◆終(つい)の子供 前◆
 
そこでは、全てが息づくようだった。
木も草も大気すらも――濃厚な「生」があたりを支配していた。
 
古い時より存在し続けた「古の樹海」。
その中心にリュミエはたった。
そこには一本の木。瑞々しい若木でありながら、古い古い記憶を感じさせる木。
神々しいほどの輝きを放つ、樹海の中心たる若木に、リュミエは近付いた。
なにが起きるか判らないけれども――何かが変わるという強い予感に導かれるように。
 
木に一歩近付くたびに、空気が厚い層となっていくような気がする。
ゼネテス達は少し離れたところで彼女の行動を見守っている――というよりも、彼等は進入を拒まれたのだ。
以前は何事もなく近づけたはずの場所なのに、今は透明な幕に包み込まれているように、リュミエ以外の者がこの木に近付くことを阻んでいる。
今まで漠然と考えていた「運命に選ばれた存在―無限の魂」の意味を、リュミエをはじめ、皆が思い知らされた。
ここへ入る直前、振り向いたときに見えた自分を見るゼネテスの痛ましげな表情が、自分が知らないうちに背負わされてしまっていた荷の大きさを、嫌が応もなくリュミエに感じさせる。
 
(私は何者なんだろう、誰が私を選んだというのだろう)
不安を抱えたまま、リュミエは木の前に立った。
荘厳にして神聖な空気が辺りを支配し、耳にではなく、身体全身にしみ通るような声が聞こえる。
 
『無限の魂を持つ者よ――聞くが良い、この世の理を、全ての始まりを』
 
リュミエは心を決めて、この声に耳を傾けた。
不思議なほどに現実離れした、幻聴のようなその声を全身で追うように目を閉じる。
 
(……?)
不意にリュミエは違和感を感じた。
不可思議な声に、もう一つの声が重なる。
 
『おいで』
 
どこかで聞いたような、そんな覚えのある声。
 
『おいで、こっちだよ』
 
ふとリュミエは目を開いた。
白く柔らかな光に満たされていた視界が一転し、闇に吸い込まれていくような感覚が彼女を襲っていた。
 
 
◆◆
 
 
光も通さぬ闇の空間。足が地に着いているのかどうか、それすらも判別できないほどの闇の中に、ぼんやりと小さな人影が浮かんでいる。
「いらっしゃい。始まりにして終わりの場所へ」
声の主に思い当たり、リュミエは瞬時に戦闘態勢をとる。
「そんなに警戒しなくてもいいのに」
「あなた相手に、警戒しないわけにはいきません」
ことさらに固い口調のリュミエに、声の主――シャリはまた軽やかな笑い声をあげた。
 
「うふふ、別にそれならそれでも良いけど、初対面の相手にそれじゃあ、ちょっとひどいと思わない?」
「初対面?」
胡散くさげに眉を顰めたリュミエに、シャリはくすくすと笑顔を崩さない。
「そう、僕はリュミエと初対面。君が知っている『東方の博士』は、僕であって僕でない。僕と彼は同じであって、別物。僕はこの空間の守人、外へ出たことはないからね」
「え…?」
 
「信じられない?そうだとは思うけど、本当なんだ。僕と君は初対面、だから、本当の挨拶はこうなんだよ。『はじめまして、リュミエ』――これが正しいんだ」
そう言って優雅に礼を取る少年に、毒気を抜かれたリュミエは引きかけた弓をどうしようかと逡巡する。
 
「不安なら、狙いを付けたままでもいいよ?僕は1人だけど、無限だから。僕が消えても、また別の僕が君と話すために現れる。かえって紛らわしいと思うから、覚悟を決めてこの僕の話を聞かない?」
「どういう意味?」
「確かめたいなら、その矢で僕を射抜くといいよ。すぐに分かるから」
くすっと笑って堂々と身体を曝すシャリに、リュミエは長い息を吐くと、結局弓をおろす。
「話を聞くわ」
「ありがとう、それじゃ、ちょっと移動しようか?」
子供じみた動作で肩を竦め、くるりと背中を見せるシャリの後を追おうとして、リュミエは自分の足下が存在しないことに気が付いた。
 
「きゃ…」
一瞬沈みかけた自分の足に、小さく声を上げたリュミエに、背中を向けたままのシャリが硬質な声で言う。
「怖い?怖がってる?だったら、ここから引き返した方が良さそうだね。何も変わらないけれど、
少なくとも、何かを欠いたまま戻らなくてすむから。怖がっていたら、駄目。先に進めないよ」
 
――虚無に心を喰われるから。
 
そう声のない声がリュミエの周囲に響いた。
面白がっているような、誘っているような声だ。
「怖くないわ」
そう虚勢を張ったリュミエに、シャリがまた笑う。
「強がりは身を滅ぼすよ。この先は本当に、優しくない世界だ――逃げるなら今のうち」
「逃げない――私は逃げるために来たんじゃないもの」
そう言った瞬間、リュミエの中で肝が据わった。
「怖くないわ」
さっき口にしたのと同じセリフだが、声に含まれている様子はまるで違う。
落ち着いたらしいリュミエに、シャリは感嘆したように振り返る。
 
「ふうん、さすがは『無限の魂』って言っていいのかな?」
「私は私よ」
強い輝きの瞳が、まっすぐにシャリを射抜く。
「そうだね、君は君――じゃ、行こうか」
少年は満足したように腕を振った。
すうっと流れる気配に、リュミエは小さく息を飲んだあと、シャリの後を追って闇の向こうへと飛び込む。
 
濃厚な闇がリュミエの傍らを流れていく。
身体に触れているわけでもないのに、その動きがはっきりと判る。
まるで、流れが緩やかな、川の中にいるようだ。
その流れに身体を預け、リュミエはさらに深い闇の奥を見通すように、目を細めた。
 
 
「ついたかな?」
闇の中に、少年の身体がふわりと降り立つ。
「変わってないように見えるけど」
確かにさっきまでと代わりばえのしない闇に、リュミエは不服そうに辺りを見回した。
「そんな事ないよ、ほら、目を凝らしてみて」
少年が指差す方に目を向ける。
唐突に闇が飛び散り、泥沼の上に立っているような錯覚が彼女を襲った。
 
その彼女の正面、薄気味が悪いほど淀んだ灰色の壁の中、嘆くように顔を覆い激しく身悶えしている男女がいる。
「あれが誰か判る?」
「顔が見えない…それに、全部が一色に塗り込められちゃったようで、髪の色も判らないわ」
困惑したリュミエの声が聞こえたのか、男女は顔を覆っていた手を上げ、まるで天に向かって怒るように激しく獣のような咆吼を上げ始めた。
 
「あれ…」
見覚えのある顔に、リュミエはぐうっと吐き気を抑えるような音を立てて口を覆った。
苦しそうに歪んだ本来は整っていたはずの顔。
 
「ティアナ王女と、エリエナイ公。ロストールでもっとも高貴な人たちの筈が、今はあんな闇の中でもがいているんだ。無惨だね。もう、抜け出すことも出来ない世界で」
「…どうして…」
リュミエは呟いた。どちらともさして親しいわけではなく、エリエナイ公に至っては、戦勝の式典のおり、忌々しそうに睨み付けられただけだ。
だが、そんな僅かな記憶をたぐっても、この二人は誇り高く、光り輝くように美しい人間だったはずだ。そのあまりの変貌ぶりに、リュミエは我が目を疑い、何度も目をこすった。
 
「錯覚でも見間違いでもない。彼等は闇に堕ちた。そして、もがき続けているんだ」
「どうして、闇になんか…高い身分で、たくさんの人に傅かれて、何が足りなくてこんな事に…」
「彼等を責める?価値観は人によって違う。彼等は彼等の世界で、どうしても手に入れることが出来ないものがあった。自分の根元を覆されるような、そんな辛くて大きな出来事だったんだよ」
リュミエは首を振った。
「責めるなんて事は出来ない。でも…わからないの。どうして、彼等がこんな場所で苦しまなきゃいけないの?彼等の周りには、苦しみを癒してくれる人はいなかったの?」
 
私にはいた――父が死んだときも、様々な壁にぶつかって自分が嫌いになるほど悩んだときも。側にいて受け止めてくれた人や、一緒に泣いてくれた人。
彼等から伝わってきた優しさが、私にもう一度顔を上げる勇気をくれた。
ここでもがいている王女達にはいなかったの?誰1人として。
あれだけ、多くの人が周りにいたはずなのに。
 
「たくさんの人はいたよ。でも、彼等は誰にもうち明けられなかった。ある意味、それは君にも責任があると思うよ?君だったら――多分、受け止めてあげられたんだ。君の、その無限の魂なら、ね」
「私が?」                   
思いがけない言葉に、リュミエはシャリの真意を窺うように少年の瞳を見つめた。
相変わらず笑顔を張り付かせたままの少年の瞳は、微笑む表情とは別のなんの感情も見えない暗い洞。
「君がちょっとだけ彼等の方に歩み寄れば、君が声をかければ、近付いてやれば、彼等は君に何か話したかも知れない。救われたのかも知れない。君はそれだけの器を持っている。
でも、君はそれをしなかった。可哀想にね、彼等はよりどころを見つけることは出来なかったんだ」
 
――私のせい?私が彼等に関心を持たなかったから?
 
一瞬、そんな罪悪感に襲われた彼女の心を察したように、シャリは責めるように指を突きつけた。
「君だって薄々感じていると思うよ。君には人よりはるかにたくさんの可能性がある。君がちょっと目を向けただけで、救われたかも知れない人がたくさんいる。君はそんな多くの人たちに背を向け、堕ちるに任せてきたんだよ」
「私のせい…なの?」
リュミエの声に怯えが混じった。
「そう、君のせい。そう思わない?君が彼等を救ってやらなかったんだよ」
 
私のせい?
 
リュミエは自分の両手を握り会わせ、もう一度、もがいている二人を見た。
必死で逃げ出そうと、救いの手を探そうとしているような二人の姿。
でもその目には何も映っていない。誰の手を待っているのか、誰にすくい上げて欲しいのか、本人達にもそれは判っていないのだ。
 
可哀想だ――助けられるなら、助けたいとそう思う。その思いに嘘は無いけれども。
リュミエは頭をふった。
「違うわ。冷たいと思うけど、彼等が堕ちたのは、私のせいじゃない。私がどうにかすればみんな助けられたなんて、そんな傲慢なこと思わない。だって、私だってたくさんの人に救われてきたの。私だって弱い。そんな事、よく知ってる」
哀れみを込めた視線で、彼女は灰色の壁の向こうの二人を見た。
 
「哀れだと思う。とっても可哀想だわ。でも、どんなに多くの手がさしのべられたって、それに気が付かなかったり、振り払ったりしたら手は届かない。私だって覚えがあるもの。自分で自分を可哀想がっているうちは、人の優しさにも気がつけないの。顔を上げて、周りを見て、助けが欲しいときはそう叫ばなければ、誰にも気が付いてもらえない。
 
彼等は、手を伸ばさなかったの?救いを求めることを――選ぶことが出来なかったの?
もしも彼等の選んだ道が堕ちることだったのなら、私には、何も出来ない。私は万能じゃない。人の苦悩を全て背負えないし、肩代わりも出来ない」
 
リュミエはそろりと灰色の壁に手を沿わせてみた。
中から吸い込むような強い力を感じたが、構わずに手を滑らせると、その動きに反応したのか、二人が同時にリュミエの方へと目を向ける。
「ちょっとだけその手に力を入れてごらん。君が向こうに行けば、彼等はそこからはじき出される。闇を操るのに、君の器の方が大きいから、彼等は用なしになる。君が闇に入れば、彼等は救われるんだよ」
シャリの声が、それがまるで魅力的な行為でもあるかのように、甘く誘う。
 
「大丈夫だ。君は選ばれた存在。君は彼等とは違う。君は彼等を救い、そして強大な闇の力を得ることができる。そのつもりで来たんだろ?リュミエ。君は他の誰とも違う。それを証明するために、さ」
 
――私がいけば、彼等は救われる――誰とも違う、選ばれた存在の私なら。
 
その言葉に思いが揺れる。だがリュミエはそれ以上力を込めることはせず、そっと壁から離れた。うつろな眼差しをリュミエに向けたまま、王女達の姿は、濃い泥に飲み込まれたように消えていった。
 
「冷たいね。見損なったよ」
ぽつりとシャリが言う。
「今なら、そして君なら、彼等を救えたのに」
リュミエは唇を強く噛みしめ、感情を飲み込んだ。
 
「冷たくてもなんでも、私は身代わりにはなれないわ。それに、だれがどんなつもりで私を選んだとしても、私が何をするか選ぶのは、私の自由。
私は、自分に出来ることを精一杯したいと思ってた。逃げ出さずに頑張ろうって。でも、これは違う」
「彼等を助けるのだって、君にしかできないことだと思うけどな」
きりっと顔を上げると、リュミエはまっすぐにシャリを見る。
 
「あなたの言い分には引っかからない。私は人のために生きてるわけじゃない。私は、あなたの言葉に引きずられて、自分を投げ出す事なんて出来ないわ」
「人を救うために我が身を投げ出す――とっても崇高で貴い行為だね、自己犠牲。君は殉教者になることを拒む。それは、自分の命を惜しんで他者を見捨てる、浅ましい考えだとは思わない?」
「思わない。私にだって、自分を大切にする権利も、救う権利もあるわ。それを全て捨てたから、自分は貴いと想うのはただの勘違いよ」
 
「勘違い?酷いことを言うね。世の中にはそうやって満足して死んでいった人がたくさんいるのに」
「その人達の行いや、心を否定するつもりはない。でも、私はそんなこと出来ない――納得いかない。誰が私にそれを望むの?望んだ人は何をするの?人に犠牲を望む人は、浅ましくないの?」
「人がどうこうじゃない、君がどう思うか、だよ。君は自己犠牲に価値を見いださない。それじゃ、一体何が大事だと思ってる?なんのために、力が欲しいと思ってるの?」
 
混乱しかけて上手く考えがまとまらなくなってきたところで、リュミエはシャリがこの会話を楽しんでいることに気が付いた。
少年自身は、別に自己犠牲が貴いともなんとも思ってないし、彼女が闇に飛び込もうが飛び込むまいが、実はどうとも思わない。
リュミエを説得するつもりも、議論をするつもりもない。
単に彼は確認しているだけだ。
 
自分が今までの生き方から無意識のうちに培い選んできた価値観が、少年の言葉に引きずられ簡単に崩壊してしまわない程に確固とした物であるのかどうか。
どこまで、自分自身の言葉で自分の考えをまとめられるのか。
リュミエは、今まできちんと自分でそれを考えたことはなかった。
でも向き合ってみれば、答えだけは最初から出ている。
 
「私が力が欲しい、と思ったのは、強くなりたいから。私が私であるために、生きることから、怯えて逃げ出さないための、強さが欲しかったから」
リュミエは一言一言、考え込むように言った。
 
「私は私が大事。私を大事にしてくれている人たち全てが大事だから、私は自分を大切にしなくちゃいけない。簡単に投げ出していいほど、軽い命じゃない。私は、大事な人たちとずっと生きていきたい。だから強くなりたいの。大好きな人たちと、胸を張って生きていくために、自分を誤魔化さないでいられる強さが欲しい」
 
「そんな事が大事だなんて、ただの思い込みじゃない?世界は冷たい。嫌なことばかり。人だってそう、自分だけ大事にして他人を大事にしない、そんな人ばかりじゃない?命は軽い、それこそ、欲望の前には塵芥よりも軽い。それに価値を見いだすのは、それこそ、自己満足、思い込み、ただの誤解の積み重ねって奴じゃない?」
辛辣なシャリの言葉にリュミエは首をふると、ほのかに微笑んだ。
 
「自己満足でもいい。自分で満足できないような選択をするくらいなら、生きていられない。全ての人を救おう、世界を救おうなんて、そんな事は私の柄じゃない。誰がなんといっても、そんな大げさで漠然とした理由で、強くなりたいと思った訳じゃない」
 
シャリのよく光る瞳が、リュミエの笑顔の裏まで見透かすようにさらに輝きを増した。
「思い込みって言われたらそれまでかもしれないけど、でも、私にとって大切なものを守りたいと思うのはそれこそ食事や睡眠をとるのと同じくらいに、当然な事だわ。
その為なら、例え、結果がどうなっても、自分が満足できることを精一杯したいと願っている。でもそれは自己犠牲とは違う。ただ、自分にできる最善の道を選んだ結果――それだけ」
胸を張って笑顔で言いきるリュミエに、シャリの持ち前の薄い笑顔が、どこか柔らかさを増した。
 
「君って単純だね。でも、悪くないと思うよ」
シャリの言葉に余計なお世話、といいたげにリュミエは顔を顰めてみせた。
その子供っぽい顔つきに、くすっと声を上げて笑ったシャリは、その笑い顔のまま手を差し出す。
 
「さあ、それじゃ、次へいこう。この先は君1人で行かなきゃ無いけど、無事に帰ってくることを祈ってるよ」
リュミエが手をそっとシャリの手に重ねると、それと同時に、意識だけがどこかに引っ張られるような感じがした。
 
 
 
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