再びオスカーが意識を取り戻したのは、いずれともしれぬ砦の中だ。
夜のピンと張りつめた空気が、不穏な雰囲気を知らしめる。
(ここも聖地じゃないな)
俺はいったいどこをさまよっているのだろう。
そう思いながら、一人石造りの廊下を歩く。
静まりかえった場所に、彼のブーツの音だけが奇妙に響いた。
誰もいないのだろうか?
小さな窓から外を見ると、小さな篝火が無数に見える。
ひょっとして戦か?
これはまずいところに出てしまったかと、オスカーは眉を潜めた。
俺は帰らなければ行けない。
帰って尊敬するあの方に、任務終了の報告をしなければならない。
そして恋人の元へゆき、その身体を抱いて安心させてやらなければ
行けないのに!
半ば苛立ちながら人っ子一人居ない廊下をどんどん奥へ進む。
不思議な事だが、警戒しなくては、という意識はまるで起きない。
そのままゆくと、前方から明かりが見える。
まっすぐそこに行くと、簡素な小部屋の中の木で出来た机の上に
大きなろうそくが立ててあり、誰かがその明かりの中で地図らしきものに
見入っている。
大きな男だ。肘をつき、手で半ば顔を覆っている。
だがその体つきには見覚えがあったような気がする。
 
 
相手もこちらの気配に気がついたらしい。
上がった顔は、間違いなくあの男だ。
だがさっきまでとはいくらか歳をとったようだ。
額と頬のあたりに険しさがある。
「神よ、いずこよりお出でになられた、とお聞きしても
よろしいでしょうか
祈るような声は、険しい表情と裏腹にひどく弱々しい。
、どうしたんだ、戦か?」
一歩室内に足を踏み入れながら聞くと、男は立ち上がって
オスカーに椅子を譲った。
「明日、かの地に向かって進軍いたします。我が宗主国は
今度こそかの地を滅亡に至らしめる心づもりです
「そうか、激しい戦になりそうだな。姫がさぞかし心配しているだろう」
オスカーの何気ない一言に、男は目を見開き、仮面のように
こわばった顔をする。
ふるえる唇が意外な一言を吐き出した。
「私がこれから向かう地は姫の生地、姫は私がこれより雌雄を決する
かの地の将軍の妻となっております」
 今度はオスカーが驚きに目を見開いた。
『将軍の妻になる』と叫んだ一瞬大人の顔をした少女の声が
耳によみがえる。
「なぜだ、そんな」
 思わず大声を出したオスカーに、男は苦しそうに顔を覆った。
「神であるあなた様にはおわかりになりますまい。矮小な人の身の情けなさ!
いくら望もうとも国の意向の前には、人一人の思いなど泥に沈む落ち葉の
一片のようなもの。
将軍と呼ばれようとも、所詮私は傭兵を生業とする一介の戦士。
我が国がかの宗主国のために力を尽くすと決めた今、そこに対する
姫の生地が敵国となるのも致し方のないこと。
姫は姫の責任を果たすため、新しい将軍の妻となったのです!」
 
言い訳するように叫んだ男は最後に呟いた。
「神であるお方であれば、その愛しいお方との間を邪魔するものなど、
すべて投げ捨ててしまわれるのでしょうね」
「当たり前だ!俺は!」
反射的に叫んだオスカーに、再びちくりとした胸の痛み。
 
『俺達ノ間ハ、誰ニモ邪魔サセナイ』
 
何だ?この声は。
男の姿がぐにゃりと歪む。
男の眼前から赤い髪を持つ戦神の姿は消え失せていた。
 
(何だ、あの声は。俺に何を言いたい?)
暗い空間を漂いながら、オスカーは胸に痛みをもたらす『声』の存在を
考えていた。
「気持ちは止められない」
「誰ニモ邪魔サセナイ」
当たり前じゃないか。
その気持ちを越えて、俺はリュミエールと恋仲になったんだ。
最初は葛藤があったさ。
まず一番に男同士であるということ。
そんな性癖は今まで俺は持ち合わせてなかった。当然今もだ。
男相手にこんなにも恋しい気持ちをもてるなんて信じたくなかった。
それでも、あいつの一番側にいたかった。
 
2番目に守護聖同士だと言うこと。
女王陛下にお仕えする我ら。
そのお力を支えることが我らの使命。
その守護聖同士が恋仲になるなど、陛下に対する反逆にはならないだろうか?
 
なるわけがない。
愛する相手を持つと言うことは、守りたいと願う世界が増えると言うこと。
反目し会うより、よほどいい。
俺はリュミエールが愛しい。リュミエールが愛しいと思う物全てを大切にしたい。
その全てを健やかに保たれる女王陛下に、いっそうの忠誠と忠勤を誓うのは
自明のことだ。
 
そして、最後まで俺を悩ましめたのは、尊敬する方のこと。
片腕として俺を信頼してくれる首座の方。
リュミエールはあいにくあの方と反目し会う闇殿一派と見られている。
ジュリアス様とは、あまり仲がよいとは言い難い。
それにあの方は頭ががちがちに固い。(古いお生まれだから仕方あるまい)
男同士、守護聖同士の恋愛など、認められるだろうか?
軽蔑されないだろうか?
だが考え直した。
これはプライベートなことだ。別に吹聴する必要などない。
何も問題はない。
 
俺達は逢瀬を楽しんでいる。
甘い時間を愛し合ってる。
俺は幸せだ。
リュミエールだって今までよりよほど幸せそうに微笑んでいる。
 
『本当ニソウ思ッテイルノカ?』
 
オスカーの中で、何かが大きく揺らいだ。
「当たり前だ!俺達は幸せで
何もない空間に叫ぶオスカーの耳に、最後通告のように冷ややかな声が聞こえる。
 
『デハ、りゅみえーるハ何故アンナ顔ヲシタ?』
 
瞬間的にオスカーの視線の先を忘れられない顔が通り過ぎる。
あの時、初めての行為の後、リュミエールがオスカーを見た表情。
俺は何を言った?
俺の言葉の何が、リュミエールにあんな顔をさせたんだ?
あの表情が意味することは?
 
 混乱しだしたオスカーの身体がぐんと何かに引かれる。
(待て、俺は今考えなくてはいけないんだ)
待て、待ってくれ
そう考えるまもなく、大きく意識がぶれる。
ここはどこだ?何故俺はここにいる?待て、俺は考えなければいけない。
オスカーの感情を無視して、場所は移動してゆく。
はっと意識を取り戻したときには、さっきまで打ちひしがれていたはずの男が
今は自信に満ちあふれた表情で、豪奢な部屋の中を行きつ戻りつしていた。
「神よ、またお出でくださったのですか?」
何だろう、この違いは。さっきまでとは10も若返ったようだ。
男はオスカーが質問するより早く、少年のように早口で語った。
「戦は我が軍の勝利です。そして姫も無事です。今こちらに向かっております。
国を滅ぼした私ですが、姫はそれを許しくくれました。
今度こそ、我妻となるために姫はここへやってくるのです」
ああ、、と呆気にとられたオスカーは間抜けな返事をする。
さっき自分が話していたのは、この男の時間にしてどれくらい前のことなのだろうか?
急にオスカーは馬鹿馬鹿しくなった。
真剣に彼らの悲運を嘆いたのに、物の見事などんでん返しのハッピーエンドだ。
男は脱力したオスカーには気づかず、喜びを押さえきれないと言った体で
部屋の中を熊のようにうろついている。
 
可愛い物じゃないか。何はともあれ、幸福な恋人同士というのはよい物だ。
俺達と一緒だ。そうだ、俺達と。
得体の知れぬ声など、何を気に病むことがある。俺達は幸せだ。この男のように。
俺達は幸せだ。
俺達ハ――――
 
船酔いのごとく大きく視界が回った。
何だって言うんだ、俺にどうしろって言うんだ。
 
『オ前ガ気ヅコウトシナイカラ』
俺がどうしたって言うんだ。
『オ前ガ目ヲソラシテイルカラ』
俺は何からも目をそらしてなどいない。俺は強さを司る炎の守護聖。
俺は何物からも逃げなどしない―――
俺は―――。
自らの喜びに浸っていた男は、再び赤い髪を持つ戦神が消えたことに
気がつかなかった。
 
俺が――どうしたというのだ
眠たくなるような日溜まりの中、オスカーはぼんやりと目を開ける。
見覚えがある緑の庭。
聖地ではない、ここは最初に彼らに出会った庭だ。
ひさしのように大きく張った木の枝ぶりに、見覚えがある。
庭は光で満ちている。
ここはあの男の館だ。
では、俺はあの2人の幸福な姿を見届けるためにここへ
来たのだろうか?
それにしては、不思議な静けさだった。
立ち上がり、庭を横切る。建物が見えた辺りの木の根本に
あの犬が寝そべっていた。
大きく、勇ましく、少女を守ろうとしていた犬。
だがその犬も年老いたのか、やせて毛艶も悪くなり、
オスカーの方にだるそうに目を向けたものの、また目をつむってしまった。
 
何だろう、この違和感。
あの少女、、いや、今はもう立派な女性となっているのだろう。
彼女はこの犬を放っておいているのだろうか?
何故こんなにも静かなのだろう。
主は出かけているのだろうか?
乙女とともに、賑やかな幸福な生活を送っていると思っていたのに。
 
館の中もしんと静まっている。
時折柱の向こうに動く人影が見えるが、殆ど音も立てない。
まるで、しんと息を潜めているようだ。
重苦しい沈黙の館を、オスカーは主の姿を求めてさまよう。
 
、いた。
男は、いつか見た開戦前の夜のように、大きな机に肘ついて座り、
手で顔を覆っている。
机の上には、小降りの壺。
美しい模様が描かれている。
男の方が時折揺れる。嗚咽をこらえているのだ。
何があったのだろう。
オスカーにも緊張が走る。
のろりと男が顔を上げた。
あの幸せそうな面影はどこにもない、憔悴しきった顔だ。
驚いたオスカーが何かを言う前に、男は呟くように話し出した。
 
「この壺には毒が満たされていました。眠るように死に至らしめる
強力な毒です」
毒?何のために?
「先ほど、この壺は姫の部屋より戻って参りました
姫はこれを飲んで、
男の声が詰まる。こらえきれなかった涙があふれ出した。
顔を覆ったまま号泣しだした男の肩をつかんで、
オスカーはその身体を乱暴に揺さぶる。
 
「どういう事だ、何があったんだ?」
「仕方がなかったのです。そうしなければ、姫はかの国の
王都に送られ、いずれともしれぬ男の慰み者となり、辱めを受ける!
それを拒めぬもならば、死を持って逃れるより方法がなかったのです!」
血を吐くような叫び。
男は泣きながらしゃべり続けた。神に懺悔をするように。
この世界、時代においては、戦に勝った国は破れた国を全て思いのままに
できる。
当然、その敗戦国の宝は全て戦勝国の物として、王都に送られ、
配分される。そしてその宝の中に、女性も含まれるのだ。
戦勝国となったかの地の王は、敗戦国の姫たる乙女も送るように申しつけた。
将軍の自分の妻にもらい受けたいという願いも拒まれた。
男は愛しい姫に毒を渡す以外、何も出来なかったのだ。
「自分の愛し、守るべき相手に何も出来なかったというのか!」
この国のそれが掟であるなら、オスカーには何も出来ない。
今一番傷ついている男に怒りをぶつけるのも、まるで理不尽だという事は
自分でも分かっている。
それでもオスカーには、納得など出来なかった。
他に方法はなかったのか?
愛する人を守る方法が、本当に何も?
 
『オマエハシッテイルノカ?ソノ方法ヲ』
 
声が合図のように、一気に辺りが変わる。
オスカーは暗闇に浮かびながら、まるで映画を見るように
その光景を見せつけられた。
 
美しく飾られた室内。そこには妻を迎える男の喜びの大きさを示すように、
とりどりの絹や宝石がおかれていた。
そしてこれも選び抜かれた物であろう、美しい黒檀のテーブル。
その上には先ほど見た毒の壺。
それを前に、堅く作り物のような顔をした美しい乙女。
 
あの少女だ。
間違いないと、オスカーは思う。
黄金の巻き毛は長く輝き、幼さを残した顔立ちながら
大輪の花のような美しさ。
あの幼い日、大人になればおそらく、とオスカーが想像したとおりの美貌。
部屋の隅には、おそらく壺を運んだ使いの男がうずくまるように控えている。
不意に乙女は立ち上がった。
そして獣のようなうなり声をあげると、突然今まで自分が座っていた
椅子を庭に向かって放り投げた。
絹を引き裂き、宝石をぶちまけ、持てる家具の全てを投げつけ、
乙女は無言のまま、狂ったように物を傷つけている。
 
その痛ましすぎる姿。オスカーには声をかけることも出来ない。
不意に、乙女は手にしていた花瓶を落とすと、ふらふらと床に座り込んだ。
そのままじっと下を向き、衣装の膝の辺りをつかんだ自分の手が
力の入れすぎで白くなっているのを見つめている。
やがて乙女はふらっと立ち上がると、テーブルの前に立ち、
静かに壺を手にした。
表情のない白い顔。
その瞳は何を見ているのかわからない。
不意に乙女の顔つきが変わった。
 
嘆いているような、全てを受け入れたような白い顔。
その顔が誰かに重なる。
乙女は壺を傾け、小さなグラスに中を移した。
その動きにためらいはない。
グラスを持ち上げたとき、乙女は表情を変えないまま、
何かを呟いたようだ。
その唇の動き。
言葉を知ったオスカーは叫ぼうとした。
(そんな事を言ってはいけない!それは、その言葉は!)
 
愛さなければよかった
 
その言葉が、その表情の意味ならば。
 
乙女がグラスに唇をつけ、一気に中身を飲み干す。
 
(やめるんだ!そんな思いのまま、、そんな悲しい思いのまま)
オスカーの声は虚空に吸い込まれる。
遠くなる光景のなかで乙女の姿はゆっくりと崩れ落ちていった。