オスカーが自分にあてがわれた部屋の確認を、一通りすませた頃である。
狙い澄ましたように、執事がやってきた。
 
「…これはなんだ?」
オスカーは仏頂面で執事が押してきたワゴンの上を指差す。
「リュミエール様の昼食でございます」
「…だから、それをなぜ俺の所へ持ってくる?」
氷点下の眼差しにも、執事はまったく動じる気配はない。しらっとした顔つきで、
「ですから、オスカー様にリュミエール様のお食事の介助をお願いいたします」
オスカーは爆発寸前の顔つきになった。
 
「ガキじゃあるまいし、飯くらい自分で食えるだろうが!勝手に持っていって食わせろ!!!」
思いっきり怒鳴りつけた炎の守護聖にもまったく怯むことのない執事は、駄々をこねる小僧っ子を宥めるような目つきになる。
「リュミエール様がただいま異常なほどに食欲が失われているという事は、ご存じだと思っておりましたが。
だからといってまったく栄養をとらなくては、リュミエール様の体が保たないという事も、当然ご存じであると思っておりました。私の認識不足でありましたのなら、最初からご説明させていただきますが」
慇懃無礼な言い様に、オスカーの意識が急激に冷静になる。
リュミエールの介護をしろ、というのは、女王陛下の勅命である。
オスカーは1つ息を飲み込むと、「判った」といかにもいやいやながら、と言った口調で答えた。
 
「で、俺はこの飯をリュミエールに食わせればいいわけだな」
おおざっぱな手つきでワゴンを押していこうとするオスカーに、執事は眉を潜めた。
「先ほどももうしましたが、リュミエール様は食欲がおありになりませんので、無理に食させることはお止めください。ゆっくりと少しづつ…」
なおもくどくど言い続ける執事を、オスカーは遮った。
「ああ、判った!こんな鳥の餌くらいの量、そう心配しないでもちゃんと食わせてみせるさ!」
自信たっぷりに隣室のドアをノックするオスカーの後ろ姿を、むちゃくちゃ心配そうな執事が見送っていた…。
 
◆◆
 
返事も待たずにずかずかと室内に入り込んだオスカーは、そのまままっすぐにワゴンを押して寝室に向かう。
再びおざなりにノックをした後、オスカーは勢いよくドアを開けた。
相変わらずベッドの上にぼんやりと座っていたリュミエールが、これまたぼんやりと驚いた仕草で顔を上げた。
さっき会ったときよりさらに意気消沈しているようで、嫌な顔をする気力もないらしい。
 
「…何かご用でしょうか…?」
喉を痛めているせいか、ハスキーな声が妙に色っぽい。
オスカーはむっつりとした顔で、「昼食だ」といいながらワゴンを押し出した。
 
用意されたメニューは、ひんやりと喉ごしのいいクリームスープ。同じく、コンソメのゼリー。
フレッシュなブルーベリーとストロベリーのソース付きのヨーグルト。
それからフルーツジュースが何種類か。
オスカーから見たら食事というより、食事の前の一杯、と言った程度の物だ。
しかしリュミエールはこれを見ただけで、悲しげに顔を歪めて首を振ってしまった。
 
「申し訳ありません。食欲がありません。下げていただけますか?」
食わせてみせる、と啖呵を切った手前、そう簡単に拒まれてはメンツ丸つぶれのオスカーである。
「食え。食わなければ身体がもたん」
ぶっきらぼうにいながら、さっさとベッドの上にトレイをセットしてしまう。
 
困った顔でリュミエールがオスカーを見上げる。
「本当に食欲がないのです」
「食え」
「食べられません」
「食えったら、食え」
わずかな押し問答の末、リュミエールは黙りこくってしまった。
別に会話を放棄したわけではなくて、単に喉の痛みで声を出すのが辛くなったらしい。
しかしこうなるとなんとなく無視されたような気がしてくるのがオスカーで、
思わず大声で「食え!!」と怒鳴りつけてしまう。
 
自分がなまじ健康優良児で、体調を崩したこと自体、幼いころに1、2度覚えがあったかな〜?という程度なので
身体が思うようにならない辛さやもどかしさとかには、まったく考えが及ばないオスカーなのである。
そして体調が悪いときに怒鳴られたり、冷たくされたりすると、健康な時以上に堪えてしまうというのは
これは普通に体を壊したことがある人なら、みんな知ってる常識だったりして、
当然リュミエールはオスカーに対し、今まで以上に「無神経な思いやりに欠ける人」という印象と、
「乱暴な人」という恐怖心なんかも感じてしまったらしく、なんとなくしっくりこない下腹部が内側から張ってくるような痛みに蹲ってしまった。
 
◆◆
 
 
突然、青い顔でお腹を押さえて、辛そうに眉をしかめたリュミエールに、オスカーは「しまった」とおもうなり
慌てだした。
さんざん「興奮させないように」「穏やかに」と注意を受けていたのに、ついつい失念してしまっていた自分の
迂闊さを悔やみつつ、おっかなびっくり声をかける。
「…おい、リュミエール…、どうした…?」
どうしたもこうしたもない。「誰のせいですか?」と言いたくなるのをこらえ、リュミエールは目を瞑ったまま
首を振った。
内臓を大きな手で鷲掴みにされ、ぎゅうぎゅう力任せに握られているようだ。
 
(…妊娠の状態は個人差が大きいとは聞いていましたが…)
いや、通常のように胎児がいるわけではないので、本来なら女性の妊婦と比べられる状態ではないのだが、
(女性は偉大ですね。もっと尊敬の念をもって接しなければ…)なんて真面目に考えてしまうリュミエールである。
というか、多分に現実逃避している部分もあるのだが、やっぱり苦しいのは苦しいのだ。
オスカーは何をどうすればいいのか判らないらしく、しきりに背中をさすっている。
心を許せるほど親しい人ではないが、(むしろ天敵といえるが)とりあえず触れている手からは、こっちを心配しているらしい気配が伝わってくる。
 
しばらく目を瞑ったままこらえていると、徐々に辛さは遠のいていったようだ。
リュミエールはホッと大きな息を吐いて、こわばっていた身体の力を抜いた。
それに気が付いたらしいオスカーが、思いがけないほどに優しい声で、
「…大丈夫か…?」
と聞いてきた。
 
ぐったりとしていたリュミエールが、そうっと首だけでオスカーを振り返った。
苦しかったせいか、潤んだ目元と、蒼白になった顔色の対比が、妙になまめかしい。
一瞬息が詰まったようになったオスカーが、おずおずと謝ってきた。
「…怒鳴って、悪かった…」
意外な言葉を聞いたリュミエールが、素直に驚きの表情を浮かべる。
 
「…俺が謝るのが、そんなに不思議か?」
目をまん丸にしたリュミエールに、不思議と腹は立たなかった。
小さく首を振ったリュミエールが、困ったような笑みを口元に浮かべ、何かを言おうとした瞬間である。
ばたんと音がして、穏やかな笑顔のバックに怒りの炎を燃え上がらせた水館の執事が入ってきた。
 
ぎょぎょっとしたオスカーに、執事は丁寧に完璧な業務用の笑顔で、
「オスカー様の昼食を隣室に用意いたしました。後は私が…」
とつげる。
オスカーは言葉を発するタイミングを失って黙ってしまったリュミエールと、執事の顔をあたふたと眺め、
「それじゃ、またあとで」
と妙に彼らしくない言葉を残して部屋を後にした。
 
◆◆
 
 
用意された食事は、彼の好みに味も量も合わせた満足のゆく物だった。
さすがに水館の執事、やることはそつがないと感心しつつ、オスカーは再びの後悔に料理の味を十分に
味わうことは出来なかった。
 
「まさか、あんな事で具合が悪くなるとは、思っても見なかった」
前途の多難さに、むちゃくちゃ憂鬱になると同時に、発作の後の放心したような無防備な顔のリュミエールが
意外と可愛らしかったじゃないか、なんて妙に心が浮き立ったりしてみる。
1人でテーブルで妙な悦に浸っていると、やがて礼儀正しいがどこか神経質そうなノックの音が響く。
 
「ああ、開いてる――」
あっさり返事をしたところで、入ってきた人間の顔に、思わずオスカーは鍵をかけていなかったことを後悔した。
入ってきた執事は、張り付いた業務用の笑顔に、見事なまでの怒りマークを浮かべている。
 
「――私は、無理に食べさせないようにと、念を入れてお願いしたつもりでしたが」
開口一番お面のような笑顔で言い放った執事殿に、怖い物知らずのオスカーの背筋がいきなり冷える。
「リュミエール様はなにも仰いませんでしたが――無理矢理に食べさせようといたしましたね」
自分より小柄なはずの執事の身体が、のしかかってくるほどに巨大に感じ、
不覚にもオスカーはじりっと後ずさった。
ヤバイ、と思いつつも、誤魔化すのは炎の守護聖らしくないし、真面目に反省したこともあってオスカーはそれを素直に認めて頭を下げる。
 
「悪かった。つい、あいつの体調のことを忘れてしまって…今後は気をつける」
執事は信用ゼロの顔つきで、頭を下げた至高の守護聖様を見つめた。
「そんな事では困ります。こう申してはなんですが、オスカー様は根本的に弱ってる方に対する配慮、思いやり、気配りというものが欠けているようですね。全てのものが、オスカー様のように頑健な身体を誇っているわけではないという事を、くれぐれもお忘れなきようにお願いいたします」
 
その物言いはオスカーの癇に障ったが、ここは仕方がないと黙って口を閉ざす。
すると、執事はとんでもないことを口にした。
「次にこのようなことがありましたら、申し訳ありませんが、ジュリアス様に報告させていただきます」
思いがけずに上がった名前にオスカーは目をむいた。
 
「おい、なぜここでジュリアス様が出てくる!」
「おや、ご存じありませんでしたか?ジュリアス様直々にお言葉を頂いたのですよ。オスカー様は信頼の置けるお方ではありますが、いささか無神経なところがある。リュミエール様の介護をするに辺り、あまりにも気配りに欠ける言動があった場合、ジュリアス様の方からご注意下さいますと」
堂々と言われた内容に、思わずオスカーは口を開けて呆然とした。
「…無神経とは…」
あんまりです、ジュリアス様…と内心で天を仰いだところで、執事はにやりと笑う。
「さすがはジュリアス様、オスカー様の事をよくご存じでいらっしゃるようです。オスカー様の水館でのご様子は、逐一ご報告させていただきますので」
 
完全に打ちのめされたオスカーは、執事が消えた後、握り拳で1つの決意をしたのである。
「…こうなったら、完璧な付き添いになってやる」