雰囲気が変わったのは、見た瞬間に判った。
リュミエール用の書類を持って自分の執務室を訪れたオスカーの顔を、オリヴィエは思わずまじまじと見つめてしまっていた。
 
「どうした?そんなにいい男か?」
オリヴィエの視線に気が付いたオスカーがにやりと笑う。
その自信ありげな物言いに、夢の守護聖は片眉を上げ、皮肉めいた笑みの形に唇をつり上げた。
「そうねえ、いかにもマイホームパパな顔になったかねぇ」
「ほう、そうかい」
さらっと余裕でかわすオスカーに、オリヴィエは本気で感心してしたようだ。
くくっと笑いながら、気分良さそうに差し出された書類に目を通し始める。
 
「まず問題はないだろう、サインをくれれば、このままジュリアス様の所へ提出に行く」
「問題ないね。ちょっとお待ち」
ペンを取って自分のサインを書き込み、オリヴィエは書類をオスカーに戻しながら探るような目つきをした。
「そういや、なんであんた仕事に出てるの?あんたの仕事はリュミエールの面倒見る事じゃなかったっけ?」
オスカーが苦笑気味に答える。
「そのリュミエールがどうしても仕事が気になる、と言い出してな。かわりに様子を見に来たんだ」
「…へーーー」
「…なんだ、その胡散くさげな顔は?」
「いやね、ちょっと不思議でさぁ」
「だから何だ」
1人で納得してるようなオリヴィエに、オスカーは気味悪そうな顔をした。
「数日前のあんたとリュミエールの様子じゃさ、あの子が何言ったって『駄目!』の一言で蹴りそうな感じがしてたんだもの。あの子も、あんたにそんな事、言いそうに見えなかったしさ」
「…そんな事って、どんなことだ…?」
目を細めたオスカーが低い声でそう訊くと、
「『私はこうしたいんです』っていうリュミちゃんの意見。何か、あんたに気を遣ってたもんね、あの子」
負けずにオリヴィエがずけずけという。
それを聞いて一瞬いや〜〜な顔をしたオスカーだったが、すぐに気を取り直し、にっと笑った。
 
「俺にはもう遠慮せずになんでも言え、とそうリュミエールには言っている。あいつも我が儘言い放題だぜ?」
「…ほーーーーー」
何か本当にマイホームパパというか、のろけ新婚オトコみたいだね…との感想は、
オリヴィエは胸にしまい込んだ。
「とりあえず、良いことだね。お互いに気を遣ってストレス貯めるってのは、絶対に体に悪いからね」
肩を竦めながらそういうオリヴィエに、オスカーはまた笑った。
「体にいい事しかしてないぜ?俺達はな」
「…よく言うわ…」
呆れたオリヴィエに、オスカーは今度は声を上げて愉快そうに笑い出した。
 
★★
 
 
「ご面倒をおかけしました。本来ならば、わたくしが直接見なければいけないものでしたのに…」
[いや、今のところ、それほど大事なものはない」
簡単に仕事を片づけたオスカーが水館に戻ってくると、リュミエールがそう言って頭を下げる。
その手には、愛用のティーポット。すっきりと甘いハーブの香りが一帯に立ちこめている。
 
「たまにはコーヒーでもどうだ?」
「ハーブティーより、コーヒーの方が体に悪いのですよ?」
オスカーの提案を笑いながら一蹴し、リュミエールは繊細なカップにお茶を注ぎ込んだ。
オリヴィエに言ったとおり、最近のリュミエールは遠慮無しに言いたい放題である。
と言っても、もともと人に気を遣う質なので、多分次のティータイムには、オスカーのために
カプチーノを用意してくれるのだろう。
それが判っているので、オスカーは今回は大人しく注がれたハーブティーを口にする。
その素直な動作に、リュミエールが薄く笑った。
 
開け放たれた窓から室内に吹く風が、夕方の冷えかけた空気を運んできた。
ほんの数日前なら、オスカーがたちどころに窓を閉め、あげくにカーテンまで閉めていたところだが、
一度リュミエールが「この黄昏時の雲や空の色が好きなのです」と言ったところ、
なぜかオスカーも大人しく夕方の空の色の変化を鑑賞するようになっていた。
 
不思議な感じがする。
いままで何年も同僚として接していてなんの接点も見いだせなかったのに、
わずか数日で互いの好みの違いや、わずかなクセなどを好意的に判別できるようになった。
 
オスカーがいままで苛立って見ていた、諍いの時のリュミエールのわずかに眉を顰めた苦笑のような表情。
あれは別にはぐらかしていたのではなく、自分の中でもう一度考えを整理しているときのクセだとか。
憂いに満ちているように見える表情が、意外と普通にしていただけ、だったとか。
自分の思い込みだけで、随分勝手なリュミエール像を造っていたんだな、と思う。
この館の者達が自然と身につけているひっそりとした気配りの仕方は、主の穏やかな時間を邪魔したくないと、
それぞれがそう思っているからなのだろう。
本当に愛されているんだな――としみじみ思った。
 
 
それはリュミエールも一緒で、いままで好ましくないと決めつけていたオスカーの女性に対する態度。
相手が誰でもいいのか、と嫌な風に考えていたが、声をかけるのはむしろ集団の中で埋もれそうな
地味なタイプの方が先だとか、隠してある悩みなどをわずかな表情の変化で察し、軽い口調でさりげなく相談に乗ってやってるとか。
わりと権威的な人、という気がしていたが、そう言うところはオリヴィエと通じる優しさだと思う。
彼と話すと全ての女性がぱっと華やぐ理由が判るような気がした。
水館の者達も、どことなく生き生きと活動的になってきたような気がする。
――オスカーがここで暮らすようになってから――
 
 
そう考えたとき、目の前に座っていたオスカーが不意に立ち上がった。
さすがに夕方の風の冷たさが気になったのだろう。
窓を閉めるかわりに、ショールを一枚持ってきた。
 
 
リュミエールにそれを手渡しながら、急に何かに気が付いたようにオスカーがリュミエールの顔を覗き込む。
「…どうかしました?」
驚いたリュミエールが身体を引きながらそう問うと、妙にしかつめらしい顔でオスカーが聞いてきた。
 
「…本当にいるのか?」
「はい?」
きょとんとしたリュミエールの腹部を、遠慮がちにオスカーが指差した。
「赤ん坊」
「…胎児はおりません」
 
何を言い出すのかと思ったリュミエールは、脱力した声でそう言った。
「ルヴァ様の説明を聞いていらっしゃらなかったのですか?何を今更…」
ため息混じりにいうリュミエールの声に呆れを感じ、慌ててオスカーが言い直す。
 
「いや、だから、未知の物体でもサクリアでもなんでも良いが、…お前を妊娠状態にしてる『ヤツ』…」
(未知の物体って…酷い言い方…)
悪気のないのは判るが、なんだか気持ちの悪い言われ方だとリュミエールは息を付いた。
確かにデータとして出てるわけではないし、外見上の変化はないし、それでもちゃんとつわりだと体の変調があるのは自分でも不思議だが。
 
リュミエールは自分の腹部にそっと手を当てた。
こうすると感じる。体内にある不思議な波動。
脈動し、間違いなく「生きている」ソレ。
ぱっとひらめいたものがあってリュミエールは顔を上げた。
 
「…さわってみますか?」
「え?」
「ですから、わたくしの腹部に触ってみますか?そうすれば、あなたにも感じ取れると思うのですが」
ぎょっとしてオスカーはリュミエールの顔をまじまじと見つめた。
リュミエールは単純に一番効果的な方法を見つけたと、そう思っての提案である。
それなのに、リュミエールのお腹に触れる、というその言葉にオスカーは意外なほどに動揺していた。
 
「どうしたのですか?」
リュミエールが不思議そうにそう言って、手をさしだした。
男にしては信じられないほどに、白く繊細な手がオスカーを招いている。
 
(…何を動揺している…、女ならともかく、男の腹に触ったって、別に慌てる必要など…)
そう自分に言い聞かせると、オスカーは唾を飲み込むようにしてリュミエールに向かい手を伸ばした。
その手を取ったリュミエールが、そっと自分の腹部に当てさせる。
柔らかな布越しに手の触れた部分から何かがあふれ出る――オスカーはそんな感覚にとらわれた。