◆時間の落とし物 2◆
 
ティアナが眠っている間に、ゼネテスはそうそうに王宮から退散した。
叔母はどうやら来客中らしく挨拶なしでも良いだろうと勝手に決めつけ、「姫様が目覚めるまで」と縋る侍女達を
無視して外へ出る。
 
ひどく息苦しかった。
毎日のありとあらゆる事が大人の都合で決められ、未来までも定まっている。
貴族ならそれが当然、疑問を持つ方がおかしいのかもしれない。
疑問、不満を持ったところで、では自分に何が出来るか?と考えれば何も思いつかない。
「ファーロス家の隆盛のため」という、叔母や父の望みをそのまま自分の物とすればいいのだろうか。
「ティアナの夫」になる事を、自分の運命と受け入れればいいのだろうか。
ティアナは可愛いが、その存在そのものが、時に鎖のように重く感じる。
 
ゼネテスは実年齢以上に思慮深い少年だったが、自分の未来に対して選択肢を作れるほどの経験が
絶対的に不足していた。
鬱々とした気分を抱えながら、歩いてファーロスの館へと向かう。
まっすぐに帰りたくもなかった。
どうせ、父や母から、ティアナのご機嫌はどうだったかとか、叔母が何か言っていなかったとか、
根ほり葉ほり聞かれるだけだ。
面倒くさくなってゼネテスは王宮の前に広がる森の中に入っていった。
ここには危険な獣はいない。
少しでいいから、1人になってゆっくりと考えたかったのだ。
その考えが甘かったのを知るまで、1分もかからなかったが。
 
 
だるそうな足取りで木の間をすり抜け、ぼんやりと歩いている彼の前を小さな影がよぎった。
最初は野ウサギか何かかと思ったのだが、視界の外からかけられた声は幼い子供の声だった。
「お兄ちゃん、あにしてるの?」
ぎょっとしてゼネテスは声の主を見やった。
自分の膝ほどの身長の、青い髪をした少女が目をくりくりさせて自分を見上げている。
咄嗟にゼネテスは「勘弁してくれ!」と逃げ腰でかんがえた。
どう見ても、ティアナと同じ年格好の幼女だったからだ。
 
◇◇
 
黙って見下ろす少年をどう思ったのか、幼女は首を傾げてもう一度話しかけた。
「お兄ちゃん、どうしたの?ぐあい、わるいの?」
ティアナに比べ、かなり舌っ足らずな喋り方だ。服装も動きやすさを重視した男の子のような物。
だが胸元に結ばれたリボンをしきりといじり回している辺り、やはり女の子なのだろうと思う。
麻でできているらしいリボンは、生成そのものの色合いで、リボンの端っこにだけ、小さく縫い取りがされてある。
名前だろうかと、と手を伸ばすと、幼女は「めっ」と言いながら、リボンを遠ざけた。
 
「これは、るみいのだから、さわったらだめなの」
「別に取ったりしないよ」
ゼネテスはうんざりと言った。
すると、幼女は自分の宝物をバカにされたと思ったのか、ぷっと頬を膨らませる。
「その縫い取りをちょっと見せてもらおうかと思ったんだよ」
内心で頭痛をこらえながら、思わず機嫌を取るような言い方をしてしまうゼネテス。
すっかり子守が板に付いたな、と自嘲するように思った。
あっさり機嫌を直した幼女が、にこっと笑って、今度は自慢げにリボンを持ち上げる。
 
「これね、おさかななの。お父さんがるみいがおとしてもわかるようにって、ぬってくれたの」
ゼネテスが見ても、灰色の石ころにしか見えない縫い取りだった。
なんでこんな物が自慢なんだろうと、どうにもこうにも疲れた気分でゼネテスは考えた。
ティアナは職人の手になる精緻な刺繍入りのリボンやドレスをたくさん持ってるが、しょっちゅう気に入らないと
癇癪を起こして侍女達を困らせているのに。
 
むっつりとしてしまったゼネテスを、幼女は心配そうに首を傾げて見上げた。
「お兄ちゃん、どっか、いたいいたいなの?るみぃ、おまじないしてあげよっか?」
放っておいてくれ、と思いつつも、小さな子供を邪険に扱うことも出来ず、ゼネテスは無理矢理笑顔を作った。
 
作り笑顔はお手の物だ。貴族は人と接するとき、内心を隠すための白々しい笑顔の仮面を被る。
「どこも痛くないよ、1人なのか?」
ティアナにそうするように、膝を折り、ゼネテスは幼女と視線を合わせた。
幼女はゼネテスの顔をじいっと見つめたあと、念を押すようにいう。
「おとうさんね、ごようがあるから、ここでおむかえまってるの。お兄ちゃん、ほんとうに、どこもいたくないの?」
しつこいな、と思いつつ、ゼネテスは「どこも痛くないよ」と答えた。
すると幼女はゼネテスの顔を穴が開くほど見つめたあと、不意ににこぉっと笑った。
「いたくないなら、よかったね」
 
その幼女の笑顔を見たとき感じたものは、なんだったのだろう。
なんの裏もない、ただ見知らぬ相手の身体が無事であるというその事、その為だけの喜びの笑顔。
自分でも判らない衝撃に驚くゼネテスに構わず、幼女はニコニコしながら自分の服のポケットを探り出し、
少しして、小さな手に何かを掴みだした。
 
「おにいちゃん、こえ、あげる」
「何…?これ」
自分の掌にのせられた物を、ゼネテスは苦笑しながら見た。
ベタベタにとけかけた、あめ玉だったのだ。
「あまくてね、おいしいの、それ、たべると、げんきになるの」
幼女のたどたどしい話し方は微笑ましいながらも、ゼネテスは困った顔をした。
こんなベタベタとした物を口に入れたことなどいままで一度もなく、正直言って気持ち悪い。
だが幼女はニコニコしながらゼネテスの顔を期待するように見上げている。
 
「あのさ…、るみぃだっけ…?俺は元気だからいいよ、君が食べなさい」
なんとか幼女を傷つけないように、言葉を選びながら飴を返そうとすると、幼女は意外な頑固さで、
首をぶんぶんと振った
「あめです、お兄ちゃん、イタイイタイしてるみたいな、おかおだから。こえたべて、げんきだすの」
その返事にゼネテスははっとして自分の顔に手をやった。
 
…イタイイタイしてるような顔…
 
立て続けにゼネテスに衝撃を与えた幼女は、断固とした母親のような目でゼネテスを見上げている。
少年は思いきってあめ玉を口に入れた。
べたっとした舌触りは、最初は不快だったが――舌の上でほろりと溶ける甘さは、いままで食べたことのない
始めての味わいだった。
「…うまい…」
思わずそう言うと、幼女はにこっと笑った。
「そえはね、まえにいったとこで、『宿の女将さん』にもらったの。てづくりのあめなの」
宿の女将さん、という子供には似つかわしくなさそうな言葉に、ゼネテスは首を傾げた。
「どこか、旅行に行ったのかい?」
下草の上にぺたんと座り、その隣に幼女を座らせ、そう聞くと、幼女は目をきょろりとさせながら、
逆にゼネテスに問い返した。
「りょこうってなに?」
 
「…えーと、自分の住んでいる所とは違う場所に行って、違う場所に泊まることだよ?」
小さな子供に判るようにと、ゼネテスが苦労してそう説明すると、幼女はまたあっさりと問い返す。
「すんでいるところってどこ?」
「自分の家があるところだよ」
やっぱり子供の相手は大変だ…そうゼネテスが苦笑していると、幼女はしかつめらしく眉を寄せ、
じいっとゼネテスの顔を見つめた。
 
「じぶんのいえって、どこにあるの?」
「どこにあるのって…」
こうなると、絶句したゼネテスには返事が出来ない。
ようやく「君のお父さんやお母さんがいて、君のベッドがおいてある家のことだよ」というと、
幼女はやっと納得したのか大きく頷いた。
 
「るみぃ、おうちないの。あのね、おとうさんと、いろんなとこ、いっつもいくの」
 
幼女が身振り手振りで説明するのを、ゼネテスは辛抱強く聞いてやった。
そしてどうやら幼女が父と行商の旅をしているらしい、と見当をつけた。
こんな幼女が家も持たずに旅暮らし。
さぞや辛い生活なのだろうと、ゼネテスは思わず「可哀想に…」と口にしていた。
すると、幼女はきょとんとした。
 
「どうして、かあいそうなの?」
「どうしてって…家がないと、不安だろう?それに、いつも違う場所に行ってたら、落ち着いて何かをすることも
友達を作ることも出来ないし、お父さんだって、君とゆっくり遊んだりしてくれないだろう」
幼女は首を傾げて考え込んでいたようだが、少ししてふるふると首を振った。
「たのしいよ、いろんなとこいって、いろんなひととあうの。いろんなおともだちが、いっぱいできるの。ばいばいはいやだけど、またあとであうの。しらないとこいくの、たのしいよ」
そう言って、幼女は、嬉しそうに笑った。「楽しい」と言った言葉を証明するように、本当に楽しそうに。
 
楽しい――いままで、そんな風に自分は感じたことがあっただろうか…。
ゼネテスは自分自身の生活を思い起こした。この幼女のように、「楽しい」と言いきれる自信が彼にはない。
なぜだろう、どう考えても、自分の生活の方がこの旅の商人の子供より恵まれているはずなのに
――なぜ、自分は楽しくないのだろう――
ゼネテスが考え込んだとき、隣でもぞもぞしていた幼女が不意に大きな声を上げた。
 
「あ、とんでいっちゃう!」
いうなり駆けだした幼女は、少し走ったところで木の根にけつまずいてものの見事にすっころんだ。
慌ててゼネテスが抱き起こすと、腕の中でじたばたした幼女が泣きわめく。
「リボンがとんじゃった、いなくなっちゃった」
弄んでいた胸元のリボンがほどけ、風に飛ばされてしまったらしい。
ゼネテスは幼女を宥めながら、辺りを見回した。
(木の枝に引っかかりでもしたのか…)
「ここを動かないんだよ?」
ゼネテスは幼女に言い聞かせると、森の奥に入っていった。
 
ゼネテスがリボンを探しに行って少しの後。
「リュミエ」
父親の声に、幼女はしゃくり上げながら振り向いた。
「おとーさん」
「森の奥に行ってはいけないと言ってあっただろう、待ちくたびれたのかい?」
フリントは飛びついてきた娘が泣いているのを見て、驚いたようだった。
「リボン、飛んでいったの。お兄ちゃん、さがしにいったの」
「お兄ちゃん?」
「お兄ちゃん、うごかないでって」
「おや、どこかのお兄ちゃんと遊んで貰っていたのかい?でも、さようならを言う暇がない。今日の夕方までに
ロストールを出発しないといけないんだよ」
首を傾げながら娘を抱き上げたフリントが、すまなそうに言った。
「りぼん、ないの」
「仕方がないね、諦めるしかない」
そう言いながらさっさと歩き出すフリントの腕の中で、リュミエは少年が消えた森の奥を
いつまでも名残惜しげに眺めていた。
 
 
◆◆
 
「あんときゃ、結局みつからなかったってぇのに、今になって出てくるとは、へそ曲がりなリボンだな」
ゼネテスは古いリボンを手に取りながら、そう呟いた。
さんざん探して見つからず、少年だったゼネテスが幼女を待たせていた場所へ戻ったとき、
幼女の姿はどこにも見あたらず、何かあったのでは、と不安になったが、迎えを待っていると言っていたから、おそらく父親が迎えにきたのだろう、と自分を納得させたのだった。
 
あの時、なんとなく拍子抜けした気分で辺りを見回したとき、ちょうど今のような色合いに森が染まっていた。
見慣れた風景の筈なのに、見覚えのない美しさ。
ゼネテスは、自分の回りに当たり前のようにあった「自分の知らないもの」の存在をしり、
そして始めて、旅立つということを意識したのだった。
 
あの子供は今頃どうしているのだろう――今も、父と旅をしているのだろうか。
日々の生活を楽しい、と笑っているのだろうか。
思わず感傷的になったゼネテスの背後に、ゆらりと殺気が立ち上った。
ぱっと振り向いたゼネテスに耳に、聞き慣れた少女の声が、いささか剣呑に響く。
 
「何ぼんやりしてるの!会議の時間、もう過ぎてるのよ?」
副官にして、相棒。そして、ひょっとしたら恋人と呼べるのかもしれない少女が腰に手を当て、自分よりもはるかに高い位置にある男の顔を睨み付けている。
「もうそんな時間か?」
「そういう、見え透いたとぼけかた、しないの」
誤魔化し笑いをしたゼネテスの台詞をあっさり一蹴し、リュミエはぐいぐいと腕を引っ張った。
「そんなに引っ張ったら、俺の華奢な腕が抜けちまうぜ」
「華奢の意味を勝手に書き換えないで。本当に、もう」
ぷんと膨れかけたリュミエは、ゼネテスが持ったままの古いリボンに目をやると、あれ?と立ち止まった。
「急ぐんじゃないのか?」
不審に思ったゼネテスがそう言うと、リュミエはリボンをゼネテスの手ごと持ち上げ、目の高さでしげしげと
眺めている。
 
「…これ、私のだ」
信じられない、と言うようにリュミエが呟いた。
「これ、私がうんと小さい頃、どこかでなくしたリボン。間違いないわ、この刺繍!」
麻のリボンの隅っこに、これまた色あせた糸で何かが縫い取りされている。
「これ、確か父さんが私の名前代わりに刺繍してくれたの。――今見ると、へったくそ。何を刺繍したんだか、
全然見当が付かない」
リュミエはそう言って笑うと、古い汚れたリボンを大事そうに手の中にしまい込んだ。
それから、始めて呆気にとられているゼネテスの表情に気が付いたらしい。
首を傾げ「どうしたの?」と聞いた。
 
どうしたも、こうしたも。
ゼネテスはあの舌っ足らずな幼女が目の前の少女だったのだと、始めて知った。
ゼネテスに溶けたあめ玉をくれ、そして、「旅することは楽しい」と彼に言った――。
 
「どうしたの?」
もう一度聞く少女に、ゼネテスは薄く笑いながら、その頭をぽんと叩いた。
 
「魚――だそうだぜ」
 
「え?」
リュミエがきょとんとすると、ゼネテスは素知らぬ顔でさっさと傍らを追い越していく。
「え?ちょっとまって、魚って何?ゼネテスがどうして知ってるの?」
慌てて追いかけてくる少女に、ゼネテスは笑いながら振り向いた。
「お前さん、旅は楽しいか?」
 
唐突に投げかけられた質問。
リュミエが一瞬はぐらかされたかとぷっと頬を膨らませかけ、それから苦笑気味の笑顔を作る。
 
「楽しいよ」
 
遠い昔、ゼネテスを旅へと誘った幼女の笑顔が、今、目の前にあった。
 
 
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なんという事もない言い訳――いや、別になんという事もないんですが…。フリントはデジャワの変の頃からエリスとつきあいがあったらしいので、んじゃ、主人公が小さい頃ロストールでなんかの弾みでゼネさんと顔を合わせたこととかないかな〜〜と、思っただけなのです。(運命の出会いとか、再会とか、そういう意味合いではない)