親長
          蔵人弁殿
    『静岡県史』資料編中世三ー一一二号
         一一二 甘露寺親長奉書案  親長卿記
       鴨社前権禰宜祐長遺跡并当社領越中国寒江庄、除庶子部分、越前国志      津庄御米分・備後国勝村本庄・遠江国河村庄、任故祐有卿譲与旨、代々      相伝当知行不可有相違之由、可令不知比良木社権祝祐平給之由、被仰      下候也、謹言、
            三月十八日
        進上    蔵人左少弁殿
『静岡県史』資料編中世三ー一一三号
         一一三   後土御門天皇綸旨案 宣秀卿御教書案 
鴨社前権禰宜祐長遺跡并当社領越中国寒□庄除庶子割分、越前国志       津庄御米分・備後国勝田本庄・遠江国河村庄等事、任故祐有卿譲与旨、
代々相伝当知行不可有相違者、
      天気如此、悉之、以状、
        長享二年三月十八日    左少弁判
        比良木社新権祝館
(75)『静岡県史』資料編古代一四五九号
(76)『静岡県史』資料編中世三ー一三七号
         一三七  後土御門天皇綸旨案 宣秀卿御教書案
      故海住山大納言家領遠江国河村庄・近江国勅旨田等事、就被遺跡相続、
      任武家下知之知行不可有相違之由、
      天気所候也、仍執啓如件、
        延徳二年二月十八日    左少弁判
      謹上 右中弁殿  表書名字也、
(77)『金谷町史』資料編一古代中世一四○号頭注(6)
(78)『静岡県史』資料編中世三ー一九三号
(79)『静岡県史』資料編中世三ー二一七号
(80)『静岡県史』資料編中世三ー一九五号
(81)『静岡県史』資料編中世三ー二○九号
(82)『静岡県史』資料編中世三ー二○四号
(83)『静岡県史』資料編中世三ー一九八・二一○・二一二号
(84)『静岡県史』資料編中世三ー二一七号
(85)『当院開基来由扣記』(原本・掛川市長松院所蔵)
(86)『町の文化財』(金谷町教育委員会、一九九四年)
(87)『静岡県史』資料編中世三ー二五四号
(88)『静岡県史』通史編2中世五二二〜五二五頁
(89)『静岡県史』通史編2中世五一八〜五一九頁
 

      

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