◆終(つい)の子供 後◆
 
 
急な覚醒にリュミエは目を瞬かせた。
前を見ると、暗闇に浮かぶ白い水たまりのような光の中に、男が座っている。
本来屈強で逞しいだろう大きな体をかがめ、手で顔を覆い、かすかな嗚咽を断続的に上げている姿はまるで紙に描かれた絵のように薄っぺらで、存在感がない。
 
リュミエはそんな様子に不思議と疑問を感じなかった。ここがどこか、ということにさえ、思い至らない。
そうっと近付き、突き抜けてしまいそうな程もろく見える男の肩に手をかけた。
その感触は見たとおりに儚く、シャボン玉のように薄い。
 
『…何を嘆いているの?』
 
そう訪ねる自分の声は、まるで自分の声では無いように聞こえた。
 
『彼女が死んでしまった。殺されたのだ。彼女は優しく、そして、根元を知る知恵者だった。
だから殺された。真実を知ることを、それによって変わる自分を恐れる愚者達によって。
彼女はもういない。どこにもいない。
私は嘆き続けることしかできない』
 
『どこにもいないの?本当に?私は感じる。最初の想いを』
 
何を言っているんだろう。これを言っているのは私?
何を感じているの?その存在を私は知っているの?
私は知らない。でも「私」は知っているの?
困惑する自分に構わず、「私」は男の声を聞いている。
 
『彼女はいない。でも存在する。彼女の思いは無数に砕かれ、あらゆるものの中に存在する。
でも、それは彼女ではない。私の愛した彼女ではない。
存在はしている。想いは続いている。でも、それは彼女ではないのだ』
 
男は嘆き続けている。
「私」は、他人のような声で話している。
 
『では、何故あなたはここにいるの?あなたは彼女の欠片を集めに行かないの?
ここで泣いているだけでは、何も変わらない。何故、動かないの?』
 
『彼女が死んだとき、私の心もまた、無数に砕け散った。たくさんに砕けた心は、また寄り集まり、1つの目的に添って飛び去っていった。
だが、私はここにいる。取り残された私は、『絶望』と『悲しみ』。
私は永遠にこの時の止まった場所で、嘆き続ける。
私が動き出すことはない。私は『嘆くためだけ』に、ここに存在する。
置き捨てられて、忘れ去られたまま、時にたゆたう無数の想いと共に、永遠にここで嘆き続ける』
 
――絶望――
 
圧倒的な悲しみがリュミエの中に流れ込んでくる。
それは彼1人のものではなく、おそらく理不尽な理由で大切な人を亡くしてしまった全ての人の悲しみ。
例えその後に割り切ろうと立ち直ろうとも、大事な人を失ったと知った瞬間の重すぎる喪失感と苦しみや痛みが完全に消え去ることはない。
そんな思いの全てが、昇華されることなくこの男の中に留まり続けている。
その中にはきっとリュミエ本人の悲しみもある。
鮮やかに蘇ってくる父や友人を亡くした時の痛みに、リュミエは全てを手放すように悲しみの底に沈んでいたいという誘惑にかられた。
 
『泣き続けていることの何がいけないのか。この痛みを癒すためには、泣くこと以外に方法はないのに』
 
ふっと頷けない思いがリュミエの中に広がった。
――悲しい、泣きたい――その思いに嘘はないけれど、でも、それ以外に方法は本当にないの?
私はいや――泣き続けて時が癒してくれるのを永遠に待ち続けるなんて――。
待つだけではない――自らを癒すための方法は他にもあるはず――。
 
そう考えたとき、漠然としていた何かが『私』の中で形を表し始める。
体中が熱い。まるで、太陽が体内に出現したように。
闇を貫き、熱もない世界を変えてゆく力。
 
リュミエは目を閉じ、自分の中に生まれた力を感じると、誰にともなく呟いた。
 
『私は、ようやく自分が何者であったのか、わかった』
 
顔を伏せていた男が、ゆっくりと上を向いた。
 
『私は――絶望の対局を成すもの。全ての生きる存在が、生き抜いてゆく力。
明日へ紡ぐ、想いをはぐくむもの』
 
顔を上げた男が、そこに待ち望んでいたものを見つけたように、ゆっくりと表情を変える。
安堵したように微笑んだ男はリュミエの中にある力に吸い寄せられるように薄れ、すうっと満足げに消えた。
 
リュミエは祈りの形に両手を組み合わせた。
闇は彼女の周りから遠ざかり、透明な世界だけが広がってゆく。
 
『やっと気がついた、私自身に。私は――』
 
最後の言葉は音にならない。ゆっくりと目を開けたリュミエの眼前で、広がりゆく透き通る空間が弾けるように激しく瞬き、そして、一瞬にして消え去った。
彼女の周囲は、また闇に戻っていた。
 
 
◆◆
 
 
「お帰り、リュミエ」
にっこりと微笑む少年に出迎えられ、状況が把握できないリュミエは周りを見回した。
「シャリ?あれ…?」
周辺は、変わらない無の世界。音もなく、色もない。何もない、止まった世界。
「『彼』にあったね?」
「彼?」
オウム返しに言って、リュミエは眉をしかめた。
 
さっきまで誰かと会っていたような気がする。
シャリとは違う、別の存在に。
でもそれが思い出せない。何かを話して、そして自分は自分の声を第三者のような気分で聞いていた。でも、その肝心の話の内容が思い出せない。
「我ながら、なんだかすごく偉そうなことを言っていたような気がするわ」
腕組みをして首を捻っているリュミエに、シャリは可笑しそうに笑った。
 
「思い出せなくていいんだ。それは、君の無意識にちゃんと記憶されている。それに、この世界の記憶は、ここから出た瞬間に全て消え去る。君は、ここで僕と出会ったことも、話したことも全て忘れ去る。でも、それでいいんだ。君は、君の意志でこれからの道を選ぶ。
ここで君が体験したことは、全て無意識かにおかれ、そして君が何かを選ぶときの助けとなる。
それでいいんだ」
 
シャリはそういうと、一点を指差した。
 
「あそこが出口。君は、無事にこの虚無の世界を通り抜けた。引きずられることのない強い意志を証明した。君は、古の力を手に入れた。目的を果たしたんだ。元の世界にお戻り、リュミエ」
 
人形のように変わらない微笑みを浮かべた少年の姿が、ほんの僅かだけ寂しそうに見えた。
シャリは永遠にここにいるのだ。
止まった世界に、変わることなく、形もなく、意志もなく、誰かに望まれたときだけ、その姿を現す虚無の守人。
 
「ここを出たら、私は案内人であったあなたのことを忘れているのね」
「そう、そして、君の世界の『僕』と決着をつける。2つの想い、どちらが強いか証明するためにね」
少しだけ感傷的なリュミエのセリフに、答えるシャリの声にも、ほんの僅か、情感がこもる。
「さよなら、シャリ。…最後に1つだけ教えて。本当のあなたは、一体何?」
「君はもうそれを知っている。君は知らなくても、無意識下に眠る君の魂はそれを知っている。
いつか思い出すかも知れないし、ずっと判らないかも知れない。でもそれでも構わないんだ。
たとえ忘れていたって、今、ここで君と僕が出会ったことだけは真実だから。さようなら、リュミエ」
 
その声に背中を押されたように、、リュミエは自分の世界に戻るために歩き出した。
たった一度だけ振り向いた視界の中で、シャリの姿はサラサラと崩れる砂の城のように、背後の闇に紛れていく。
それきり、リュミエの記憶は全てが闇に飲み込まれていった。
 
 
◆◆
 
 
古の樹海は、相変わらずに濃い生気を漂わせていた。
視線を遮っていた緑の結界がほつれ、中から夢を見ているような顔のリュミエが現れたとき、外で気を揉んでいた仲間達は一斉に詰めていた息を吐き出した。
 
「お帰り、リュミエ。もう、どうなるかと思っちゃったよ」
ルルアンタがぴょんと飛び付くようにリュミエにしがみついた。
「心配かけてゴメンね」
そういって抱き返すリュミエに、ルルアンタは何かを感じて顔を上げる。
にっこりしながら自分を見下ろすリュミエの顔は、結界の中に消える前と同じ。
でも、何かが違うような気がして、ルルアンタは首を傾げた。
 
「…リュミエ、ちょっと変わったような気がする」
「そう?自分じゃ判らないな」
明るく笑ってそう答えるリュミエに、ルルアンタは少しだけ不安そう顔で彼女から離れた。
入れ替わるようにゼネテスが声をかける。
「それで?首尾は?」
「バッチリ、だと思う。うん、感じる…間違いなく…」
自分の胸に手を当てて目を閉じる少女は、間違いなく自分達とは違うものを感じている。
それを直感し、ゼネテスの目にも僅かに不安がよぎった。
 
無限の魂。
その言葉の意味を、真実知るものはいない。
たとえオルファウスであっても、それがどんなものなのか知識として以上は知らないのだ。
今、それが目の前で少女の形で具現化している。
 
「そろそろ日暮れだな。どこか、野営場所を探さないと」
あまり感情を表に出さないセラが、そう素っ気なく提案した。
固くなっていた空気がぱっと代わり、ルルアンタとゼネテスも顔を見合わせて頷く。
「そうだな。どこか適当な場所があったかな」
「それなら、ここがいいよ。ここは安全だから」
リュミエは、いつのまにか開けていた森の一画を示した。
古の樹海の中心、太古のエルフの記憶が残る場所。
 
「…ここ、聖地なんでしょ?いいの?」
おそるおそるルルアンタがいうと、リュミエは確信を持って頷いた。
「うん、大丈夫。守ってくれる。私達が安らかな夜を過ごせるようにって」
「守るって、誰が?」
「森の意志が」
何かを聞き取るようなそぶりをしたあと、リュミエはそう言って微笑んだ。
 
 
◆◆
 
 
完全に日が暮れた森の中は、獣たちの世界である。
遠くで遠吠えが聞こえるが、それでも彼等の野営場所に近付いてくる気配はない。
暖をとるために焚き火をしてはいるが、ある程度枯れ枝を放り込んだあとは、見張りも立てずに皆横になった。
何かあれば、森が教えてくれるから。
そうリュミエが言ったからだ。
 
彼女は変わった、間違いなく。
それを考えているうちに、ゼネテスは寝そびれてしまったようだ。
周囲で聞こえる仲間達の寝息に、ゼネテスはこんちくしょうな気分を感じながら、もっそりと起きあがった。無理に寝ようとしても、どうにもこうにも眠れそうにない。
そう思って諦め、半分消えかかっていた焚き火に枯れ枝をくべる。
 
勢いよく燃え上がり始めた火の明かりの向こう側に、膝を抱えて顔を空に向けたまま目を閉じているリュミエがいる。
無機質めいて見えるその姿にまた奇妙な不安感が広がり、ゼネテスは静かに立ち上がるとリュミエの傍らに移動した。
声をかけていいのかどうか悩みながら横に座ると、ぽっかりとリュミエが目を開ける。
 
「眠れないの?」
穏やかにそう言って笑う顔が、やっと見慣れた少女のものになる。
「まあな、お前さんは?寝てたのか?」
そうは見えなかったが、ちゃかすような口調でゼネテスはそう言ってみた。
 
「ううん、聞いてたの。いろんなものの声。今まで気がつかなかったのが不思議なくらい、たくさんの声が聞こえる。世界中が生きてるんだな…って、今改めて実感していたの」
「聞こえる?…どんな声だ?」
「たくさんの声。ここは命にあふれてるから、木や草や、それから、風が運んでくる遠くの生き物の声。ものすごく生き生きとして、世界の全てが違って見えるし、とっても身近に感じる」
そう言ってから、急にリュミエは不安そうな顔になってゼネテスを仰ぎ見た。
 
「私、変かな。これが「古のソウル」の力なのかな。懐かしいようでいて、なんだかまったくの別世界に来たみたいに不思議な感じもするの。私…おかしくない?」
拒絶を恐れているような口調に、ゼネテスもようやくわかった。
新しい力を手に入れ、一番不安になっているのはリュミエ本人だ。
誰もが鍛錬によって得られることのできる技とは違う、今、彼女が感じているのは、彼女しか知らない世界。
誰にも理解されず、気味悪がられるのではないかと、そう内心で恐れているらしい少女に、ゼネテスは気を引き締める思いで頷いた。
 
「誰がおかしいって?どこもおかしくないさ。どれだけいろんな物を身につけたって、お前さんはお前さんだ」
安心させるようにぽんと肩を叩いてやると、リュミエは嬉しそうに頷いた。
「ありがとう」
「礼を言われるこっちゃない。俺は、思ったままを言っただけだからな」
「うん、…でもいいの、ありがとう」
もう一回言って、リュミエは、おそるおそるといった風にこつんと彼の肩に頭を預けてきた。
 
「眠いなら、このまま寝ちまってもいいぜ」
「うん、ありがと」
ゼネテスが肩に腕を回して身体を支えてやると、そう言ってリュミエは目を伏せた。
規則正しい寝息が、すぐに小さく聞こえてくる。
ゼネテスは少女の身体をしっかりと支えながら、さっきまでの彼女のように顔を仰向けて目を閉じた。
 
彼には何も聞こえない。聞き慣れた夜の音以外は。だが、彼女には聞こえてる、人には聞こえない声。
自分の後ろを追いかけていたと思っていた少女は、いつのまにか、自分の遙か先、自分の知ることの出来ない世界へと足を踏み出していた。
 
だが、彼女がどこへ行こうと、置いていかれる気は彼にはない。
たとえ同じ物を見ることが出来なくても、彼女がふと不安になったとき、自分の足下を確かめたくなったとき、それを察して支えてやれるのは、自分しかいないのだという自負が彼にはある。
誰よりも近くにいる――意志の強さなら、自分だって負けやしない。
 
「負けちゃあいられないな」
ゼネテスは苦笑混じりに、そう自分に言い聞かせていた。
 
 
◆◆
 
 
ゼネテスの肩にもたれ、リュミエは自分の世界にようやく本当に戻ってきたのだと実感した。
安心して目を閉じたとたんに深い眠りに引き込まれ、そこで彼女は誰かと話をしている。
誰か――誰なのかは判らない。
でも間違いなく知っている誰か。
その誰かは、作り物めいた笑顔を浮かべ、遙か遠くの先を指差し、彼女に向かい語りかける。
 
『君は、常に揺らぎ、動きながら成長していく。泣きながら、怒りながら、それでも、崩れることのない意志の力に支えられ、経験した全てを受け入れ、器を育て、満たしながら、成長し続けていく。そして、人として成長し、人としての時間を生きる君の想いは、やがて人に受け継がれていくだろう。
その大いなる魂を人に分け与えた古の乙女のように、君の意志は、多くの人々によって、未来へと紡がれてゆくんだ。
 
そして僕はここにいる。
永遠に変わることのない時間、最初にして最後の時間が流れる場所で、永遠に変わることなく存在し続ける。
いつまでも途切れることのない時間の流れを、ここから、ただ見つめ続けてゆく。
いつか再び、僕を願うものが現れるまで、僕の存在に気がつくものが現れるまで、
永遠に待ち続ける――僕は始まりにして終わりの子。終(つい)の子供――だよ』
 
 
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