大宝神社鰐口と河村助次良


(本稿が引用されている論文:『鋳物師の本貫』p76、p80、p85 足立順司(財)静岡県埋蔵文化財研究所)


「鰐口考」(河村隆夫「鰐口考」『御林守展資料』 金谷町教育委員会 平成八年三月五日発行)


 藤枝市北方の安楽寺に、次の銘文が刻まれた鰐口が保管されている。

   奉寄進大法天王鰐口願主大代助二郎
   天文七記十一月吉日大工又二郎

 この鰐口は昭和三十三年十月二十日に県の文化財に指定されたが、その由緒については明らかにされていない。
 本稿は、大法天王社の特定、及びその所在地の特定、また大代助二郎なる人物の特定についての論考である。 
 また研究対象地域は、金谷町大代、藤枝市北方、静岡市梅ケ島大代、静岡市口坂本の四個所とした。参考資料は、主に『駿河資料』『駿河記』『修訂駿河国新風土記』『駿国雑誌』の四書である。


  一、大法天王


 神社名鑑によると、大法の名は皆無で、大宝天王社、大宝社、あるいは大宝神社は、全国に九社のみ記載されている。主祭神は素戔嗚尊が多く、創立は文武帝の御代、大寶年間と伝えられる。さらに静岡県神社庁の調べでは、現在それらの名を冠する神社は静岡県内には見あたらない。即ち、大代助二郎が鰐口を寄進した大法天王社の名は、歴史上極めて稀少な社名と思われる。
 そこで前掲の四つの地域あるいはその附近に、大法または大宝神社が嘗って存在したか否かを調べた。


    (ア)金谷町大代

 『榛原郡神社誌』に次の記述がある。


   神社名 大代神社  
   鎮座地 榛原郡金谷町大代一二八二番地の三
   祭神名 素戔嗚尊 大国主命 誉田別尊
          中略
   由緒  文武天皇の御代素戔嗚尊を勧請して大宝神社と称えた。寛永十六年社殿を
       御造営これを祀った。元禄九年、享保二年、宝暦四年再建、除地高二石五
       斗八合、明治十二年九月村社に列せられた。明治四十三年十月大代九七一
       番地宮下鎮座山王神社を合祀して大代神社と改称した。昭和三年十月大代
       字安田鎮座若宮八幡神社を合祀した。昭和二十一年六月十八日宗教法人令
       による神社を設立し、昭和二十八年七月八日宗教法人法による神社を設立
       登記した。
 『静岡県榛原郡誌下巻』第五人文第八章神社及宗教第一節神社に次の記述がある。


    (一)郡内神社一覧表
       榛原郡神社一覧表
               (明治四十五年四月本部神職支部副長報〉
    神社名  祭神   社格  所在地 例祭日
     大室神社 素戔嗚尊 村社  大代 十月十八日
    白山神社 白山姫命 無格社 同    同
    山王神社 大国主命 同   同    同


 また土地登記簿謄本によると、大寶神社の地番九七〇番の壱は、その順位番号壱番に、
  「明治四拾弐年五月参拾壱日受附第壱参四弐号 帝室林野局長官ノ為メ所有権ヲ登記ス」、
 弐番付ノ壱として
  「明泊四十弐年拾月弐拾七日受附第弐六五〇号 明治同年六月五日払下二依り
   榛原郡五和村大代村社大寶神社ノ為メ所有権ノ取得ヲ登記ス」、
 弐番附記壱号として
  「明治四拾参年拾弐月弐拾参日受附第参六七〇号明治同年拾壱月給八日改称二因り
   登記名義ヲ村社大代神社ト変更シタルコトヲ附記ス」
 とある。
 この経緯を見れば、江戸末期には幕府直轄山林(御林)の内に、大寶神社があったことがわかる。帝室林野局管理下の御料林は、幕府の御林をそのまま受け継いだものだからである。
 その幕府の御林を、明治初年まで御林守として管理していたのが、金谷町大代の河村家である。云いかえれば、少くとも明治初年の時点で、大宝神社は河村家の管理下にあったことは確かである。
 因みに、天文七年当時の河村家二代目は助次良であった。また、大寶神社の境内地に接して、字天王山九六八番壱に、登記順位番号壱番として
  「明治四拾年参月七日受附第八六七号榛原郡五和村大代百拾番地河村宗平ノ為メ
   所有権ヲ登記ス」
 と記されている。
 また、大代から西へ、粟ケ嶽の尾根ひとつ越えたところに松葉神社があって、鳥居には「大寶天皇」と刻まれた額が今も掲げられている。
 静岡県神社庁の明細書に次の記述がある。
  「松葉神社 所在地 掛川市倉真八〇一八祭神 素戔嗚尊 蛭子命 由緒 不詳、
   伝ふるところによれば大寶天王と称す、大寶の年に津島の神を勅察し大寶天王と称す、
   明治四年社号を奉りて松葉神社と云う」
 松葉神社神主の戸塚操氏のお話では、
 「大寶天王は、松葉城のころからあり、河合宗忠公の勧請によると云う伝承が残っている。」
 とのことである。


    (イ)藤枝市北方


 『駿河記』に次の記述がある。
   「○牛頭天王社相殿 山王権現 橘明神 鳥居前より登八丁山上に座。
    山王は旧安楽寺の鎮守なりと云。除地三石・高四石税地山林除」
 また、静岡県神社庁の『明細書』に、
   「元禄十六年に弟橘神社から天王社に改称」
 とある。
 北方については、前掲四書に、大法あるいは大宝神社は確認されない。


    (ウ) 静岡市梅ケ島大代


 『駿河記』巻六安部郡巻之六梅ケ島の項に次の記述がある。
   「〔大代〕戸数二十四〇 天神祠 祭神築地弥三郎重房之霊也。神体・,古鏡
    傳云、重房は当国梅地の住人なり。今川義元国主の時代、丙午四月十四日重房
    当郷の一撥の為に、この里にて主従三人討死しける。崇ありて里民頻に苦しみ
    けれは、終に彼霊を天神と斎祭るなり。夫よりして無事を得たりと云云。
    今村落の上の段に石地蔵を建、樹木繁茂たる森あり。彼人ここにて討たれたりと云云。」
 鰐口寄進は天文七年であるから、これは僅か八年後の事件であるが、そこに大法天王の存在は確認されない。


   (エ)静岡市口坂本


 前掲四書に、ただ「天王社」とある。
 この天王社は、神社の役員である糟谷善一氏のお話によると、江戸の初期に津島神社から分けられた牛頭天王社であり、素戔嗚尊をを主祭神としている。八王子神社が正式な名称であり、七月十五日には祇園祭りを行う。また伊勢講の途次には必ず津島神社に参拝する習わしだった。
 口坂本には、大法あるいは、大宝神社は確認されない。


 ニ、大代助二郎


 『角川静岡県姓氏家系大辞典』に
   「あらたに発生する武士の名字は、源平の争乱時代からみとめられる。
    それはもともと居住地からおこり、しかも所領の分割相続が例とされたから、
    所領の名を名のれば親子でも名字を異にすることになった。」
 とある。
 鰐口の寄進された天文七年当時、地名あるいは名字としての「大代」にかかわる「助二郎」を名のる人物が確認されれば、「大代助二郎」はほぼ特定されたことになるだろう。
『姓氏家系大辞典』〈秋田書店)第一巻の大代の項に
   「大代 オオシロ 遠江、陸前に此の地名あり。」
 とある。この宮城県多賀城市大代は、研究対象外とした。
 『角川地名大辞典静岡県』の大代の項には、金谷町大代のみであるが、静岡大学湯之上隆教授から、静岡市梅ケ島に小字大代があることを御教示いただいた。


 (ア)金谷町大代


 『静岡県榛原郡誌』『静岡県小笠郡誌』『長松院誌』等によると、十五世紀末、今川氏親家臣河合宗忠は、掛川市倉真の松葉城主であったが、明應五年、横岡城主鶴見因幡守、勝間田播磨守に急襲されてほろんだ。
 『遠江古跡図絵』に
   「野守が池 金谷の北在に家山村と云ふ所に野守が池と云有、大井川瑞にて川根の内なり、
    旱魃の折柄も水絶ゆる事なし、此池の由来を尋るに、昔京都に夢窓国師といへる貴き知識有、
    至て美僧なりと云、島原の遊女に野守と云女彼の夢窓国師の美貌に恋慕して慕ふと雖も、
    清僧なれば心に随はず甚だうるさく思召、京都を立退き遠州に下り給ひ此処に寺を建立す、
    龍燈山安養寺と云ふ、此寺夢窓国師の開基なり、七堂伽藍の霊地と云ふ、」
 とあり、さらに『静岡県榛原郡誌』にはそれを受けて、
   「因に云、前記安養寺は河合宗仲廃して城地となして此所に居り、其附近に法昌院を創して
    自ら開基となり、安養寺は一時全く廃絶の姿となりしも後年又別地に安養寺を再興せるもの
    即現時の寺其ものなりと云ふ。」
 とある。
 また『静岡県榛原郡誌』に次の記述がある。
   「大代村法昌院の寺記中に(今井氏の載録せられたるものに拠る)
    法昌院 開創、当院旧記に観應二年三月五日臨済宗夢想国師開山とあり、
    後文禄元年二月川合宗忠公其旧跡に就て精舎一宇を建立し、
    帰依に依り当国佐野郡上西郷村法泉寺八世玄達和尚を請して開山と為す、
    故に川合公を開基と称す云云(法昌院明細書)。
    過去帳写
    開山 通山玄達和尚 応仁元年三月二十日化す
    とあるも、蓋後人の古来の伝承を記述したるものなるべければ年代其他に杜撰多きが如し
    (夢窓国師は観応二年九月遷化なれば少しく訝かしけれども、斯る類例は他にもなきにあらず、
    されども文禄は応仁元年より百二十世余年の後なれば長禄などの誤にやあるべき)
    されど何等か因縁を有したることは自ら窺知せらるるのみならず、郷人平井磯次氏の談に
    法昌院の附近に一地区あり、これ今川氏の臣河合宗忠の城址なりと傳ふと云へり」
 河合宗忠の祀られている河合八幡は、今でも法昌院の境内に建っている。宗忠人幡とも呼ばれ、代々河村家によつて祀られてきた。また、昭和二十六年九月十五日の河村小次郎による祭文も残されている。
 河合宗忠三女の嫁した金谷町大代河村家の祖宋心は、法昌院附近の字天王山に比定される天王山城を守ったが、永正二年六月五日、六日と夫婦ともに相続いてたおれた。 初代宋心は、十五世紀中葉に、相模国河村郷から、本貫の地遠江国河村荘近くへ移り住んだものと思われる。遠江国河村荘が河村一族の本貫地であることは、『駿河記』の次の記述を典拠としている。


 河村氏系図(駿河記)


 とある。
 筑後権守波多野遠義の子秀高が、河村荘に住し、河村姓を称えたのは、遠義の娘が源義朝との間に朝永をもうけた関係で平治の乱(一一五九)に義朝方に与して敗れた秀高の兄、波多野義通とともに、相模の波多野本庄へ帰る途次であったと思われる。
 相模河村郷は治承四年(一一八○)が『吾妻鏡』に初見であるから、平治の乱から約二十年の間に、兄義通から波多野本庄の西の守りとして招かれたのか、ふたたび遠江河村荘から相模へ移り、河村郷を興したものと考えられる。
 また金谷町大代法昌院の本寺上西郷村法泉寺は、永享二年〈一四四〇)舂屋宗能大和尚の開創によるものであると、寛文三年二月、天台僧教覚の書き記した『梵鐘鋳造の浄財を募る趣意書』に縁起が述べられている。舂屋宗能は『続冑佛考』あとがきに記されている奥州の、藤原氏の出とされ、後に相模河村城から一里ほど南の大雄山最乗寺五世となった。
 奥州と河村秀清、最乗寺と相模河村城、法泉寺と菊川町内に比定される河村荘、法泉寺末である法昌院と大代河村家、舂屋宗能の足跡と河村家の歴史との一致をみれば、河村一族は、法泉寺開創の頃、相模から本貫の地遠江河村荘へ移り住んだものと推論されるのである。
 さて河村家発生期の経緯は別稿に記すとして、本貫地に還った大代河村家の祖宋心は、河合宗忠と与したが、やがて松葉城は落ち、天王山城も落城した。
 『安養寺過去帳』によれば、宋心は助次良父」と記されている。
 河村家二代目助次良は、初代宋心の没年永正二年(一五〇五)当時幼少と伝えられるから、河合宗忠の建立した松葉の大寶天王を大代字天王山に勧請し鰐口を寄進した天文七年には、壮年期であったと考えられる。
 後の助次良は、永禄三年今川義元の急死によって再び動乱期に巻き込まれる。武田に支配され、忽ち徳川方の安部大蔵に天王山城を奪われるが、この経緯は、金谷高校中村肇教諭の著作に詳述されている。


(イ)藤枝市北方
 大代の地名、名字はない。


 (ウ)静岡市梅ケ島大代
 前掲四書に、天分七年当時「大代助二郎」は確認されない。


 (エ)静岡市口坂本
 口坂本一七六番地に、大代五十二氏宅がある。当家は近世まで名字はなく、明治初年から森代姓を名のったが、明治末年になって海野孝三郎氏の助言により大代姓に改姓した。
 『井川村史』と前掲四書に大代姓の根拠を求めても見あたらず、助二郎も確認されない。
 特に、口坂本は慶長の検地が二度に渡って行なわれたが、検地帳にあらわれる姓は藤若のみであり、助二郎の名もない。藤若姓は、口坂本に今でも二軒残っている。


  三、考察


  地 名   金谷町大代     藤枝市北方 静岡市梅ケ島大代 静岡市口坂本
  大宝神社  〇(松葉にもあり)  
  牛頭天王            〇     〇
  地名大代  〇               〇
  近代以降
  大代姓                            〇
  天分七年
  助二郎   〇


 右表より考察すれば、第一に、牛頭天王を突然「大法天王」と云う稀有な神社名で呼び、近世になってふたたび神社名を牛頭天王社に戻したとは考え難い。
 また、松葉の大寶天王は、明應五年の松葉城落城とともにその勧請主を失い、廃墟と化したと思われる。
 即ち、天文七年の鰐口銘文に刻まれた「大法天王」とは、金谷町大代字天王山に、明治四十三年十一月十八日まで広い境内を有していた村社大寶神社であったと考えられる。
 第二に、天文前後に大代姓は確認されない。したがって大代は地名であり、大代を所領とする最も有力な武士であった河村家二代目助次郎が、その地名を姓として「大代助二郎」を名告ったと考えるのが妥当である。
 要約すれば、金谷町大代の河村家二代目助次郎が、大代の地名を姓とし、字天王山の天王山城内に自ら勧靖した大寶神社に、天文七年鰐口を寄進したものと考えられる。
                      *
 平成七年十一月十三日、金谷町教育委員会町史編さん専門員片田先生同主任平川氏とともに藤枝市北方の安楽寺を訪ねた。安楽寺所蔵の鰐口は二つあり、その一つとして保管されていることを確認した。
 天文七年の後、この鰐口が如何なる経路を経て、藤枝市北方安楽寺に至ったのかは、定かではない。
   
                            平成八年二月十九日    完


                        後  記
 丁度二年半前の、平成五年十月に、写真家の木村仲久先生が我家を撮影に訪れました。その日が、私の歴史探求への旅出ちの日となりました。それから実質二年にも満たぬ研究期間の私を、多くの方々が導いて下さいました。
 静岡大学原秀三郎教授、本多隆成教授、湯之上隆教授、県立金谷高校中村肇教諭、金谷町教育委員会町史編さん室片田達夫専門員、平川勝裕主任、金谷町観光協会土屋荘四郎事務局長、(社)日本甲冑武具研究保存会三浦公法常務理事、ご指導賜わりました諸先生方に心から感謝申し上げます。
 浅学非才の私の前に、踏破すべきいくつもの峰が聳えていますが、多くの方々の励ましを糧に歩み続ける所存です。
 最後に、私の研究のすべてを、亡き父母の霊前に捧げます。




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