◆花の降る谷を越え2◆
 
「4つかそこらの子供の足でも行けたんだから、それなりの道があるって事だな」
翌朝早く、ゼネテスは森の小道の行く先を見ながらそう言った。
手には古い地図と新しい地図が両方ある。見比べながら、古い地図に示された建物跡らしき書き込みのある地点には、どうやれば行けるのかと考えているのだが。
その手元を覗いていたリュミエが顔を上げ、ゼネテスの顔を見た瞬間、吹き出した。
 
「ゼネテス、顔、細かい切り傷だらけ」
「誰のせいですかい?俺のこの男前の顔が、猫の爪研ぎ板みたいになっちまったのは」
ゼネテスが憮然として言う。
「だってゼネテスがやらしい事を言うんだもの。そういうのって、自業自得って言うんだよ」
昨夜、リュミエはゼネテスを麻袋ではり倒すだけはり倒し、藁まみれの彼に大笑いをし、そのまま藁布団でぐっすりと熟睡したので、今朝はすこぶる元気がいい。
ゼネテスの方は、哀れ麻と藁の繊維で、顔中に細かい傷を山盛り作ってしまったのだが。
 
そして今朝もけらけらと明るく笑っているリュミエに、ゼネテスも満足そうに笑う。
「ま、泣きながら寝るよか、夢見も良かったようだしな」
「うん、…ありがとう」
「改めて礼なんて言われると、照れくさいな。ま、気にすんな」
「うん、気にしない。で、どうやって行こうか」
あっさりといって、ゼネテスの腕にしがみつくようにして地図を覗き込むリュミエに、ゼネテスは目元を和ませた。
 
 
シェーヌの森は、そのまままっすぐに抜けると無限の湖にたどり着く。
だが古い地図によると、南に向かう岬の端の方に、小さく遺跡らしき物があったらしい。
「船からこう、海沿いの断崖の隙間に、花束が差し込んであるように見える場所があったの。
昔、母さんが、やっぱり船からそこを指差して、一番お気に入りだって言ってた場所だと思う。
だから多分、そこで間違いないと思うんだけど…」
あやふやすぎる記憶に、リュミエはどこか申し訳なさそうにゼネテスを見上げる。
ゼネテスはその不安そうな顔に一つ笑いかけると、大きな手でぽんぽんと軽く頭を叩いた。
「ま、とりあえず、行ってみれば分かるだろう。南に抜ける道がないか、探しながら行ってみようぜ?」
 
穏やかな森の中を歩きながら、リュミエは思い出しつつある事を、独り言のように話していた。
「ずっと父さんと2人で、そのうちにルルアンタも一緒に旅するようになって。辛くたっていつも笑っているルルアンタを見ていたら、なんだか、寂しいとか、そんなことを考えてるのが悪いことのように感じられてきたの。だからいつのまにか、母さんの思い出とか、そんな話が出来なくなってた。全部忘れたようなつもりでいたけど、意外と覚えてる物なんだね」
ゼネテスは、枯れ枝や下草で覆われた場所を、大剣の先で探りながら歩いている。
古い道の跡がないかどうか探しているのだ。
「どんなお袋さんだったんだ?」
「覚えてる限り、とにかく豪快な人!私と同じ青い髪をしてたけど、体はもっと大きかった気がしたな」
「お前さんが小さかったから、そんな気がしてただけかもよ?」
木々の間の不自然な隙間を見つけたゼネテスが、リュミエを呼ぶ。
「下りになってるな。行ってみるか?」
リュミエは頷いた。
 
張り出した枝を払いながら、木々の間を進む。すると、土砂崩れでもあったのか、途中でえぐられたような段差が出来ていた。
その先には流れたらしい土が溜まり、小山のようになっている。
もっともそれ自体はだいぶ前だったらしく土の上には草が生えていたが、その間にどうやら舗装に使われてたらしい石の欠片が混じっていた。
「…何かあったのは間違いなさそうだな」
ゼネテスは自分の身長ほどの段差を滑り落り、続いて下りようとしたリュミエに向かい両手を差しだした。
「1人で下りられるよ」
「いいから、来いって」
言われるままに何となくリュミエが手を差し出すと、ゼネテスはそのままひょいと抱え上げて下におろした。
思いがけない扱いに、リュミエは目を白黒させる。
「どうした?」
「…なんだか変、自分がお嬢さんみたいな扱いされてるように感じる」
「たまにゃ、いいだろ?」
そう言ったゼネテスは繋いだ手を放さない。どうやら足場が悪いので、手を貸してるつもりなのだろうが、はっきりいってリュミエは落ち着かない。
「ゼネテス、夕べ、殴りすぎて、どっか壊れた?」
その質問にゼネテスは声を上げて笑ったが、結局手を放してはくれなかった。
 
小山を崩し、ゼネテスは石の欠片を取り出した。明らかに平らになるように加工した痕がある。
「この先に何かがあるのは本当らしいな」
渡された石は綺麗なマーブル模様が入っている。いかにも貴族趣味っぽい。
「…でも、それが母さんのお墓がある場所とは限らないよね。城塞都市跡みたいな、ただの遺跡かも…」
「今更何を言ってる」
怖じ気づいたのか、リュミエはそんな懐疑的なことを言いだした。
「だって、この先にいって違ってたら、私、ゼネテスに何日も無駄足踏ませたことになる。なんだか、申し訳なくて」
その他人行儀とも言える言葉に、ゼネテスは少し驚いたような顔をした。
それから、心持ち寂しそうな表情が口元に浮かぶ。
瞬間的に、リュミエは自分が何かゼネテスを傷つけるようなことを言ったと悟ったが、ゼネテスはすぐにいつもの飄々とした笑い顔に感情を紛れさせてしまった。
「気にすんなって、俺は好きでやってるんだ」
そう言って、歩き出す。当たり前のような動作でまた繋がれた手に、リュミエは縋りたい気持ちになっていた。
 
自分の手をすっぽりと包んでいる大きな手。
ちょっとした茂みとか、くぼみとか、普段だったらなんの問題もないような場所でも、ゼネテスはなぜか過保護なくらいに気を遣い、時には抱き上げて運んでくれたりする。
どうしてこんな風にするんだろう?
リュミエは不思議で仕方がない。でも、どういうわけだか、拒む言葉は口をついてでない。
まるで普通の「女の子」のように扱われている。
 
普通だったら――こんな時にどんな表情をして、どんな風にお礼を言うんだろう。
男手一つで育てられ、旅から旅の生活だった所為か、リュミエは髪型や服装の趣味も完璧実用型だ。
ひらひらの服や長くのばして飾りを付けた髪型など、人がしているのを見ている分には可愛いと思うが、自分がそんな格好をしたいとはあまり思わない。
こういうところがすでに「普通」の反応じゃないんだろう。
時折町で見かける自分と同じ年頃の娘達。
彼女たちはとても自然に男達の視線を受け、とても上手にはぐらかし、気を持たせる台詞を口にする。
いつもは羨ましいなんて思ったことはないけど、今はそのやり方を伝授して欲しい、なんて思ったりもする。
どうやったら「可愛い女の子」のように振る舞えるのだろう。
今、そんな風に扱われてるのに、自分はどうすればいいのか分からない。
 
「おい、どうした、疲れたのか?」
ふっとリュミエは顔を上げた。
考えているうちに足が止まっていたらしく、ゼネテスが気遣うようにこっちを見下ろしている。
「あ、大丈夫…。だって、まだそんなに歩いてないよ、ねぇ…」
またゼネテスが少し寂しげな顔をする。
どうしてだろう。「疲れちゃった」って言えば良かったんだろうか。
みんなで旅をしているときは、こんな風な事はなかった。
男であろうと女であろうと、一日の予定に合わせて進むのだから、甘えて弱音なんて吐いてられないから。
 
朝の楽しい気分はどこかに行ってしまった。
行き先への不安と、今、自分が求められてる態度に対する不安。
やっぱり1人で来た方が良かったかと、リュミエはそこまで考える。
ゼネテスは優しいけれど。どこまで甘えて良いのか、その境界線が分からない。
何度か休憩を入れながら、時折立ち止まって方向を確かめながら歩き続けた。
上っ面だけの楽しい会話。
ゼネテスは笑っているけど、時折自分に向けられる視線に、本当に笑っているわけではないことが分かる。
きっとゼネテスも気が付いているんだ。
リュミエが不安を抱え込んで、答えが見つけられなくなっていることに。
繋がれた手だけが彼女の足を前に進ませる。
 
俯きかげんで歩き続けると、急に風が変わったような気がした。
顔を上げると、森を抜け、海際の断崖の上のわずかな草原にいた。
「ありゃ?地図だと、この辺なんだがな」
ゼネテスは地図を広げた。森の中にいたときはあまり気が付かなかったが、辺りは日暮れの薄闇に包まれかけていた。
古くて変色した紙に退色したインクの地図では、細かい部分が見づらくて、はっきりしない。
 
リュミエは崖の際まで行き、ぐるりと辺りを見回す。
いきなり崖の縁に腹這いになり、身体を大きく前に乗り出させたリュミエに、ゼネテスはぎょっとした。
「おい、アブねぇ、なにをやってんだ!」
引きずるように体を起こさせると、リュミエは途方に暮れたような顔で、首を振る。
「向こうの下の方に、船から見たのと似たような岩が見えた気がしたの。
でも、角度が悪くて、よく分からなくて」
「お前さんなぁ、ただでも視界が悪くなってるってのに、なにを無茶やってんだ!」
「…だって…」
気まずそうにリュミエは俯く。ゼネテスはため息を付くと、リュミエの手を取り、強引に引っ張りながら森の方に歩き出した。
「ゼネテス…」
「野営の準備をしようや。お前さんは気が付かなかったろうが、小さな泉がある」
 
草地と森の境界付近の岩場で、一つ水が湧いている場所があった。
ゼネテスは、その近くの木々のまばらなあたりに、野営の場所を決めたようだ。
石を集めて竈を作り、落ちている枯れ枝を集めて火をつける。
リュミエは新鮮な水をくんでくると、鍋に入れて火にかけた。
代わりばえのしない保存食ばかりの食事では、たとえお茶であっても温かいものが嬉しく感じる。
カップを両手で抱えるようににしてお茶を飲みながら、リュミエはそっとゼネテスの表情を伺った。
隠してはいるけれど、何かに苛立ってるようなのが分かる。
普段は飄々としている分だけ、ほんのわずかの尖った雰囲気が酷くぎこちない。
 
(どうしよう。何か言わなくちゃ)
そう思っても、不自然なほどに意識している自分では、ろくな事が言えないだろうとリュミエは唇をかんだ。
時折、木々の隙間を縫うように、海からの風が吹いてくる。
大陸の南のこの辺りは、夜になってもそう冷えることはないが、湿気を含んだ風に思わずぞくりとする。わずかに体を震わせたリュミエにゼネテスは気が付いた。
「そこ、風が来るんじゃないか、こっちに来な」
そう言って自分に向かってのばされた手を見つめ、リュミエは無意識のうちに首を振った。
瞬間、ゼネテスの眉が厳しくなる。
「ひゃ…」
体を起こしたゼネテスが、強引にリュミエを自分の腕の中にすっぽりと抱き込んだ。
ゼネテスの胸を背もたれのように脚の間にすわらされ、リュミエはどきまぎしてそこから逃げようとする。
「こうしてる方が冷えないだろ?」
リュミエがじたばたすればするほど、ゼネテスは身体に回した手に力を込めてくる。
「いい、平気だから。はなして…」
思わず懇願の口調になったリュミエに、ゼネテスはこらえきれなくなったのか、背後から少女の肩に顔を埋めるようにして言った。
「だから!どうしてお前はいつも嘘を付くんだ!」
 
ぎょっとしたリュミエがわずかに顔を横に向ける。すぐそこにゼネテスの顔。
唇が触れそうなくらいの所から、じっと見つめている。
「…嘘なんかついてない…」
「それなら、誤魔化している」
「誤魔化しなんてしてない!」
悲鳴のようなリュミエの声に、ゼネテスは「自覚がないのか?」と言った。
 
「泣き虫なくせに意地っ張りだよな、お前。どう見たって大丈夫じゃない時でも、大丈夫だって言うし。平気じゃなくても、平気だという。1人で考え込んで、悩んで、煮詰まって、どうにもならないままに不安を積み重ねていく。違うって言いきれるか?」
 
…言い切れない。ゼネテスが言ったのは、文字通り今の自分の心境そのものだったから。
世界がどうとか、破壊神復活がどう、とかいう大きな不安から、それこそ「普通の女の子ぽっくない」とか、「ゼネテスは自分をどう思ってるんだろう」なんていうきわめて個人的な不安まで。
一緒くたになって、優先順位もつけられないくらい、リュミエの中でごちゃ混ぜになっている。
狼狽えたリュミエが口にしたのは、思わず謝罪の言葉。
「ごめんなさい」と言われたゼネテスは、もどかしげに彼女を抱いている腕に力を込めた。
 
「ゼネテス、痛い…」
「我慢しろ!こっちだって痛いんだ」
始めて聞いたゼネテスの殆ど泣き言みたいな言葉に、少女は大人しくなり、おそるおそる問いかける。
「…どこが痛いの?」
「心が痛い。たまらんぜ?お前さんは1人の時はいつも泣きそうな顔をしている。
なのに聞いてもなにも答えない。『平気だ』って強がるだけだ。
隠し事なんてするな!言いたいことがまとまらないなら、八つ当たりでも何でもしろ!そう言いたくなる。まるっきり信用も当てにもされてないみたいで、こっちだってしんどい時があるんだぜ?」
リュミエは瞠目してゼネテスを見つめた。真剣で、どこか悲しそうな瞳に、リュミエは衝撃を受ける。
「ごめん、そんなつもりはなかった…、って言い訳だね…」
少女は身体の力を抜いて、とんとゼネテスに完全にもたれかかった。
 
「どこまでが甘えた泣き言で、どこからが相談すべき事なのか、それも分からなくなってた。
最初にそこから悩んでたから、なんにも言えなくなったし…、それに、ゼネテスの事も分からなかった」
「俺が?」
こくんとゼネテスの腕の中でリュミエが頷く。
「やっぱり一人前に認められて、そう扱われたいって、ずっと思ってたもの。それが一緒に旅するようになったとたんに、あれもこれもって頼って言い立てたら、なんだか呆れられそうな気もしたし、それに…」
「それに何だ?俺に隠すなって言っただろうが」
リュミエが困った顔をする。
「いつも一緒にいてくれる事に、慣れすぎてもいけないと思ったの。
別れた後、寂しくてどうしようもなくなるじゃない!」
自分の前に回されたゼネテスの腕に額を押し当て、リュミエは顔を隠してしまった。
 
殻に閉じこもるように目を閉じた少女の耳に、淡々と告白をするような声が届く。
「ドジ踏んだときは怒らなかったのに、隠し事したくらいで何で怒るって、お前さん言ったよな。
俺の前でなら、いくらドジを踏んだってかまわん。竜の尻尾だろうが、地獄の蓋だろうが、好きなだけ踏め。俺が側にいる限り、いくらでも手助けしてやれる。だが隠し事だけは絶対に駄目だ。1人で何かしようとするのもな。
近くにいなきゃ、いくら俺でもなにもできない。お前が泣いてたって、笑わせてやることも出来やしない」
その深い声に、リュミエがそっと顔を上げる。相変わらず、すぐ近くでこっちを見つめるゼネテス。
 
欲望を感じたわけではない。
でも今は、薄皮一枚ほどの、お互いの表情が見える程度に離された距離が、物足りなくて、もどかしかった。
近づきかけては微妙にずれていった、お互いの距離をどうにかしたくて。
日の暮れた森の中、薪のはぜる音と低い波の音だけがあたりに響く。
ずれを修正するためのたった一つの手段。
それを同時に思いついたというように、2人の唇が自然に触れ合っていた。
 
 
 
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