『愛さなければよかった。
愛する思いなど、知らなければよかった。
そうすれば、こんなにも悲しまなかった。
こんな思いは、知りたくなかった。』
 
 
凍り付いた表情。ガラスのように何も映さない瞳。
心が傷つきすぎて、もう何も拒む力もない。
あきらめとともに受け入れた悲しすぎる表情。
あの時のあいつと同じだ。
あの一瞬に見せた、リュミエールの表情。
俺は何を言ったんだ?
俺の何が、あそこまでリュミエールを傷つけた?
 
漂うように考える。
オスカーには分からない。
自分は真摯にあいつを愛したはずだ。
何故、傷つけた?
 
『ソレコソガオ前ガ目ヲ背ケタコト』
背後の声に振り向く。
そこに写るのは自分の顔、顔、顔。
万華鏡の中に紛れ込んだように、いくつもの自分の顔が見下ろしている。
重なり合う虚像は、誰か他の人間のようにも見える。
 
『お前は自分が何を言ったのか、覚えてないのか?』
 
自分の声が詰問するように自分の耳に響く。
 
あの時俺は何を言った?
初めての行為の後。
けだるげに俺に身体を委ねているあいつに俺はこういったんだ。
 
『この事は、誰にも秘密にしておきたい』
 
それを聞いた瞬間、あいつはぱっと顔を上げ、あの表情をしたんだ。
 
何故だ?
そんなにも酷い言葉か?
秘密にしておきたいと、そう言ったことが?
 
『言葉ではない。その言葉に潜んだ意味に、リュミエールは傷ついた』
 
虚像の全てがオスカーを見つめる。
その表情はおびえたような顔をしている。
これは今の俺の顔だ。
俺は今、怯えているのだ。
何故?
 
『お前はあの時、言外に言っていたのだ。この関係を知られることにより、
自分の評価に変化が起きるのを畏れたと』
 
たとえば、今まで自分が愛をささやいてきた女性達の。
自分を尊敬の目で見つめ、慕ってきた聖地の武人達の。
仲間達の。
そして、尊敬する上司の。
 
同僚であり、男であるリュミエールを愛したという事。
それを知られることにより、彼らが自分を見る目に変化が起きるのを、
オスカーは無意識のうちに嫌がったのだ。
リュミエールは何も揺らがなかったのに。
愛しているという気持ちに、一片もの疑いも持たず、
たとえ世界の全てが背を向けても、愛するという気持ちを否定しなかったものを。
 
オスカー自身がその思いを否定してしまったのだ。
 
「違う!」
『違わない』
「違う、俺は否定などしない!」
『結果はそうなった。お前は、自分の保身のために、
リュミエールとの愛を隠さなければならない、後ろ暗い物にしてしまった』
不意に辺りが全て闇に変わる。
立ちすくむオスカーの前に、もう一人のオスカーが立っている。
まっすぐに己の目を見つめ、罪を突きつける。
『認めるがいい。お前は守るべき物を自分の手で傷つけた。
あの哀れな男とどこが違う。お前は自分の恋心を認めることが出来ず、
人の評価に怯え、もっとも大切な物を壊したんだ』
断罪する言葉に、オスカーはもう否定できない。
 
壊れる。
俺があんな思いをさせたのか?
愛さなければよかったと。
愛する思いなど、知らなければよかったと――。
何かに心が押しつぶされていく感じがする。
圧力。すさまじい力。
このまま壊れる。
オスカーの意識が混乱を始める。
目の前に立つ、もう一人の自分の顔が歪んで見える。
と、そのとき。
 
強い力で身体が引かれた。
歪んだもう一人の自分の像が一気に遠ざかる。
何もなかった空間に星が生まれ、宇宙の闇の中を
オスカーは引かれていく。
向かう先に清らかな白い光。
それは誰かを連想させる。今一番会いたい人。
白い光の中に人影が浮かび、それがすぐにはっきりとしてくる。
 
『リュミエール
 
白い光の中、リュミエールが佇んでいる。
透明な今にも壊れそうに儚く見える、ガラス細工のリュミエール。
髪も肌も身にまとう衣さえも、全てがガラスとかしている。
いつも美しく微笑んでいる瞳も今は色を無くし、
何の感情も見せないまま、オスカーの方を見つめている。
 
『リュミエール
それがお前の心か?
ガラスのように壊れそうになり、白く冷たい。
そうしたのは俺か?
俺のためにお前は心を壊したのか?
 
ガラスのリュミエールの手がゆっくりと上がる。
ふれただけで崩れそうに見えるリュミエールが、
オスカーを迎えるようにこちらに手を伸ばす。
表情のないまま、それでも唇が微笑みの形を作る。
つらくても悲しくても、それでも愛しているから。
どんな時でも全てを受け入れると、そのガラスの瞳が語っている。
 
『リュミエール、もういい』
熱くなる胸の痛みに、オスカーは叫ぶように言った。
『俺が守る。今度こそ俺が守る。たとえ誰に否定されようとも、
俺は自分の心を否定しない。
愛している。もう2度と、同じ間違いは犯さないから!』
 
辺りを包む白い光に色が付く。
暖かな陽の光。
一度瞬いたガラスの瞳が豊かな碧に彩られる。
海を思わせる、美しい色。
冷たく白い肌は、暖かな体温を感じさせる白に、
長い髪が柔らかに揺れる。
衣が軽やかに風に踊る。
桜色の唇が優しく微笑む。
オスカーを迎えるために。
恋人をその腕に抱くために。
白い光は広がり、全てを輝きに変えていく。
その中で両手を広げて微笑む恋人の
限りなく優しい暖かい姿。
 
『リュミエール
白い指先に触れる直前に、オスカーの意識は柔らかな光に飲み込まれていった。
 
 
ぱっと最初に顔を上げたのは、誰だったのだろうか?
オスカーが次元回廊の事故で行方不明になってから
すでに数日。
女王の力を持ってしても探り当てることの出来ない仲間のサクリアを求め、
8人の守護聖は星の間に集い、意識を集中し続けていた。
丸1昼夜続く祈りに、年若い者が疲労を訴え、否応なく休息をとらなくてはならないと
首座の守護聖が考え始めていたときだった。
 
部屋の中央に巨大な光の柱が立った。
その中にどこからとも無く人の姿が浮かぶ。
見覚えのある赤い髪。眠っているように仰向けに横になった姿で
炎の守護聖はゆっくりと柱の中を降りてくる。
皆が柱の周辺に集まってくる中、少し離れたところで闇の守護聖は、
青ざめた水の守護聖がその場から動かないのを見て取った。
 
リュミエールは胸の辺りで両手を握りしめたまま、黙ってその光景を見ている。
光の柱の中を、仰向けにゆっくりと降りてくる恋人の姿を。
誰よりも先に近づきたい。
抱きしめて口付けたい。
でもそれは許されない。他ならぬ恋人が嫌がるから。
寂しい嗚咽が漏れぬように、ふるえる唇をしっかりと噛みしめ、
リュミエールは床に横たわったオスカーの回りから光が消えてゆくのを見守った。
 
ざわめきの中で目を開けたオスカーが最初に見たのは、
黄金の髪をした首座だった。
彼はオスカーの傍らに跪き、その頭を抱えているようだった。
その隣になにやら興奮して涙混じりのランディにマルセル。
反対側にきんきんと眉をつり上げているオリヴィエに、おろおろと何かを言っている
ルヴァ。その後ろに、ぶっきらぼうにこっちを見ているゼフェル。
みんなの声がただの音にしか聞こえず、言っている意味が分からない。
 
心配をかけてしまったんだな――。
みんな疲れた顔をしている。
ぼんやりとした頭でオスカーは思った。
そうやってみんなの顔をゆっくりと見回し、一番遠い場所で、その人を見つけた。
真っ青な顔で両手を握り会わせ、唇を噛みしめた恋人の顔。
まっすぐにこちらを見つめているのに、近寄ろうとはしない。
今にも緊張で倒れそうなほどにオスカーの身を案じているのに、
その人の望むことではないからと、必死に思いをこらえている。
もういいから。
そんな風に心を抑えなくてもいいから。
 
オスカーは力を振り絞るようにして体を起こすと、
まっすぐにリュミエールに向かって手を伸ばした。
その行動に驚いたらしい仲間達が伸ばされた手の方向を見る。
目を軽く見開くようにして、その手を見つめているリュミエールを。
クラヴィスが軽くリュミエールの肩を押した。
軽い力だったのに、押し出されるようにリュミエールが一歩を踏み出す。
ためらいがちに、オスカーの回りにへばりついていたランディたちが
道をあける。
オリヴィエが何がなにやら分からずにきょろきょろしているルヴァを、
そしてジュリアスを促しながら立ち上がった。
オスカーは力の殆どでない身体を、それでも自分で支えて
リュミエールに向かって手を伸ばし続けている。
硬い表情のまま近づき、その傍らに膝をついたリュミエールがそっと手に触れる。
オスカーはその控えめな手を今の精一杯の力で握りしめた。
誰の目も障害にならない。
疑問と驚きでこちらを凝視する光の守護聖の目も。
おずおずと握り返すリュミエールの瞳に涙が盛り上がる。
 
「お帰りなさい、オスカー
涙を零しながら、それでも微笑むリュミエールの声。
「お帰りなさい」
半ば意識が遠くなりつつあるオスカーの口元に、それでも安心したような笑みが浮かぶ。
「ただいま
完全に瞼が落ちる直前にささやいたオスカーの言葉は、リュミエールの耳にしか届かなかった。
 
 
―――2日後。
昏睡状態からさめたオスカーの枕元には、入れ替わり立ち替わり仲間達が見舞いに
押し掛けてきた。
どれだけ心配したか、腹立ち紛れにこぼすオリヴィエや、うっとおしい程に世話を焼きたがる
ランディやマルセルとか、「ついでだ、ついで」と乱暴にいいながら様子をのぞきにくる
ゼフェルとか。
その間ずっと、リュミエールはオスカーの枕元に付き添っている。
くすくすと笑みを絶やさずに。
ジュリアスも訪れた。
オスカーとリュミエールがいつの間に仲良くなった(というか、それ以上の関係)のか
今も疑問ありあり、と言った感じだが、当然のように付き添っているリュミエールと、
これもまた当然のように付き添われ、世話を焼かれているオスカーに、ぶつぶつ言うのも
大人げないとでも思ったのか、(この辺、オスカーの予想以上に理解があったらしい)
特別何も言いはしなかった。
 
そしてルヴァが。
穏やかな昼下がり、オスカーが迷い込んでしまった空間の調査の中間報告書を持って
やってきた。
「女王陛下の調べにも引っかからなかったんですよね。かなり複雑な時空枠に
迷い込んでたか、それとも別の宇宙だったのか。
まだまだ調査には時間がかかりそうですよー」
ベットの上に半身を起こして聞いていたオスカーは何となくいくら調査しても
分からないだろう、と思っていた。
そう言うと、ルヴァは首を傾げる。
「はあ、何故そう思うのでしょうね。根拠はあるんですか?」
「全くない、しかし、俺はその男の名もその国の名も聞かなかった。
手がかりがなさすぎるし、それに
そう言って言葉を濁して息をつくオスカーの顔を、ルヴァは少しの間じっと見つめていたが、
やがていつもの飄々とした顔で立ち上がった。
「確かに、そうですね。この膨大な星々の中には、歴史書に記されもしなかった
真実がたくさん隠されています。その1つにふれたのであれば、オスカーが出会ったその人々の存在も、
ひっそりとした時間の彼方で眠ったままにしておくべきなのかもしれませんね。
ああ、オスカー。お疲れのところ、お邪魔してすみませんでしたね。
今日はもう誰も来ないと思うので、ゆっくりとお休みなさい」
ドアに向かうルヴァを、リュミエールがオスカーの代わりに玄関まで見送りに立つ。
ルヴァはそれを当たり前のように受け入れ、小声で元気のつくお茶とか食べ物のことを
リュミエールに教えながら部屋を出ていった。
 
寝室は、オスカー一人になった。
開け放った窓からは、昼の穏やかな日差しと、木々の輝くような緑がよく見える。
何気なくオスカーはその見慣れた光景に目を向けた。
 
『ウオン』
 
犬の声。
ふっとオスカーの眼前に、聖地とは違う緑の庭が広がる。
黄金の髪をなびかせ、駆け抜けてゆく少女。
思わずオスカーはその幻影に向かって身体を浮かせた。
「オスカー!」
せっぱ詰まったような声とともに、腕が強く捕まれた。
驚いてみると、戻ってきたリュミエールが不安でいっぱいの顔で
オスカーの腕にしがみついている。
「どうしたんだ、何かあったのか?」
オスカーは宥めるようにリュミエールを膝の上に座らせた。
リュミエールは両手でしっかりとオスカーにしがみついてくる。
「あなたが、今どこかへ消えてしまいそうに見えて
よほどそれが恐ろしかったのか、リュミエールの声はかすれている。
オスカーの胸の内が、愛しさと切なさ満たされる。
彼はしっかりと恋人を抱きしめた。
「どこにも行ったりなどしない。お前をおいて、俺がどこに行ける」
「ですが
リュミエールの顔はまだ晴れない。
「お前が俺を救ってくれた。その借りも返してないのに、どこにも行くはずがない」
その言葉を聞いて、リュミエールは不思議そうに小首を傾げる。
「私は何もしておりません、あなたがどこかに消えてしまったときも、何の役にも
たてなくて
「いや、お前が俺を救ってくれた。あの迷宮の中、俺を信じ続けてくれたお前が
俺を呼んでくれたから、俺は帰ってこれたんだ」
リュミエールは言っている意味が分からない。
ますます首を傾げるその額に、軽くオスカーは口づける。
「分からなくたって良い。いつだって俺を救えるのは、お前だけだという事だ
優しいささやき声に、ようやくリュミエールの身体からも緊張が解ける。
そのまま黙って、しばらくの間2人は身体を寄せ合っていた。
 
穏やかな日溜まりの中、大切な人とともにいる時間の愛しさを噛みしめるように――。
 
 
少女は走り続けている。
息を切らしながら、それでも出口の見えない闇の迷路の中を。
前方を走る愛犬が、不意に少女を振り向き一声鳴いた。
 
小さな光。蛍のような。
清らかな水色と、炎のような赤が、彼女を導くように
空を飛んでゆく。
重なり合うような2つの光の軌跡が、やがて1つになる。
1つになった光は美しい虹色に点滅しながら、
大きく広がってゆく。
 
『ウオン』
 
ひときわ高く鳴いた犬が、少女に行き先を示すようにその光の中に飛び込む。
少し遅れた少女も、犬の後を追うように光の中に飛び込んだ。
暗闇の迷宮を抜け、その中で待つ褐色の男の腕の中に。
 
 
 
 
1999.11.04