河井宗忠公傳


(河村隆夫「河井宗忠公略傳」長松院開基河井宗忠公五百回忌法要資料・平成十一年二月二十六日)


    夕立をのがれて、長松院本堂の軒を借りた。
    夏の白い敷石が、雨粒にたちまち染まってゆく。
    見上げれば鬱蒼たる杉木立である。

  
                          *


 深澤山長松院は、開基を河井宗忠公、開山を石宙永珊禅師として、文明三年(一四七一)に創建された。
 今から五百二十八年前、応仁の乱の余波をうけて、各地に争乱が続いていた頃のことである。
開基河井宗忠公は、平安末期、平治の乱のとき、源義朝に与して敗れ、山名郡川井村に土着した源氏の末裔であると云われている。確かに菊源氏成信と史書にも記されている。
 河井氏は、始め遠江今川氏に属し、今川了俊の九州遠征にも従軍している。のちに駿河今川氏が天下一名となると、遠江今川氏は堀越氏と改称した。
 当時の遠江守護職は斯波氏で、堀越氏はそれに対抗する中遠国人領主層の盟主として、いわゆる中遠一揆をおこしたが敗れ、堀越範将が敗死、範将の領地である山名郡堀越・河井は御料所として没収された。
 ここに河井氏は本貫地(名字の地)を失うことになった。
 文明二年(一四七○)に今川義忠が遠江に侵入した頃であろうか、河井氏は新たな領地を求めて掛川に入部したものと思われる。本貫地川井村を失ったのが寛正六年(一四六五)、長松院の開創が文明三年(一四七一)であるから、少なくともその六年間に河井氏は掛川に拠点を築いたものと思われる。懸河に居城をもつ鶴見氏が、河井氏によって横岡城へ追われたことは、後の鶴見氏松葉城攻めの遠因となったものであろう。
 この文明三年の長松院開創については、川僧慧済の『人天眼目抄』に「懸河河井方、母儀点海妙愛ノ佛事ノ用意ニ罷越留守ニ此聴聞ハアリ」とあり、開基河井宗忠公と開山石宙永珊禅師との関係及びその年代が確認されている。
 ところで、掛川は遠江守護である斯波氏の闕所地(領主の欠けた土地)で、今川の勢力が及びやすい地でもあった
 今川義忠は、掛川に河井氏が前線拠点を築いたのを見て、将軍家に働きかけ、ついに文明五年(一四七三)懸革荘代官職を拝命し、遠江守護職奪回の布石を東遠に打ちはじめる。
 『駿國雑志』には、このとき朝比奈備中に命じて遠州掛川に新城を築いたとある。同時に今川義忠は、掛川城の北面を押さえるために、河井氏を倉見川筋に配したものと思われる。松葉城主河井成信の誕生である。
 文明七年(一四七五)、義忠は、斯波方と小夜中山付近で戦い、そのとき前出の堀越範将の子陸奥守貞延が戦死する。
 翌文明八年(一四七六)、義忠は横地・勝間田を殲滅するが、凱旋の帰途、塩買坂で残党の襲撃をうけて落命した。
 この後の約二十年間は、河井氏に関する歴史的史料が欠けている。
 つぎに河井氏について確認されるのは明應三年(一四九四)伊勢長氏による原氏高藤城攻撃の記録が、『圓通松堂襌師語録』に認められることである。おそらく今川氏親は、倉見川筋の河井・松浦両氏に背後を守らせ、また退路を確保させてから原氏を攻めたものであろう。


 いよいよ運命の年、明應五年(一四九六)を迎える。
 明應五年七月十八日、氏親の叔父長松院二世教之一訓和尚からの要請によるものと思われる長松院宛文書がある。


   「(今川氏親花押)
    於当寺長松院、甲乙人等令濫妨狼藉者、速可処厳科者也、仍而如件、明應五年七月十八日」


 この書状を契機に、長松院開基として氏親の叔父一訓和尚に深く参じ、今川氏被官である河井宗忠公は、斯波方鶴見・勝間田両氏と、一触即発の対立関係に発展した。
 『當院開基来由扣記』は、その経緯を、河井氏の家臣落合九郎左衛門の末裔、新兵衛の話としてつぎのように記している。


    公(河井氏)が、粟嶽に登って宴をひらいていた。そこへたまたま勝間田播磨守が
    現れて公の幔幕を掲げて中をのぞいた。公の怒りに、勝間田は謝罪したが、心を焼
    くが如き怨みを抱いた。やがて、勝間田は偽計を設けて、志戸呂城主鶴見因幡守を
    煽動して公を滅ぼそうとした。公の家臣の落合氏はもともと公に疎まれていたが、
    その落合氏の内応 によって、鶴見・勝間田は公を攻め、遂に公は戦死した。


 明應五年九月十日、その日の河井成信の所在は知る由もないが、長松院裏手の石塔と五輪塔、また今なお長松院境内に祀られている若宮権現「鎮守護法宗忠大士」を人々が尊崇していることを思うと、自決の地は、氏親の叔父一訓和尚の待つ長松院境内であったと考えるのが妥当と思われる。
 明應五年九月二十六日、氏親は河井成信の死を悼み、長松院に采地を寄進する旨の書状を、叔父の長松院二世教之一訓和尚に送っている。この経緯を『深澤山長松院誌』は、次のように記している。


  「公の戦死を聞いて今川氏親は大いに悼み、
        采地
   遠江国金屋郷深谷・山口郷内奥野・下西郷内仏道寺 五段田事右、
   為料所奉寄進之上者、如前々可有執務之状如件、
                   明応丙辰九月廿六日 五郎 印 
   を寄進し長松院を香華所とし、永く菩提を弔い、堂内に霊牌を祀りて開基英檀と  称し、門外に一宇を設けて鎮守の   神と恭敬せり
        法名
     宗忠 河井院殿補庵宗忠大居士
     御内 月渓院慶室妙讃 大姉
          明応丙辰九月十日卒」 


 直ちに今川氏親は鶴見・勝間田殲滅戦の火蓋を切る。
 『掛川誌稿』「鶴見氏城跡」の条に、「今川家の時、大井川の東相賀村に偽旗を張り、奇兵を長者原より下して此城を陥たりと云傳ふ。」とあり、現在も横岡城の対岸に旗方(はっさし)の地名を残している。また、鶴見因幡守が討ち取られ、井戸に身を投げた奥方はやがて唇の紅い小蛇と化して井戸の中に棲息し、人々に畏れられたとも伝えられる。
                        *
 雨あがりの空を見上げると、遠い過去から、瑠璃色の風が吹きおろしてくる。振りかえるとそこに、河井成信が立っているように感じられる。


  因縁時節遇冤讎。剣刃光中歸凱秋。
  端的萬關透過去。一心忠義徹皇州。
   (『圓通松堂襌師語録』)


                     後 記

 長松院の御住職から、河井宗忠公傳の御依頼を受けたとき、確かな因果を感じました。
 私の菩提寺は、金谷町大代の龍燈山法昌院で、開基は河井宗忠公とされています。また龍燈山の鎮守は宗忠八幡大菩薩であり、その祠は法昌院の境内に建っています。河井八幡とも呼ばれ、代々私の家で祀ってまいりました。
 河村家は川龍院を永代院号とし、位牌には、永正二年六月六日を命日とする忠學宗心居士(助二良父と附記されています)と、同年六月五日を命日とする自雲妙性大姉(松葉城主三女と附記されています)とが初代として記され、古い墓石も残されています。
 昭和三十二年九月の河井宗忠公四百五十回忌には、私の祖父もお招きいただきました。また、幼い頃から河井公のことを聞かされて育った私が、奇しくも五百回忌のために略傳をしたためさせていただくことになりましたことは、長松院御住職への感謝の念とともに、誠に深い悦びにたえません。
 拙文ではございますが、河井宗忠公五百回忌の法要に、この一文を捧げ奉ります。

            平成十一年二月吉日   金谷町文化財保護審議会委員 河村 隆夫


 河井宗忠公略傳
 平成十一年二月十九日印刷・発行
 著 者 河村 隆夫
 静岡県榛原郡金谷町大代一八八二
 発 行 深澤山長松院
 静岡県掛川市大野一○一三




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