風景
                               企画部 河 村 隆 夫(24歳)


 歩いていると、景色に見覚えがあるように思えてくるのはよくあることだが、その朝もそうだった。
 初夏になって旭ヶ丘は、明るい光の中にうかんでいた。頂上の公園に噴水がゆれて、とき折り雲にかかる。
風に乗って、遠い犬の鳴き声がきこえてくる。しずかな日曜日だった。
 その丘は私のアパートの近くにあった。春から秋の花の季節には車と若者があふれた。冬は雪に埋もれて、
白い丘になる。しかしなにより、頂から見晴らす四季の景観は美しかった。
 澄み渡った空と平原が、涯まで広がっている。ふもとの百万の街なみさえ色あせるほどの大平原と、
深い原始林があって、その遠くには海が光り、空に溶け合っている。 私は丘につづく道をあるいていた。
 朝の陽ざしに、頭をかるくたたかれるようだった。
 やがてゆるい曲り道を行くと、木の橋が見えた。その橋の向うに、丘へ登る石段の入口がある。
ふいに一陣の風がきて、やさしい香りがした。何の花だろう。ライラックだろうか。橋のこちら側の生垣に、
むらさきの花の総がみえる。蝶が一匹舞っている。電柱が立って、黄色い、子供用の自転車が、
草叢に乗り捨ててある。
 陽ざしが降っている。
 そのとき、風景の底に、ふしぎな声がきこえた。私は耳を澄ませた。何処からなのか、それはかすかで、
記憶の向こうから、誰かを呼ぶ少年の声のようにもきこえる。誰を呼ぶのだろう。聞き覚えがあるように思える。
誰だったか。私はいぶかしげに、応えてみた。
 生垣から少年があらわれた。
 補虫網を手にして、蝶を追っている。蝶は気ままに、生垣の空に舞い上がった。
 あれは昔の私だ。
 人とともに、風景は年老いるのか。私は景色の中を昔へ遡っていった。
 ライラックをもぎとると、掌に落ちる花の一つ一つに、王国があり、青い城が立っていた。風の五線譜にしるす
蝶の飛跡から、ゆるやかな旋律がきこえる。空にさざ波が立ち、白い船腹が、ゆっくり通り過ぎて行く。
 少年の風景の中に、私は立っていた。風化したはずの景色の陰に、生き生きした宝石の眼が輝いている。
 しかし見慣れた景色の中に立ちながら、こうして、一瞬に時の流れを越えて行くものは何だろう。懐かしさだろうか、
あるいは忘れてはならぬものを、そうして忘れ果てたことさえ忘れてしまったものを、風景の方から人に
呼びかけてくるのだろうか。 少年はどこかへ消えた。記憶のうつしたまぼろしのように、どこにも見えなくなった。
 陽ざしが降っている。
 いつか時を経て、ふいに見覚えのある風景に出会ったときに、年老いた私の目にうつるのは何だろう。
こうして夏の道に立っている青年のまぼろしは、やがて老いた私の瞳に、何を思わせるのだろう。
 私はふたたび、丘につづく道をあるきはじめた。
 石段を上り、うすく汗ばんで、丘の上に立った。
 積乱雲の下に、街なみが広がっている。時計台の鐘が、お昼を告げている。
 地平線に一筋、海がみえた。
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