私が望んでいたのは、当たり前の家庭。
夫と子供と共に生きるという、ただの当たり前の、女としての人生。
それが、どうしてこんな風になってしまったのか、今更悔やんでもどうにもならないことを、
私は思い知っている。
雌狐。
人は私をそう呼ぶ。
娘の頃私は夢を持っていた。
特に大げさでも特別でもない。
私はその夢のために、毎日料理を習った。
機を織ることも、それで服を縫うことも。
家族のためにその腕を振るうことを夢見て。
私がなりたかったのは、ただの妻であり、母であった。
それが叶わぬ夢であったと思い知ったのは、いつのことだろう。
嫁ぐ日が決まり、私は指折り数え、夢が叶う日を待っていた。
夫に使え、良き妻になろうと。それだけを心に願っていた。
だが夫となる人は私を「妻」とは認めてはくれなかった。
夫が私に望んだのは、「名家の娘」という名だけであったと、
気が付くのに時間は何もいらなかった。
それでも私は夫に仕えたかった。妻として、夫のために何かしたかった。
箱入りで育った世間知らずの娘の愚かしい一途さ。
それが、やがて私を雌狐と呼ばせることとなったのだから。
夫を守りたかった。娘を守りたかった。
争いに巻き込まれたあわれな姪を助けたかった。
今更、そんな思いに何の意味があろう。
姪のために学んだ毒薬の知識は何も意味をなさず、
夫は私を疑い、娘は私を嫌悪する。
私を最初に道具としたのは夫の筈なのに。
夫は私が夫を道具扱いしていると、そう私の前で言う。
未だ捨てきれない妻としての夢のために料理を作る私を、
夫はただ何の興味もなく見るだけ。
夫にとって私はもはや人ですらない。
心を込めて作った料理を1人で食べるのももう慣れた物だ。
惨めで砂の味しかしない料理を、それでも捨てられずに食べる私はおそらく惨めそのものの姿だろう。
召使いすら、私の前に姿を現さぬ。
…私の料理を何の躊躇いもなく口に入れるのは、甥ただ1人だけ。
いや、もう1人。
信頼の置ける部下が残したたった一人の娘。
不思議なほどに強く、そして透明な瞳を持つ少女。
この私の前でも何の恐れも嫌悪も見せぬ娘は、たびたび訪れては好んだように話し相手になって行く。
不思議な物だ。
私が毒を使うとしってなお、平気で私の料理を口に運ぶ少女。
ほんの一瞬だけ、私は夢のかけらを捕まえたような気がした。
少女は、私の娘と同い年だから。
もしも、普通の母と子の関係が築けていたのならば、毎日、こうやって食事をすることもできたのだろうか。
今となっては、考えるのも難しい可能性だが。
私はこうやって一生を終えるのだろう。
光も闇もない永遠の薄暮のような曖昧な世界を。
料理を作る当たり前の母を夢見ながら、当たり前のように人を陥れ、血の鎧をまとい、
謀略の剣を持って突き進む。
私を忌み嫌う夫と娘の盾として。
今更自分を哀れとも思わない。
ただ、ほんの何かの瞬間に、「妻」を夢見ていた私が胸の痛みを感じるだけ。
…誰だろう。
私の前にわずかな存在感。
顔を上げたそこに、王女が1人立っている。
孤独を共に生きてきた哀れな王女。
だが、最近、急に彼女は明るく美しくなった。
その瞳は光を取り戻し、孤独の世界から飛び立つことができたと、誰の目にもわかるようになった。
だが、なぜ、ここにその王女がいるのだろう。
ここは私の私室。
誰かが好んでくる場所ではない。
問う私に、王女は怯えたようだった。
なぜ私はこんな言い方しかできないのだろう。
私は今更のように、自分が母として失格だと、思い知った。
だが王女は逃げなかった。
おずおずと私に頼み事があると、そう言った。
何だろうと思うと、王女は私に一枚の紙を差しだした。
どうやら、どこぞの店のメニューらしい。
どうやってこの王女がこんな物を手に入れたのだろうか。
いぶかしがる私に王女は言った。
「料理を教えて欲しい」と。
私が料理が上手だと、リュミエが誉めていたと。
だから教えてくださいと、王女はそう言って頭を下げた。
リュミエ――甥の他にたった1人だけ、私の料理を疑いなく食べた少女。
私が恐ろしくはないのだろうか?
当然のように、この王女の耳にも入っているはずだと私は思った。
私の所為で、この王女の母は命を失ったのだと。
だが王女は、私に向かい「駄目ですか?」と聞いてくる。
私が恐ろしくはないのか?夫にも娘にも、嫌悪されている私が。
王女はゆっくりと笑った。
そして言った。
「恐ろしくはありません。エリス様は私のことを家族と思っていらっしゃると、リュミエ様がそう仰いましたから」
家族。
私が夢見て、手に入らなかった物。
私が守りたくて、結局なくしてしまった物。
それをこの王女は口にする。
私を家族だと。
駄目ですか?ともう一度王女が口にする。
私は、自分の口が勝手に答えるのを、自分でそうと理解する前に聞いていた。
「かまわぬ。どの料理を作ってみたいのだ?」
王女は笑って私の元に駆け寄った。
こんなに無防備に私に近づく者など、数えるほどしかいないというのに。
孤独と共に生きてきた王女。
孤独と共に生きるだろうとそう思ってきた王妃。
無様な組み合わせかも知れない。
それでも私は、こうやって誰かと共に料理を作るという、当たり前のことをどれほど熱望していたのかを、
改めて知ることになった。
私はこうやって生きたかった。
母から教わったように、娘にこうやって教えたかった。
夫のために料理を作るのが、幸せなのだと信じ切っている。
そんなごく当たり前のただの母でいたかった。
傍らで慣れぬ手つきで粉をふるう王女。
私がこのわずかな「親子ごっこ」に、どれほど幸福を感じていたのか。
おそらく私の本当の夫と娘は、気が付くことはないのだろう。
私が誰かと共に作った料理を、誰かと共に同じ食卓で味見をする。
私がこの時間をどれほど愛おしいと感じていたか。
おそらく誰1人理解できぬだろう。
永遠に明けぬ闇。永遠に訪れぬ朝。
永遠の薄暮の中で、私はほんの少しの明かりを目にしたような気がしたのだ。
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