☆それは見渡す限りの草の海。
 
守護聖達が休暇のときに使用する、隠れ家のような家のほんの先。
緩やかな丘が重なり合うような丘陵地帯。
背後には白い峰。前には、針葉樹の森。
空気が澄んでいるから、遠い場所も近く見えるんだと、オスカーが笑う。
「うっかり一人で遠出するなよ?」
子供に注意するみたいですね?と、心持拗ねたような目を向け、
それからリュミエールは草の海の中に足を踏み入れる。
ほんのわずかばかり歩いたつもりで、ふとあたりを見まわすと。
広がるのは一面の草ばかり。
そばにいたはずの人の姿も、盛り上がりを感じさせないなだらかな丘の影に隠れて、
もう見えない。
 
怖くはないと思った、一人でも。
まだ日は高いし、側にはきっとオスカーがいる。
迷子になっても探しに来てくれるだろうと思ったところで、リュミエールは少しばかり
意地になった。
(歩いてきた場所なのだから、一人でも歩いて帰れます)
そう思って、まっすぐ振り向かずに歩いてみる。
脹脛の中ごろまでくる丈の草は、風が吹くたびに、ざわざわと潮騒めいた音を出す。
ふわりと甘い香りがあふれる。
草の合間に咲く小さな紫の花。
これは香草なんだ、と、いつのまにか隣に来ていたオスカーが
面白そうに教えてくれる。
「俺の故郷にも咲いていた。夏になると、遊牧民たちはこの花のある草原に
集まってくる。ヤギに食わせると、とりわけ良い香りの乳を出すのだと」
驚かせないで、と抗議しようかと思って思い直し、リュミエールは傍らにいる
男の顔を、軽く小首を傾げて見上げてみた。
いつもよりも少年じみて見える、端正な顔。
きっと、この小さな花に、懐かしい思い出がいろいろよみがえったのでしょうと、
そう思うと、余計に彼の顔が幼げに見える。
足元にゆれる草の感触を確かめるように、今度はオスカーが
前を歩き出した。
 
 
物心がついたとき、彼はもう一頭の馬をもらっていた。
草原の惑星では、今も馬は普段から足代わりに使われる。
無論軍人の家系の彼の家には、車もあれば、バイクもある。
でも馬を乗りこなすのは、この草原の星の者にとっては当たり前のこと。
男も女も、老いも若きも、みんな自分の馬を持ち、体の一部のように、
乗りこなす。
「恋人ができたら、馬に乗って草原に行くんだ。一番、邪魔が入らない」
一番若い叔父が茶目っ気たっぷりに言って、父に「変なことを教えるな」
としかられていた。
恋人はともかく、オスカーは馬に乗って草原に行くのが好きだった。
見晴るかす草原の海。
この向こうには、何かものすごい宝のような光景が広がっているような気がした。
士官学校に入り、めったに自由気ままに馬に乗れなくなっても、
目を瞑れば、いつでも広い草原の大きな空気を感じることができた。
守護聖となり、聖地に行くのだと知ったとき、最初に期待、
そして、思いがけないほどに強い寂寥感。
いずれは王立派遣軍に入って、いろいろな惑星に行くだろう。
故郷から離れることに、そんなに抵抗はないと思っていた。
でもこの心の隙間は何だろう。
 
目の前に流れる風景が、思いがけずに痛かった。
 
記憶の底に沈んでいたことにオスカーはようやく気がついた。
懐かしい香りに、忘れていた事まで思い出していたようだ。
こんな感傷に浸っているとは、我ながらあきれると改めて顔を上げると、
あたりは一面の緋色に染まっている。
地平に沈む夕日は、文字通りもえるような赤に、草原を変えていた。
ふと、オスカーはあたりを見まわした。
きっとすぐ側で、この見事な夕焼けに心を奪われているだろう、
繊細な感受性を溢れるほどに身内に持つ、その人を。
 
その人はいた。
黙って立ち尽くしていたに違いないオスカーから、ほんの数メートルほど、
離れた場所で。
じっと見つめていた。
どこか悲しげな瞳で。
夕陽ではなく、オスカーその人を。
燃えるような緋色に、全身を染め上げて。
 
ふと、リュミエールの表情が変わった。
一瞬だけ泣き出しそうに瞳が動き、それからゆっくりと唇が形を変える。
さわっと風が流れ、とかれている長い水色の髪を、ゆらりと動かす。
綺麗だ、と思った。
その人が両手を差し伸べる。
長い旅路の果ての、旅人を迎えるようなしぐさ。
微かな笑みが、たとえようのない慈愛をたたえる。
胸が痛くなるほどの懐かしい草原の風景。
白い手に触れながら、オスカーはそこにただ一人の人が立つ姿を、
永遠に忘れまいと思っていた。