美しい聖地の日暮れ時。
黄金の夕陽に染まる世界は繊細な芸術品のようで、蜃気楼を連想させる。
美しすぎて、近付いたらふと消えてしまいそうで――。

リュミエールは何とはなしに振り向いた。
夕陽に煽られ、噴水の水が茜色に眩しく輝いている。
目を射るような光に、リュミエールは手を翳した。
木々の影が長く伸びる。
人の気配が消えた庭の一画は、文字通り異空間のような不思議な静寂に包まれている。
リュミエールは、日常に紛れ込んだ一瞬の奇妙な違和感に首を巡らした。


噴水の水流が途絶えて水面が静まった。
鏡のように凪いだ水面に、眩い光の乱舞。
リュミエールは噴水の縁に手を添え、その光を見透かすように水面を観る。
そこには光の残滓をまとわりつかせたリュミエールの顔だけが映っている。
誰もいない場所なのだから、当たり前――不思議にざわめく心中を落ち着かせるようにリュミエールはそう自分に言い聞かせる。
苦笑を浮かべると、水に映る顔も苦笑の表情を浮かべる。
リュミエールは今度は可笑しそうにくすりと笑った。

まるで夢見がちの子供ようだ、と思った。
水面に何が見えると思ったのだろう、自分の顔が映っているだけではないか。
そう思うリュミエールの前で、水面に映る自分の顔の表情がふっと変わった。
からかうような、吹き出す直前のような笑い顔。
リュミエールはどきりとすると、もう一度よく見直そうと身を乗り出す。
そこに映っているのは、やはりリュミエール本人の顔。
前に垂れた長い髪に半ば覆われ、驚きに目を見張っている。
リュミエールは無意識に髪を掻き上げた。
露わになった表情は、やはり驚きに凍り付いたような、情けない顔だ。

「なにをしているのでしょうね、わたくしは」

ため息混じりに呟いて身体を起こすと、リュミエールは縁に腰を下ろして水面を見つめた。
凪いだ水面に、風が波を起こす。
ふわりと落ちた葉の一枚が波紋を広げる。
さっき表情が違って見えたのは、水が揺らいだからだろう。
そう答えを出すと、まるでお化けでも見たようにびっくりした自分が可笑しくなる。
聖地は静かすぎて、そして美しすぎて。
輝く光に見えない精霊まで映し出されそうなくらい、空気が澄んでいて。
長く住んでいるはずなのに、まだその美しさに幻惑されるのかと、リュミエールはしみじみ思う。

どこかで時を告げる鐘の音がなり、残響が空気をふるわせる。
遙か以前、故郷にいたときの夕暮れを思い出し、リュミエールは懐かしさに胸がいっぱいになった。

学校の終了を告げる鐘の音。
凪いだ海面を染める赤い夕陽。
石畳を歩く子供達の影が長くなる。
はしゃぐ声が1つ2つと遠くなり、最後の友人にさよならを言って分かれ道を進む。
瀟洒な門が大きく開き、そして母親が出迎えてくれる。
家の中からは、先に帰っていた兄弟達の声。
光り輝くような美しいばかりの記憶の残像。

リュミエールは夢から覚めたような顔で目を見開いた。
随分と長く思い出の中を旅してきたような気がするのに、ここでの時は殆ど動かず僅かに影を細長くしただけだ。
なぜ、今日に限って、こんなにも懐かしさに捕らわれるのだろう。
残光のまぶしさに目を細め、再び水面に目を向けた。
水の動きに合わせて少しだけ歪んだ自分の顔が見える。
黙って見つめていると、その鏡像が不意に笑ったように見えた。
反射的に手で水面を叩く。
水盤いっぱいに広がる波紋。その中で、水に映るリュミエールの顔は変わらず笑っている。
ぞっとして、水の中に手を入れてかき回した。
ようやく消えた自分の顔にほっとしながらもまだ動悸が収まらず、リュミエールは唾を飲み込む。

――今、わたくしは何を見たのでしょうか?

落ち着かない気分でリュミエールは立ち上がった。
両手を胸元で握り合わせ、ぐるりと辺りを見回す。
まだ人の気配は失せたまま。まるで聖地中の人が消えてしまったかのように。
胸の鼓動が大きく早くなる。
リュミエールの顔に不安げな表情が浮かんだ。

「リュミエール?」

唐突にかけられた声でリュミエールの心臓は飛び上がりそうになった。
「オスカー…」
見慣れた人の顔に声に安堵が滲む。
それが表情にも表れていたようで、オスカーは気難しげな顔になると足早にリュミエールに近付いた。
「どうした、何かあったのか?」
「……いえ、なにも」
「なにもって、……本当か?なんだかすごく不安そうな顔してたぞ?」
眉を寄せた真剣な顔で聞いてくる恋人に、リュミエールは全身の力を抜いて心からの笑顔を見せた。
「何でもありません、夕陽があまりに美しすぎて、少し怖くなったのです」
「綺麗で怖い?」
拍子抜けした声でオスカーは言った。本気で心配したのにはぐらかされたとでも思ったのだろうか、声に不審が混じる。
「……ただなんとなくそう感じただけです。今だけのことですから、あまりお気になさらず」
柔らかく微笑みながらそう言うと、オスカーはなんとも釈然としない顔で頭を掻き、それでも守るようにリュミエールの肩を抱き寄せた。
「まあなんだ、俺はそういう感覚はよくわからんが」
「本当にお気になさらず。自分でもどうしてこんなに不安になったのか判らないのです」
オスカーはやはりまだ納得いかない風ではあったが、沈みきる直前の太陽が投げる眩しい金色の光に目を細め、ひっそりと呟いた。

「……まあ確かに眼が眩みそうな輝きだ。こんな時は、普段目に見えない物も惹かれてやってくるかもしれんな」
急にぞくりとしてリュミエールはオスカーにしがみついた。
その唐突な行為にオスカーはまた心配げになる。
「おい、本当に大丈夫か?何か変な気配でも感じているのか?」
「いえ、……何でもありません。何もないはずです…」
――女王陛下に守られたこの美しい聖地に、邪なる物が迷いいでる筈もない――
そう自分に言いきかせるリュミエールの視界の隅に、水盤に映る自分の姿が見えた。
こちらを見て笑っている。
オスカーの肩にしなだれかかった自分の顔が、不安に怯える自分を嘲るように笑っている。

そう思った次の瞬間、水面に映っているのは驚きに目を見開いているそのままの自分の顔。

――目の錯覚だったのでしょうか?

小さくかたかたと震えるリュミエールに、オスカーは本気で慌てたようだ。
「帰ろう」
リュミエールの肩を抱いたまま、一刻も早くここから立ち去ろうというように早足で歩き出す。

(さっき見た物はなんだったのだろう、わたくしの目の錯覚?それでも――なんだか)

答えが判らないまま、リュミエールはオスカーの腕越しに後ろを振り返った。
夕陽の残光に輝く宮殿の庭の一画。
夜の濃紺を迎えるように最後に光を反射した水盤の上に、くすくすと笑う透ける影が見えたような気がした。