無神経、とはよく言われる。
本人その気はないのだが、時に行動が大雑把になってしまい、花壇を踏み抜いたり、
足下をちょろちょろしているロボットを踏んでしまったりと、年少組からはよく涙混じりの非難やら文句やら
を向けられることはあるのだが、それは無神経というより最初から神経がいっていないのであって、
本来、神経を傾けなければならない相手に対しては、むしろ神経質な程に気を遣っているつもりだった。
 
そして、今現在もっとも細やかな対応をすべき恋人に対しては、他人に対しては気を遣うくせに、自分の事に対してはおっとりのんびりと鷹揚なぶんだけ自分が気を回してやらなければならない、と騎士道精神あふれかえりの炎のオスカーは心に決めていたつもりだった。
それなのに、やっぱりやる時はやってしまうものなのだ。
 
反射神経の固まりであるオスカーでも、うっかりミスというのは、どうしてもある。
ミスしてしまった相手が年少組なら「悪い悪い」ですませるし、磊落な同僚のオリヴィエなら気に入りの酒の一本で大目に見てくれることが多いし、先輩方なら素直に頭を下げると対処法はそれぞれあるが、今現在オスカーは惚けたように閉まった扉を見つめるだけだ。
 
そう――やってしまったのだ、オスカーは。
恋人が大事にしている古い楽譜にインクをぶちまけるという、取り返しのつかない大失敗を。
 
 
★★
 
 
「頼む!もう一度だけ、検索してみてくれ!」
「何度も調べました。その作曲家名、楽譜集タイトルで何度も。ですが、いくらなんでも、そんな無名の小品までは
とても…」
宇宙一の蔵書を誇る図書館の司書がさすがに悲鳴を上げる。
炎の守護聖オスカーの頼みとあって目録から、各惑星ごとの大手の図書館の蔵書一覧まで調べまくったのだが、オスカーの探している楽譜はどこにも残っていない。
つまり、それだけ、マイナーな作品だったのだ。
オスカーは血の気の引いた顔で、自分がしでかした失敗の大きさを呪った。
 
もちろん、オスカー本人に悪気などなかったのだ。
もう間もなく訪れるリュミエールの誕生日。
本人はものを欲しがるという事が殆ど無いため、オスカーとしては会話の端々から彼の今の関心を読みとり、
プレゼントするものを選ばなければならない。
もっとも、これはオスカーにとってかなり楽しい作業でもあるので、朝一で彼の執務室を訪ねたのである。
リュミエールはまだ来ていなかった。
 
早すぎたか?と思いながら、何気なく机の上に目をやると、そこに乗っていたのは古い色あせた楽譜集である。
リュミエールが今ではもう演奏されることのない古い曲に心を引かれ、そういった譜面を手に入れると
控えめに、だが心の底から嬉しそうな笑みを浮かべ、その曲を演奏してくれるのは有名な話だ。
その為、図書館員、研究員なども、珍しい譜面を手に入れるとリュミエールの元へ持ってくるという事はよくある。
これもその一つかと思うと、オスカーはどことなく出し抜かれたようなやっかみ気分で楽譜集を手に取ろうとした。
その時である。
 
オスカーの払ったマントの端が机の上のインク壺を引っかけて倒し、あっという間に机の上にあった楽譜は
インクまみれで中を見るどころではない状態になってしまったのだ。
当然、オスカーは焦った。
こっそり持ち出して証拠隠滅してしまおうかと思ったくらいに、焦りまくった。
そして、それを自分の懐に隠してしまおうとしたその瞬間。
扉が開いて、リュミエールが入ってきたのである。
 
その時のリュミエールの顔をオスカーは忘れられない。
辛そうに痛そうな表情でリュミエールはオスカーが隠そうとしているインクまみれの楽譜集を少しだけ見つめ、
ふっと身体ごと視線を逸らしてしまったのだ。
慌てて謝罪しようとするオスカーにか細い声で「いいえ、どうぞお気になさらず…」と一言だけ告げると、
そのままその場を立ち去ってゆき、それっきり執務室には戻らず、館に訪ねても体調が悪い、との事であってもらえない。
 
 
それが3日前の話。
明日がリュミエールの誕生日、という今日になっても、その状態のままなのである。
なんとか同じものを探して許してもらおう、という望みも消え、落ち込みまくっているオスカーに、
最初はおもしろ半分でからかっていたオリヴィエも今では同情の色を浮かべていた。
 
 
「もうさ、諦めて、他の物で許してもらったら?」
しみじみと相談にのるオリヴィエに、がっくりと力の抜けたオスカーはぶつぶつと答える。
「…代わりがあるなら、そうするが…何を代わりにすればいいのかわからん…」
「あんたにしちゃ、気弱な言い分だねぇ。相手に喜んでもらうものを選ぶのなんて、あんたの本能ってくらいに得意技じゃないか」
「…お前は知らないんだ。あの時のリュミエールの辛そうな顔…よほど珍しい、稀少なものだったに違いない…」
「ああ、もう、そんなに落ち込まないで。リュミちゃんがいつまでも根に持つわけがないじゃないか」
「だが、もう3日だ。3日も会ってくれないんだぞ。これはそうとう怒っている証拠だ」
「体調が悪いんだろ?だったら…」
「そんな事、真に受けるか?体調が悪くたって、俺が会いに行けば、あいつはいつも迎えてくれたんだ!
こう、寝室のベッドの上から透けるような笑顔を浮かべて『心配しないでください、たいした事はないのですから』
と、わざわざ、こっちを気遣うようなことを言って…」
その時のことを思い出したのかオスカーは顔を覆って頭を何度もふった。
 
「会わないと言うことは、俺に会いたくない、という事なんだ」
「そう決めつけなくてもいいと思うけど…」
「いや、そうに決まっている!ふ、オリヴィエ…お前にいつも言われていたな。俺はがさつすぎると…
お前の言うとおりだよ…」
勝手に自己完結したオスカーはふらっと立ち上がった。
 
「俺は自分の無神経さがつくづく嫌になった…こんな俺が、誰かを守るなんてお笑いぐさだ…」
「ちょっとオスカー、それって飛躍しすぎだよ?悪いもんでも食べた?」
慌ててオリヴィエは引き留めようとするが、落ち込みすぎたオスカーは聞く様子がない。
「オスカー!どうする気?」
「どうもしないさ…せめてあいつの邪魔にならないよう、どこかに引っ込んでいるさ…」
日頃の自信満々な様子はすっかり影を潜め、広い肩をがっくりと落とし、オスカーは立ち去っていった。
 
「なんか、重症だねぇ…」
その後ろ姿を見送ったオリヴィエがため息をついていると、オスカーが消えた方向から今度は年少組の3人が後ろを振り返り振り返り走ってくる。
オリヴィエを見つけると、駆け寄ってきた。
 
「オリヴィエ様!オスカー様、一体どうしちゃったんですか?僕たちが挨拶してもまるで聞こえないようで」
マルセルが開口一番にそう叫ぶ。
「まるで別人みたいでした。目もうつろで、歩き方もふらーーっとしてて…」
「昼間っから酔っぱらってるわけじゃあ、ねえよな」
口々にオスカーの異状っぷりを訴える年少組に、オリヴィエもこれは思ったよりも重症かも、と腕を組む。
 
「…リュミちゃんにあって事情を確かめないといけないねぇ」
「え?ひょっとして、リュミエール様とケンカをしたんですか?」
「まさか、オスカー様…浮気とか?」
「浮気なら、なんであいつがあんなにダメージくらってんだ?普通なら、リュミエールの方がショック受けるんだろ?」
「だからさ、浮気がばれて、リュミエール様が悲しまれたのを見て、良心の呵責でふらふらとか」
「それは自業自得ってもんだろが」
「ひどいよ、そんなの!リュミエール様を悲しませたんなら、僕、オスカー様を絶対に許さない!」
「…ちょっとあんたら…勝手にもりあがってんじゃないよ…」
てんでに好き勝手なことを言って喚く子供達に、オリヴィエは頭痛を覚えたようにこめかみに指を当てた。
 
「浮気なんてしてないよ、それどころか、あいつ。リュミちゃんに嫌われたと思い込んで、ショックうけまくって
ボロボロなんだ。滅多なこと言って、余計なダメージ与えるんじゃないよ」
顔を見合わせる3人組に、オリヴィエは保護者風に言い聞かせる。
「とにかく、リュミちゃんに会わなきゃねぇ」
「わたくしにご用でしたか?」
背後からかかった声に、オリヴィエは飛び上がった。
 
「あ、リュミエール様!」
噂の人の登場に、思わずあたふたする4人。
思いがけない反応に、リュミエールはきょとんと目を見開いている。
「どうかなさったのですか?」
「い、いやさ、リュミちゃん。オスカーに最近あったの?」
わざとらしい話の持っていき方にも気が付かず、リュミエールは素直に答える。
「いいえ、それで探していたのですが…どこにいるかご存じありませんか?」
 
首を僅かに傾げ、そういうリュミエールの様子には何ら変わったところはない。
当然、オスカーを恨んでいるとか、怒っているとか、ふつふつと暗く静かに根に持っているようには
どうしても見えない。
オリヴィエは真剣に眉をしかめてしまった。
 
「オリヴィエ…?あの、どうかなさったのですか?眉がへの字型に…」
不安げに訊いてくるリュミエールの両肩をオリヴィエはがっしりと掴んだ。
「リュミちゃん!この際だから、腹蔵のない話をしよう!ずばり!オスカーが駄目にしちゃった楽譜集についてなんだけど、あれ、代わりはないの?」
「代わり…ですか?オスカーが駄目にしたとは、インクをこぼしたあれの事ですか?」
「そう、あれの事!」
きっぱり言いきるオリヴィエの真剣な顔に、リュミエールはきょとんとする。
「取り寄せすればいくらでもあるかと思いますが、…何かにお入り用なのですか?」
あっさりとした返事に、気合いが入りまくっていたオリヴィエの目が点になった。
 
「取り寄せすればいくらでもって…いくらでもあるもんなの?」
「はい、あると思いますが…?」
点目のオリヴィエの質問に、事情が飲み込めないリュミエールはきょとんと目を見開いて答えた。
「だって…どこで探しても、あの楽譜集のタイトルが見つからないって…」
しどろもどろのオリヴィエに、リュミエールはなるほど、といいたげに表情を和らげた。
「ええ、あれは見本を頼んだ工房でつけた架空の名前ですから」
「み、見本ーーーー?」
思わず声が大きくなるオリヴィエに、リュミエールはまたきょとんとした。
「はい、今度、わたくしが持っている古い楽譜集を何点か図書館に寄贈することになったのですが、
やはり気に入った物は手元にも置きたいと思い、複製を造ることにしたのです。
それで、古い紙の質感や表紙の色の具合などを忠実に再現できる工房を探して、何ヶ所から見本品を
取り寄せていたのです。…それが何か?」
何か?と心底不思議そうなリュミエールに、脱力したオリヴィエは力の抜けた笑い声をあげた。
 
「はは、見本品…古そうに見えたけど、見本品…じゃ、別に稀少でもなんでもないんだ…」
「はい、ですからオスカーには気になさらず、と申し上げたはずなのですが…」
「ははは…言葉通りに受け取ってりゃ、まったく問題なかったんじゃない…」
 
オスカーのバカちん早とちり!と頭の中で悪態をついてから、オリヴィエはまたもやきりっと顔を引き締めた。
「なんで、オスカーが会いに行ったとき、会ってやらなかったの?会って話をすれば、なんの問題も起きなかったのに!」
「問題…とは、何かオスカーにあったのですか?」
あったもなにもない。なにを今更、といいたげな顔で、渦中の人でありながらまったく事情を判っていない
水の守護聖のおっとりぶりに、背後で聞いていた年少組も同時にため息をつく。
 
「オスカーの事はとりあえずおいといて、答えてくれる?なんで見舞いに行ったあいつを玄関払いしたのさ」
ずけずけと言われると、リュミエールは気落ちした様子で俯いてしまう。
「それはあの…なんとなく…」
「なんとなくって、そんな曖昧な言い方、納得しないよ?」
きつい物言いに、リュミエールは何やら失敗の言い訳をするような顔つきになった。
「あの…湿布の匂いが…以前にオスカーが嫌がっていたハーブティーの香に酷似してしまったので、
そばに寄ったら嫌がられるかと思いまして…それで…」
「湿布?」
まったく予想外の返事に、オリヴィエの声が素っ頓狂になる。
 
「はい、実は、夜中にブランシュとノワール(リュミエールの飼い猫)が首の辺りに寄り添って眠ってしまったので、
寝返りが出来ずに妙な体勢を取って首を寝違えたようで、朝起きましたらひどく痛みまして…。
ですから、あの朝は2,3日休ませていただこうと思い、その許可を頂くために聖殿に上がったのです。
何しろ、首を動かしたり、声を出しただけでも痛むものですから…」
 
(…辛そうな顔してたわけだよ、本当に、首が『痛かった』んだから…)
最初から最後までオスカーの早とちりだということがよく分かり、オリヴィエはもう笑うしかない。
事情がさっぱり判らないまま、目の前のオリヴィエの尋常でない様子に本気で心配し始めたようなリュミエールに、オリヴィエは大きくため息をつくなり、リュミエールの肩に手を回すとくるりと後ろを向かせた。
 
「オスカーは裏の森の方。とにかく、もう、なんでもいいから、オスカーと話をしてやって」
「…ですから、一体何がどうなっているのですか?」
「もーいい。あんたら二人で、じっくり話をしなさい!」
『こいつらの痴話喧嘩(にもなってないが)なんか、今後一切関わるもんか!』と心に決めたオリヴィエに
追いまくられるように、さっぱり事情が判らないままにリュミエールはオスカーを探しに森へと向かったのだった。
その後ろでは、オリヴィエと同じく脱力しきった年少組が、ヘロヘロと手を振っていた。
 
 
★★
 
 
ひっそりとした森の中をリュミエールは長い裾を捌きながら歩いていた。
オスカーの居場所はなんとなく見当がついた。
よく二人で出かける場所、小さいが澄んだ水を湛えた泉の側。
リュミエールのお気に入りの場所だと知って以来、オスカーも時々1人で訪れることもあるらしい。
案の定、木々の緑の向こう側に泉のほとりに1人で座り込んでいるオスカーの姿がある。
何か常とは違う寂しげな様子に首を傾げ、リュミエールはそうっと足音を忍ばせるように後ろから近付いた。
人の気配にさとい人の筈なのに、すぐ近くにまで行っても振り向く様子がない。
 
(何か考え事をしているのでしょうか?)
自分の事で落ち込んでいるなどとは考えてもみないリュミエールは、少しばかり好奇心入りの笑みを浮かべ、
そっと後ろからオスカーの肩に手をかけた。
「…なにを考えていらっしゃるのですか…?」
低い声音と肩に掛かった細い手に、オスカーが跳ね上がる勢いで振り向く。
そこで微笑むリュミエールを見つけ、オスカーは強ばった顔で固まってしまった。
 
「…お邪魔でしたか?」
その顔つきに笑顔を曇らせたリュミエールに、オスカーは慌てて首を振る。
「いや、なんでもない」
そう言ったきり、後が続かない。
「隣に座ってもよろしいですか…わたくしの用はすぐに済みますから」
(すぐに済む…ひょっとして、愛想づかしの三行半か?)
どきんとオスカーの心臓が跳ね上がった。
 
オリヴィエが知ったら、きっと『あんた、それって飛躍しすぎ!思考が暗すぎるよ!』というに違いないほどに
短絡思考に陥っているオスカーの心中は、文字通り大嵐である。
強ばっているオスカーの表情になにを思ったのか、リュミエールは困ったような顔で微笑むと、
おそるおそるといった風に言い出した。
「…もしよろしければ、明日、一緒に過ごしていただけないかと思ったのですが…何か、ご都合がおありでしたら、
無理は申しません…。いかがでしょうか…?」
誕生日を二人で過ごすお誘い――その言葉に、オスカーの内心は、さっきまでの大嵐が、これまた文字通りに見事な晴天になった。
 
それでもまだ不安が残り、オスカーは笑いがこみ上げてくるのを無理に抑えて殊勝な顔を作ると、
お伺いを立てるような口調で言ってみた。
「怒ってないのか?その…あれの事は…」
リュミエールは瞬間きょとんとした後、ようやくオリヴィエが言っていたことが理解できた。
(どうやら、…随分と思い違いをさせてしまっていたようですね…)
あのなんでもない見本品を、オスカーはリュミエールの大事な物と思い込み、ずっと気に病んでいたらしい。
それに気が付き、リュミエールの笑みが深くなった。
 
「…あなたは本当に優しい方なのですね…」
心の底から出たリュミエールの言葉に、オスカーの方はやましさが残っているだけ、ぎくりとなる。
日頃なめらかでスマートな語り口を誇っている人が、しどろもどろで意味不明の言い訳をこころみる姿に、
リュミエールは目を細めた。
 
――優しい人。
普段は無神経、がさつなどと言われることもあるけれど、本当は誰よりも優しくて、繊細な気遣いの出来る人。
大らかで、強くて、誰にも真似の出来ない魅力にあふれた人。
 
オスカーの怪しい言い訳に余計に嬉しそうな笑顔になるリュミエールに、オスカーもくどくど言うのが
馬鹿らしくなったのか、小さく息をついた後、照れくさそうな顔つきで笑った。
リュミエールは柔らかく首を傾げると、そうっとオスカーの肩にもたれる。
そして、囁くように言う。
 
「どんな宝物でも、人が造った物であれば代わりはあります。…わたくしにとって、あなた以上に代わりのない
大切な存在はあり得ませんよ」
オスカーの中に居座っていた暗雲は、その言葉で完全に消え去る。
恋人への優しさが招いたちょっとした気鬱は、恋人からの優しさであっさりと終わったのだった。