老人が赤ん坊だった頃、そこは見事な森や畑や水田が一面に広がる、豊かな地だったという。
少年なった頃、彼が覚えているのは、物々しい兵士が、そこここに歩き回り、大人も子供もやせこけていたと
いう事。
 
彼は両親を知らず、おそらくは兄と思われる少し年長の少年とともにおり、
日の出と共に起きて働き、日の暮れるまで、荒れた大地で石をほり、木の根を掘り、
いつもいつも腹を空かせていた。
 
ある日、「兄」は兵士に連れて行かれ、それきり帰ってこなかった。
村にいた他の少年や大人達も、大勢どこかへ連れて行かれ、それきりだった。
村は女と、老人と、幼い子供だけの場所となり、それでも前と同じくらい働かなければならなかった。
 
少し前までどこかで泣いていた赤ん坊も、いつのまにかいなくなっていた。
そして、それをどうしてなのかと、誰かに聞くことも出来なかった。
どんよりとした目をした女達は、誰も彼も口をつぐみ、声を出すことも禁じられていたようだった。
 
同じ年頃の子供達も、いつのまにか数が減っていた。
村中のあちこちに、いつも新しい穴を掘って埋めた跡があった。
少年は、その穴がなんなのか、知ることはなかった。
聞くことも禁じられていたし、何より、考える力がなかった。
いつもいつも空腹で、漠然と、いつか自分も動けなくなるんだろう、と思っていた。
 
ある日、雲が割れ、そこから銀色の空飛ぶ船がいくつも下りてきた。
 
しばらくして、見たこともない恰好の新しい兵士が村を訪れ、前からいた兵士は姿を消した。
大人達は「神様がいらして、奇跡を起こしてくださった」と泣いていた。
 
大きくて逞しい兵士が、少年に食べ物をくれた。
軟らかく煮た野菜がたくさん入ったスープのようだったが、いつもお湯のようなお粥しか食べたことがなかった
ので、少年はうまく噛むことが出来なかった。
それを見た兵士は、少年を抱きしめて泣きだした。
「可哀想だ」と何度も言っていたようだったが、少年は何が可哀想なのか、判らなかった。
その村では、誰も彼もが同じような食事をしていて、他の物など見たことがなかったから。
 
やがて少年は他の村人と一緒に、別の場所に連れて行かれた。
そこは綺麗な建物があって、綺麗な布団があった。
いつも茣蓙の上に寝ていた少年は、あまりに柔らかい布団に眠ることが出来なかった。
 
そこでは、いつもお腹が一杯食べられた。
同じ年頃の子供がたくさんにいて、「学校」という所に通うように言われた。
 
そこで、始めて少年は自分達が置かれていた状況を知ることができたのだ。
 
平和な国にクーデターが起き、新しく政権を執った党は、権力を誇示するために恐怖政治を強いたのである。
知識や技術を持った人たちは残らず殺され、やがて、自分達に少しでも逆らう者も殺し始めた。
そして、彼等は「殺すこと」そのものを楽しむようになった。
自分達が人の命を握っている、その権力を確かめるように、彼等は民を殺し続けたのである。
 
その目を覆うばかりの行状に、ついに「聖地」と呼ばれる場所にいる女神様が、神の軍隊を使わし、
その人々に、神の裁定を下したのだった。
惑星は愚かな権力者による自滅の縁から、辛うじて生者のものへと戻ってきた。
 
神の軍は、ボロボロになった惑星の人々が再び自立できるようになるまで彼等を守り、
少年が青年になる頃に去っていった。
 
青年は町で働き始めた。
そこでは誰もが生き生きとしているように見えた。
だが、誰も忘れていなかった。
ほんの十数年前の悪夢。
終わったことなのに、誰も彼もが時折空を見つめ、涙をこぼした。
悪夢の間、流すことすら許されなかった涙を、今になってその時の代わりのように泣き続けた。
 
ある日青年は、かつて自分がいた「村」を訪れた。
そこは一面の無惨な荒野だった。
ねじくれた木の根が大地からつきだし、死と恐怖と嘆きに傷つけられたその地は、一本の新しい草すら
生み出すことを拒絶しているようだった。
荒野を渡る風の音は、人の悲鳴のように聞こえた。
その恐ろしい光景に打ちのめされた青年は、逃げだしていた。
 
何年かして、青年はまたその地を訪れた。
変わらぬ寂しく恐ろしい大地に、青年はまたもや逃げ出した。
 
さらに何年かして、青年はまたその地を訪れた。
幼い頃の厳しい環境は、青年の身体に普通よりも早い老いをもたらした。
青年は、青年の年齢でありながら、身体はすでに老境に入りかけていた。
そこで青年は、ほんの小さくはあるが、確かに新しい青い芽が生えているのを見た。
一面の荒野に、まるで幻のようではあるが、間違いなく草が芽吹いていたのだ。
 
それからまた数年後、青年はその地を訪れた。
体力は著しく衰え、厳しい労働をすることはもう無理だった。
それでも、新しい政府の支給する年金で、彼は人間らしい生活を送ることが出来ていた。
あの時の神の軍の恩恵は、何年も経った今も生きていた。
そして、彼は荒れた大地に小さな泉を見つけた。
老いさらばえる己の肉体とは逆に、年ごとに生き返ってゆく地に、男は慰めを感じていた。
 
 
さらに年月は流れ、男の外見は完全に老人となっていた。
年齢でいえば、まだ中年、といっていいくらいだろうか。
それでも、痛めつけられた彼と同年かそれ以上の人々の寿命は短かった。
老人は、間もなく自分に最後が訪れるのではないかと思っていた。
この地に来るのも、これが最後かと、寂しく思っていた。
 
かつては豊かだったはずの大地。
今は荒れて人っ子一人居ない大地。
それでも、小さな泉は水を湛え、荒野に根を張る植物が生まれている。
老人は膝をつき、その姿に祈りを捧げた。
朽ちていく人間の祈りを抱き、いつか元のように、豊饒の地へと戻れるようにと。
 
 
奇跡が起きた。
老人は、ふと周囲を何かが流れるような感じを受けた。
目を開けると、辺り一面を何かが荒野の一点を目指し移動していた。
老人はおののいた。
ふれた「何か」は、ひどく悲しく寂しく、かつてこの地に満ちていたはずの嘆きと呪詛、
そのもののように感じたからだ。
老人は顔を上げ、それが流れてゆく方向を見つめた。
最初霞んで見えたそれは、じょじょにはっきりと老人の目に姿を現した。
 
神々しく、そして清らかな光。
そこに「何か」は流れてゆく。
そして光にふれた「何か」は、弾けるような美しい光の粒となり、無惨な荒野へと降り注き、とけ込んでいった。
老人はもっとよく見たいと目を見開いた。
 
光はさらに広がり、「何か」を浄化させながら、荒野全体を覆ってゆく。
そしてその中心に人影らしき者があるのを、老人は確かに見た。
白い長衣をまとい、長い水色の髪を持つ「神」が、荒野全体を慈しみと慈悲で包み、
生き返らせてゆくのが、はっきりと見えた。
 
老人はその「神」を伏し拝んだ。
大地に額をこすりつけるようにした老人の脳裏に、こちらを振り向く「神」の顔が鮮明に浮かぶ。
白く美しく、限りない慈愛を浮かべた表情。
 
神は御座すのだ――老人はそう知った。
この人の死と呪いに汚された、見捨てられた大地にも神は御座す。
生なき者の声を聞き届け、その御手に抱きとって下さる。
老人は、この呪われた地へ向けられた、神の「祈り」を、全身で感じていた。
 
 
★★
 
 
宮殿の奥深く、ある惑星へのサクリアを送り終えたリュミエールは、祈りの姿勢のままでいた。
いまだに同胞による嘆きの傷跡を深く残すその惑星は、それでもゆっくりと再生への道を進んでいる。
 
でも、人々の心に残る傷は完全に癒されることはないのでしょう――そう考えると、リュミエールの心は
暗鬱となる。
ほんのわずかでも、彼等の心をいやせるようにと、リュミエールは毎日祈りを込めてサクリアを送っていた。
 
背後に慣れた気配が現れる。
「まだ祈っていたのか?…もう終わったのだろう?」
そうっと立ち上がって振り向くと、オスカーが立っている。
「お待たせしましたか?」
「いや、…それよりも」
オスカーは柔らかい目でリュミエールを見つめた。
「王立研究院で、ちょっとデータを見てきたんだが」
「地域によって大地の再生状態に差が大きいのです。とくに、あの地方は…」
「ああ、あの連中が妙な化学兵器を開発していた工場のあったあたりか?あそこはひどいもんだったな。
地下の実験場で発見された人体実験の結果データを見たときは、さすがの俺も吐きそうになった」
「おまけに廃液の垂れ流しで土地は徹底的に痛めつけられ、その地の住人達の身体にも、かなりの影響が出てしまって…なにもできない自分の無力さが、これほど悲しいと思ったことはありません…」
 
リュミエールは沈痛の面もちで目を閉じた。
あの地は、完全に不毛の荒野となりはて、どれほどサクリアを送り続けても未だに荒れたままだ。
土地の人々は、あの地を「嘆きの地」と呼ぶ。
多くの無辜の民の涙と血が染みこみすぎた土地。
 
オスカーは、あの地の悲劇を、まるで自分の痛みのように感じているリュミエールに、
宥めるように肩に手を回した。
「…リュミエール、知っているか?あの地が、今土地の者になんと呼ばれているか」
「…え?」
リュミエールが寂しげな面を上げた。
 
「あの土地の時間で何年か前、あの地の元の住人が、あそこで『神』を見たのだそうだ。
その『神』は、地に祈りを捧げ、その慈悲と慈愛で、人々の無念と嘆きを浄化していたと…。
誰もその言葉を否定しなかった。
あの地は、今は『祈りの大地』と呼ばれている」
 
リュミエールは目を見開いた。
意識が一気にあの惑星上、あの地へと移動する。
荒れ果てた大地。
そこに漂う、人々の悲しみ。そして、土地そのものの痛み。
少しでも和らげたいと、サクリアを送るときは必ずこの大地をイメージしていた。
 
それに同調した人間が、存在したのだ。
イメージの中で荒野がめまぐるしく変貌する。
かつての豊穣であった頃の大地の記憶。
過去に生きた人々の満ち足りた笑顔が、未来の人々の笑顔に繋がってゆく。
 
「生き返るのですね、いつか、あの地は」
 
「お前の祈りを受け止めた大地だ。必ず――蘇る」
予言のように呟くリュミエールに、オスカーはそう答えた。
 
 
★★
 
 
長い年月が流れ、惑星は新たな時代を迎えていた。
かつての悪夢は、遠く過去の歴史の中にだけ存在し、人々は希望を抱き、日々を生きる。
「祈りの大地」は、今も人々の祈りでみたされている。
祈りが見せた奇跡の地。
 
その地に思いを馳せ、人々は祈る。
過去を忘れず、永遠の平和を守り続けたいと。