オスカーの背後は、さっきからけたたましく騒がしい。
普段は穏やかで優しい空気にみたされている、リュミエールの私室とは思えないほどの騒音。
部屋の端から端まで音を立てて駆け抜け、また戻ってくる足音。
途中で止まったかと思うと、布に引っかかる音がして、カーテンが激しく揺れる。
そしてまた静かになったと思うと、ぴしぴしと布を弾く音と共に下りてくる。
下りてきたら、繰り返し。
部屋の端から端までの、往復運動。
 
 
「オスカー…うるさいですか?申し訳ありません…」
お茶を用意していたリュミエールが、オスカーの表情に気が付いて、申し訳なさそうな顔をした。
別に少しぐらいの雑音に、いちいち神経質に反応するほど、オスカーは、繊細ではない。
自宅だったら、馬が走り回っていたとしても(いや、たとえが悪すぎるが)、ある程度平然としているだろう。
とにかく、それくらい、物事には動じないつもりだった。
つもりだったのだが…最近は、自分は意外と神経質だったのではないか、と思うことがある。
とくにこんな時だ。
 
目の前で不安そうに首を傾げる、リュミエール。
そんな彼に安心させるように微笑みかけ、そっと手を取り、抱き寄せる――そんなタイミングを計ったように。
「うわ!」
思わずオスカーは声を上げて、のけぞった。
何かが背中に体当たりしたあと、肩から頭に向かって駆け上り、そして、頭のてっぺんで四肢を
踏ん張っているのだ。それもしっかり爪を立てて。
 
「ああ…ノワール!駄目です、下りなさい!」
リュミエールが、慌ててオスカーの頭上から、黒い毛玉をおろした。
リュミエールの腕の中から金色の目を光らせ、頭を抑えているオスカーを生意気に見返している毛玉。
毛玉の正体は、生後4ヶ月ほどの、真っ黒な短毛種の仔猫だった。
 
 
リュミエールに抱かれ、きょとんとしている黒の仔猫。
柔らかい間接照明のほんのりとした明るさの下で、その目はまん丸くなり、凶悪なほど可愛らしく見える。
見た目だけは、なのだが。
 
「なんで、俺がお前に触れようとすると、こいつは必ず襲ってくるんだ?」
威嚇するように睨んでみせると、仔猫はぴくんとして、リュミエールの腕の中に身を竦ませた。
そんな様子に、リュミエールは困り顔で、しかし、断固とした目で、オスカーの方をたしなめる。
「オスカー…この子はまだ小さいのです…怯えさせないでください」
ぐっと言葉に詰まったオスカーは、子供っぽい表情で横を向いた。
 
その拗ねた様子に、リュミエールは1つため息をつき、テーブルの上に置いてあった小さな籐の籠から、
リボンを結びつけた小さな鈴をつまみ上げた。
チリンという澄んだ音に、反応した仔猫は身体を伸ばす。
リュミエールはその鈴を2,3度ふったあと、軽く手首を返して、部屋の隅の方に放ってやった。
とたん、腕の中から飛び出したネコが、鈴の後を追って走って行ってしまう。
部屋の隅で、かってにリボンにじゃれついてる仔猫に、オスカーは呆れ顔をした。
 
「単純というか、簡単なヤツだな」
そう言って、籠の中に残っている鈴を1つ、つまみ上げた。
リュミエールの部屋には、あちこちの棚に、この鈴入り籠が置いてある。
じゃれついて、なにもできなくなったとき、これで気を逸らすためだそうだ。
 
「可愛いですよ。時々、くわえて持ってくるんです。まるで、もっと投げてくれって催促しているようで」
とろけるような笑顔でそういうリュミエールは、心底この仔猫が可愛くて仕方がないらしい。
もともとはオスカーと共に遠乗りしたときに見つけた迷いネコ。
茂みの影で、痩せてミーミー泣いていたのを見つけ、それこそリュミエールが哺乳瓶でミルクを与えて
育てた仔猫なのだ。
 
手塩にかけた分、可愛らしくて仕方がないのは判るが、いい雰囲気になると、飛び付いてくるのは
何故なのだろう。
数日前に来たときなど、伸ばした腕にしっかりと爪を立ててしがみつき、小さな口をめいっぱいに開けて、
オスカーの大きな肉厚の手に噛みついたのだ。
 
その時は振り払うというより、思わず二人でしみじみと眺めてしまった。
小さな鼻の上に皺を寄せ、一生懸命オスカーの手をかじっている仔猫。
小さな牙はオスカーの肌を傷つけはしなかったが、我に返ったリュミエールが、仔猫を引き剥がしてみると、
点々と小さな牙のあとが、しっかりと手に残っていたのだった…。
 
 
「申し訳ありません…ですが、猫を飼った経験のある人に聞いてみたところ、こうやってじゃれついて、
喧嘩の真似事をしながら、力加減などを覚えてゆくそうなので、成長に必要な過程なのだそうです…。
ある程度大きくなれば、外で発散するようになるでしょうし、もう少しだけがまんして下さい…」
リュミエールは懇願するように言うと、さっき爪を立てられたオスカーの頭を、そうっと優しく撫でた。
オスカーはその手を取り、そっと掌に唇を寄せる。
 
「あいつは、お前には、噛みついたりしないのか?」
そう面白そうに言ってみる。リュミエールのすべらかな手には、傷一つない。
「…はい…何故でしょうね。わたくしの手とは、喧嘩をする気も、起きないのかも知れませんね」
「綺麗な手だから、あいつも傷つけるのは、気が引けるんだろう」
「ノワールは猫ですよ。そんな事…」
リュミエールの頬が、淡い色合いに染まる。
その頬に唇を寄せようとした瞬間、またオスカーの背中に衝撃があった。
 
(…またか…なんで、こう、いつもいつも…)
毎度、いいタイミングでのお邪魔猫に、オスカーは腕を伸ばすと、頭の上から自分を見下ろす仔猫を
鷲掴みにした。
「オスカー、乱暴にしないで下さい!」
「乱暴になどしない、少し、躾をしてやるだけだ」
俗に猫をかぶる、とはよく言うが、実際に猫を頭にのせて、その気になる物好きなんてのはいない。
おかげで、この数ヶ月というもの、オスカーはリュミエールの館では、猫の相手ばかりしているようなものだ。
むかむかした勢いで、オスカーは、暴れる仔猫を自分の頭から引き剥がした。
そして――。
暴れまくる仔猫の後ろげりが、偶然にもオスカーの顔面にヒットしたのだった…。
 
 
◆◆
 
 
「ぶひゃひゃひゃ。何、あんた!その顔!」
翌朝、書類をもってオスカーの執務室を訪れたオリヴィエは、顔を一瞥するなり、指さして笑いだした。
「どーこの仔猫ちゃんに噛みつかれたの?うん?」
「仔猫ちゃんはあたってるが、噛みつかれたんじゃない。蹴飛ばされたんだ」
憮然として答えるオスカーの形のいい上唇には、昨夜の猫の爪による傷が、くっきりと付いていたのだ。
 
「ぬけぬけと言うねえ…リュミちゃんに言いつけるよ?」
「何を考えてる?これは本物の仔猫に、けっ飛ばされたんだ。リュミエールの所の黒猫にな」
「あらーーー、あのクロちゃんに?可愛い仔じゃないか、私が行くと、大人しく足下でゴロゴロしてるよ?」
けらけらと言うオリヴィエに、オスカーは蹴られて腫れた唇を引き結んだ。
なんとなく、むっとしてしまう。
 
「俺が行くと、噛みつくわ、引っ掻くわ、頭に上るわで、すごい騒ぎだぞ」
「それは自業自得。あの仔ネコちゃんがリュミちゃんちに来た当初、あんた、面白がって、頭の上に乗せたり、
突然手を出して、びっくりさせて遊んでたじゃない」
「う…」
考えてみれば、その通り。
一番最初、掌サイズの小さい仔猫は、オスカーが肩や頭に乗せると、怖がって逃げようとしていたものだ。
それを面白がって、リュミエールに叱られるまで何度も繰り返したのは、誰でもない、オスカー本人である。
大きくなって、高さへの恐怖も無くなり、オスカーの頭が、ただの踏み台に見えるようになったとしても、
ある意味、文句のつけようがないわけである。
 
「かわいそー、その様子じゃ、当分、リュミちゃんを独り占めするのは、無理っぽそうね」
同情するそぶりもなくそう言って笑うオリヴィエを、オスカーは力無く睨み付けた。
(…俺はあのバカネコとは、一生共存できないような気がするぞ…)
そんな事まで、大げさに考えてしまう。
 
「…いいさ、今夜は俺の館で過ごす。そうしたら、猫の邪魔も無しだ」
「あら、そうなの。んじゃ、私も遊びに行っちゃおうっかな〜〜〜」
「…お前…」
「冗談だよ、冗談。そんな恨みがましい目で見ないの、色男が台無しだよ〜〜ん」
からかい倒されても、反論する気力もないオスカーだった。
 
 
◆◆
 
 
「あー、こらー!爪を引っかけちゃだめー!」
リュミエールの側仕えの少女が、ベッドからはがしたシーツに絡みつく仔猫に、悲鳴を上げた。
「ああ、もう。そんなに楽しいの?」
元来猫好きの少女は、悪戯仔猫を叱りきれずに抱き上げた。
 
ふかふかの毛玉に頬ずりしながら、居間の例の鈴入り籠の所へ行き、その一つをつまみ上げる。
「遊んでたいけどね、お仕事すんでからね。それまで、ちょーっとそっちで遊んでて」
部屋の隅に投げられた鈴は、リーンという澄んだ音を立てて転がっていく。
ノワールはその後を追って、走って行ってしまった。
「さーってと、今のうちにお仕事」
少女はてきぱきとシーツを新しいのと交換してベッドメイクを終え、洗濯物を籠に入れて寝室から出てきた。
仔猫は窓際で、何故かじーっと外を眺めている。
 
「あれ、おとなしいね…ノワールちゃん、お腹空いたの?それとも、お外で遊びたい?」
声をかけながら猫の側に行き、それから、じーっと外を見るノワールの視線を追う。
「あれ?」
少女は猫が見ていた物を見つけ、目を丸くした。
 
 
◆◆
 
 
その日の夕方、リュミエールを迎えに来たオスカーが見たのは、部屋の隅から隅まで走り抜ける、
白と黒の残像だった。
 
「猫が分裂したのか?」
「そんなわけは、ないでしょう」
リュミエールがくすくす笑う。
 
昼にノワールと側仕えが見つけたのは、ちょうど、ノワールと同じくらいの大きさで、よく似た顔立ちをした
真っ白な仔猫だったのだ。
「ひょっとしたら、兄弟だったのかも知れませんね。すぐに懐いて、あのようにじゃれ合っているのですよ。
ですから、いっそ、一緒に面倒を見てしまおうかと思いまして、名前を『ブランシュ』とつけたのです」
黒白の2匹の仔猫は、どっすんばったん縺れたかと思うと、またほぐれて走り回り、
もはやオスカーも眼中にないようだった。
なんとなく拍子抜けした顔つきで、オスカーは走り回る2匹を眺めている。
 
「五月蠅さは倍増だな…いや、3倍増だ」
「ですが楽しそうです。見ていると、飽きませんよ」
確かに猫はお互いに夢中なようで、オスカーがリュミエールの手を取っても、邪魔しに来ない。
 
「五月蠅いことはうるさいが…とりあえずは平和が戻ったような気がするぞ」
猫の邪魔がないことに気をよくしたオスカーは、すぐさま、大胆にリュミエールを引き寄せた。
「また、すぐにそうやって…」
戸惑うような言葉を口にするリュミエールも、機嫌をよくした恋人の顔に、ほっとした笑顔を見せる。
 
2匹の猫たちは、どたばたと部屋の中を走り回ったあと、早々とドアにつけられた猫用出入り口をくぐって
廊下へと駆けだしてゆき、その後、リュミエールの部屋は、すぐに灯りが落とされてしまった。
 
 
◆◆
 
 
館中が静まりかえった深夜になって、さんざん遊び回った2匹の仔猫は、ねぐらであるリュミエールの部屋へと
戻ってきた。
 
居間は人気がなく、白の仔猫は、かってしったるこの部屋の住人の黒の仔猫の後をついて、そうっと
主の寝室へと続く、小さなくぐりドアを通り抜けた。
こちらも灯りの落ちた寝室では、柔らかで暖かいベッドの上で、二人の人間が向かい合うように
寝息を立てている。
 
そのベッドのすそで、2匹は示し合わせるように一旦立ち止まり、それから、ふわりとベッドの上に飛び乗ると、
そろそろとシーツを踏んで、二人の人間の寝顔を覗き込んだ。
ブランシュが、そろりと小さな鼻先を近づけると、ふわふわの猫毛が肌に触れたのか、
赤い髪の人間は僅かに眉をしかめた。
だがそれっきり、起きる気配はない。
 
ノワールは主の柔らかい頬に、ぺたりと前足を押しつけた。
主は無意識にか細い指を伸ばし、2,3度ノワールの頭を撫でたが、やっぱり起きる気配がない。
2匹はすっかり熟睡している二人を確認すると、それぞれの胸元に寄り添うようにくるりと丸くなり、
やがて静かな寝息を立て始めた。
 
二人と2匹の共存は、どうやら無事に成されたようである。