果ての果て

 
灰色の空に波が砕ける音がした。
 
冬を間近に控えた小さな島は、古い時代の遺跡を残すだけで今は誰もいない。
 
かつては馬車も行き交っていたかも知れない朽ちかけた石畳は
風に飛ばされてきた土に半ば埋もれ、その隙間からは丈の低い草が生えている。
 
小さな、小さな島。
 
たたきつけられる荒海の波に砕かれ、やがてはこの地上から完全に消え失せてしまうに
違いない小さな、荒れ果てた島。
 
傍らに立つ人が微かに身じろぐ気配がする。
マントからこぼれた長い水色の髪が、灰色の島のただ一つの色彩のように
オスカーの目に映った。
 
「寒いか?」
と、オスカーは自分よりわずかに背の低い連れに声をかけた。
「大丈夫です」
と風の音に消え入りそうな声でリュミエールが答える。
その唇の色はうっすらと色を失いかけている。
 
「本当に?」
そう聞くと、微かに微笑みながらやっぱり
「大丈夫です」
と答える。
 
「強情っ張りだな」
オスカーがそう言って自分のマントも渡そうとすると、
「あなたがそれをわたくしに貸そうというのなら、わたくしは自分のマントを
あなたにお貸しします」
とリュミエールはにっこりしながら答えた。
 
たおやかな強情っぱり。
それが、この水色の儚げな人の正体だ。
オスカーは微かに笑った。
「分かった。その変わり寒いと感じたら、すぐに言えよ?」
「はい」
リュミエールはフードを被りなおすと、マントをしっかりと身体に巻き付けた。
 
風と波の音だけがする島の石畳に沿って歩く。
 
かつてあった町を、海風から守ろうとしていた石の壁が、わずかに膝の上くらいの高さまで残っている。
 
葉が全て落ち、逆さまに生えた根のように見える木が、石畳の向こうに見えた。
 
「ここは変わらないか」
 
島の中央、一番高い場所に、不思議な形の石の十字架が並ぶ。
海の向こうを見つめられるようにか、その十字架は全てが同じ方向に向いている。
 
「この島の墓地。そして、あれが教会だ」
 
オスカーが指差したのは、屋根が崩れ落ちた石造りの建物跡。
形だけ残っていた扉をくぐり、中へはいると、磨かれた石の机と椅子が
整然と並んでいる。
 
この島の「英雄」を織りだした色あせたタペストリーが、椅子の影で辛うじて雨風を避けていたらしい。
それは、リュミエールのつま先がが触れたとたん
ぼろぼろに崩れ、床につもった土と同化した。
 
「こっちだ」
ゆっくりと辺りを見回すリュミエールを、オスカーが呼ぶ。
 
そこには、かつて木でできたドアが付いていた。
今は何もない。壁そのものが半分以上崩れていた。
 
教会の裏手の小さな掘り返された花壇。
この北の島は夏が短い。
その夏、この小さな花壇はたくさんの花であふれていた。
 
「ここにあの娘はいたんだ」
オスカーは掠れた声で言った。
 
花壇の上にしゃがみ込んで、小さな手で一生懸命花の世話をしていた、
遠い誰かの姿が一瞬目に映る。
 
「俺がこのドアを開けて外に出たら、いきなり『踏んじゃ駄目!』って怒鳴られた」
 
リュミエールは記憶をたどるオスカーの横顔を見上げた。
巌のような強さを持った顔が、頼りない幼児のように見える。
 
「その娘はどうなったのですか?」
「死んだよ、戦いが終わる一日前に」
淡々と答えるオスカーの声には、込められるべき感情が何もない。
 
遠い遠い過去。
オスカーが炎の守護聖と呼ばれ始めた頃。
この島は、それからどれくらいの時を刻んだのだろうか?
あの時オスカーが酒を一緒に酌みかわした男達も、
夏の盛りの花々で首飾りを作ってくれた娘達も、
今はもう、その生きていた息吹すら感じ取ることが出来ない。
 
オスカーは灰色の大地に立ち、まっすぐ海を指差した。
 
「娘はこの島の指導者のただ一人の子だった。ここでたくさんの花を咲かせていた。
そして、海の向こうに行った恋人の帰りを待っていた」
 
リュミエールはオスカーの隣に立ち、その指差す向こうを見つめた。
かつてこの海を席巻した、誇らしげに大きく帆を張った船の一団が
そうしていれば戻ってくるのではないかと、どこか祈るように。
 
「調印が終わる一日前、どこかの手柄欲しさの船長がここに大砲を撃ち込んだ。
男達の帰りを待ちわびる女達が祈る、この教会をねらって」
 
そういってオスカーは教会跡に目をやる。
ここに祈る女達の姿を。
彼は確かにその目で見た。
 
「弾は外れた。そして、その脇の花壇を直撃した。
彼女はただ花を育てていただけなのに」
 
白い花が赤く染まる。
娘が恋人を思って育てていた花。
いつかその花をブーケにして、大事な人の元に嫁ぎたいと、
そう恥ずかしげに語っていた娘。
娘の夢は永遠に砕かれた。
 
恋人も、娘より一月早く、この海に散っていた。
知らせは届かなかった。
小さな、でも何より大切な夢は、みんなこの海に散っていった。
 
「俺は戦を止めさせるために、この島に来た。この島の人間は真面目で実直だった。
一生懸命、ただただ必死で、この厳しい島で生きていた。
俺はそれを正しくこの国の王に知らせたはずだ。
王はそれを聞き入れた。この島の人々の生活を壊さないと、俺にそう誓った。
署名は終わったはずだったのに。それなのにどこかの頭の不自由な戦馬鹿が先走った。
この島の指導者は完全に国を見限った。
皆、この島を捨て、遠くへ行ってしまった」
 
古い古い歴史のある島だった。
その海軍力を、近隣の国の王は恐れた。
恐れが戦いの火をよんだ。
 
新しく炎の守護聖と呼ばれる事になった少年が、最初に訪れた星だった。
彼はこの島で男達と酒を飲んだ。
女達と歌った。
皆、気のいい、大らかな、強い愛すべき人々だった。
 
今はもう誰もいない。
彼らがどこに行ったのかは、誰も知らない。
残されたのは、この小さな島だけ。
 
その島もやがては消える。
波に砕かれ、削り取られて、やがて最後の一片までも海の底に沈む。
 
風の音が強くなる。
魂を刻むほどに、冷たくて寂しい音。
 
からんと、石が転がる音がした。
リュミエールが、そっとオスカーの広い肩に頭をもたせかけた。
 
「どうしても、もう一度、この目で見たかったんだ」
独り言のようにオスカーが呟いた。
耳を澄ませなければ、風の音にかき消されてしまいそうに。
 
 
「消えてしまう前に、もう一度見たかった」
 
「…見えましたか?あなたが見たかった物は…?」
ひっそりと、リュミエールがそう訊ねた。
 
オスカーはもう一度灰色の海を見た。
 
そして人の気配の失せた、寂しい島を見渡した。
 
最後に自分の傍らで、自分を見上げる人の碧い瞳を。
 
「ああ、見えた」
オスカーは、自分をひたと見据える瞳を見つめながら答える。
 
「過ぎてゆく時間を。戻らない時間を。そして、やり直すことの出来ない時間の果てを」
 
リュミエールの肩に手を回し、抱き寄せる。
何も言わない人の体温を感じながら、オスカーは遠い海の果てを見つめる。
 
「そして果ての果てに消えようとも、忘れられない記憶の全てを。
俺はこの島の人間達が好きだった。それはけして忘れない。
この島が無くなり、世界が砕けたあとも。俺は忘れない」
 
それは誓いであり、祈りである言葉。
ひときわ強く吹き付けた風が、オスカーのマントを飛び立つ前の鳥の翼のように、
大きく翻させた。
 
リュミエールが静かに頷いた。
 
波と風の砕ける音。
 
「…寒くなりましたね」
 
生きている人の声が、オスカーの耳に聞こえた。
 
「もう戻るか」
オスカーがそう問うと、柔らかくリュミエールが応じた。
「そうですね…。もう、戻りましょう」
 
2人は来た道を寄り添いながら歩き出した。
どこかで轟音がする。
おそらくは海沿いのどこかの岩壁の一部が、波に砕かれ海中に崩れ落ちたのだろう。
 
オスカーはリュミエールの肩に回した手に力を込め、より近く自分へと抱き寄せた。
果ての果てを越えた時間の向こう側に見つけた、唯一の確かな存在として。
1999.12.08