河村家は、明治維新では御林守の職を解かれ、敗戦後の改革では多くの土地を失ったために、伝来の品は、ほとんど散逸した。ただ、庭のさつきや、屋敷のなかの巨木は、時代とともに移りゆく代々のひとびとを、見守りつづけてきたに違いない。 
 
 高張り提灯の家紋は「丸に違い箸」とよばれ、相模河村氏(現神奈川県山北町)の用いていたもので、金谷に移住した後は変形して用いられた。金谷の河村一族の家紋は、京都の家紋帖にもなく、現在全国で9件しか使用例の認められない極めてまれな家紋である。
「この工夫は襲撃された時、矢が合わせめにささり、奥まで届かない工夫だと言われる。」

 「武者張り」と呼ばれるこの天井は、板の合わせ目が少しずつずらしてあり、飛んできた鏃はその合わせ目にささると云う、古い様式が残されている。
 家は、ただ建築物と云うのではなく、その家の歴史や、そこに暮らした人々の精神も伝えている。掛け軸や、家具調度の趣味も、そのひとつであろう。
「建物の中の造りは、太い梁や桁など、すべて頑丈な骨組みである。」

 伊豆韮山の「江川家住宅」の骨組みとよく似た構造をしている。
「代々河村市平を名のり、山奥に暮らしながらも苗字帯刀を許されていた。」

 河村家が、相模の河村城から金谷に移住したのは15世紀の中葉である。江戸時代には、大代村の名主を務め、さらに幕府から「御林守」に任命された。
「      河村家                所在地   金谷町大代            建築時期  寛政5年(1793)」

 十一代目河村市平が御林守在職中に建てられた、茅葺き寄棟造りの建築で、屋根は保護のためにトタンで覆われている。
「河村家は「御林守」として、幕府直轄の御林(今の国有林)を管理していた。」

 江戸時代の燃料は、薪と炭しか無く、また建築材料は木材のみであった。したがって、幕府は、直轄山林「御林」を、厳重に管理し、管理者として「御林守」を置いた。

      SBS放送「ふるさとの風景」

 「河村家住宅」は、まわりに人家の見られない、まさに秘境と呼ぶにふさわしい谷間に建っている。
 四季の花が咲き乱れ、モリアオガエル、糸トンボ、星空のように闇をそめる蛍の群など、見なれないさまざまな生き物の楽園である。
 SBS放送「ふるさとの風景」は、河村家住宅など、静岡県内の文化財を紹介する約5分間の番組で、数年にわたってくり返し放映されている。

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