さわさわという葉擦れの音と、柔らかなスポットライトを思わせる木洩れ日。
聖地の空気は限りなく暖かく、そして優しい。
オスカーは今までまともな会話すら成立しなかった人を腕に抱き、夢見ているような心地よさに浸っていた。

完全に胸に頭を預け、自分の腕の中でくつろいでいる人。
ここまできたら次にする事はただ一つ、やさしくキスをすること。
オスカーは始めてキスする少年のように高鳴る鼓動を抑え、さりげない動作でリュミエールの背に回した腕を頬に移動させようとする。
が――その手が触れる前に、リュミエールはすっと身体を離すと、嬉しそうな顔でオスカーの顔を見る。肩すかしを食らわされたオスカーにしてみれば、「これからって時に逃げるな!」と叫びたい気分ではあるが、いちいち噛みついてしまっては今までの二の舞になるだけなので、そこをぐっと押さえ込む。
何より、リュミエールはニコニコと笑っている。けして嫌悪を感じて離れたわけではない。そう思ってオスカーはリュミエールの言葉を待つ。
リュミエールはにこっとすると、自分の内心を確認するように言った。

「……なぜ、今まで貴方を見る度に苛ついていたのかと、ずっと不思議に思っておりました。最初の出会いが悪かったので、それで苦手意識を持っていたせいかと思っておりましたが……いえ、実際それもあったことは確かでしたが」

(……にこやかに何を言うのか)と、オスカーは一瞬前のめりに倒れそうになる。何もわざわざ『苦手』を確認したことなど言わなくてもいいのに。

どっしり石でも乗せられたような顔つきになるオスカーに気が付かず、リュミエールはなぜかウキウキとした表情で言葉を続けていく。

「今、触れてみてはっきり判りました。わたくしはきっと、こうやってあなたに近付いてみたいとずっと思っていたのです。ですが、それが出来ずに結果的に苛ついて八つ当たりをして……随分と幼い行動だったのだと思います」

オスカーは、頭を押さえつけていた石が雲になって、自分を空に飛ばしてしまうのではないかと思った。リュミエールはさらりとした顔で、自分もオスカーと親しくなりたかった、とそう告白したのだ。

犬猿の仲から、一気に相思相愛。
頭のねじが吹っ飛びそうな勢いで、オスカーはがしっとリュミエールの肩を掴む。
なんとなく体育会系の体勢になってしまったのは、オスカーが動揺していたせいだろう。当然、リュミエールはそんな色気のないオスカーの求愛行動にも気が付かず、自分の気持ちがはっきりとし、今までのモヤモヤが消えたことを純粋に喜んでいるようだった。

「あなたも同じように感じていてくださったのですね…。それならば、今までの誤解は全て解くことが可能になります。貴方との関係が改善されることを、わたくしは心から、嬉しく思います」

喜ぶリュミエールは、子供並に純粋だった。そのきらきらと純粋な喜びに輝く目は、オスカーの不純な願望を頭の上から押さえつけるのに十分だった。
輝くような瞳に真っ正面から見つめられ、物慣れた大人の恋愛関係に今すぐ移行したかったオスカーも、なんとか自分に言い聞かせる。

(……本人が言ってるじゃないか。これから、二人の関係は改善されると……それからゆっくりと関係を変えればいい。リュミエールは俺が好きなんだから……少しぐらい時間がかかったところで問題はない)

気難しげにそう結論付けると、目の前でニコニコしているリュミエールに、余裕のある笑みを向ける。
「これからいくらでも話し合い、理解する時間を持てるというのは、俺にとっても喜ばしい事だ。さて、……そろそろ時間も時間だ。屋敷まで送っていこう」
そう言いつつ、僅かな下心を潜めて手を差し出す。
オスカーと触れあう事に満足感を覚えると気が付いたリュミエールは、その手を素直に取った。にっこりとし、自分からも手を握りかえしながら、「まるで、子供が家に帰るときのようですね」などと少し恥ずかしげに、可愛らしく言う。

まずは子供同志の友情から――まあ、それでもいいかとオスカーは思う。

今一番自分が考えなければいけない事は、せっかく自分への好意を自覚し、口に出してくれたリュミエールの自分への評価を、再び「無神経で自分勝手な人」に戻さないことだ。今自分が焦って押し倒したりしたら、当然リュミエールは眦をつり上げて「やはり、貴方を信用したわたくしがバカでした!」という事になるのは目に見えている。

いつまでも、リュミエールに振り回されているわけにはいかない。
恋の主導権は絶対に自分が握る!
そう心に誓い、オスカーはとっておきの笑みを見せた。
女性達の心を虜にし、信頼を勝ち取るための、文字通り「大人の余裕を持った男」の顔だ。リュミエールに効果あるかどうかは判らないが、少なくとも、頼もしい男に見えることは間違いない。
リュミールは心持ち頬を染め、照れくさそうな顔で微笑んでいる。
オスカーは今日一日のドタバタ劇の全てを忘れ、それどころか試練を乗り越え宝物を手にした勇者の心境で、充足感に満たされていた。



翌日。
前の日の幸福感を持続させつつ宮殿に機嫌良くやってきたオスカーは、執務室に入るなりジュリアスからの呼び出しを受けた。

「さて、今日も一日、いそがしそうだな」
当然、仕事の話だと思っていたオスカーは、普段よりもやる気に満ち満ちたままジュリアスの元へ行く。だが、執務室に入り、ジュリアスの顔を見た途端、いきなりオスカーは凍り付くような冷たい視線を感じてその場に固まってしまった。
ジュリアスは眉間にしわを寄せ、眼光鋭くオスカーを睨んでいるのだ。

(……なんだ?失敗をした覚えはないが…)
ごくりと唾を飲み込むオスカーに、ジュリアスは重々しく告げた。

「オスカー、そなたが有能かつ信頼の置ける人物であることを、私は十分に承知しているつもりだ」
いきなり何を言うのかと、オスカーは身構える。ジュリアスは辛そうに僅かの間目を閉じ、そしてまっすぐにオスカーの顔を見据えて言ったのだ。
「だが、オスカー。そなたの昨日の行動を聞くに及び、私は非常に残念に思う。そなたは場をわきまえて振る舞う術を知っていると信じていたのは、私の買いかぶりだったのか?」
そこまで言われ、オスカーは急いで反論を試みた。何を責められているのか、さっぱり理解できなかったのだ。
「恐れながらジュリアス様!一体何のことだか…」
「そなたが昨日、リュミエールのハープを彼から強引に取り上げたという事は、すでに報告が入っている。公園ではリュミエールと諍いを起こし、居合わせた民に非常な不安感を与えたばかりか、子供達まで恐怖に陥れたというではないか!」
突きつけられた言葉に、オスカーは激しい衝撃を受けた。なんというか、自分がとてつもない極悪な行動をしたように言われてしまったのだ。
言葉を無くしたオスカーに、ジュリアスはさらに嘆かわしげに続ける。

「そなたがリュミエールと不仲であることは、私も重々承知している。女王陛下に使える守護聖同士とはいえ、どうしても性が合わない、という事はあり得るだろう。だからといって、それを民の前であからさまに示すなど、守護聖としてしてはならぬ軽率な振る舞いであると私は考えている。しかもそなたは怒りを露わにしたまま、あちこちリュミエールを追いかけ回していたと言うではないか。事もあろうに、あの諍いを嫌うリュミエールに対し争いをしかけたということで、一般の民はもちろん、公務についている者の間でも、守護聖間の不仲に対する不安感、不信感が広まっている。私はそなたを信頼しているがゆえに、あえて苦言を呈する。そなたが己の感情を抑え、守護聖にふさわしき振る舞いをする事を、私は期待している」

一方的な加害者扱いに、オスカーは何一つ反論できず、ぽかんとして半分混乱しながら、オスカーはなんとか思考を纏めようと考えた。

(ハープって…おれが取り上げたことになっていたのか…。公園で、……恐怖に陥れたって…まるで怪獣のように…しかも不仲だからって…不仲…)
ジュリアスの執務室のドアを閉め、廊下にふらりと出たところで、オスカーはばっと顔を上げた。妙な話だが、昨日リュミエールと和解して、それどころか今後の薔薇色の未来まで想像出来るほどリュミエールの館で親しく話をして、帰り際に頬にキスまで交わしたのは、全て自分の幻想だったのか、という気がしてきたのだ。
本当は、昨日はさっき言われたとおりに人前でリュミエールと派手なケンカをし、強引にハープを取り上げ、修復不可能なまでに深い溝を作り上げ、その上で罪悪感から自分に都合の良い幸せな記憶を作り上げてしまったのではないかと。
そんな筈はない、と思いつつも、ジュリアスにさんざん不仲だと言われて今一つ自分に自信が持てなくなったオスカーは、当然と言えば当然だが顔を強ばらせた必死の形相でリュミエールの執務室に飛び込んだ。


そこにリュミエールはいた。昨夜のうちにルヴァから届けられいたらしいエレキハープを磨いていたリュミエールは、緊張のためか肩で息をしているオスカーに心底驚いた顔で立ち上がった。
「……どうなさったのですか?オスカー」
オスカーは大股でその前に歩み寄ると、いきなりリュミエールの両手を掴む。
「リュミエール!」
「はい」
何が何だか判らないまま、両手をオスカーに預けて返事をするその表情をまじまじと見つめ、オスカーは不意に全身の力が抜けていくのを感じてへろへろとリュミエールの机に片手をつく。その様子を見てリュミエールは慌てたらしい。
「どうなさったのですか?オスカー。気分でも悪いのですか?」
「いやいや、……そうじゃない。そうじゃないが、一つだけ確かめさせてくれ」
なんとか身体を保ち、オスカーは一つ唾を飲み込んでから、リュミエールの目を見て問いかける。
「……夕べ、おれはお前の館で色々と話をしたよな?」
それを聞いて、リュミエールの頬にぽっと赤みが差した。夕べのあの信じられないほど甘くて優しい時間を思い出したらしい。その表情に、ようやくオスカーは心の底から安堵を覚えた。

炎と水の守護聖が不仲であった時代は、完全に終わったのだ。本当に、ほんっとーに、もう過去の話になったのだ。

「オスカー、本当にどうなさったのですか?」
「いや、なんでもない。ハープを手に持ったお前の美しさに、つい眼が眩んでしまったのさ」
「……また、そんな戯れ言を…」
リュミエールは恥ずかしそうではあるが、その賞賛の言葉にまんざらでもない様子で微笑む。オスカーの心に余裕が戻った。
「今度ゆっくりと俺にも聴かせてもらえるか?そのエレキハープの音色を」
「もちろんです。それまでに……音量の調整の仕方をちゃんと覚えておきますね」
少し悪戯っぽい顔でリュミエールが笑う。その楽しそうな顔に、オスカーはしみじみと幸せを噛みしめる。この時点ですでに恋の主導権はがっちりとリュミエールに握られていたようなのだが、幸せに浸るオスカーはその事に気が付いていなかった。


★★★★★★★★★★★★★


オスカーがリュミエールの執務室でたわいのない幸福に浸っていた頃――。
宮殿内を高速で駆け回っていた噂があった。

「オスカー様が、ジュリアス様の執務室から出てきた後、とてつもなく怖い顔でリュミエール様の執務室に押し掛けて行かれたそうな」
「どうやら、昨日、オスカー様がリュミエール様をしつこく追い回したあげくに騒動を起こしたことでジュリアス様の叱責を受け、その鬱憤晴らしに怒鳴り込んだらしい」
「……お気の毒なリュミエール様」
「オスカー様はなぜあんなにもリュミエール様を目の敵になされるのか…」
「本当に、オスカー様とリュミエール様は仲がお悪い」

かくして――。
たとえ水と炎の守護聖がどれだけ親交を深め、裏で親密度がMAXまであがっていようとも、聖地に仕える者達は永遠に語り続けるのである。

「炎と水の守護聖様は不仲である」と――。